珍大河『花燃ゆ』と史実◆30回「お世継ぎ騒動!」の続きです。
最初に、来る9月19日(土)、京都で幕末祭がありまして、翌20日、同志社大学で行われます「幕末本気トークライブ」に文(美和)さん研究家(笑)でおられます山本栄一郎氏が出演されるそうです。私はどうも、行けそうもないのですが、関西方面にお住まいの方は、どうぞ、お出かけください。
まずは簡単に感想を。
このドラマ、脚本家が複数います。いまのところ3人ですが、手がけた回数の多さから順に並べますと、大島里美氏、宮村優子氏、金子ありさ氏。
このうち宮村優子氏のみは時代劇の経験があるみたいなんですが、大河は、例えば捕物帖系の話のように一話一話それなりに完結するものではないですし、はっきり申しまして、私には、ほとんどどの回が誰なのか、区別がつかないひどさです。
しかし、ただ、一番回数の少ない金子ありさ氏の回が、なぜかけっこう、目立って調子外れに拍車がかかってくるような気がします。
今回の「命がけの伝言」、金子ありさ氏、3度目の脚本です。
いえね。すでにこの異次元RPGに、幕末の歴史のリアルさは、まったく期待していません私。
その上で、なにがひどいって、主人公の恋愛感情にまったく共感できないこと、だと思うんですね。
本物の美和(文)さんは、最晩年にいたるまで、久坂からもらった手紙を読み返し読み返し、すっかりそらんじていたと、家族が語り残しているほどでして、若くして逝ってしまった夫の姿は、いつまでも美しく、彼女の胸にとどまり続けたわけなんですね。
ところが制作統括の某氏は、最初から文がスカーレット・オハラで、小田村がレッド・バトラー。ヒロインが、初恋の人と一度は別れるが、やはり愛していたと気づいて再婚する話。という、?????とあきれるばかりの構想を、講演で述べておられたようでして、まったくもって脚本家さんの責任ではなさそうなんですが、理解に苦しむだけの話になっちまっているんです。
だいたいそもそも、スカーレットの初恋はレッドではなくアシュレー・ウィルクスで、10代で男を虜にする術を身につけた我の強いスカーレットと、地味な家庭に育って「不美人」伝説を持つ文さんは似ても似つかず、レッドと小田村も共通点といえば世の中の変動で成金になったことだけですし、幕末で和風「風と共に去りぬ」(アメリカの南北戦争は幕末と同時代なので、思いつき自体が悪いわけではないのですが)をめざすんでしたら、無理矢理、不自然なはめこみをしないで、架空のヒロイン、ヒーローでやればよかったんです。
幕末を舞台にしました大河は、「三姉妹」「獅子の時代」と、架空の主人公のものが、すでに複数あったりします。
例えば、架空の江戸詰長州藩士の娘をヒロインにして、銀姫さまが9歳で本藩養女になったときからお側女中で上がっていて、文久の銀姫さまお国入りで生まれて初めて長州へ行き、しかし家族は江戸詰のままだった、というような設定ですと、江戸の長州藩邸内にいました姉小路なぞも登場させ、本物の江戸城大奥も描けますし、なにしろ生まれ育ったのは江戸ですから、ヒロインの初恋の人は幕臣だったけれど最初の結婚は長州藩士、とすれば、「大奥」もまともに描けますし、相当に劇的な少女漫画風展開も可能だったはずなんですけれど、ねえ。
まあ、そういうわけですから、かならずしも脚本家さんの責任ではないと思うのですが、今回、なにが気持ちが悪かったって、姉の寿さんが「夫(小田村)を助けて」と妹に土下座するところと、えらく場違いに美和さんが小田村の命乞いをし、「大事なお人なのであろう?」と聞く銀姫さまに、悪びれることもなく「私の初恋の人にございます」と答える場面です。
いや、だから。なんで世子夫人の下っ端女中でしかない妹に姉が土下座??? しかも、仕える主人に姉の夫を指して妹が「初恋の人」???
