リーズデイル卿とジャパニズムvol8 赤毛のいとこの続きです。
1846年、アルジャーノン・バートラム・ミットフォード(Algernon Bertram Mitford)、通称バーティは、9歳で英国に帰国し、イートン校に入学しました。
もともと、父親のヘンリー・レベリーがイートンの卒業生で、当時のイートンの校長エドワード・ハートレイ博士は、かつてレベリーの家庭教師だった人で、家族ぐるみの友人でもあったのだそうです。
イートンの入学年齢は、通常、12~3歳で、9歳はずいぶん早いのですが、おそらく、もしかすると、双子の兄が学齢に達したので、一家で帰国してバーティも、という話になったのではないんでしょうか。
バーティは、校内の寮に入るには幼すぎる、というので、当時まだ校外にあった私塾のようなところに下宿しました。
そこでは、私塾教師の若い娘さんが、母親のようにおぶって寝室に連れていってくれたり、かわいがってくれて、快適だったようです。
えーと、このシリーズの途中でご紹介しましたが、バーティの曾孫、ジョナサン・ギネス著の下の著作を少しずつ読み進めておりまして、今回も、それをもとに書いているのですが。
イートンはバーティのためにあり、バーティはイートンのためにあったようなものだった。
とは、すごい表現です!
えー、vol2 イートン校~vol3 イートン校で、19世紀前半のパブリックスクール改革について書きまして、「この当時のイートンは、おそらく改革にとりかかったばかりで、どこまで、アナザー・カントリーに描かれたようであったかは、わかりません」としていたんですが、イートンで改革をはじめたのはハートレイ博士で、やはり、バーティが入学した時には、すでに改革がはじまっていたそうです。
やがて、バーティは校内の寮に移りましたが、以前のように、大人数の給費生が大部屋一つに押し込められていた状態は改められ、小部屋の全寮制になり、少なくとも寮は、アナザー・カントリーに描かれたようになっていました。
そしてバーティーは、「Slxth Form」という成績優秀者集団にいて、卒業時に2番の成績であり、「Pop」と呼ばれる指導的立場にもあり、寮長を務めたそうですので、アナザー・カントリーでガイがなりたがっていた代表ではなかったものの、カラーベストを着てえらそーにしているメンバーのうちの、おそらくはナンバー2だったんでしょう。
ただ、バーティが、そうして、校長とも親しく話せる指導的立場の上級生になったとき、ハートレイ博士は校長をやめて市長になっていて、後任の校長は、バーティにとっては退屈な人物だったそうです。
ハートレイ博士のイートン改革は、パブリック・スクール改革の先鞭をつけたラグビー校のアーノルド博士のそれにくらべると、より世俗的なものであり……、ということは、上流階級的な野蛮や異端に対してより寛容であった、ということです。
ハートレイ校長は、他国へ出ていた期間も長く………、他国とは、おそらくフランスとかイタリアとかドイツとか、なのだと思うのですが、インテリ上流階級の国際性を身につけ、思想、芸術において欧州最先端のものに通じており、イギリス一国の価値観にとどまらないものを持っていた、というのが、バーティの見解でした。
まあ、上流階級からの入学が一番多いイートンですから、宗教熱心な中流階級的しめつけが強いと、おさまりがつかなかったでしょうし、外交官の卵をも育てていたわけですから、それが、必要な方向性だったのでしょう。
イートンは、いち早く、ギリシャ語ラテン語古典教育の偏重も見直し、フランス語と数学を、教科に取り入れもしました。
さて、バーティの同い年の赤毛の従兄弟、アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン(Algernon Charles Swinburne)です。
スウィンバーンは、12歳の年に、イートンへやってきました。
その燃えるようなくしゃくしゃの赤毛こそ、父のスウィンバーン海軍大佐にそっくりでしたが、似ていたのはそれだけで、小柄で華奢で、ひ弱な男の子でした。
