郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

珍大河『花燃ゆ33』と史実◆高杉晋作挙兵と明暗

2015年08月22日 | 大河「花燃ゆ」と史実
 珍大河『花燃ゆ32』と史実◆高杉晋作伝説の虚実の続きです。
 
花燃ゆ メインテーマ
クリエーター情報なし
VAP


 なんだか、文句を叫ぶのにもあきてまいりました昨今ですが、一つだけ、叫びます。
 傅役(守り役)って、主には女じゃないから!!! まずは藩士。興丸の傅役の一人は、高杉のおやじです。
 ついでに言いますと、銀姫の守り役は、乃木希典の父親で、乃木家は玉木家の本家で、杉家と親戚です。私は、その縁で、文(美和)が奥勤めに上がったものと推測しています。

 

 久坂美和の奥勤めの史料はちゃんと残っていまして、山本栄一郎氏が「女儀日記」や「中正公伝」を探索して、調べておいでです。
 山本氏の「吉田松陰の妹・文(美和)」によりますと、慶応元年(1865)9月25日に銀姫付きのお次女中として召し出されているんですね。
 もちろん、高杉の挙兵より後の話で、道明が久坂家を継ぎ、父・百合之助を看取った後です。

 その後、明治2年の記録があるんだそうですが、興丸「着袴の儀」のとき、お伽(子守)同役で、拝領金に預かれた女中の中では、一番下の身分です。なお、このときの記録に、奥女中の守り役の名前が出てきますが、どうも興丸につきっきり、というわけではないようでして、銀姫付きの奥女中が兼任した様子、なんですね。御中臈頭・御守役・袖野、御側・御守役・濱野ということです。ちなみに、美和が銀姫のお側女中として記録されていますのは、翌明治3年のこと、です。
 まあ、ともかく、ですね。大出世の守役でっせ!!!みたいな、ドラマの描き方は、?????です。まあ、もともと、史実では、興丸誕生の時、文(美和)はまだ、奥御殿に上がっていないわけなんですが。 

 で、本題です。
 私、けっこうなショックを受けております。
 なんだかんだいいまして、桐野利秋が禁門の変の前から長州びいきだったことは史料に残っていることですし、高杉晋作を尊敬していたのではないか、というような伝説もありましたし、やはり、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と、後世形容されました高杉の挙兵伝説を、私も信じてしまっていたから、です。
 司馬遼太郎氏の作品が、けっして史実ではないと知ってはいましても、やはり、若かった頃に読みました巧みな表現は、脳裏にしみついてしまっていたのでしょう。

 
世に棲む日日〈4〉 (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 以下、司馬遼太郎氏著「世に棲む日々」より、「功山寺挙兵」の部分の引用です。
 奇妙なものであった。結果からいえば、
「高杉晋作の挙兵」
 として維新史を大旋回させることになるクーデターも、伊藤俊輔をのぞくほか、かつての同志のすべてが賛同しなかった。
 歴史は天才の出現によって旋回するとすれば、この場合の晋作はまさにそうであった。かれの両眼だけが、未来の風景を見ていた。いま進行中の政治状況という山河も、晋作の眼光を通してみれば、山県狂介らの目で見る平凡な風景とはまるでちがっていた。晋作は、この風景の弱点を見ぬき、河を渡ればかならず敵陣がくずれるとみていた。が、かれは自分の頭脳の映写機に映っている彼だけの特殊な風景を、凡庸な状況感受能力しかもっていない山県狂介以下の頭脳群に口頭で説明することができなかった。
(行動で示すあるのみ)
 と、晋作がおもったことは、悲痛であった。なぜならば、行動とは伊藤俊輔がひきいる力士隊三十人だけで挙兵することであり、三十人で全藩と戦うことであった。その前途は死あるのみであった。
 

 いまにして思えば、いったい、どこうがどうなって、ここまでの大嘘になってしまったのでしょうか。

まず結論から言いまして、高杉の挙兵は、決して維新史を大旋回させたわけではなく、むしろ、殺されるはずではなかった前田孫右衛門や松岡剛蔵など、長州「正義党」幹部が殺されることとなり、薩摩が長州に手をさしのべることへの支障を作り、傷口をひろげただけだった、と言えるでしょう。
 現在の私にとりましては、これで長州海軍の生みの親・松島剛蔵が殺され、奇兵隊を赤禰武人ではなく山縣有朋が牛耳ることになったわけですから、明治になっての長州の陸軍偏重という悶着の種が芽ばえた痛恨の挙兵、のように思えます。

