珍大河『花燃ゆ31』と史実◆高杉は西郷と会ったか?の続きです。
感想を一言だけ。
今回一応、玉木文之進の一人息子、玉木彦助の戦死を描いていましたね。
彦助が品川弥二郎より二つ年上で、同じ御楯隊にいたとは、さっぱりわからない描き方ではあるんですけれども。
この戦死によって、乃木希典の弟が、跡継ぎのいなくなった玉木家へ養子に入ります。
今回のシナリオは宮村優子氏で、まあ、この方がまだ、一番マシではあるのかもしれません。
彦助の戦死以外、さっぱりなにも印象に残っていませんし、金子ありさ氏よりはマシ、という程度の話ですが。
えー、時間軸を狂わせまくりましたこのドラマ、松島剛蔵を含みます「正義党」幹部がすでに殺されたからと、今回がいわゆる「功山寺挙兵」です。史実は、高杉の挙兵があったから、「正義党」幹部は殺されたわけでして、まるで逆です。
しかし、ですね。
この時間軸の逆転に、なぜNHKが無頓着なのかといえば、これまで、一般には、三家老・四参謀の処分と「正義党」幹部の惨殺はどちらも「俗論党」が征長軍に屈してしたことで、高杉晋作はその非道な「俗論党」を叩いて長州の生気を取り戻すために立ち上がった、という伝説が、信じられてきたからではないんでしょうか。
青山忠正氏は、「高杉晋作と奇兵隊」のプロローグにおいて、東行庵に建つ巨大な顕彰碑の銘文を紹介しています。
伊藤博文撰の「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」に始まる、有名な長文です。
この長文のさわりの部分を引いた後、青山氏は、次のように述べておられます。
要するに長州毛利家における「俗論」党打倒、「藩論」統一のさきがけをなしたのは高杉による馬関挙兵であり、それに当初から加わっていたのは自分(伊藤)たちだったというストーリーが、ここには盛りこまれている。そして、このストーリーは、現在に至るまで、高杉伝と言わず、長州藩幕末史の定説になっているようだ。
結論だけを先に言ってしまえば、このストーリーは、本文で詳述するように八割がた虚構である。そのような虚構が、なぜ碑文に記されるのか。それは、伊藤博文、山縣有朋、井上馨といった長州閥の「元勲」たちにとって、高杉と行動をともにしたことは、自らの過去を装飾し、さらには現在の政治的立場を強固にしてくれる華々しい経歴だったからである。
高杉晋作が挙兵にいたるまでの状況について、比較的、脚色なく語っているのではないか、と思われますのが、天野御民(冷泉雅二郎)の回顧録(一坂太郎氏編「高杉晋作史料 第三巻」収録)です。
天野御民は、御堀耕助(乃木希典の従兄弟)と同い年、品川弥二郎より二つ上で、禁門の変で破れて帰って来ました彼らと共に、御楯隊を結成しました、元松下村塾生、なんです。
この御楯隊、玉木文之進の息子の玉木彦助や、久坂と共に死んだ村塾生・寺島忠三郎の兄・秀之助も参加していまして、そもそも隊長の御堀耕助は玉木家の親戚ですし、松下村塾関係者が中核となっていた隊、なんですね。
で、天野御民の回顧録は、後年のものですし、高杉の挙兵前に「正義党」幹部粛正があったとしますような、時間軸の思い違いも入っているのですが、御楯隊が関係しましたことの事実関係に、大筋でまちがいはないと思われます。
天野が言いますことには、11月17日、五卿を奉じまして長府に入りました諸隊(およそ750人)は、八方ふさがりでした。
その状況をまとめますと、おおよそ以下のようだったそうなのです。
長州藩士の隊員は、萩から来た親戚知人に脱退を促されて脱ける者も多く、また尊皇攘夷の旗頭の元に長州諸隊に参加した他藩人も、「俗論党」が政権をとり、尊皇攘夷の旗を降ろした長州の現状に不満で隊をぬける者が多く、諸隊がこれからどうするのか、隊長たちの会議でも意見がまとまらなかった。