The Victorian Web- Aboy in the Lowe school fagging-Sydney P.Hall 1870
1870に描かれたイートンの低学年生徒ですが、かわいいですよねえ。
バーティが、こんな感じだったんだと思うんです。
12歳で、すでに3年間もイートンにいた実績をもつバーティは、心配そうなスウィンバーン大佐とレディ・ジェインに、頼まれました。
レディ・ジェイン
「バーティ、弟だと思って、うちのアルジー(スウィンバーン)のめんどうをみてくださらないかしら、お願いするわ」
スウィンバーン大佐
「同じ年でも、君は先輩だし、しっかりしているし、よろしく頼むよ」
こんな感じだったようです。
スウィーンバーンは、そんな両親のそばで、きっと、指をくわえ、目をまるくして、従兄弟のバーティを値踏みしていたにちがいありません。
そしてバーティは………、そんなスウィンバーンの審美眼に、かならずやかなったことでしょう。
なにしろバーティは後年、詩人のエドマンド・ゴスに、こう評されています。
リーズデイル卿はいわゆるプリンス・チャーミングといわれる人間であった。彼の顔立ちは立派で、目は輝き、姿勢はまっすぐで、しかもしなやかであった。
プリンス・チャーミングときました。つまり、白馬の王子さまです。
で、その白馬の王子さま、バーティも、悪戯な赤毛の妖精のような従兄弟が、とても気に入ったようなのです。
なにしろ、アルジーは、アッシュバーナム伯爵家から引き継いだ不思議な、妙なる歌声の持ち主でした。
4つの年に別れた母、レディ・ジョージアナを思い出させる歌声の主、だったわけです。
なんといえばいいのか………、もう、12歳の二人の出会いは、名香智子さんの漫画のワンシーンのよう、ではないですか。
それにしましても、「バーティはスウィンバーンのめんどうをみて、彼を隠れた危険から守った」って………、なんなんでしょうか、いったい。
「隠れた危険」、ってね。
つまるところ、ですね。優等生で、しかも腕力にもすぐれていたバーティが、従兄弟のアルジーを保護していたら、きっとだれもアルジーには手が出せなかった、ですよね。
ところがアルジーは、「同性愛はイートンで覚えた」みたいなことを後年いうわけでして………、ふーん。
これが怪しくなくて、なにが怪しいんでしょう。
アルジーの言葉は、子供のころから美しく、語彙が豊かで、空想的でした。
二人はよく、いっしょに散歩にでかけ、「空想をたくましく」し、その空想は、大方、「スウィンバーンの盛んな読書に基づいていた」のだそうです。
読書って………、まさか、サド侯爵だったりしたんでしょうか。しかし、二人ともフランス語は得意、ですし……、ねえ。
The Victorian Web - Eton from Windsor Castle Terrace.
上は、1850年ころ、といいますから、ちょうど、バーティとアルジーがいたころのイートンです。
イートンは、ウィンザー城の近くにありまして、そのウィンザー城のテラスから見た全景だそうなんですが、あたりはのどかな田園です。
しなやかな白馬の王子さまと、美しい声の赤毛のお姫さまが、空想にひたりながら、のびのびと、緑の田園を散歩したわけです。
当時はまだ、スポーツは受業ではなく、バーティは一人乗りのボート競技を好んだそうですが、アルジーにとっては、強制的に受業でスポーツをやらされなかったのは、ありがたいことでした。
スポーツ競技なんか大嫌いなアルジーでしたが、水泳だけはよくしたそうで、きっと、海軍大佐のおとうさんが、これだけは、と教え込んだんでしょうねえ。
しかし………、泳ぐアルジーは、それこそ、悪戯妖精のようだったことでしょう。
で、鞭打ちです。
ジョナサン・ギネスによれば、当時のイートン校の生徒たちは、鞭打ちを辱めとは受け取っておらず、通過儀礼のように受け止めていて、きびしい鞭打ちを怖がらずに堂々と受ける生徒は、賞賛のまとであった、ということなのです。
したがって、自分の勇気を示すために、わざとひどい悪戯をして、好んで鞭打ちを受ける、ということが多かったそうで、だとすれば、これって果たして、罰として役に立っていたのでしょうか???