 以下、「西郷隆盛全集 第一巻」(大和書房版)より、元治元年12月23日付け小松帯刀宛西郷隆盛書簡の一部引用です。
 二十一日朝、萩表より使者両人岩国へ相達し、変動の向き相聞得候折柄、岩国より差し出し置き候人々も罷り帰り、得と承り合い仕るところ、長谷川惣蔵萩へ参り居り、余程せり立ち、討ち取るの策を立て候向き、もちろん戸川鉡三郎、山口城破却巡見として参り居り、色々責め付けられ候向きと相聞こえ、十八日晩七人の者を入牢申し付け、翌日はすぐさま斬罪に取り行い候よし、前田孫右衛門・楢崎弥八郎・山田又助・大和国之助・渡辺内蔵太・松崎(島)剛蔵・毛利登人、この七人にてござ候。左候て、末藩等へも人数差し出し候様相達し、千人位の勢い萩表より押し立て候よし。激党の内には蒸気船一艘を奪い、撫育金と申すをかすめ取り候よし、いずかたへ乗り廻し候かいまだ相分らず、繋場より届け申し出候までにござ候。とんと調和の道も絶え果て、残念の事にござ候。右等の拙策を用いられ候ては実にこまった事にござ候。 

また、いい加減な現代語訳をしますと、以下です。
 12月21日の朝、萩からの使者が岩国へ来まして、変動(12月16日高杉挙兵)があったと聞こえてきたところへ、岩国から萩へ行っていた人々も帰ってまいりました。じっくりと話を聞きましたところが、ちょうど折悪しくその挙兵のときに尾張藩士の長谷川(征長軍強硬派)が来ていて、鎮圧しろと萩政府に迫り、おりから幕府目付の戸山も山口城破却の検分に行っていまして、いろいろと圧迫されたこともあり、萩政府は18日夜、「正義党」幹部の七人を野山獄に入れ、翌日にはすぐさま全員斬罪にしてしまったんです。そのうえ、支藩からも兵隊をかり集め、千人ばかりを諸隊の追討に出す勢いで、決起した諸隊激派の中には、蒸気船を奪い、撫育金をかすめとって、行方をくらます者も出る始末です。現在の萩政府から三人を罷免し、代わりに「正義党」幹部から三人を政府に入れ、諸隊と政府の融和をはかって、五卿に移転していただく心づもりが無になってしまい、残念でなりません。挙兵する方も、それを理由に無駄な血を流す方も、実に困ったことです。

 いったいなぜ、高杉は挙兵したのでしょうか? 
 挙兵といいましても、決して、司馬氏が書かれたような悲壮なものではありません。
まず人数ですが、力士隊と遊撃隊あわせて、80人ほどが高杉に応じました。力士隊も遊撃隊も、来島又兵衛の直属部隊として、禁門の変で奮闘しましたその生き残りです。


 力士隊は、隊長が戦死し、残りの者が又兵衛の遺骸を運んで無事埋葬し、長州に帰り着いた者たちは、とりあえず、馬関新地(下関の萩藩直轄地)の会所で通訳業務をしていた伊藤俊輔(博聞)が、自分の護衛として預かっていました。参加したのは、伊藤が高杉にくどかれたからだと言われますが、なにしろ、禁門の変での活躍が評価されませんような体制では、いつ解散となるかわからない状態ですし、征長軍とそれに迎合する「俗論党」政府への恨みが深かったのでしょう。
 遊撃隊の方は、全員が駆けつけたわけではなく、一部なのですが、その多くが脱藩しました他藩人で、これまた、追い詰められていた人々です。そして、この時、挙兵遊撃隊の隊長となりましたのは、石川小五郎(後の河瀬真孝)で、れっきとした長州藩士だったものですから元は先鋒隊だったのですが、朝陽丸事件で幕府使節を暗殺していまして、幕府からしましたらまさに、お尋ね者でした。
 元松下村塾の参加者は力士隊を率いた伊藤と、後は単身で参加しました前原一誠のみ、なんですが、伊藤の場合は高杉に恩を売っておく損得を考えたのでしょうし、前原は、本人がれっきとした藩士でしたので、村塾では数少なかった中級藩士で、しかも俊才でした高杉に、心底心酔していた、ということだったでしょう。

 さらに挙兵といいましても、伊藤の勤め先、馬関新地の会所を包囲して空砲を放っただけのことでして、会所の奉行は「正義党」ですから最初から戦争になるはずもなく、「俗論党」だった人々が萩へ帰っただけのことでした。次いで三田尻(防府)の海軍局に船を奪いに行くのですが、ここもそもそもトップは松島剛蔵で「正義党」の集まりですから、抵抗するはずもなかったわけなんです。

 しかも、征長軍総督参謀の西郷隆盛が、戦う気がまったくありませんで、ということはつまり、征長軍のうちの薩摩軍が戦闘に入る心配はまるでなかったわけですから、司馬氏いわくの「その前途は死あるのみ」なんぞということはまったくありえませんで、挙兵側にはなんの危険も無く、「俗論党」政府に諸隊追討令を出させて、対決姿勢をとらせるためだけの挙兵でした。
 そして、確かに挙兵の時にたまたま、征長軍強硬派の長谷川が萩にいたとか、不運がありはしたのですけれども、捕らえられていた「正義党」幹部が斬罪になる可能性を、高杉は十分に認識していたはずなのです。

