郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

近藤長次郎とライアンの娘 vol2

2012年11月30日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol1の続きです。

 「ライアンの娘」はなぜ、興行的に成功しなかった(デビット・リーンの大作映画にしては、ですが)のでしょうか。
 私、それはおそらく、アイルランド独立運動の光と闇の、その闇の犠牲者として、ヒロインを描いたためではないのか、と思うんですね。
 ヒロインは夢を見すぎで、地に足の着かない感じがあり、一方、独立運動に献身します村の人々は、排他的で粗野にすぎます。どちらかに一方的に、感情移入して映画を見ることは、むつかしいんです。
 普通に一般受けする物語、と言いますのは、主人公に感情移入して見ることができるもの、なのではないんでしょうか。
 
 まだ、わからないことが多いのですけれども、私、「近藤長次郎使い込み伝説」も、「中村半次郎(桐野利秋)龍馬暗殺伝説」と同じく、戦後もごく最近になって、作られていったものではないのか、と思います。
 そしてこれらの馬鹿げた伝説は、どうも、龍馬に実像が霞むほどの強烈な光をあてて巨大化させました結果、その龍馬を引き立るための脇役を、事実をまげて作り上げ、闇に引きずり落とす必要があった結果、生まれてきたものと言えそうです。
 千頭さまの奥様も、「龍馬に光があてられる反面で、長次郎は石をくくりつけられて沈められている気がする」とおっしゃっておられまして、この奥様の感慨は、150年の時を超えて届いた、過去からの声そのもののように聞こえます。

 実は私、近デジに『維新土佐勤王史』があることをつい先日まで知らずにいまして、ようやくいま、読んだのですけれども、これには決して、龍馬がユニオン号事件を解決したなどとは書いていない!んです。かなり正確に、以下のようにあります。
 「桜島丸(ユニオン号)問題の葛藤は、土佐同志と長藩海軍局員との衝突となり、延きて薩長両藩直接の交渉談判となり、その間に幾多の波乱曲折あり、遂に翌年丙寅六月に至りて、始てその局を結ぶを得たるが、彼の上杉は土佐同志の攻撃を受け、まさに海外渡航の素志を達せんとして、空しく長崎に自尽するに至る」

 うへー、どびっくりです。
 「ユニオン号事件は龍馬が解決した!」といいますのは、司馬さんが「竜馬がゆく」で創作した伝説、だったんでしょうか。

竜馬がゆく (新装版) 文庫 全8巻 完結セット (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 さて、その『維新土佐勤王史』に行きつきますまでの「長次郎の死の原因」記述の歴史です。
 まずリアルタイムでは、「桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次諸 vol5」で書きました、薩摩藩士・野村宗七(盛秀)の日記(東大史料編纂所所蔵)です。皆川真理子氏の論文からの孫引きになりますが、再録します。慶応2年(1866年)1月23日、長崎における話です。

 野村のもとへ沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助が現れ、長次郎が「同盟中不承知之儀有之」自刃したと告げます。
 ちょうど、木戸が薩長同盟の条文をつづり、ユニオン号のこともどうぞよろしく頼むと、書いたその日です。


 つまり、近藤長次郎の死を見届けました沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助、社中の仲間にして土佐勤王党士の3人は、その日のうちに、長崎の薩摩藩士に、「同盟中不承知之儀有之」、つまり「薩長が同盟しようとしている中で、承知できないことがあったので」長次郎は自決したのだと、言っているわけですね。

 これが本当だったにしろ、嘘だったにしろ、です。
 薩摩藩士がそれを聞き、納得できる理由ではあったわけです。
 この知らせを、陸奥宗光が京都の小松帯刀に知らせ、西郷隆盛が桂久武に伝え、久武は「誠に遺憾の次第なり」と日記に書いております。

 長次郎が承知できませんでしたのはもちろん、長州が、長次郎と井上薫(聞多)がかわしました最初の約束を覆し、ユニオン号の乗組員をすべて長州人とし、長州が金を出すのだから長州海軍局で運用する、と言い出したことです。
 長州名義で船は買えませんから、名義は薩摩です。