ギネス氏は、こうも言っています。「そのころは、鞭打ちに、性的要素の可能性は疑われていなかった」
いや、ごもっともです。
だから、アルジーが、サド侯爵を読んで、空想したんですよねえ。
しかし、王子さまのような従兄弟のバーティに守られた、アルジー・スウィンバーンのイートンでの生活は、実のところ、とても楽しいものだったのではないんでしょうか。晩年にいたるまで、このころに使っていた銀のカップを、大切に使っていた、という話ですし。
なにしろ、どうやらバーティは、アルジーの空想を受け止め、才能を賞賛し、なおかつ守ったのです。
アルジーの方は、この少年時代の甘美な体験が習い性になり、すっかり、守られてなくては生きていけなくなったり………、したんじゃないんですかしら、ねえ。
バーティは後年、外交官として日本に赴任したとき、部下だった6歳年下のアーネスト・サトウが、非常に気に入ったようで、その才能を愛で、引きたてようと務めた形跡があるのですが、それは、イートンでアルジーを保護した気分と似ているように、思えます。
どちらも、才能豊かな被保護者なのですよね。
バーティは、自分にない優れた才能を持った弟分を好む保護者気質を、イートンで育てていたんじゃないんでしょうか。
これはまだ、そこまで読み進めてないのですが、4つ年下のエドワード皇太子についても、バーティにとっては、守ってあげなければいけない弟分、だったように感じます。
とすれば、アーネスト・サトウは、皇太子にバーティをとられてしまったわけでして、これは負けますわね。
アルジー、というのは、私が勝手に、唯美派詩人アルジャーノン・スウィンバーンをそう呼んでいるだけなのですが、次回、イートン以降のアルジーについて、知り得た範囲で、書いてみたいと思っています。
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1846年、アルジャーノン・バートラム・ミットフォード(Algernon Bertram Mitford)、通称バーティは、9歳で英国に帰国し、イートン校に入学しました。
もともと、父親のヘンリー・レベリーがイートンの卒業生で、当時のイートンの校長エドワード・ハートレイ博士は、かつてレベリーの家庭教師だった人で、家族ぐるみの友人でもあったのだそうです。
イートンの入学年齢は、通常、12~3歳で、9歳はずいぶん早いのですが、おそらく、もしかすると、双子の兄が学齢に達したので、一家で帰国してバーティも、という話になったのではないんでしょうか。
バーティは、校内の寮に入るには幼すぎる、というので、当時まだ校外にあった私塾のようなところに下宿しました。
そこでは、私塾教師の若い娘さんが、母親のようにおぶって寝室に連れていってくれたり、かわいがってくれて、快適だったようです。
えーと、このシリーズの途中でご紹介しましたが、バーティの曾孫、ジョナサン・ギネス著の下の著作を少しずつ読み進めておりまして、今回も、それをもとに書いているのですが。
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イートンはバーティのためにあり、バーティはイートンのためにあったようなものだった。
とは、すごい表現です!