いくらなんでもあんまりすぎる、調子外れの展開でした。
で、本論です。
一坂太郎氏の「高杉晋作」(文春新書)は、10年あまり前に出版されているのですが、私、持っていながら、ろくに読んでいなかったようなのですね。
一坂氏は、赤禰武人の書簡によって、一般的に世間に定着しています「一人先見の明を持って藩内俗論党打破に決起した高杉晋作」という像に、疑問を呈していました。
これまでに高橋秀直氏の「幕末維新の政治と天皇」を主な参考文献に、書いてきましたことをまとめますと、以下のようです。
●三家老・四参謀の処分は、長州藩「正義党」政権がすでに決定していた。
●「正義党」政権中枢全員を罷免して「俗論党」が政権を握ったが、逃亡した高杉をのぞく「正義党」は拘束されたとみられる。(ただし野山獄に入れられたわけではない)
●征長軍参謀・西郷隆盛が「三家老・四参謀の処分」を求めたのは攻撃猶予の条件で、早急に果たされた。
●次いで解兵のための条件が出されたが、三条実美以下五卿の差し出し以外の要件は、簡単に満たせるものだった。
これまでに書いてまいりましたが、なぜ元治元年10月のはじめまで、いわゆる「俗論党」が政権をとれなかったかと言いますと、奇兵隊をはじめとします諸隊が「正義党」を支持していたからです。
そもそも、長州正規軍がまったく機能しないということは、攘夷戦においても禁門の変においても証明済みでして、およそ750名と、諸隊の人数は少なくとも、征長軍が迫っていましたからこそ、これを無視することはできなかったわけでした。
藩主そうせい侯を手中にしました「俗論党」政権は、一応、10月21日に諸隊の解散令を出していたのですが、そんなものに実効性のあろうはずもありません。なにしろ「俗論党」には、ろくに武力がありませんで、「正義党」の井上聞多にしかけたように、個々の暗殺を狙うのがせいいっぱいだったんです。
藩主を萩に連れ去られた諸隊は、11月4日、西郷が岩国を訪れたと同じ日に山口へ入って、「俗論党」政権に圧力をかけようとしていたのですが、前回書きましたように、11月15日、山口を出て、湯田温泉にいた五卿を奉じ、17日、長府に入りました。
五卿とは、8月18日の政変で都を追われ、長州に身をよせました七卿から、病死しました錦小路頼徳と、生野の変に参加し、潜伏していました澤宣嘉をのぞき、残った尊攘過派の公卿です。
もともと、諸隊のうちの遊撃隊には、五卿について長州へ来ました他藩士も多かったですし、奇兵隊は攘夷のためにできた規格外の有志隊で、幕藩体制からははずれた存在でした。したがいまして諸隊にとりましては、長州藩主が「俗論党」のもとにあるなら、五卿を奉じることが、自然な成り行きではあったんです。
高杉晋作が亡命していました筑前から帰ってきましたのは、11月25日です。
そして、功山寺挙兵が12月15日夜。
その間、五卿を預かることになりました筑前藩から長州への働きかけがあり、その五卿の警護には薩摩藩が中心的役割を果たすことになっていましたので、総督府参謀の西郷隆盛が動き、筑前の尊攘派(いわば「正義党」)、月形洗蔵と早川養敬も、西郷隆盛の要請で、五卿&諸隊の説得に動きます。
高杉晋作の亡命は、筑前出身で長州に身をよせていました中村円太の案内によるものでした。
幕府の長州征長に批判的な九州諸藩に呼びかけて、長州の味方をしてもらおう、という円太の提案に、高杉が乗ってのことでしたから、当然なのですが円太は、筑前に潜伏する高杉を、月形、早川に会わせています。
しかも、諸隊説得のため下関に渡った月形、早川の元へ、12月2日、五卿のもとにいました中岡慎太郎が現れ、早川の従僕ということにしてもらった慎太郎は、小倉にいた西郷に会い、真意をただしています。
とすれば、中村円太、月形、早川、中岡慎太郎と、これだけ顔ぶれがそろえば、高杉晋作は、挙兵前に西郷に会っていたのではないか?と、普通、思います。ところが、これには否定的意見が多いんですね。
それにつきましては、基本的な文献であります「防長回天史」が、否定していることが大きいと思います。
12月11日夜、西郷隆盛は、吉井幸輔、税所篤を供に下関に渡り、諸隊の隊長など4、5人に会ったと、西郷の小松帯刀宛の書簡にあるのですが、同席した税所篤が高杉晋作はそこにいなかったと証言していまして、「防長回天史」は「西郷が会った諸隊の隊長は、当時、奇兵隊総督だった赤禰武人ではないだろうか」と推論しているんですね。