 長崎県文化振興課のサイト「旅する長崎学」歴史探検コラム に、【長崎と坂本龍馬と船】その1 ワイルウェフ号の購入記録 というコーナーがありまして、以下のように書いております。

 安政の開港により、安政6年(1859)長崎・横浜・函館で貿易がはじまりました。輸出入品の取引は基本的には自由貿易でしたが、武器・艦船などの軍用品については例外規定がありました。日米修好通商条約の第3条には「軍用の諸物は日本政府の外へ売るへからす」とあり、日本政府(ここでは江戸幕府ということになります)を通してしか輸入できないきまりでした。この規定はアメリカ以外の諸国との条約にも盛り込まれています。そのため、長崎において各藩が外国商人から軍用品を購入しようとするときは、江戸幕府の出先機関である長崎奉行所を通してしか購入できませんでした。長崎での軍用品の取引については、安政6年以降、各藩が長崎奉行所に提出した購入願の綴りが残されています。

 つまり、朝敵となり、これから幕府が攻め寄せてくる、といいます窮地にいました長州は、他藩の名義を借りなければ、武器は購入できないわけです。
 それを見越しました坂本竜馬や中岡慎太郎たちが、薩摩が長州に名義貸しをし、両藩の協力関係が築かれますことで、こじれにこじれておりました両藩が手を携え、幕府に対抗する以外に、日本を生まれ変わらせる道はなく、自分たち(佐幕派の自藩で弾圧されていました土佐勤王党)にも立つ瀬はないと、両藩の間を取り持ち始めていたところでした。
 長次郎もその一環の流れの中で行動していたのですが、長州が軍艦を買うのに薩摩が名義を貸し、そのかわりに、その船には長次郎たち、薩摩の客分であります社中が乗り込み、戦がないときには薩摩の交易に従事する、ということで、長次郎が最初に約束をかわしました井上聞多は、承知しておりました。

 承知しなかったのは長州海軍局ですが、しかし軍艦は、薩摩藩が長崎奉行所に願い出て購入し、薩摩藩籍で動かすわけですから、武器とちがいまして、名義貸しの証拠が残ります。
 つまり、薩摩藩にも、明確に幕府と敵対する覚悟がいるわけでして、なんのためにそんな危ない橋を渡らなければならないのか、藩内に反対する勢力は大きく、これは私の憶測にすぎませんが、久光公を納得させますのは、至難の業だったと思います。

 このユニオン号事件に置きます龍馬の行動には、私、「事情がわかってないんじゃないの?」と、釈然としないものがあるのですが、それは、「井上伯伝」が返ってきましてから、もう一度、分析してみます。
 しかし、ただ言えますことは、長崎では幕府が見張っているわけですし、久光公や長崎の薩摩藩通商部現場だけではなく、売り主のグラバーも、龍馬のやり方で納得したはずがない、ということです。

 実は、ですね。
 このときの幕府とグラバーの言動を浮かび上がらせますと同時に、戦後、それもごく最近になりまして、「近藤長次郎使い込み伝説」を生んだ元凶になったかも、と思えます風説書があります。
 「近世庶民生活史料 藤岡屋日記14」です。

 これ、幕末に、神田の書店・藤岡屋の店主がつけていました風聞スクラップ集でして、この慶応2年10月、ですから、6月に始まりました幕長戦争(第二次征長)が長州の勝利の内に終わり、9月に停戦したところです。7月には、将軍家茂(和宮の夫)が大阪城で若くして逝去しています。
 ともかく、その慶応2年10月付けの、「長州形勢探索書」が載っているのだそうなのです。

 「藤岡屋日記」、近くの図書館にありません。本当は、必要部分のコピーでもを取り寄せるべきなのですが、ちょっと今すぐのことにはなりませんので、山本栄一郎氏の「真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実」から、孫引きさせていただきます。
 この方、山口県の幕末維新研究家でおられるそうで、文芸社の自費出版らしき本なのですが、ユニオン号事件の文献に詳しく、とても参考になります。
 ネットで、「藤岡屋日記」のこの記事をあつかっているサイトさんもあるのですが、解釈が当時の実情からあまりにもかけ離れ、奇妙ですので、避けました。