えー、vol2 イートン校~vol3 イートン校で、19世紀前半のパブリックスクール改革について書きまして、「この当時のイートンは、おそらく改革にとりかかったばかりで、どこまで、アナザー・カントリーに描かれたようであったかは、わかりません」としていたんですが、イートンで改革をはじめたのはハートレイ博士で、やはり、バーティが入学した時には、すでに改革がはじまっていたそうです。
やがて、バーティは校内の寮に移りましたが、以前のように、大人数の給費生が大部屋一つに押し込められていた状態は改められ、小部屋の全寮制になり、少なくとも寮は、アナザー・カントリーに描かれたようになっていました。
そしてバーティーは、「Slxth Form」という成績優秀者集団にいて、卒業時に2番の成績であり、「Pop」と呼ばれる指導的立場にもあり、寮長を務めたそうですので、アナザー・カントリーでガイがなりたがっていた代表ではなかったものの、カラーベストを着てえらそーにしているメンバーのうちの、おそらくはナンバー2だったんでしょう。
ただ、バーティが、そうして、校長とも親しく話せる指導的立場の上級生になったとき、ハートレイ博士は校長をやめて市長になっていて、後任の校長は、バーティにとっては退屈な人物だったそうです。
ハートレイ博士のイートン改革は、パブリック・スクール改革の先鞭をつけたラグビー校のアーノルド博士のそれにくらべると、より世俗的なものであり……、ということは、上流階級的な野蛮や異端に対してより寛容であった、ということです。
ハートレイ校長は、他国へ出ていた期間も長く………、他国とは、おそらくフランスとかイタリアとかドイツとか、なのだと思うのですが、インテリ上流階級の国際性を身につけ、思想、芸術において欧州最先端のものに通じており、イギリス一国の価値観にとどまらないものを持っていた、というのが、バーティの見解でした。
まあ、上流階級からの入学が一番多いイートンですから、宗教熱心な中流階級的しめつけが強いと、おさまりがつかなかったでしょうし、外交官の卵をも育てていたわけですから、それが、必要な方向性だったのでしょう。
イートンは、いち早く、ギリシャ語ラテン語古典教育の偏重も見直し、フランス語と数学を、教科に取り入れもしました。
さて、バーティの同い年の赤毛の従兄弟、アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン(Algernon Charles Swinburne)です。
スウィンバーンは、12歳の年に、イートンへやってきました。
その燃えるようなくしゃくしゃの赤毛こそ、父のスウィンバーン海軍大佐にそっくりでしたが、似ていたのはそれだけで、小柄で華奢で、ひ弱な男の子でした。
The Victorian Web- Aboy in the Lowe school fagging-Sydney P.Hall 1870
1870に描かれたイートンの低学年生徒ですが、かわいいですよねえ。
バーティが、こんな感じだったんだと思うんです。
12歳で、すでに3年間もイートンにいた実績をもつバーティは、心配そうなスウィンバーン大佐とレディ・ジェインに、頼まれました。
レディ・ジェイン
「バーティ、弟だと思って、うちのアルジー(スウィンバーン)のめんどうをみてくださらないかしら、お願いするわ」
スウィンバーン大佐
「同じ年でも、君は先輩だし、しっかりしているし、よろしく頼むよ」
こんな感じだったようです。
スウィーンバーンは、そんな両親のそばで、きっと、指をくわえ、目をまるくして、従兄弟のバーティを値踏みしていたにちがいありません。
そしてバーティは………、そんなスウィンバーンの審美眼に、かならずやかなったことでしょう。
なにしろバーティは後年、詩人のエドマンド・ゴスに、こう評されています。
リーズデイル卿はいわゆるプリンス・チャーミングといわれる人間であった。彼の顔立ちは立派で、目は輝き、姿勢はまっすぐで、しかもしなやかであった。
プリンス・チャーミングときました。つまり、白馬の王子さまです。
で、その白馬の王子さま、バーティも、悪戯な赤毛の妖精のような従兄弟が、とても気に入ったようなのです。
なにしろ、アルジーは、アッシュバーナム伯爵家から引き継いだ不思議な、妙なる歌声の持ち主でした。
4つの年に別れた母、レディ・ジョージアナを思い出させる歌声の主、だったわけです。
なんといえばいいのか………、もう、12歳の二人の出会いは、名香智子さんの漫画のワンシーンのよう、ではないですか。
それにしましても、「バーティはスウィンバーンのめんどうをみて、彼を隠れた危険から守った」って………、なんなんでしょうか、いったい。
「隠れた危険」、ってね。
つまるところ、ですね。優等生で、しかも腕力にもすぐれていたバーティが、従兄弟のアルジーを保護していたら、きっとだれもアルジーには手が出せなかった、ですよね。
ところがアルジーは、「同性愛はイートンで覚えた」みたいなことを後年いうわけでして………、ふーん。
これが怪しくなくて、なにが怪しいんでしょう。
アルジーの言葉は、子供のころから美しく、語彙が豊かで、空想的でした。
二人はよく、いっしょに散歩にでかけ、「空想をたくましく」し、その空想は、大方、「スウィンバーンの盛んな読書に基づいていた」のだそうです。
読書って………、まさか、サド侯爵だったりしたんでしょうか。しかし、二人ともフランス語は得意、ですし……、ねえ。
The Victorian Web - Eton from Windsor Castle Terrace.
