またまた生麦です。真説生麦事件 上、真説生麦事件 下、生麦事件 補足に続きます。
この本は、以前にもご紹介しました。宮廷料理と装飾菓子において、です。
当時のフランスは第二帝政でして、ナポレオン三世が政権を握っているんですが、その前の7月王制を担ったオルレアン家は、ナポレオン三世といれかわるように、イギリスに亡命しています。
で、亡命中の王族の一人で、18歳のジョアンヴイル公が、世界一周旅行に出る、というので、オルレアン家にゆかりの深いリュードヴィック・ド・ボーヴォワール伯爵がお供します。こちらも20歳の若さの青年貴族です。帰国後、その世界旅行記を本にして出版しましたが、上は、そのうちの日本滞在記です。
日本には35日間しかいませんで、なにやらものすごい勘違いも多いのですが、来日した時期が、幕末も押し詰まった慶応3年の3月から4月で、なかなかに興味深い本です。
横浜へ到着してしばらくしたある日、伯爵の一行は、スイス領事ルドルフ・ランドウの案内で、川崎宿まで、東海道へ遠乗りに出かけます。4年前、リチャードソン一行が同じ道を通って、生麦事件が起こっています。
で、生麦村の集落からはちょっとはずれて、すばらしくきれいな庭のある一軒の茶屋がありました。私、位置からいって、これは神奈川奉行所の役人が出張に使った桐屋ではないのか、と思います。
リチャードソンが落馬した場所に、近いんです。
この茶屋は、横浜のフランス人から「スペイン美人」と呼ばれていた、しっかりものの女性と、その母親が切り盛りしていました。「その顔立ちは今なお際立ってすぐれた美しさをとどめていて」と伯爵は書いていますから、かなり年増ながら、西洋人好みの彫りの深い美人、だったんでしょうね。
伯爵は、生麦事件が起こった経緯についても、相当な勘違いをしながら、どこかでつじつまがあっているような不思議な書き方をしていますが、ランドウ氏が語ってくれたという「スペイン美人」とリチャードソンの悲話がまた、傑作です。いや、笑っちゃいけないんでしょうけれども、つい、笑ってしまいます。
レノックス・リチャードソンは斬られて致命傷を負った。彼はついさっき挨拶したばかりの「スペイン美人」の家までやっとたどりついたが、娘は、陽気で若さ一杯の彼にこれまで何度も会ったことがある。瀕死の重傷を負った男は熱に喘ぎ、渇きを訴え、彼女のさし出す一杯の冷たい水を飲んだ。女が傷の手当てをしている時に、薩摩の刺客が戻って来て、女を荒々しく押しのけ、瀕死の男を路上に引きずり出し、とどめを刺し、怒りが収まったので悪口雑言の限りを浴びせながら、傍らの畑の溝の中へ投げ込んだ。その時、この健気にも勇気ある娘は、恐れず遺体を探しに行き、自分の家まで運んで家の中に隠した。横浜から彼を捜しに人が来た時には、彼女はうやうやしく葬ろうとしているところであった。
やりますね、「スペイン美人」。庭が美しく、看板娘も年増ながら美しく、ついこの間起こった生々しい事件の悲話があったら、商売繁盛しますよねえ。
そして、これは笑えない話なんですが………、薩藩海軍史の本文著者は、リチャードソンの惨劇を、匂わせてはいるのです。奈良原兄が最初にリチャードソンを斬った刀は、明治になって島津家に献上されたそうですし、なにも不吉な描写がないのに、です。海江田がリチャードソンを介錯した刀は、由緒ある名刀だったんですが、海江田家の家人に祟った、というのですね。
桜田門外の変に、ただ一人、薩摩から参加し、大老・井伊直弼の首をあげた有村次左衛門は、海江田信義の実の弟なんですが、このとき水戸と薩摩の有志が連携したのは、安政の大獄で獄死した日下部伊三治の縁でした。伊三治の父は、薩摩を脱藩して、水戸に身をよせた人で、伊三治は水戸藩士として生まれて、島津斉彬のもと、薩摩藩に復帰しました。
海江田信義は、伊三治の長女まつと結婚して、伊三治の後を継いだわけでして、伊三治が水戸斉昭から拝領した名刀を脇差しにしてまして、それでリチャードソンを介錯したんだそうです。
それが「洋夷の血」で汚れた、というので、家宝として床の間に飾るのも汚らわしいとしまいこみました。それから保管者も代わりましたが、これを保管すると病魔に犯されるので、東京浅草の某寺に納め、惨死者(リチャードソン)の冥福を祈ったんだそうです。
最初に読んだときから、唐突に祟り話が入るなあ、と不思議だったんですが、薩藩海軍史の著者は、伊三治と次左衛門の功績が汚されたのだと………、ほのめかしているのではないか、と、ふと思いました。