 (追記) うへーっ! 藤岡屋日記の14巻、県立図書館に入ってました。コピーしてきます。結果、まちがいがあれば訂正します。

真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実
山本 栄一郎
文芸社


 当正月、桜島丸(ユニオン号)、長州下関へ相越候節、同所より乗組参り候上杉庄次郎(上杉宗次郎は近藤長次郎の変名)、元勝麟太郎門人にして、当時長州騎兵隊頭ニ相成候者に侯ところ、英商ガラハより承り候には、先達って受取候船代之内、二千両、船中用意致し欠け、貸(借)くれ候様申し候に付、貸渡し置候ところ、いまだ返却これ無き由にて、右は庄次郎(宗次郎)より疾く返却致候儀と、船中一同承知居り候ところ、いまだに返却いたさず、右は同人取込みおり候儀共、乗組一同より糺問致し候ところ、右二千両押貸(借)の企てはもちろん、それ以前桜島丸を下関江へ差置き、米積入れ、長州人を右船ニ乗せ、薩方より乗組おり候者は残らず上陸いたさせ、右船にて英国へ罷り越すべく、庄次郎一己の巧の由、相顕れ候に付、罪状詰問、切腹致させ候事。

 以下の現代語訳といいますか、解釈は、私のものです。かなりいいかげんですことを、ご承知おきください。

今年の正月、薩摩の桜島丸(ユニオン号)が長州の下関へ行きましたとき、上杉庄次郎という名で、元は勝海舟の門人であり、そのときには長州奇兵隊の隊長になっていた者が、乗り込んできたのだそうです。イギリス商人グラバーのところへうかがったのですが、彼は、次のようなことを話してくれました。「上杉庄次郎、ですね。彼は、先に私が受け取った船代金のうちから、船を動かす経費として2千両が足らないので貸してくれというので、貸しましたところ、まだ返してくれてないんですよ。船の乗組員一同(薩摩方の人々)は、上杉さんが返すものと思っていましたのに、返しませんので、糾問しましたところ、実は上杉さんはその2千両を着服したばかりじゃありませんで、その前に桜島丸が下関へ寄りましたとき、米を積み入れて、長州人ばかりを船に乗せ、薩摩方から乗り組んだ者は全員おろして乗っ取り、桜島丸で長州人とイギリスへ行くつもりだったんですよ。これ、上杉さん一人のたくらみだったんだから、怖ろしいねえ。それが、薩摩方の人々にばれてしまいましてね、罪を問うて、切腹させたということですよ」

 藤岡屋が、この探索書をスクラップしましたのが10月で、実際のグラバーへの聞き込みは、いつ行われたのでしょうか。
 この慶応2年、4月には海外渡航が解禁されているんですよね。
 それ以降では、これ、いくらなんでも馬鹿馬鹿しすぎる話になるんじゃないでしょうか。
 「船をうばってイギリスへ~♪ Go West ~♪」

Go West - Pet Shop Boys - World´s Armys


 すみません。ガラバさんのあんまりな口からでまかせに、つい。
 聞き込みに行ったのは、長崎奉行所の下っ端役人でしょうか? 通訳つき?
 ガラバさんのこんなホラ話を聞いていて、吹き出してしまわなかったんでしょうか。

 近藤長次郎の死は、薩摩藩士の死として、長崎奉行所に届けられたものと思われます。
 しかし、ユニオン号にまつわる動きは派手でして、奉行所は目をつけていたんでしょうね。
 長次郎は薩摩藩士ではないと、奉行所にはわかっていたでしょう。
 奉行所の疑いはもちろん、長次郎の仲介で、グラバーが実は、ユニオン号を長州に売り渡そうとしているのではないか、ということです。