上は、1850年ころ、といいますから、ちょうど、バーティとアルジーがいたころのイートンです。
イートンは、ウィンザー城の近くにありまして、そのウィンザー城のテラスから見た全景だそうなんですが、あたりはのどかな田園です。
しなやかな白馬の王子さまと、美しい声の赤毛のお姫さまが、空想にひたりながら、のびのびと、緑の田園を散歩したわけです。
当時はまだ、スポーツは受業ではなく、バーティは一人乗りのボート競技を好んだそうですが、アルジーにとっては、強制的に受業でスポーツをやらされなかったのは、ありがたいことでした。
スポーツ競技なんか大嫌いなアルジーでしたが、水泳だけはよくしたそうで、きっと、海軍大佐のおとうさんが、これだけは、と教え込んだんでしょうねえ。
しかし………、泳ぐアルジーは、それこそ、悪戯妖精のようだったことでしょう。
で、鞭打ちです。
ジョナサン・ギネスによれば、当時のイートン校の生徒たちは、鞭打ちを辱めとは受け取っておらず、通過儀礼のように受け止めていて、きびしい鞭打ちを怖がらずに堂々と受ける生徒は、賞賛のまとであった、ということなのです。
したがって、自分の勇気を示すために、わざとひどい悪戯をして、好んで鞭打ちを受ける、ということが多かったそうで、だとすれば、これって果たして、罰として役に立っていたのでしょうか???
ギネス氏は、こうも言っています。「そのころは、鞭打ちに、性的要素の可能性は疑われていなかった」
いや、ごもっともです。
だから、アルジーが、サド侯爵を読んで、空想したんですよねえ。
しかし、王子さまのような従兄弟のバーティに守られた、アルジー・スウィンバーンのイートンでの生活は、実のところ、とても楽しいものだったのではないんでしょうか。晩年にいたるまで、このころに使っていた銀のカップを、大切に使っていた、という話ですし。
なにしろ、どうやらバーティは、アルジーの空想を受け止め、才能を賞賛し、なおかつ守ったのです。
アルジーの方は、この少年時代の甘美な体験が習い性になり、すっかり、守られてなくては生きていけなくなったり………、したんじゃないんですかしら、ねえ。
バーティは後年、外交官として日本に赴任したとき、部下だった6歳年下のアーネスト・サトウが、非常に気に入ったようで、その才能を愛で、引きたてようと務めた形跡があるのですが、それは、イートンでアルジーを保護した気分と似ているように、思えます。
どちらも、才能豊かな被保護者なのですよね。
バーティは、自分にない優れた才能を持った弟分を好む保護者気質を、イートンで育てていたんじゃないんでしょうか。
これはまだ、そこまで読み進めてないのですが、4つ年下のエドワード皇太子についても、バーティにとっては、守ってあげなければいけない弟分、だったように感じます。
とすれば、アーネスト・サトウは、皇太子にバーティをとられてしまったわけでして、これは負けますわね。
アルジー、というのは、私が勝手に、唯美派詩人アルジャーノン・スウィンバーンをそう呼んでいるだけなのですが、次回、イートン以降のアルジーについて、知り得た範囲で、書いてみたいと思っています。
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