そこで、御楯隊のうちの有志が、「このままでは諸隊はみなだめになる。外からの衝撃が必要だから、われわれは今から各郡をまわり、俗論家が選任した代官を惨殺してまわろう。そうすれば俗論藩庁は諸隊全体に罪をかぶせ、討伐するだろうから、戦争になる。戦争になってこそ、諸隊は人心団結して、たちまち俗論軍を倒すことができる」と、密かに語り合っていた。
高杉晋作が亡命先から帰ってきて(11月25日)、このことを持ちかけたが、最初は高杉は、「諸隊が一致団結して行動するべきときに勝手にそんなことをするのはだめだ」と賛成しなかった。
しかし高杉は、どうしようもない諸隊の現状がわかってくるにつれ、馬関新地(下関本藩領)の官署を襲撃しようと、御楯隊の総督・太田市之進(御堀耕助)、遊撃隊の軍艦・高橋熊太郎にその話をもちかけ、承諾させていた。
御楯隊は、先にいいましたように、松下村塾関係者が中核となっていた隊で、珍大河『花燃ゆ』と史実◆27回「妻のたたかい」に書いておりますが、禁門の変でろくに戦えなかった悔しさをばねに結成された隊ですし、遊撃隊は他藩士が圧倒的に多く、来島又兵衛が率いて禁門の変で奮闘しました、その生き残りです。
この話の流れですと、要するに高杉は、「俗論党」政権に諸隊追討令を出させて、諸隊に戦う気を起こさせるために挙兵するつもりだった、ということになります。
考えてみましたら、奇兵隊は攘夷のためにできた組織ですし、遊撃隊にしましても御楯隊にしましても、尊皇攘夷の旗を降ろして、戦う相手を無くしてしまえば、存在意義を失い、組織は解体してしまいかねない、ですよね。
要するに、軍隊が軍隊として存続するためには、敵が必要、なんです。
ところが、ですね。
天野御民いわく、ですが、「直前になって太田市之進(御堀耕助)は、挙兵を取りやめ、高杉は、決行予定日だった12月12日の夜、酔っ払って、長府修繕寺の御盾隊陣営を訪れ、傍若無人にふるまった。太田市之進に頼まれて、村塾生だった品川弥二郎が止め、同じく元村塾生で奇兵隊の客分だった野村靖がいさめても高杉はきかず、「おまえらは赤禰武人に騙されているんだ! 武人なんぞ大島郡の一土民だぞ。あいつに国家の大事や両君公の危急がわかるわけがない。おれは毛利家三百年来の家臣だ!」と、毛髪を逆立て、まなじりがさけんばかりの憤怒の形相で難じたが、それは、一同、肌に粟を生じるほどに恐ろしいものだった」ということでした。
諸隊が高杉への同調をためらった理由について、青山氏は、以下の二点を挙げておられます。
一つには、奇兵隊総督赤禰武人が進めてきた萩政府との「調和論」が順調に運び、12月6日以降には、諸隊解散(10月21日通達済み)は取りやめ、諸隊員は「土着」と内決、という事情があった。
二つには、征長軍と五卿の存在である。下関対岸の小倉には福総督府があり、解兵条件の五卿移転を待ち望んでいた。その五卿を長府に置いたまま、下関で行動を起こせば、征長軍の介入を招きかねない。今、ここで事を起こすのは、どう見ても得策ではない。
一つ目の理由に関しましては、雑多な人々の集まりでしかない奇兵隊はともかく、元村塾生を中核としました本藩下級藩士が主流の御盾隊では、当初、「俗論家が選任した代官を惨殺してまわろう」という意見があり、「俗論党」政権が継続したままでの諸隊土着では意味がない、と考える者が多く、ためらいの理由とはならなかったからこそ、高杉の挙兵に同調する予定だった、ということではないでしょうか。
そして、二つ目です。
これにつきましては、同じ青山氏の「明治維新と国家形成」の方で、より詳しく見てみましょう。
五卿は、移転交渉に来ていました、筑前の尊攘派(いわば「正義党」)、月形洗蔵と早川養敬へ、五卿は「長州藩の内紛で、諸隊の有志が動揺しているため、移転は考えられない」と伝えていて、要するに、五卿移転と諸隊の要求はリンクしていたわけです。
では、その諸隊の要求とはなんだったか、といえば、以下です。
●諸隊の土着
●「正義党」幹部(前田孫右衛門、松島剛蔵など)の解放
●現「俗論党」政権から3人罷免、代わりに「正義党」幹部から三人を政権へ加える
このうち、諸隊の土着とは、青山氏いわく、「諸隊を存続させるための基盤を確保することではないか」としておられ、前述しましたように、12月6日以降、ほぼ妥協が成り立っていたもようなんですね。
残る二点なのですが、なにしろ、五卿移転が解兵の条件ですから、征長総督参謀・西郷隆盛が直接乗り出します。
前回も書きましたように、12月11日夜、西郷隆盛は、吉井幸輔、税所篤を供に下関に渡り、諸隊の隊長など4、5人に会ったことは、12月23日つけ西郷の小松帯刀宛て書簡(大和書房版「西郷隆盛全集 第1巻」収録)にあります。
西郷が会った諸隊の隊長などの中心が赤禰武人であったことは、「防長回天史」の推察する通りだと思うのですが、太田市之進、野村靖、品川弥二郎なども赤禰に誘われて会った可能性が高いのではないでしょうか。
赤禰は短期間とはいえ、松下村塾に籍を置いていましたし、高杉を説得して挙兵を押さえることができるのは、彼ら(太田、野村、品川など)である、と思っていたはずですし、西郷は「諸隊4、5人」と言っているのですから、奇兵隊の赤禰だけでは無く、他の隊の者とも会ったはずです。
ちなみに、青山氏が「高杉晋作と奇兵隊」で挙げておられます表から言いますと、挙兵後の翌元治2年(慶応元年)1~2月、総勢1637人(人数不明二隊のぞく)にふくれあがりました諸隊のうち、奇兵隊は303人、御盾隊が277人ですから、もともとそれほど人数に差があったわけではなかったようなんです。
この翌日の12月12日、西郷と諸隊の交渉を踏まえた月形、早川は、五卿と面談し、「移転された後には、筑前・薩摩が共同で、三条侯の朝廷復帰をはかり、幕府の横暴を防ぐ」と訴え、それに対して五卿は「諸隊の要求が通り、長州の内紛がおさまれば即、移転しよう」と答えています。
一方、西郷の小松宛書簡によれば、西郷は「諸隊と俗論党政府の和解が成り立てば五卿移転が可能」という諸隊、五卿との会談結果に基づき、吉川監物に動いてもらおうと岩国へ向かったわけです。
その最大の目的は「萩府にての俗吏両三人を退け、激党より望みを掛け居り候者両三人も引き上げ、調和の筋も相立つつもりに御座候」
(萩の「俗論党」政府から三人を罷免し、代わりに諸隊が希望する「正義党」から三人を政府に入れたら、長州の内紛もおさまり、五卿移転の障害も無くなるものと思っておりました)ということです。
「正義党」幹部から三人復職、ということは、前提として「正義党」幹部の解放は含まれているはずですから、征長軍参謀の西郷が乗りだし、仲介役の岩国藩主・吉川監物を動かして、確実に「正義党」幹部解放、政権復帰は行われる手はずとなっていた、わけなんです。
太田市之進(御堀耕助)が挙兵をとりやめたのは、当然じゃなかったでしょうか。
で、高杉です。
この12月11日、高杉は西郷に会ったと、後年、早川養敬は証言しています。
しかし、この証言に問題がないわけでは、ありません。
西郷と高杉が会見したときに同席していたのは月形洗蔵で、早川は月形から伝え聞いただけだそうなんですね。おまけに月形は、会見の翌年、慶応元年の秋には、築前藩の内紛で斬首されていますので、伝え聞きが正しいかどうか、確かめる術もなかったわけなんです。
以下、宮地佐一郎氏編「中岡慎太郎全集」収録、史談会速記第241輯「報効志士早川勇事蹟書(下)」より、です。
隆盛、友実(吉井)、税所篤をともない下ノ関に至る。隊士(諸隊過激派)の暴行を避け、秋月藩士と唱う。洗蔵(月形)迎へて稲荷町大阪屋に至る。宴席の間交誼を温め款話をつくし、半夜におよぶ。この日会する者、晋作(高杉)、洗蔵(月形)、円太(中村)、泰、対馬人多田荘蔵、藤四郎、安田喜八郎、真木菊四郎等とす。積日の敵讐、散解して痕なからしむ。この夜、晋作も名を裏みて席に陪し、晋作は酔余、隆盛を指して薯堀爺(いもほりじい)と戯言を発し、隆盛一笑ただいに隔意なかりしと。隆盛、洗蔵、晋作など内密の主意は、以後幕府如何の処為におよばんも計られず、薩、筑、長三藩聯合して輩下(猊下?)を取り巻かずんばあらずというに存す。