実は、ですね。ただ一人、早川養敬は「高杉と西郷は会った」と証言しているんです。
早川養敬には「落葉の錦」という手記があるんですが、「会った説」はすべて、これを元ネタにしています。しかし活字化されていないのか、容易に手に入りませんで、私、山本氏にお願いしてはいるのですが、まだ、見ていません。
ところが、手持ちの本の中で、中岡慎太郎全集の年譜のみは、「会った説」を確定的に記載していまして、「なぜだろう?」と目次に見入りますうち、なんと!、早川養敬の史談会速記録が収録されていることに、気づきました。
結論からいきますと、やはり西郷と高杉は会っていた可能性が高いのでは?と、私は思います。
その詳細を述べます前に、高橋秀直氏の「幕末維新の政治と天皇」には、以下のような記述があります。
高杉はその挙兵の論理を正月二日、討奸檄という檄文で示した。そこで述べられている「俗論党」政権の非は何よりも征長軍への恭順方針であり、具体的には1.山口城破却、2.三家老・四参謀の処刑、3.「敵兵を御城下に誘引」、4.親敬父子への処分の容認であった。しかしこれは無理な非難である。そもそも征長軍への恭順は高杉もその一員であった「正義党」政権段階で決定されていたものであり、1の山口城破却は形式に留まり、2、4の受け入れはその段階で覚悟していたものであった。そして、3も征長軍の使節が山口を訪れただけであり、征長軍の乗り込みや藩主が軍門に下るといった屈辱的な儀式は行われていなかった。つまり、絶対的恭順論にたつ「俗論党」の恭順といっても、もし「正義党」政権が存続していればやったであろうことにすぎなかったのであり、ここの高杉の非難は多分にためにする議論なのであった。
さらに高橋氏は、脚注において、これまで一般的でした、さっそうとした高杉晋作像が壊れかねないことを、述べておられます。
平和的に要求が実現する可能性があったのに高杉はなぜあえて決起したのだろうか。彼が決起の趣旨を説明した討奸檄がためにする議論であり、説得姓をもたないことはすでに述べた。そして、ここで決起すれば、現在拘束中の前田(孫右衛門)ら「正義党」幹部の生命が危険にさらされるのは高杉の予想できることであったろう。それなのになぜ彼がここで挙兵したのだろうか。この挙兵は高杉の生涯のいわばハイライトであるが、その動機について今後なお検討する必要があるだろう。
高橋氏が述べておられますところの、平和的に要求が実現する可能性とは、「正義党」の政権復帰でして、これは、奇兵隊総督赤禰武人などを中心に、進められてきていたことなのですが、五卿の九州移転問題の中で、五卿の側から「移転の条件」としてその話が持ち出されるなど、平和裏に「俗論党」「正義党」連立政権が樹立される可能性は、高くなってきておりました。
一坂太郎氏は「高杉晋作」において、慶応元年の3月に、赤禰武人が故郷の叔父と養母に書いた手紙の一部を引用しています。赤字、下手な現代語訳は私です。
諸隊いよいよ沈静つかまつり候ところ、高杉晋作一手遊撃隊わたくしの議論ききわけ申さず、下関新地の一暴挙(いわゆる功山寺挙兵)いたし候てより、萩俗論家共たちまち約束にそむき、こころなくも前田已(以)下有志の人々をさんりくいたし残念の至り、なげかわしき事にござ候。
萩「俗論党」政府との調停が進み、諸隊もようやく静かになろうとしていましたところが、高杉晋作と遊撃隊の一手のみが私の意見を聞かず、挙兵して新地の藩会所を襲撃してしまいました。萩の「俗論党」たちは、たちまち約束に背き、心なくも前田孫右衛門以下七名(山田亦介、松島剛蔵を含む)の「正義党」幹部の方々を、惨殺してしまい、残念でなりません。なげかわしいことです。
青山忠正氏の「高杉晋作と奇兵隊」は、今回、初めて読ませていただいたのですが、明治以来、形作られてきました高杉晋作英雄伝説の中から実像を探り出しました、画期的な伝記で、今の今までこれを知らなかったことが悔やまれます。
プロローグにおいて、青山氏は、「私の見るところ、高杉晋作とは、プライドの高い、しかも向こう見ずのおっちょこちょいに近い人物だったようだ」 と書いておられまして、これは、私が晋作さんに感じていましたかわいらしさ、愛嬌そのもの、なんです。
古い記事ですが、高杉晋作 長府紀行のコメント欄に書いております、これ。
面白きこともなき世を面白く 住みなす心得「男は愛嬌」
さて、青山氏もまた、前田以下「正義党」幹部七人の斬首、続く、小田村以下三人の入牢、元家老・清水清太郎の切腹、について、以下のように書いています。
この時点で彼らを処刑また投獄しなければならない理由は他にない。すなわち、彼らが萩において、晋作側と呼応することを、椋梨党(「俗論党」)が警戒したためである。半ば疑心暗鬼の所産だが、振り返ってみれば、前年九月坪井党(「俗論党」)が弾圧されたとき、「高杉が坪井九右衛門などに腹を切らせた」(伊藤博文談話)とすれば、晋作は椋梨党から見て不倶戴天の仇だった。晋作の挙動が不穏であれば、その党類も根絶やしにしておく必要があると思われたのだろう。
あまり一般に知られていませんが、実は8.18政変の直後にいわば「俗論党」がクーデターを起こし、「正義党」中枢の毛利登人、前田孫右衛門、周布政之助を罷免したことがあったんですね。しかし、京都に出していました軍勢二千人が帰国し、10日間で状況は一変します。主に高杉の活躍により、「正義党」中枢は返り咲き、続いて、高杉、久坂などが政務役に抜擢されるのですが、同時に、「俗論党」首領格の坪井九右衛門は切腹、椋梨以下4人が隠居、他数名遠流、永流になっていまして、青山氏いわく、禁門の変から下関戦争を経たのちの内乱の過程では、血みどろの党派抗争が繰り広げられるのだが、その直接のきっかけは、八月政変後の「俗論沸騰」と麻田(周布)党(「正義党」)側の反撃にあったのである、ということなんですね。
とすれば、いったい高杉は、なにを考えて挙兵したのか、という謎は深まるばかりでして、私は、あるいは高杉は計算違いをしてしまったのではないのか、そして、それはむしろ、高杉が西郷と会っていたからではないのか、と思いついたのですが、長くなりましたので、次回に続きます。
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最初に、来る9月19日(土)、京都で幕末祭がありまして、翌20日、同志社大学で行われます「幕末本気トークライブ」に文(美和)さん研究家(笑)でおられます山本栄一郎氏が出演されるそうです。私はどうも、行けそうもないのですが、関西方面にお住まいの方は、どうぞ、お出かけください。
花燃ゆ 後編 (NHK大河ドラマ・ストーリー) | |
クリエーター情報なし | |
NHK出版 |
まずは簡単に感想を。
このドラマ、脚本家が複数います。いまのところ3人ですが、手がけた回数の多さから順に並べますと、大島里美氏、宮村優子氏、金子ありさ氏。
このうち宮村優子氏のみは時代劇の経験があるみたいなんですが、大河は、例えば捕物帖系の話のように一話一話それなりに完結するものではないですし、はっきり申しまして、私には、ほとんどどの回が誰なのか、区別がつかないひどさです。
しかし、ただ、一番回数の少ない金子ありさ氏の回が、なぜかけっこう、目立って調子外れに拍車がかかってくるような気がします。
今回の「命がけの伝言」、金子ありさ氏、3度目の脚本です。
いえね。すでにこの異次元RPGに、幕末の歴史のリアルさは、まったく期待していません私。
その上で、なにがひどいって、主人公の恋愛感情にまったく共感できないこと、だと思うんですね。
本物の美和(文)さんは、最晩年にいたるまで、久坂からもらった手紙を読み返し読み返し、すっかりそらんじていたと、家族が語り残しているほどでして、若くして逝ってしまった夫の姿は、いつまでも美しく、彼女の胸にとどまり続けたわけなんですね。
ところが制作統括の某氏は、最初から文がスカーレット・オハラで、小田村がレッド・バトラー。ヒロインが、初恋の人と一度は別れるが、やはり愛していたと気づいて再婚する話。という、?????とあきれるばかりの構想を、講演で述べておられたようでして、まったくもって脚本家さんの責任ではなさそうなんですが、理解に苦しむだけの話になっちまっているんです。