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この本は、以前にもご紹介しました。宮廷料理と装飾菓子において、です。
当時のフランスは第二帝政でして、ナポレオン三世が政権を握っているんですが、その前の7月王制を担ったオルレアン家は、ナポレオン三世といれかわるように、イギリスに亡命しています。
で、亡命中の王族の一人で、18歳のジョアンヴイル公が、世界一周旅行に出る、というので、オルレアン家にゆかりの深いリュードヴィック・ド・ボーヴォワール伯爵がお供します。こちらも20歳の若さの青年貴族です。帰国後、その世界旅行記を本にして出版しましたが、上は、そのうちの日本滞在記です。
日本には35日間しかいませんで、なにやらものすごい勘違いも多いのですが、来日した時期が、幕末も押し詰まった慶応3年の3月から4月で、なかなかに興味深い本です。
横浜へ到着してしばらくしたある日、伯爵の一行は、スイス領事ルドルフ・ランドウの案内で、川崎宿まで、東海道へ遠乗りに出かけます。4年前、リチャードソン一行が同じ道を通って、生麦事件が起こっています。
で、生麦村の集落からはちょっとはずれて、すばらしくきれいな庭のある一軒の茶屋がありました。私、位置からいって、これは神奈川奉行所の役人が出張に使った桐屋ではないのか、と思います。
リチャードソンが落馬した場所に、近いんです。
この茶屋は、横浜のフランス人から「スペイン美人」と呼ばれていた、しっかりものの女性と、その母親が切り盛りしていました。「その顔立ちは今なお際立ってすぐれた美しさをとどめていて」と伯爵は書いていますから、かなり年増ながら、西洋人好みの彫りの深い美人、だったんでしょうね。
伯爵は、生麦事件が起こった経緯についても、相当な勘違いをしながら、どこかでつじつまがあっているような不思議な書き方をしていますが、ランドウ氏が語ってくれたという「スペイン美人」とリチャードソンの悲話がまた、傑作です。いや、笑っちゃいけないんでしょうけれども、つい、笑ってしまいます。
レノックス・リチャードソンは斬られて致命傷を負った。彼はついさっき挨拶したばかりの「スペイン美人」の家までやっとたどりついたが、娘は、陽気で若さ一杯の彼にこれまで何度も会ったことがある。瀕死の重傷を負った男は熱に喘ぎ、渇きを訴え、彼女のさし出す一杯の冷たい水を飲んだ。女が傷の手当てをしている時に、薩摩の刺客が戻って来て、女を荒々しく押しのけ、瀕死の男を路上に引きずり出し、とどめを刺し、怒りが収まったので悪口雑言の限りを浴びせながら、傍らの畑の溝の中へ投げ込んだ。その時、この健気にも勇気ある娘は、恐れず遺体を探しに行き、自分の家まで運んで家の中に隠した。横浜から彼を捜しに人が来た時には、彼女はうやうやしく葬ろうとしているところであった。
やりますね、「スペイン美人」。庭が美しく、看板娘も年増ながら美しく、ついこの間起こった生々しい事件の悲話があったら、商売繁盛しますよねえ。
そして、これは笑えない話なんですが………、薩藩海軍史の本文著者は、リチャードソンの惨劇を、匂わせてはいるのです。奈良原兄が最初にリチャードソンを斬った刀は、明治になって島津家に献上されたそうですし、なにも不吉な描写がないのに、です。海江田がリチャードソンを介錯した刀は、由緒ある名刀だったんですが、海江田家の家人に祟った、というのですね。
桜田門外の変に、ただ一人、薩摩から参加し、大老・井伊直弼の首をあげた有村次左衛門は、海江田信義の実の弟なんですが、このとき水戸と薩摩の有志が連携したのは、安政の大獄で獄死した日下部伊三治の縁でした。伊三治の父は、薩摩を脱藩して、水戸に身をよせた人で、伊三治は水戸藩士として生まれて、島津斉彬のもと、薩摩藩に復帰しました。
海江田信義は、伊三治の長女まつと結婚して、伊三治の後を継いだわけでして、伊三治が水戸斉昭から拝領した名刀を脇差しにしてまして、それでリチャードソンを介錯したんだそうです。
それが「洋夷の血」で汚れた、というので、家宝として床の間に飾るのも汚らわしいとしまいこみました。それから保管者も代わりましたが、これを保管すると病魔に犯されるので、東京浅草の某寺に納め、惨死者(リチャードソン)の冥福を祈ったんだそうです。
最初に読んだときから、唐突に祟り話が入るなあ、と不思議だったんですが、薩藩海軍史の著者は、伊三治と次左衛門の功績が汚されたのだと………、ほのめかしているのではないか、と、ふと思いました。
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