この引用、少々漢字をひらいたり、仮名遣いを改めたりしていますので、正確ではありませんことをお断りします。
非常にわかりづらいのですが、まず晋作も名を裏みて席に陪しとあるのですが、これは高杉は変名を使って同席したということで、いいんじゃないんでしょうか。
で、この会合の他のメンバー、洗蔵(月形)、円太(中村)、藤四郎、安田喜八郎の4人は、筑前の尊攘派(いわば「正義党」)です。
対馬人・多田荘蔵は、桂小五郎と親しく、この時期、京都から幾松を連れて下関へ来ていたようなのですが、対馬藩も保守派が政権を握って帰れなくなり、九州の藩の飛地と下関(あるいは長府)の間を、いったり来たりしていたんだそうなんですね。
真木菊四郎は、禁門の変で自決しました真木和泉の4男。久留米の人ですが、父に従って禁門の変に参戦し、五卿側近として長州に身をよせていました。
「泰」が誰なのかは、私にはわかりませんで、どなたかおわかりの方、ご教授頂ければ幸いです。
ともかく。
高杉以外で名前が挙がっています中に、長州人はいないんですね。
となりますとこの会合は、西郷が「諸浪(諸隊)の内4・5輩も参り」と書簡で述べている会合とは、別ではないでしょうか。高杉はこのとき、どこの隊にも属してはいませんし。
しかも話の内容も、対諸隊のものと高杉が出たものでは、少々、ちがっていたように思えます。
先に述べましたように、西郷と諸隊との話の中心は「萩「俗論党」政権の改革」であったと推測できるのですが、高杉のいた会合では、「薩、筑、長三藩聯合して輩下(猊下?)を取り巻かずんばあらず」の輩下を猊下のまちがいだと考え、三条侯のことだとしますと、これは筑前移転後の五卿の待遇の問題ですから、翌12日に早川、月形が五卿に訴えた「移転された後には、筑前・薩摩が共同で、三条侯の朝廷復帰をはかり、幕府の横暴を防ぐ」ということだったようです。
つまるところ、高杉は名前を変え、長州人であることも隠して、薩摩の出方をさぐるため、九州の人々にまじって西郷に会った、ということではないでしょうか。
そして、それとは別に、西郷と諸隊(赤禰、太田、野村など)の会合があり、したがって、西郷その人も税所篤も吉井も、長州の高杉晋作に会った、という認識はなかった、と思われます。
とすれば、ここで高杉は、「薩摩は解兵したがっている。とすれば、幕府がどういうつもりだろうが、薩摩が長州の内政に干渉する気は無いな」ということのみを洞察し、西郷は相手が長州人だとは思っていませんので、長州「正義党」復権のために岩国へ出かけて吉川監物を動かすつもりだ、というようなことは、話さなかったのではないでしょうか。
高杉晋作とモンブラン伯爵で、高杉の漢詩を紹介しておりますが、あきらかに高杉は、五卿の扱いで、薩摩の幕府との距離のとり方をはかっていた、ということでしょう。
長くなりましたので、続きます。
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感想を一言だけ。
今回一応、玉木文之進の一人息子、玉木彦助の戦死を描いていましたね。
彦助が品川弥二郎より二つ年上で、同じ御楯隊にいたとは、さっぱりわからない描き方ではあるんですけれども。
この戦死によって、乃木希典の弟が、跡継ぎのいなくなった玉木家へ養子に入ります。
今回のシナリオは宮村優子氏で、まあ、この方がまだ、一番マシではあるのかもしれません。
彦助の戦死以外、さっぱりなにも印象に残っていませんし、金子ありさ氏よりはマシ、という程度の話ですが。
花燃ゆ 後編 (NHK大河ドラマ・ストーリー) | |