だいたいそもそも、スカーレットの初恋はレッドではなくアシュレー・ウィルクスで、10代で男を虜にする術を身につけた我の強いスカーレットと、地味な家庭に育って「不美人」伝説を持つ文さんは似ても似つかず、レッドと小田村も共通点といえば世の中の変動で成金になったことだけですし、幕末で和風「風と共に去りぬ」(アメリカの南北戦争は幕末と同時代なので、思いつき自体が悪いわけではないのですが)をめざすんでしたら、無理矢理、不自然なはめこみをしないで、架空のヒロイン、ヒーローでやればよかったんです。
幕末を舞台にしました大河は、「三姉妹」「獅子の時代」と、架空の主人公のものが、すでに複数あったりします。
例えば、架空の江戸詰長州藩士の娘をヒロインにして、銀姫さまが9歳で本藩養女になったときからお側女中で上がっていて、文久の銀姫さまお国入りで生まれて初めて長州へ行き、しかし家族は江戸詰のままだった、というような設定ですと、江戸の長州藩邸内にいました姉小路なぞも登場させ、本物の江戸城大奥も描けますし、なにしろ生まれ育ったのは江戸ですから、ヒロインの初恋の人は幕臣だったけれど最初の結婚は長州藩士、とすれば、「大奥」もまともに描けますし、相当に劇的な少女漫画風展開も可能だったはずなんですけれど、ねえ。
まあ、そういうわけですから、かならずしも脚本家さんの責任ではないと思うのですが、今回、なにが気持ちが悪かったって、姉の寿さんが「夫(小田村)を助けて」と妹に土下座するところと、えらく場違いに美和さんが小田村の命乞いをし、「大事なお人なのであろう?」と聞く銀姫さまに、悪びれることもなく「私の初恋の人にございます」と答える場面です。
いや、だから。なんで世子夫人の下っ端女中でしかない妹に姉が土下座??? しかも、仕える主人に姉の夫を指して妹が「初恋の人」???
いくらなんでもあんまりすぎる、調子外れの展開でした。
で、本論です。
高杉晋作 (文春新書) | |
一坂 太郎 | |
文藝春秋 |
幕末維新の政治と天皇 | |
クリエーター情報なし | |
吉川弘文館 |
一坂太郎氏の「高杉晋作」(文春新書)は、10年あまり前に出版されているのですが、私、持っていながら、ろくに読んでいなかったようなのですね。
一坂氏は、赤禰武人の書簡によって、一般的に世間に定着しています「一人先見の明を持って藩内俗論党打破に決起した高杉晋作」という像に、疑問を呈していました。
これまでに高橋秀直氏の「幕末維新の政治と天皇」を主な参考文献に、書いてきましたことをまとめますと、以下のようです。
●三家老・四参謀の処分は、長州藩「正義党」政権がすでに決定していた。
●「正義党」政権中枢全員を罷免して「俗論党」が政権を握ったが、逃亡した高杉をのぞく「正義党」は拘束されたとみられる。(ただし野山獄に入れられたわけではない)
●征長軍参謀・西郷隆盛が「三家老・四参謀の処分」を求めたのは攻撃猶予の条件で、早急に果たされた。
●次いで解兵のための条件が出されたが、三条実美以下五卿の差し出し以外の要件は、簡単に満たせるものだった。
これまでに書いてまいりましたが、なぜ元治元年10月のはじめまで、いわゆる「俗論党」が政権をとれなかったかと言いますと、奇兵隊をはじめとします諸隊が「正義党」を支持していたからです。
そもそも、長州正規軍がまったく機能しないということは、攘夷戦においても禁門の変においても証明済みでして、およそ750名と、諸隊の人数は少なくとも、征長軍が迫っていましたからこそ、これを無視することはできなかったわけでした。
藩主そうせい侯を手中にしました「俗論党」政権は、一応、10月21日に諸隊の解散令を出していたのですが、そんなものに実効性のあろうはずもありません。なにしろ「俗論党」には、ろくに武力がありませんで、「正義党」の井上聞多にしかけたように、個々の暗殺を狙うのがせいいっぱいだったんです。
藩主を萩に連れ去られた諸隊は、11月4日、西郷が岩国を訪れたと同じ日に山口へ入って、「俗論党」政権に圧力をかけようとしていたのですが、前回書きましたように、11月15日、山口を出て、湯田温泉にいた五卿を奉じ、17日、長府に入りました。
五卿とは、8月18日の政変で都を追われ、長州に身をよせました七卿から、病死しました錦小路頼徳と、生野の変に参加し、潜伏していました澤宣嘉をのぞき、残った尊攘過派の公卿です。
もともと、諸隊のうちの遊撃隊には、五卿について長州へ来ました他藩士も多かったですし、奇兵隊は攘夷のためにできた規格外の有志隊で、幕藩体制からははずれた存在でした。したがいまして諸隊にとりましては、長州藩主が「俗論党」のもとにあるなら、五卿を奉じることが、自然な成り行きではあったんです。
高杉晋作が亡命していました筑前から帰ってきましたのは、11月25日です。
そして、功山寺挙兵が12月15日夜。
その間、五卿を預かることになりました筑前藩から長州への働きかけがあり、その五卿の警護には薩摩藩が中心的役割を果たすことになっていましたので、総督府参謀の西郷隆盛が動き、筑前の尊攘派(いわば「正義党」)、月形洗蔵と早川養敬も、西郷隆盛の要請で、五卿&諸隊の説得に動きます。
高杉晋作の亡命は、筑前出身で長州に身をよせていました中村円太の案内によるものでした。
幕府の長州征長に批判的な九州諸藩に呼びかけて、長州の味方をしてもらおう、という円太の提案に、高杉が乗ってのことでしたから、当然なのですが円太は、筑前に潜伏する高杉を、月形、早川に会わせています。
しかも、諸隊説得のため下関に渡った月形、早川の元へ、12月2日、五卿のもとにいました中岡慎太郎が現れ、早川の従僕ということにしてもらった慎太郎は、小倉にいた西郷に会い、真意をただしています。
とすれば、中村円太、月形、早川、中岡慎太郎と、これだけ顔ぶれがそろえば、高杉晋作は、挙兵前に西郷に会っていたのではないか?と、普通、思います。ところが、これには否定的意見が多いんですね。
それにつきましては、基本的な文献であります「防長回天史」が、否定していることが大きいと思います。
12月11日夜、西郷隆盛は、吉井幸輔、税所篤を供に下関に渡り、諸隊の隊長など4、5人に会ったと、西郷の小松帯刀宛の書簡にあるのですが、同席した税所篤が高杉晋作はそこにいなかったと証言していまして、「防長回天史」は「西郷が会った諸隊の隊長は、当時、奇兵隊総督だった赤禰武人ではないだろうか」と推論しているんですね。
実は、ですね。ただ一人、早川養敬は「高杉と西郷は会った」と証言しているんです。
早川養敬には「落葉の錦」という手記があるんですが、「会った説」はすべて、これを元ネタにしています。しかし活字化されていないのか、容易に手に入りませんで、私、山本氏にお願いしてはいるのですが、まだ、見ていません。
ところが、手持ちの本の中で、中岡慎太郎全集の年譜のみは、「会った説」を確定的に記載していまして、「なぜだろう?」と目次に見入りますうち、なんと!、早川養敬の史談会速記録が収録されていることに、気づきました。
結論からいきますと、やはり西郷と高杉は会っていた可能性が高いのでは?と、私は思います。
その詳細を述べます前に、高橋秀直氏の「幕末維新の政治と天皇」には、以下のような記述があります。
高杉はその挙兵の論理を正月二日、討奸檄という檄文で示した。そこで述べられている「俗論党」政権の非は何よりも征長軍への恭順方針であり、具体的には1.山口城破却、2.三家老・四参謀の処刑、3.「敵兵を御城下に誘引」、4.親敬父子への処分の容認であった。しかしこれは無理な非難である。そもそも征長軍への恭順は高杉もその一員であった「正義党」政権段階で決定されていたものであり、1の山口城破却は形式に留まり、2、4の受け入れはその段階で覚悟していたものであった。そして、3も征長軍の使節が山口を訪れただけであり、征長軍の乗り込みや藩主が軍門に下るといった屈辱的な儀式は行われていなかった。つまり、絶対的恭順論にたつ「俗論党」の恭順といっても、もし「正義党」政権が存続していればやったであろうことにすぎなかったのであり、ここの高杉の非難は多分にためにする議論なのであった。
さらに高橋氏は、脚注において、これまで一般的でした、さっそうとした高杉晋作像が壊れかねないことを、述べておられます。
平和的に要求が実現する可能性があったのに高杉はなぜあえて決起したのだろうか。彼が決起の趣旨を説明した討奸檄がためにする議論であり、説得姓をもたないことはすでに述べた。そして、ここで決起すれば、現在拘束中の前田(孫右衛門)ら「正義党」幹部の生命が危険にさらされるのは高杉の予想できることであったろう。それなのになぜ彼がここで挙兵したのだろうか。この挙兵は高杉の生涯のいわばハイライトであるが、その動機について今後なお検討する必要があるだろう。