 えー、船の運用費用千両を、長次郎がグラバーから借りていましたことは、長次郎の聞多宛の手紙に書いております。
 幕府の役人の聞き込みに、グラバーがわざわざ倍額にして話すのもおかしな気がするのですが、なにしろ、伝聞の伝聞くらいの話になりますので、聞き間違いもあるでしょうし、これはあまり気にする必要がないと、私は思います。
 ともかくこのお金、グラバーとしましては、長次郎の後ろには薩摩藩がいると、わかっていますから貸したわけなのですが、実際に金を払うのは長州でして、船のあつかいが宙に浮き、長州が金を払おうとしませんことから、すべてを死んだ長次郎のせいにして、語っちゃったわけなんでしょう。
 に、しましても、おちょくってますよねえ、幕府を。

 つまり、ただただガラバさんが言いたいことは、「私は~♪、薩摩と取り引きしているだけ~♪ 死んだ上杉さんが長州方についた悪い人で、船を薩摩から奪って、長州のものにしようとしたの~♪」ということにつきると思います。

 神戸海軍操練所の土佐人には、長州よりの過激派が多く、その一人の望月亀弥太は、池田屋事件で死んでいますし、だいたい神戸海軍操練所が閉鎖に追い込まれましたのは、勝海舟が過激浪人を集めているという評判が立ったからでして、勝海舟の弟子の土佐人というだけで、幕府にとりましては怪しいんです。
 禁門の変におきましては、他藩人を集めました長州の忠勇隊は、中岡慎太郎が指揮しておりますし、長州の諸隊は、幕府にとりましてはみんな奇兵隊かもしれず、まあ、勝の弟子の過激土佐人が長州諸隊の隊長になっている、といいますのは、当時、十分にありえる話だったわけです。
 そして実際、結局のところ、ユニオン号には一部、社中の人間も乗り込みまして、なんとか間に合って、幕長戦争に参加したわけですし。
 
 さてしかし。
 なにしろこの話、「長州形勢探索書」でして、ガラバさんが語った相手は幕府の小役人なわけですから、当時、それほど世間にひろまっていたとは思えないのですが、どうなのでしょうか。
 藤岡屋日記が刊行されました現代になって、例えば龍馬が商社の元を作ったとか、わけのわからない説を唱えます、ろくに史料も読まず、まったく幕末を知らない人々が、この記事を曲解し、近藤長次郎使い込み伝説をこしらえあげたわけではないんでしょうか。

 次いで、山口県立文書館所蔵の「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」です。
 龍馬全集に収録されていまして、その解説には「旧公爵毛利家文庫所蔵のもの」とあります。そして解説では、著者不明となっていますが、山本栄一郎氏が「真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実」におきまして、明快に著者を解明されています。
 
 その論考の詳細ははぶきますが、著者は、在野の史家で、「七卿西竄始末」(近デジにあります)で知られます馬場文英です。私、知らなかったのですが、この「土藩坂本龍馬伝」、中原邦平が「井上伯伝」の主要参考文献として、使っているのだそうです。

 ところで馬場文英は、「土藩坂本龍馬伝」の元になりました史料を、文中で明らかにしてくれています。
 「この原書は、直柔(龍馬)が籍嗣小野淳輔(高松太郎、坂本直)が維新の際、官に上する所の直柔が履歴書」とあるんです。

 一方、霊山歴史館の木村幸比古氏は、「龍馬暗殺の真犯人は誰か」(p111)で、この毛利家文庫の「土藩坂本龍馬伝」には、「欄外に朱書したるは島津編輯員市来四郎氏の筆に係る、録して参照とす」(明治24年7月11日写本)とある、と書かれておりまして、ちょっと私、わけがわからなくなっております。

 馬場文英の書いたものを、市来四郎が写したってことなんでしょうか。
 それとも、「高松太郎が官に上する所の直柔が履歴書」を市来四郎が写し、それを馬場文英が下敷きに使った、ということなのでしょうか。
 どうも私、内容からいきまして、薩摩藩士だった市来四郎の筆が入っているように思いまして、龍馬の甥の高松太郎が、明治4年、朝命により龍馬の後を嗣ぎまして家を建てることとなった際、龍馬の履歴を書いて、明治新政府に提出しましたものに市来四郎が手を加え、さらにそれに馬場文英が手を加えたものが、毛利家文庫に残されているのではないか、と思います。