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えー、時間軸を狂わせまくりましたこのドラマ、松島剛蔵を含みます「正義党」幹部がすでに殺されたからと、今回がいわゆる「功山寺挙兵」です。史実は、高杉の挙兵があったから、「正義党」幹部は殺されたわけでして、まるで逆です。
しかし、ですね。
この時間軸の逆転に、なぜNHKが無頓着なのかといえば、これまで、一般には、三家老・四参謀の処分と「正義党」幹部の惨殺はどちらも「俗論党」が征長軍に屈してしたことで、高杉晋作はその非道な「俗論党」を叩いて長州の生気を取り戻すために立ち上がった、という伝説が、信じられてきたからではないんでしょうか。
高杉晋作と奇兵隊 (幕末維新の個性 7) | |
青山 忠正 | |
吉川弘文館 |
青山忠正氏は、「高杉晋作と奇兵隊」のプロローグにおいて、東行庵に建つ巨大な顕彰碑の銘文を紹介しています。
伊藤博文撰の「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」に始まる、有名な長文です。
この長文のさわりの部分を引いた後、青山氏は、次のように述べておられます。
要するに長州毛利家における「俗論」党打倒、「藩論」統一のさきがけをなしたのは高杉による馬関挙兵であり、それに当初から加わっていたのは自分(伊藤)たちだったというストーリーが、ここには盛りこまれている。そして、このストーリーは、現在に至るまで、高杉伝と言わず、長州藩幕末史の定説になっているようだ。
結論だけを先に言ってしまえば、このストーリーは、本文で詳述するように八割がた虚構である。そのような虚構が、なぜ碑文に記されるのか。それは、伊藤博文、山縣有朋、井上馨といった長州閥の「元勲」たちにとって、高杉と行動をともにしたことは、自らの過去を装飾し、さらには現在の政治的立場を強固にしてくれる華々しい経歴だったからである。
高杉晋作が挙兵にいたるまでの状況について、比較的、脚色なく語っているのではないか、と思われますのが、天野御民(冷泉雅二郎)の回顧録(一坂太郎氏編「高杉晋作史料 第三巻」収録)です。
天野御民は、御堀耕助(乃木希典の従兄弟)と同い年、品川弥二郎より二つ上で、禁門の変で破れて帰って来ました彼らと共に、御楯隊を結成しました、元松下村塾生、なんです。
この御楯隊、玉木文之進の息子の玉木彦助や、久坂と共に死んだ村塾生・寺島忠三郎の兄・秀之助も参加していまして、そもそも隊長の御堀耕助は玉木家の親戚ですし、松下村塾関係者が中核となっていた隊、なんですね。
で、天野御民の回顧録は、後年のものですし、高杉の挙兵前に「正義党」幹部粛正があったとしますような、時間軸の思い違いも入っているのですが、御楯隊が関係しましたことの事実関係に、大筋でまちがいはないと思われます。
天野が言いますことには、11月17日、五卿を奉じまして長府に入りました諸隊(およそ750人)は、八方ふさがりでした。
その状況をまとめますと、おおよそ以下のようだったそうなのです。
長州藩士の隊員は、萩から来た親戚知人に脱退を促されて脱ける者も多く、また尊皇攘夷の旗頭の元に長州諸隊に参加した他藩人も、「俗論党」が政権をとり、尊皇攘夷の旗を降ろした長州の現状に不満で隊をぬける者が多く、諸隊がこれからどうするのか、隊長たちの会議でも意見がまとまらなかった。
そこで、御楯隊のうちの有志が、「このままでは諸隊はみなだめになる。外からの衝撃が必要だから、われわれは今から各郡をまわり、俗論家が選任した代官を惨殺してまわろう。そうすれば俗論藩庁は諸隊全体に罪をかぶせ、討伐するだろうから、戦争になる。戦争になってこそ、諸隊は人心団結して、たちまち俗論軍を倒すことができる」と、密かに語り合っていた。
高杉晋作が亡命先から帰ってきて(11月25日)、このことを持ちかけたが、最初は高杉は、「諸隊が一致団結して行動するべきときに勝手にそんなことをするのはだめだ」と賛成しなかった。