 太田市之進(御堀耕助)が止め、野村靖が止め、奇兵隊副将の福田良助にいたっては、伊藤の回想によれば、雪の中に土下座して「今日だけはぜひおとどまりを願いたい」と、高杉に頼んだというのですね。それはどう考えても、挙兵すれば、「正義党」幹部が斬罪になる可能性が高かったから、でしょう。交渉が続いているわけなのですから、いざとなればやるぞ、と、戦闘姿勢を見せる必要はありますが、挙兵してしまえば、相手に口実を与えてしまうだけなのです。

 再び、いったいなぜ、高杉は挙兵してしまったのでしょうか? 
 私には、赤禰武人への反感と不信としか、思えません。
 「元を正せば周防の島医者の子でしかない赤禰ごときが、生意気な! 征長軍総督参謀の薩摩芋(さつまいも)が動き、吉川が動くって? 赤禰のホラに決まっている。「正義党」の復活交渉なんぞ、どうせ失敗するのだから、こちらが先に挙兵すべきなんだっ!」 
 そういうことでは、なかったんでしょうか。

 「正義党」幹部が斬罪になり、諸隊追討令が出て、戦闘をためらう理由がまったくなくなったから、奇兵隊を中心とした諸隊は、決起したわけです。
 交渉の失敗と高杉との確執から、奇兵隊総督だった赤禰武人は居場所を無くし、決起したときに奇兵隊を牛耳っていましたのは、山縣有朋でした。
 こののち、赤禰は幕府のスパイだという嫌疑をかけられ、濡れ衣によって惨殺されますが、その名誉回復を、大正になってまで拒み続けたのも、山縣有朋です。

 「俗論党」は、千人ほどの諸隊討伐軍を繰り出したわけですが、「俗論党」とは、中級以上の藩士を中心としました保守派なんですから、ろくろく軍の改革もできてはいませんし、戦闘意欲のある軍勢では、ありませんでした。
 私が疑問に思いますのは、「正義党」幹部を斬ってしまいましたら、諸隊に歯止めがなくなることはわかりきったことでして、なぜ椋梨藤太たち「俗論党」幹部は、そんな冒険をあえてやったのか、ということです。征長軍によほど怯えていたのか、あるいは、「正義党」幹部によほど恨みをもっていたのか、どうなんでしょうか。

 
高杉晋作と奇兵隊 (幕末維新の個性 7)
青山 忠正
吉川弘文館


 青山忠正氏は、「高杉晋作と奇兵隊」のあとがきに、次のように述べておられます。
 (高杉晋作について書くことに苦労する)もう一つの理由は、もう少し複雑だし、それに政治的でもある。いつ、どのようにして「有名」になり、どのような経緯で、彼にまつわる伝説が作られていったか、を常に念頭に置いておかなければならないせいである。伝説や神話に引きずられてしまうと、史料の言葉が本来の意味どおりに読めなくなり、人物像までが変形させられる。その引力に抗しながら、史料から実像を読み出すのは、「無名人」相手に比べて三倍のエネルギーを要する。
 後者の問題は、もとより高杉晋作だけの問題では済まない。それは、おそらく明治から大正、昭和と、日本の近代国家が確立してゆく過程で、いわば建国神話のような意味合いで編み上げられてゆく物語の一環なのだろう。それはそれで、別に機会を設けて考えるべき課題である。吉田松陰にしても、晋作にしても、その神話のなかに、神々の一人として役割を割り振られて登場するのだろうと、今のところ私は考えている。
 この神々は、第二次大戦の敗戦という、価値観の大きな変動のなかで、大多数が消滅していった。楠木正成や小島高徳は天皇制の変容に殉じて、「七生報国」や「誉の桜」のフレーズとともに、いなくなった。晋作、それに坂本龍馬は、大上段に振りかぶった尊皇イデオロギーとは少し離れた場所に役割を振られていたため、姿を変えて生き延びた。高度経済成長期には、自由奔放、恋と冒険、このあたりが二人を象徴するキーワードになった。国のために命を捧げることが最大の価値とされた「帝国臣民」にかわって、自由主義社会のもとで豊かな生活を謳歌しているはずの「市民」にとって、幕末の動乱を生きたトリックスターたちは、夢を託すに恰好の存在であったし、今もそうであるらしい。
 

 歴史とは物語である、と私は思います。
 過去の出来事にまったく物語を読み取らなかったとしたら、それは、歴史とはならないでしょう。
 しかし、私は、勝者にのみ光があたる歴史を好みません。
 無数の無名の人々がいて、不運な敗残者も多数いて、複雑に明暗が織りなされる物語こそが、歴史の名に値するのではないでしょうか。
 明後年は、明治維新から150年の年です。
 もう一度、維新史が見直される節目と、なってくれたらいいのですが。

 次回(すでに明日です)は、もう一人のトリックスター、坂本龍馬が登場するようですけれども、暗澹と、ため息しかでないドラマになることは、確実な気がします。

クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする