郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

近藤長次郎とライアンの娘 vol1

2012年11月28日 | 近藤長次郎

 どこからお話すべきでしょうか。
 実は、音楽家の肝付兼美さまが、私のブログを読んでくださっておられるんです。
 Wikiに掲載されておりますが、肝付兼美氏は、小松帯刀のはとこのご子孫です。ちゃんと喜入肝付家の系図にご先祖のお名前がありまして、名門でおられます。行進曲「小栗公、メリケンを行く」を作曲しておられ、小栗上野介の菩提寺・東善寺さんのご住職とも、懇意にしておられるそうです。

 青葉マンドリン教室事業部のコンサート情報に、12月23日群馬マンドリン楽団の東京公演の案内がありまして、こちらで「小栗公、メリケンを行く」が演奏されるそうですので、お近くの方は、ぜひ。

 私、 Twitterのアカウントを持っていながら、ろくに使っていませんで、知らなかったのですが、ダイレクトメッセージという機能があるんですね。
 で、肝付兼美さまからそのダイレクトメッセージをいただき、近藤長次郎の妹さんのご子孫の方が、連絡したいと言っておられるとのことだったんです。

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1に書いておりますが、両親が亡くなりましたときに、長次郎は、家業の饅頭屋は妹が養子をとって継ぐこととして、土佐を出ました。
 長次郎は神戸で結婚しておりまして、百太郎という息子を一人残して世を去ったのですが、こちらにつながります直系のご子孫は、九州の方におられます。

 長次郎の妹・亀さんが養子を迎え、その曾孫にあたられます千頭さまと奥様が、肝付兼美さまと知り合われて、私のブログを読んでくださったとのこと。こちらから連絡させていただきました結果、千頭さまご夫妻は高知にお住まいで、ご夫婦で松山まで会いに来てくださいました。

 いや、ですね。
 ブログに書いた以上のことを、私が知るはずもありませんし、お話できることは限られておりますから、とりあえず『井上伯伝』をお貸ししまして、いま、手元にありません。
 電話やメールでも、幾度かやりとりをさせていただき、どうにもお話がすれちがう部分がありますのを感じまして、はたと気づきましたことは、いまさらなんですけれども、「私ってオタクなんだ!」ということです。

 千頭さまは、直系のご子孫が高知市民図書館に寄託なさった長次郎の遺品の管理を、任されていたりもなさるそうです。
 しかし、「龍馬伝」の放送まで、幕末そのものにはほとんど関心を持ってこられなかったそうなのですが、なにしろ、住んでおられるのが高知です。「龍馬伝」にまつわりまして、近藤長次郎は幾度か新聞などの記事になり、それが決して、好意的なものではなかったそうなのですね。
 
 なにより、ご夫妻が納得がいかれませんのは、「長次郎が自刃した原因は使い込み」といわれることだそうなのですが、「??? そんなことを書いている資料はないはず」です。
 ところが、ぐぐってみましたら、けっこうあるんですよねえ。そういうことを書いていますブログとかが。
 個人の方だけかと思いましたら、新聞でも書いていたりするみたいです。

 「涼やかな龍の眼差しを」というサイトさんの 坂本龍馬関連ニュース記事 「近藤長次郎碑建立を ひ孫ら寄付金募る 亀山社中の中心(読売新聞/2010年9月16日)ほか」に毎日新聞の記事が載せられていますが、次のような文章があります。

 長次郎は土佐藩(高知県)の饅頭(まんじゅう)商人の家に生まれたが、勝海舟に弟子入りして武士となり、龍馬とともに長崎に渡った。薩長同盟で主導的な役割を果たしたとされるが、英国渡航の直前に切腹。その死は謎が多い。亀山社中の公金を横領したともいわれるが、長崎史談会相談役の宮川雅一さん(76)は「そういう文献はない。薩摩も長州も長次郎のことを認めており『龍馬伝』ブームの今、正当に評価されるよう顕彰したい」。

 これはもう、長崎史談会相談役の宮川雅一さまという方がおっしゃる通りでして、「公金横領って、いったいどこから出た話なの???」と、不思議です。
 そこがオタクなのですが、私にとりましては、「史料にはまったく出てこない、いいかげんな回顧談や伝聞や伝説を、本当のことみたいに言い立てる方が馬鹿」なんです。
 とは言いますものの、わけもなくご先祖が「公金横領」だなどと言い立てられるのは、いやですよねえ。そのお気持ちはわかりますし、関係のない私でさえも、気分が悪くなります。

 私、つい最近、「坂本龍馬関係文書/藤陰略話」(Wikisource)を見まして、河田小龍が中村半次郎(桐野利秋)に長次郎の最後を聞いたのだと知りますまで、近藤長次郎に、それほど関心を持っていたわけではありません。
 ちゃんと調べるまで、私が長次郎さんに対して抱いていましたぼんやりとしたイメージといいますのは、「留学を志して夢がかないかけたのに、社中の仲間からねたまれて、切腹に追い込まれた不運な人」というようなものでして、横領などとは無縁です。

 なんでこんなイメージを抱いていたのだろう? と、つらつら考えてみましたところ、やはりこれは、乙女のころに読みました司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』の印象が鮮烈に残ったのではなかろうか、と思い当たりました。
 
竜馬がゆく〈6〉 (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 久しぶりにとばし読みしまして。
 中村半次郎が出てきておりましたのにびっくり。
 あんまり感じ悪く描かれてはいないのですが、もちろん嘘ばかり、です。
 小松帯刀が出てきましたのにも、ちょっとびっくり、です。
 小松に関しましては、嘘と言えるほどの嘘は、書かれておりません。

 近藤長次郎につきましては、六巻に突然出てきまして、それまで、まったく出てこないんですよねえ。
 いや、『竜馬がゆく』の「竜馬」につきましては私、いろは丸と大洲と龍馬 上「龍馬史」が描く坂本龍馬続・いろは丸と大洲と龍馬などで、「司馬さんの『竜馬がゆく』は嘘ばかりだけれど、娯楽に徹したフィクション、小説だから仕方がない」とこれまでにも、さんざん言ってまいりました。

 で、そのフィクションの中に、長次郎さんもはめこまれているわけですから、当然、嘘ばかり、ではあるんですけれども、司馬さんの場合、やっかいですのは、かなりちゃんと調べられたことが巧みにちりばめられておりまして、文章の非常な上手さも手伝い、登場人物が、驚くほどのリアリティを持ち、生き生きと動いているものですから、その印象が強烈に脳裏に焼きついてしまうことです。

 私の「留学を志して夢がかないかけたのに、土佐勤王党の仲間からねたまれて、切腹に追い込まれた不運な人」という長次郎さんのイメージも、やはり、『竜馬がゆく』によって形作られたものだったようです。
 最初にこの本を読みました当時、私は、幕末史をろくに知らず、そこそこは主人公の「竜馬」に感情移入して読んだのですが、私の性格が司馬さんが造形なさいました明るい「竜馬」とは、あまりにちがいすぎまして、「協調性がない」「仲間とともには仕事が出来ない」といいますような、司馬さんが「饅頭屋長次郎」を造形する上でついたマイナス方向への嘘に、私むしろ好感を抱きまして、長次郎の方に感情移入しちゃったようなんですね。
 「こんなことでねたまれるなんて、気の毒に。だから田舎者の集団はいやなのよ。長次郎さん、竜馬のもとになんかいないで、もっと早くから一人で留学する道をさがしてみればよかったのに」と感じ、その印象が長く尾を引いて残ったもののようです。

 それにいたしましても。
 司馬さんは、基本的に『維新土佐勤王史』(近デジにあります)を下敷きにされています。
 ユニオン号事件は龍馬が解決したことになっていまして「桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次諸 vol5」「高杉晋作とモンブラン伯爵」に書いておりますが、ユニオン号事件は長幕戦争の開幕直前まで解決しておりませんし、龍馬が解決したわけではありません)、長次郎は社中の隊規を破って、一人イギリスへ留学しようとしたことから、社中の仲間に迫られて自刃、ということになっております。

 しかし、「使い込んだ」とか、「社中の金を横領した」とかとは、まったく書かれておりませんで、いったい、どこから出た話なのでしょうか。
 もう一度叫びますが、そんなことを書いている文献は、どこにもありません!!!

 しかし、考えてみますと私、昔、『竜馬がゆく』で培いました長次郎のイメージ、「土着の強固な絆から浮き上がってしまった者の悲哀」は、一応、ちゃんと資料を読んでみました今も、ぬぐえないでいるみたいです。

 今回、「桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次諸 vol5」で書いておりますように、皆川真理子氏の論文により、薩摩藩士・野村宗七(盛秀)の日記が、リアルタイムで長次郎の死を記しておりますことを知りました。これによりますと、長次郎の死に直接かかわりましたのは、社中の中でも、沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助の三人です。

 長次郎の死の最大の要因は、やはり、薩長同盟におきまして、藩主父子から藩主父子への橋渡しという要に立ちながら、役目を果たせなかった、という自責なのでしょう。
 しかし、その死を野村に告げにきました三人は、亀山社中でも、土佐勤王党に属したメンバーで、長次郎とは肌合いがちがった、と思うんですね。
 自分たちの蒸気船乗り組みは保証されず、同じように活動しながら、長次郎のみがイギリスに遊学するとは許されない、という思いも、あるいはあったのではないんでしょうか。


 と、結論に書いたような次第でして、この「肌合いのちがい」が、お題につながるわけです。

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ワーナー・ホーム・ビデオ


Ryan's Daughter (1970) Trailer


 「ライアンの娘」は、「ドクトル・ジバゴ」と同じく、デビット・リーン監督の映画です。
 私、実は昔は大作映画嫌いでして、乙女のころに見ましたデビット・リーンの映画って、興行的には大失敗だったこの「ライアンの娘」のみでした。ヒットした映画ではありませんでしたから、リバイバル上映もなく、テレビ放映もなく、苦労して、どこかの小さな上映会で見たのだったと思います。
 
 この映画、「ドクトル・ジバゴ」と時代が重なっておりまして、第一次世界大戦の最中、アイルランドの話です。
 若く、美しいヒロインのロージーは、アイルランドの寒村で居酒屋を経営しますライアンの一人娘で、母親は早くに亡くなっていて、いません。
 村は全体に貧しく、村人の多くは教養とも洗練とも無縁でして、ロージーは、村の中では金持ちともいえますライアンの愛情を一心に浴びて育ち、服装も都会風で、浮き上がった存在です。
 確か冒頭、ロージーの白いレースの日傘が断崖に舞うんですが、ベルエポックの華やかな文化とは無縁のひなびた村で、ベルエポックを象徴しますような日傘が空に踊る光景は、印象的です。

 乙女のころの私は、自分で自分のことを、「協調性が無く、まわりに溶け込めない浮いた性格」と思い込んでいたところがありました。
 そんなわけでして、最初はロージーに感情移入して見ておりましたが、共感できたかと言いますと……、えー、私、昔から、うじうじごたごたしているのは大嫌いな性格でもありまして、途中から「あんた、なにしてるの! さっさと駆け落ちして、こんな村出て行きなさいよっ!」と怒鳴りたくなり、不倫の恋の行方よりも、ですね。アイルランド独立闘争の生の現実が、画面の中から飛び出して迫ってくるようでして、「ああ、人が生きていくって、こういうことなのよねえ」という感慨の方に、声を無くしました。

 ロージーは、一回りも年がちがいます村のやもめ教師に憧れ、結婚するんですけれども、すぐに失望し、満たされないものを抱えています。そこへ現れましたイギリス人将校ランドルフは、第一次世界大戦の戦場で、負傷し、神経を患い、アイルランドにまわされて来たんですね。リーズデイル卿とジャパニズム vol3 イートン校の最後に書いておりますが、第一次世界大戦は、イギリスにとりましても、本当に悲惨な戦いだったんです。
 ロージーとランドルフは惹かれあい、密かに逢瀬を重ねます。
 しかし、密会はいつしか知れ渡り、相手がイギリス人将校だったことも手伝って、ロージーは村中から白眼視されるようになります。

 そのとき、アイルランド独立闘争のため、ドイツからの援助(敵の敵は味方です。ドイツはロシアの反政府運動とともに、アイルランドの独立闘争も援助していました)の武器を積んだ船が、村の沖合に来るのですが、猛烈な嵐に見舞われ、村人は総出で、武器の荷揚げを手伝います。
 嵐の中、女子供も含めました村人たちが心を一つにして、独立闘争に燃えますこの場面が、なんとも感動的なのです。
 それだけに、密告によってランドルフが指揮するイギリス軍が出動し、独立運動の闘士が捕らえられましたとき、村人の密告者への怒りが爆発しますのは、当然のことと思える描き方ではあるのですけれども、しかしまたそれだけに、衝撃に呆然とする結末でもあります。

 密告者はライアンだったのです。
 しかし村人たちは、ランドルフと関係を持った娘のロージーの方が密告者だと決めつけ、リンチを……。
 
 なんといえばいいのでしょうか。
 独立闘争をささえます村人たちの紐帯は、非常に強固なものでして、それがあればこそ、危険も顧みず、嵐の中で無償の戦いに励むことができます。
 しかし、その紐帯の反面には、粗野な土着の排他性があり、異分子に容赦がないんです。
 そこに、自由はありません。

 幕末、土佐勤王党の戦いも、このアイルランドの村人たちの、独立闘争のようなものでは、なかったでしょうか。
 しかも、武市瑞山が死に、多くの犠牲を払い、坂本龍馬と中岡慎太郎も維新直前に逝き、生き延びた多くの郷士たちも、それほどに報われたわけではありません。
 司馬さんが書いていたのだと思うのですが、例えば田中光顕(青山伯)や土方久元のように、岩倉や三条など、公家出身の元勲に引き立ててもらい、宮内省を中心に集まった者たちが、わずかに生身で栄誉を得ただけです。

 長次郎は、この土佐勤王党の紐帯の外にいまして、あるいはそのことが、その死に関係したのではないだろうかと、そういう思いは、私の中でずっと続いています。

 今回、もう一度、近藤長次諸のことをこのお題で書いてみよう、と思いましたのは、千頭さまご夫妻だけではありませんで、幕末オタクではありません友人が、私が近藤長次諸のことを書いていると知ってブログを見てくれたのですが、「むつかしい!」という感想だったんです。
 い、い、い、いや……、むつかしいことを書いているつもりはないんですけれども、説明不足なんでしょうか、うーん。
 
 ともかく、まずは近藤長次郎の死の原因にお話をしぼりまして、大正元年に出版されました『維新土佐勤王史』に至るまで、どのように描かれてきたのか、変遷を追ってみたいと思います。
 お楽しみに(い、い、い、いや……、楽しいんでしょうか。また、むつかしいと言われたりしまして)。

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