郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.4

2012年11月06日 | 尼港事件とロシア革命

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.3の続きです。

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.2で書きました、キーラ・ナイトレイ主演のテレビドラマ版「ドクトル・ジバゴ」。
 見ました。

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 デイヴィッド・リーン監督の1965年版「ドクトル・ジバゴ」のリメイク、というだけに、大方の筋立ては似ています。
 その「大方の筋立て」を簡単に述べますと。

 主人公のユーリ・ジバゴは子供の頃に両親を亡くし、両親の知人だったモスクワの医学者に引き取られ、その家の一人娘のトーニャと兄妹のように育てられます。長じて、医学を学びながら詩人となり、自然な成り行きでトーニャと結婚。
 同じモスクワで、洋裁店を経営する未亡人の一人娘として育ったラーラは、母親の愛人で、腕利きの弁護士コマロフスキーに反発しながらも惹かれ、ついに誘惑に乗り、それを知った母親は自殺未遂。
 ラーラは一方で、革命家を志す貧しい学生のパーシャと愛を育んでいて、コマロフスキーへの思いを断ち切るために、パーティの席で発砲する、という事件を引き起こします。

 映画でパーシャが参加したことになっています流血の抗議行動は、原作小説でははっきり、ペテルブルグで血の日曜日事件が起こった1905年の末に、モスクワで起こったプレスニャ蜂起、と書かれています。そして、ラーラの母親の自殺未遂、発砲事件には、原作ではかなりの間がありますし、ユーリ・ジバゴはラーラを目撃して印象にとどめはしますものの、直接のかかわりは持ちません。

 しかしまあ、映像の場合、それでは緊迫感がなくなる、ということなのでしょう。
 映画とドラマでは、事件はたてつづけに起こり、ユーリ・ジバゴは、育て親の博士の供で、自殺未遂をしたラーラの母親の手当をし、ラーラおよびコマロフスキーと言葉をかわしますし、狙撃事件でも、狙ったラーラと狙われたコマロフスキーと、双方とかかわり、すでにこの時点で、お互いが相手に魅せられるものを感じます。

 ユーリ・ジバゴがトーニャと結婚して間もなく、第一次世界大戦が始まり、ユーリは軍医となって従軍します。
 ラーラはパーシャと結婚し、モスクワを出てウラルの町にいましたが、従軍して行方不明となったパーシャをさがすため、志願して看護婦となり、戦場に向かいました。
 ユーリとラーラは戦場で再会し、いっしょに働くこととなりますが、二人が戦場にいる間に革命が起こり、それでも戦争は続いていますので、そのまま二人は後方の病院で傷病者のめんどうをみて、たがいに強く惹かれ合うようになります。

 結局、戦争が終わるまで二人は病院にいたように描かれていますので、1917年の10月革命でボルシェヴィキが政権を握り、翌1918年の3月、ブレスト=リトフスク条約でドイツとの講和がなるまで、ユーリがモスクワに帰ることはなかったことになるんでしょうか。

 ボルシェヴィキが支配するモスクワは、殺伐としていました。
 妻トーニャが待っていた屋敷は、接収され、多数の赤の他人が合法的に入り込み、元家主トーニャ一家の方が、肩身の狭い間借り人状態。ユーリは新しい秩序になじめず、しかもモスクワは極度の食糧、燃料不足です。
 一家はモスクワを出て、ウラル地方ベリキノにありますトーニャの実家の別荘へ行く決心をします。

 ユーリ一家がウラル行きの列車に乗り込んだのは、どうやら、1918年の春から初夏、という設定のようです。といいますのも名作映画の方において、なのですが、ベリキノに着いてしばらくして「ニコライ2世一家が銃殺された」という記事が新聞に出ていたことになっていまして、これは1918年の7月の事件だからです。
 
 1918年は、ロシア内戦の最中ですから、まず、ウラルへ向かう列車自体が、家畜運搬車かアウシュビッツ行きの囚人列車かという感じの殺伐としたものとして描かれています。ちょっとやりすぎかなあ、という気がしないでもないのですけれども。
 鉄道沿線がこれまた、めちゃくちゃな戦乱状態。家が焼かれ、処刑されたらしい死体がぶらさがっていたりします。

 後年政治家になりました芦田均が、実はペトログラードの日本大使館に外交官補として赴任していてロシア革命を目撃し、後に「革命前夜のロシア」 (1950年)という回想録を書いています。
 この回想録の最後が、1918年(大正7年)の1月、真冬に、ペトログラードを離れて、シベリア鉄道から満州鉄道に乗り継いで帰国する話なのですが、確かに、シベリア鉄道は復員する兵士の数の多さに機関車が足らず、普通列車は何日も待たされて混雑をきたしていて、芦田均たちは外交官として特別仕立ての急行列車に乗っていましたから、恨まれて、途中で兵隊たちに力づくで機関車を奪われる、という大騒動もあったそうですし、満州へ入ったとたん、食料が豊富になり、襲撃されます不安も消え、だれよりも同乗していたロシア人たちが大喜びした、と書いてあります。
 しかしバイカル湖へ出るまで、ですから、ウラル山脈へ至るあたり、と思われるのですが、鶏肉やスープを売る駅の売店の描写もあり、3、4ヶ月後のこととはいえ、映画やドラマが描くほどひどい、家畜列車状態だったのかな、と疑問です。

 (追記) ひーっ! たったの3、4ヶ月で、状況は変わっていたみたいです。梶川伸一氏の「飢餓の革命―ロシア10月革命と農民」(P98-99)によりますと、春になるにつれ飢餓は深刻になり、ウラル地方ペルミ鉄道を経由してのシベリアへの移住民の登録者数は、芦田均が帰国しました1918年1月にはたったの2人、2月に43人、3月に4194人でしたが、4月に22687人、5月にも25696人と急激し、ペルミ鉄道からは、「鉄道での食糧不足のために14車両に閉じ込められている移住民と乗客の状態はきわめてひどい。飢えた母親は自分の子供が列車で陥っている運命を恐れて、一粒の穀物を求めて隣接の村をさまよっている」と報じられているんだそうです。い、いや、さすがデビット・リーン監督。よく調べていたんですねえ。

 ここらへんからちょっと、映画は寓話じみてまいりまして、戦場で行方不明になったラーラの夫・パーシャが実は生きていて、ストレルニコフと名乗り、赤軍の冷酷な指揮官となって、列車を根城にウラルで恐怖政治を行っています。
 ラーラは、それを知らないままベリキノの近くの町ユリアチン(架空の地名ですがペルミがモデルだといわれています。ニコライ二世一家が惨殺されたエカテリンブルクの近くで、シベリアへ向かいます入り口あたりです)に住んでいます。
 ユーリ一家はベリキノに到着しますが、母屋は封鎖されていまして、付属した門番小屋だかに落ち着きます。
 ユリアチンを訪れたユーリはラーラに再会し、ついに関係を持ってしまいます。

 内戦は続いていまして、ユーリはパルチザン部隊に捕まり、医師としての従軍を強制されます。
 ユーリが行方不明になった後のベリキノで、妻のトーニャは出産します。トーニャはユリアチンのラーラに夫への手紙を託して、父親と子供とともに、映画ではフランスへ亡命、ドラマではモスクワへ帰ることとなりました。

 ユーリはようやく脱走し、ラーラのもとへたどり着きますが、そこへ現れたのが、ラーラの昔の愛人コマロフスキー。
 ラーラの夫だったストレルニコフ(パーシャ)が失脚し、ラーラの身にも危険がおよぶと、コマロフスキーは二人に告げ、「極東のウラジオストクに地位を約束され、これから行くので、同行しないか?」と誘います。

 いったんそれを断った二人は、危険をさけるためにベリキノに向かいました。
 ここで二人は、ベリキノの母屋の方の封鎖を破って入るのですが、これが映画の方では、ロシア独特のたまねぎドームの館ですし、おとぎ話の氷の宮殿のようで、実に印象的なんです。
 テレビドラマでは、なんでもない、ごく普通の広い屋敷でしかないのですけれども。
 
 Doctor Zhivago Trailer 1965


Zhivago Trailer


 上は、1965年の映画、下が2002年のテレビドラマの予告編です。
 
 映画とテレビドラマの筋立てには、多少のちがいがあるのですが、どちらが話がわかりやすいかといいますと、テレビドラマの方です。ただ、スケールのちがいは仕方がないとしましても、2002年、ソ連崩壊後に制作されているから、なんでしょうか。テレビドラマの方では、飢餓から人肉も食べたといいますロシア内戦期の身も蓋もない現実が、むきだしに感じられる気がします。

 そうなんです。冷戦期に西側で作られた映画なんですが、デビット・リーン監督は、革命のロマンといいますか、世界中の人々がロシア革命に託しましたロマン、そしてそのロマンが裏切られたせつなさと、それでも残る希望を、描いている気がします。

「ドクトル・ジバゴ」 (新潮文庫)
江川 卓,ボリス・パステルナーク,Boris Leonidovich Pasternak
新潮社


 原作は、実はテレビドラマや映画よりも、はるかに寓話じみています。
 その原作で、人々が革命に託したロマンを具現しますのは、ユーリ・ジバゴの異母弟、エフグラフ・ジバゴです。
 エフグラフは、ユーリの父親が放浪の中、シベリア西端のオムスクで、キルギス系貴族の女性を愛人にしてつくった子供です。
 ボルシェヴィキの指揮官となり、革命によって有力者になりますが、一方で異母兄ユーリの詩をこよなく愛し、影のようにユーリの窮地に現れて、救いの手を差し伸べます。

 映画の方は、物語の要となる人物としてエフグラフ(字幕は義兄、異母兄としていますが異母弟です)を描いていますが、テレビドラマの方には、まったく出てきません。ソ連が崩壊して、革命のロマンの化身であるエフグラフ・ジバゴは、消えちゃったんでしょうね。最近ロシアで作られたテレビ・ドラマにも、エフグラフは出てこないんだそうです。

 1917年のロシア革命がなぜ起こったかといいますと、首都ペトログラード(ペテルブルグ)を中心とします都市部の極端な食料、燃料不足です。

 第一次世界大戦が始まって以来、1500万人の農民が、兵士として戦線に送られていました。
 穀物生産量は激減する一方、この膨大な数の兵士を食べさせなければなりません。
 そして戦時増産のために、ペトログラードには40万近い労働者が流れ込み、その数は270万人に膨れあがっていました。

 通常でも満足に運営されていたとはいえない鉄道が、兵員、兵站輸送で麻痺状態。
 そこへもってきまして、ペトログラードの工業地帯にバルト海から入っていました安い輸入炭が、ドイツによります封鎖で入らなくなり、ウクライナから石炭を汽車輸送しなければならなくなりました。

 鉄道酷使の結果、開戦時にロシアが有した機関車2万台あまりが、1917年の初めには、半分以下の9千台そこそこまで減りました。
 ロシア全土で工業生産が止まり、製粉工場も稼働しません。
 ペトログラードへの輸送も滞り、物価は4、5倍にまではねがります。

 とどめは、1917年2月の寒波でした。
 1200台の機関車のボイラーが氷結して爆発し、通行止めの鉄道線路が続出。5万7千台の車両が立ち往生し、ペトログラードの小麦粉、石炭、木材は、姿を消してしまったのです。

 ロシアではユリウス暦を使っていたために、通常の西暦とは13日のずれがあります。
 1917年3月8日(ロシアでは2月末)、零下39度の厳寒のペトログラードで、パンの配給を待つ長い行列の人々が、ついに爆発しました。暴徒と化した人々は、パン屋に勝手に押し入ってパンを手にしました。

 ペトログラードの労働者たちは、石炭不足で大方の工場が閉鎖され、職がない状態。
 これらの労働者と、家庭を預かる主婦たちによります、職よこせ、パンよこせデモがはじまりましたが、この日はまだ、平和的なものでした。
 翌9日、多くの人々が市内になだれこみ、食料品店の略奪がくりひろげられました。
 とりしまるはずのコサック部隊が、とりしまろうとはしませんで、これを見逃します。

 そして10日、労働者たちは大規模なストライキをくりひろげ、ペトログラードの交通機関は、すべて停止します。
 デモ行進のスローガンは、次第に政治的なものとなり、「ドイツ女を倒せ! 内閣を倒せ! 戦争をやめろ!」と、人々は叫びました。

 ドイツ女とは、アレクサンドラ皇后のことです。
 ドイツ諸国の一つヘッセン=ダルムシュタットの公女だったために、第一次世界大戦がはじまり、ドイツが敵国となりますと、皇后が怪僧ラスプーチンに傾倒していたことも手伝い、格好の憎まれ役に仕立て上げられてしまいます。
 皇后の母親はロシアと同じ連合国側のイギリスのヴィクトリア女王の娘で、この母親が早くに死んで、皇后はイギリスの祖母のもとで過ごした期間が長く、ドイツ語よりも英語の方によりなじんでいたにもかかわらず、です。

 「敵国出身の皇后を倒せ」と「戦争をやめろ」が同時に叫ばれるとは、矛盾もいいところなんですけれども、多くの人々が飢えて、凍え死にしそうになり、工業生産もとまってしまうロシアの惨状は、第一次世界大戦が原因なのですから、戦争が終わらないことには、どうにもなりようがなかったでしょう。

 結局、この2月革命が立憲君主制でとどまらず、即ニコライ二世の退位につながりました原因としましては、アレクセイ皇太子が血友病で、そのためにアレクサンドラ皇后がラスプーチンに傾倒して、皇族や貴族たちからさえ反感を持って見られていたことがあげられたりすることもありますが、どうなのでしょうか。
 人々の飢えは戦争が原因ですし、第一次世界大戦が国がつぶれるような総力戦になろうとは、結局、開戦前には、ほとんどの人々にとって想定外のことだったんです。



 1916年に、ペトログラード郊外の離宮ツァールスコエ・セローで撮られました写真です。
 右がニコライ2世、左がアレクサンドラ皇后、中央がアレクセイ皇太子です。

 首都ペトログラード市内には、常時20万近い精鋭部隊が配置されていました。平時、その精鋭部隊の指揮官は主に貴族出身の将校で、兵卒は、ロシア各地から選抜されてきていました。
 ところが開戦以来、ロシア陸軍の正規軍精鋭の大多数は、対独戦にかり出されて戦死し、生き残った人々も前線に貼りつけられています。
 ペトログラード守備隊も例外ではなく、中身は予備軍、後備軍に入れ替わっていました。

 陸軍幼年学校の貴族出身者の割合も、膨大な戦死者補充のために数が必要で、激減していました。歩兵学校では40パーセントから30パーセントに減った程度ですが、騎兵学校では95パーセントから35パーセントにまで低下していました。
 伝統的に皇帝に忠実だったコサック兵も、前線での戦死がつのり、極貧地帯のクバンやドン地方出身で、一番下積みの兵が増えていました。
 そして、ペトログラード守備軍の兵卒から、地方の農民は減っていて、もともとペトログラード在住の労働者で、それもストライキに参加した罰として強制的に入隊させられた者の数が、急増していました。

 ニコライ2世は前線にいまして、首都ペトログラード騒乱の報告を受けます。
 そして、あまりよく状況がわからないままに、気軽に鎮圧を命じるのですが、おかげで3月11日(日曜日)には、デモ隊側200人に死者が出ます。しかし、発砲を拒否した部隊もありまして、首都の行政機能は麻痺状態。

 3月12日、ペトログラードの守備隊の一部は、兵卒が帝政に忠実な士官を殺したり追放したりの反乱を起こし、しかもそういう部隊が雪だるま式に増えて、次々に革命を支持する側にまわりました。軍隊はデモ隊に協力し、兵器庫、内務省、軍司令部ビル、保安警察(オフラナー)司令部、警察署が襲われ、刑務所が開放されて、囚人が全員解放されました。
 当初、革命側にまわった兵士は2万5千でしたけれども、夕方には6万6千にふくれあがります。

 ラ・マルセイエーズを歌います労働者と兵士の大集団が国会を占拠し、内閣は倒壊します。
 この守備隊の反乱は、自然発生的に起こったことでして、全体の指導者がおらず、統制がとれていたわけではありません。そこで、社会革命党員で国会議員でしたケレンスキーが中心となり、この日のうちに、第二の国会、労働者と兵士の代表者会議でありますソビエトを成立させます。

 芦田均の「革命前夜のロシア」より、以下、3月12日の状況について、引用です。

 この朝は激しい銃声と騒擾とをもって明けた。「近衛の一部が革命軍に荷担した」と道行く人が、口から口へと伝えた。リチェネーの砲兵工廠へは、革命派の兵隊が午前十時頃から押寄せて、之を鎮圧に来たセメョーノフスキー聯隊や警察官と銃火を交へている。赤旗を立て銃を構へた兵卒を満載した自動車が縦横に飛び違ふ。かしこの町角、ここの橋で、官革両軍が火花を散らす。某将軍が死んだ、何聯隊が蜂起したという様な流言飛語が間断なく伝はる。しかし正確なことは誰一人知る者もない。電話も通じなくなつた。ただ混乱と砲火と物狂ほしい半日がくれた。午前十一時半頃日本大使館に程近いリチュネー通の砲兵工廠で高田商会の牧瀬氏が銃弾に当たって死んだ。「遺体を引き取ることもできない」と、同僚の関根君が大使館へ飛び込んで来た。軍需品の注文の件で今朝早く牧瀬、関根の両君が砲兵工廠へ行って交渉中に革命軍が乗込んで来て、小銃や弾薬を掠奪し、発砲し始めた。その時に牧瀬君がやられたのである。

 首都の騒乱は続き、3月15日には、国会の求めに応じてニコライ2世が退位し、あっけなく帝政は終わりを告げます。
 成立した臨時政府の指導者は、当初は立憲民主党(カデット)員などもいて、穏健で、自由主義的な改革で落ち着くのではないか、とも見られておりました。
 
 なにしろ、大戦の最中です。
 イギリス、フランス、イタリアの連合国にとりましては、ともかく、これまで通りロシアが東部戦線で戦ってくれることこそが、切なる望みです。
 ロシア臨時政府首脳は、帝政期の外交をそのまま引き継ぐと表明し、しかもちょうどこの1917年3月、アメリカが連合国側で参戦する見透しが強くなっていまして、一応、これまで通りに戦いを続ける方針ではいました。

 しかし、革命は軍規の崩壊によって起こりました。
 国会と二重構造になっていますソビエトを数で支配していますのは、上官を追放したり、殺したりして蜂起し、首都を制圧した兵士たちの集団であり、彼らは武装したまま、首都に居座りを決め込み、臨時政府はそれを、どうにもできないでいました。
 物資の欠乏と輸送の混乱は、革命以前にも増してひどいものとなり、現地にいた外国人たちは、果たしてロシアに戦争を続ける能力があるのかどうか、悲観的になりました。

 しかし、芦田均によれば、「ロシアの内政に通じない連合国の大衆は、革命によって親独的な単独講和派が潰え、戦争の遂行が有利になると考えた。それが連合国の新聞に現れた論調であった」ということでして、ロシア革命に対します連合国、特にアメリカの誤解は、後々までもはなはだしいものがあったように思われます。

 そういうわけでして、3月、アメリカは真っ先に、単独で臨時政府を承認し、次いで、イギリス、フランス、イタリアの三国が、共同歩調をとり、3月24日に承認しました。連合国の一員であります日本も、少し遅れましたものの、それに同調します。

 4月6日、アメリカはドイツに宣戦布告し、いよいよ参戦したのですが、その直前の4月4日ペトログラード着の列車で、ドイツはとんでもないプレゼントを、ロシアに送りつけていました。
 ウラジーミル・イリイチ・レーニンです!

 二月革命直後、ペトログラードのソビエトの中心にいましたのは、社会革命党とメンシェヴィキで、立憲民主党など、自由主義者との妥協も許容する柔軟性を持っていました。
 中立国スイスのチューリヒに亡命していましたボリシェヴィキの指導者レーニンにとりまして、これは気にくわないことでして、帰国を画策します。

 実はドイツ統帥部は、ボリシェヴィキを監視し、同時にひそかに資金援助をしていました。
 このときレーニンが、政権を握った場合の単独講和まで、はっきりドイツに約束していたのかどうかはわからないのですが、少なくともドイツ統帥部は、それによってロシアの交戦意欲は減退するだろうと踏んで、特別列車を仕立て、レーニンを帰国させました。
 そして1年足らずで、ボリシェヴィキは政権をにぎり、ドイツの思惑通り、単独講和が成立することとなります。

 レーニンの帰国で、、ボリシェヴィキはソビエトを根城に勢いを増しまして、となってきますと、国会に立脚しました臨時政府とソビエトの間で緊張が増し、臨時政府の穏健派は力を失います。
 結局、当面のところは、社会革命党の議員で、ソヴィエトの副議長ともなっていましたケレンスキーが臨時政府の中心となりました。

 ケレンスキーは、帝政は否定していましたけれども、いわば社会民主主義者でして、独裁政権の樹立をめざしましたレーニンやトロツキーのボルシェヴィキとは、一線を画していましたし、連合国との友好関係を保つためにも、外交の継続性は維持し、戦争を続けるしかない、としておりました。

 以下、再び、芦田均によります。
 ケレンスキーは前線兵卒代表会議とペトログラードのソビエトが攻勢を決議したことに力を得て、6月に入ってから攻勢作戦の準備を始めた。これに対してボリシェビキはあらゆる手段を用いて、作戦の実行を妨げた。その方法は陸海両軍へ手先を派遣して、将校への反抗、ドイツ軍との交歓、戦争反対の宣伝に務め、後方においては交通、生産の部門にサボタージュを示唆することであった。
 ボリシェビキの方針は故意か偶然かドイツの意図するところと全く符合したため、世間では、莫大な運動資金がドイツから出ていると談り伝えた。


 次回、再び、極東ニコラエフスクのエラ・リューリに話をもどします。
 第一次世界大戦の開戦時、5歳でしたエラは、革命が起こりました1917年、8歳になっていました。

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