 えーと、まあ、ともかくです。
 馬場文英がこの伝記を書きましたのは、明治24年前後のことなのか、という感じですが、高松太郎が原書を書きましたのは、かなり早い時期、おそらくは明治4年前後、と思われるんですね。
 そして、そのころだったとしますと、政権中枢には、かなりの数、事件を知ります薩摩人がおります。
 高松太郎が新政府に提出しました原書が、近藤長次郎の死の原因に触れていたとしましたら、書いたものは、当然のことなのですが、自ら当日、薩摩藩長崎屋敷に届け出た「同盟中不承知之儀有之」を、大きくはずれるものでは、ありえないんですね。

 実際、次のような記述なのですが、文中に野村の名前まで出てきますことから、私は、市来四郎が調べられることは調べて、加筆したものではないのかと思うのです。
 あと、自刃の場面などの劇画のような描写は、馬場文英によるもののようでして、ちょっとありえないことも書いていますし、相当な脚色が見られます。

 原文は高松太郎によります龍馬の顕彰文なのですから、長次郎が「龍馬から、薩長連合のため、薩摩名義で長州の汽船を購入してはどうだろうか、と聞かされていて、自分にできるかぎりのことをした」と言った、としているのは、原文に忠実なのでしょう。
 しかし、長州海軍局の中島四郎が長次郎とともにユニオン号に乗って長崎に来て上陸し、「自分、中島四郎がユニオン号の船長である」旨の名刺を薩摩藩邸に届けた、というのは、やはり、馬場文英の脚色でしょう。
 薩摩藩邸では、当然、「金は長州が出しても、薩摩船籍の船だし、乗り組みは(薩摩に雇われた)社中でなければおかしい。長州の中島四郎が船長だなどと、最初の約束とちがうではないか!」と怒りの声がわきます。
 説明を求められた長次郎は、板挟みになって困り、「自分なりに、薩長連合の一助になればとしたことですが、このたびは長州の方でもいろいろ議論が起こりまして、中島四郎が乗船して来ることになり、いまだなんの説明もしないうちに、お屋敷に名刺を届けることになったのは私の不始末です」と言い、以下の引用のような事態になります。

「然りしかすれば一には定約状に違ひ、二には直柔(龍馬)よりかくの如き大事を委任せらるるを過ち、これよりしてまた両国の和約破談に至らば、いかにしてこれを謝せんや、これを謝するに道なし、身をもってその罪をあがなはんと。短刀を抜くより早く左の腹に立てる。薩吏これを見るやかつ驚きかつあわてて急に止めんとするに、はや重傷に弱りいわく、我不省といえども両国(薩長)和解の緒をひらきたるも、今不幸にしてその志を遂げず。衆庶ともになお尽力ありたくねがはんと。言果てずして右腹を切り回し斃れたり。このおりがら桜島丸(ユニオン号)帰り合せたるによって乗組の衆士等周旋し、薩邸の吏野村宗七へあい謀る。同氏も近藤が志を深く賞し、死体を懇に埋葬す。各野村が指図により、葬事まったく終われり。ああ惜しむべき壮士にこそ」

 基本的に「同盟中不承知之儀有之」からはずれてはいないのですが、具体的な状況は、野村の日記の記述とだいぶんちがってきます。
 市来四郎の加筆だけでしたらこうはならなかったと、私、思うのですね。
 馬場文英は、京都の農家の子に生まれ、筑前福岡藩御用達の商家の養子となり、長州よりの心情を持っていたようでして、慶応元年には、著作が幕府の禁に触れ、入獄しているのだそうです。
 まあ、ですね、この後に続けまして馬場文英は次のように注記していまして、原本を読みましても、事情がよく呑み込めなかったんでしょうね。

 総てこの原書は直柔(龍馬)が籍嗣小野淳輔(高松太郎)が維新の際、官に上する所の直柔が履歴書なれば、その実事確書なるは論をまつべきにあらずといえども、時事の年月日においてはその時々に日記したるものにあらざれば、事の前後あり、かつは年月日のちがひままあり。よって錯雑のところ多し。

 次回はいよいよ、明治16年に出版されました坂崎紫瀾の「汗血千里駒 」です。

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コメント (2)
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