高橋氏が述べておられますところの、平和的に要求が実現する可能性とは、「正義党」の政権復帰でして、これは、奇兵隊総督赤禰武人などを中心に、進められてきていたことなのですが、五卿の九州移転問題の中で、五卿の側から「移転の条件」としてその話が持ち出されるなど、平和裏に「俗論党」「正義党」連立政権が樹立される可能性は、高くなってきておりました。
一坂太郎氏は「高杉晋作」において、慶応元年の3月に、赤禰武人が故郷の叔父と養母に書いた手紙の一部を引用しています。赤字、下手な現代語訳は私です。
諸隊いよいよ沈静つかまつり候ところ、高杉晋作一手遊撃隊わたくしの議論ききわけ申さず、下関新地の一暴挙(いわゆる功山寺挙兵)いたし候てより、萩俗論家共たちまち約束にそむき、こころなくも前田已(以)下有志の人々をさんりくいたし残念の至り、なげかわしき事にござ候。
萩「俗論党」政府との調停が進み、諸隊もようやく静かになろうとしていましたところが、高杉晋作と遊撃隊の一手のみが私の意見を聞かず、挙兵して新地の藩会所を襲撃してしまいました。萩の「俗論党」たちは、たちまち約束に背き、心なくも前田孫右衛門以下七名(山田亦介、松島剛蔵を含む)の「正義党」幹部の方々を、惨殺してしまい、残念でなりません。なげかわしいことです。
高杉晋作と奇兵隊 (幕末維新の個性 7) | |
青山 忠正 | |
吉川弘文館 |
青山忠正氏の「高杉晋作と奇兵隊」は、今回、初めて読ませていただいたのですが、明治以来、形作られてきました高杉晋作英雄伝説の中から実像を探り出しました、画期的な伝記で、今の今までこれを知らなかったことが悔やまれます。
プロローグにおいて、青山氏は、「私の見るところ、高杉晋作とは、プライドの高い、しかも向こう見ずのおっちょこちょいに近い人物だったようだ」 と書いておられまして、これは、私が晋作さんに感じていましたかわいらしさ、愛嬌そのもの、なんです。
古い記事ですが、高杉晋作 長府紀行のコメント欄に書いております、これ。
面白きこともなき世を面白く 住みなす心得「男は愛嬌」
さて、青山氏もまた、前田以下「正義党」幹部七人の斬首、続く、小田村以下三人の入牢、元家老・清水清太郎の切腹、について、以下のように書いています。
この時点で彼らを処刑また投獄しなければならない理由は他にない。すなわち、彼らが萩において、晋作側と呼応することを、椋梨党(「俗論党」)が警戒したためである。半ば疑心暗鬼の所産だが、振り返ってみれば、前年九月坪井党(「俗論党」)が弾圧されたとき、「高杉が坪井九右衛門などに腹を切らせた」(伊藤博文談話)とすれば、晋作は椋梨党から見て不倶戴天の仇だった。晋作の挙動が不穏であれば、その党類も根絶やしにしておく必要があると思われたのだろう。
あまり一般に知られていませんが、実は8.18政変の直後にいわば「俗論党」がクーデターを起こし、「正義党」中枢の毛利登人、前田孫右衛門、周布政之助を罷免したことがあったんですね。しかし、京都に出していました軍勢二千人が帰国し、10日間で状況は一変します。主に高杉の活躍により、「正義党」中枢は返り咲き、続いて、高杉、久坂などが政務役に抜擢されるのですが、同時に、「俗論党」首領格の坪井九右衛門は切腹、椋梨以下4人が隠居、他数名遠流、永流になっていまして、青山氏いわく、禁門の変から下関戦争を経たのちの内乱の過程では、血みどろの党派抗争が繰り広げられるのだが、その直接のきっかけは、八月政変後の「俗論沸騰」と麻田(周布)党(「正義党」)側の反撃にあったのである、ということなんですね。
とすれば、いったい高杉は、なにを考えて挙兵したのか、という謎は深まるばかりでして、私は、あるいは高杉は計算違いをしてしまったのではないのか、そして、それはむしろ、高杉が西郷と会っていたからではないのか、と思いついたのですが、長くなりましたので、次回に続きます。
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