しかし高杉は、どうしようもない諸隊の現状がわかってくるにつれ、馬関新地(下関本藩領)の官署を襲撃しようと、御楯隊の総督・太田市之進(御堀耕助)、遊撃隊の軍艦・高橋熊太郎にその話をもちかけ、承諾させていた。
御楯隊は、先にいいましたように、松下村塾関係者が中核となっていた隊で、珍大河『花燃ゆ』と史実◆27回「妻のたたかい」に書いておりますが、禁門の変でろくに戦えなかった悔しさをばねに結成された隊ですし、遊撃隊は他藩士が圧倒的に多く、来島又兵衛が率いて禁門の変で奮闘しました、その生き残りです。
この話の流れですと、要するに高杉は、「俗論党」政権に諸隊追討令を出させて、諸隊に戦う気を起こさせるために挙兵するつもりだった、ということになります。
考えてみましたら、奇兵隊は攘夷のためにできた組織ですし、遊撃隊にしましても御楯隊にしましても、尊皇攘夷の旗を降ろして、戦う相手を無くしてしまえば、存在意義を失い、組織は解体してしまいかねない、ですよね。
要するに、軍隊が軍隊として存続するためには、敵が必要、なんです。
ところが、ですね。
天野御民いわく、ですが、「直前になって太田市之進(御堀耕助)は、挙兵を取りやめ、高杉は、決行予定日だった12月12日の夜、酔っ払って、長府修繕寺の御盾隊陣営を訪れ、傍若無人にふるまった。太田市之進に頼まれて、村塾生だった品川弥二郎が止め、同じく元村塾生で奇兵隊の客分だった野村靖がいさめても高杉はきかず、「おまえらは赤禰武人に騙されているんだ! 武人なんぞ大島郡の一土民だぞ。あいつに国家の大事や両君公の危急がわかるわけがない。おれは毛利家三百年来の家臣だ!」と、毛髪を逆立て、まなじりがさけんばかりの憤怒の形相で難じたが、それは、一同、肌に粟を生じるほどに恐ろしいものだった」ということでした。
諸隊が高杉への同調をためらった理由について、青山氏は、以下の二点を挙げておられます。
一つには、奇兵隊総督赤禰武人が進めてきた萩政府との「調和論」が順調に運び、12月6日以降には、諸隊解散(10月21日通達済み)は取りやめ、諸隊員は「土着」と内決、という事情があった。
二つには、征長軍と五卿の存在である。下関対岸の小倉には福総督府があり、解兵条件の五卿移転を待ち望んでいた。その五卿を長府に置いたまま、下関で行動を起こせば、征長軍の介入を招きかねない。今、ここで事を起こすのは、どう見ても得策ではない。
一つ目の理由に関しましては、雑多な人々の集まりでしかない奇兵隊はともかく、元村塾生を中核としました本藩下級藩士が主流の御盾隊では、当初、「俗論家が選任した代官を惨殺してまわろう」という意見があり、「俗論党」政権が継続したままでの諸隊土着では意味がない、と考える者が多く、ためらいの理由とはならなかったからこそ、高杉の挙兵に同調する予定だった、ということではないでしょうか。
そして、二つ目です。
これにつきましては、同じ青山氏の「明治維新と国家形成」の方で、より詳しく見てみましょう。
明治維新と国家形成 | |
クリエーター情報なし | |
吉川弘文館 |
五卿は、移転交渉に来ていました、筑前の尊攘派(いわば「正義党」)、月形洗蔵と早川養敬へ、五卿は「長州藩の内紛で、諸隊の有志が動揺しているため、移転は考えられない」と伝えていて、要するに、五卿移転と諸隊の要求はリンクしていたわけです。
では、その諸隊の要求とはなんだったか、といえば、以下です。
●諸隊の土着
●「正義党」幹部(前田孫右衛門、松島剛蔵など)の解放
●現「俗論党」政権から3人罷免、代わりに「正義党」幹部から三人を政権へ加える
このうち、諸隊の土着とは、青山氏いわく、「諸隊を存続させるための基盤を確保することではないか」としておられ、前述しましたように、12月6日以降、ほぼ妥協が成り立っていたもようなんですね。
残る二点なのですが、なにしろ、五卿移転が解兵の条件ですから、征長総督参謀・西郷隆盛が直接乗り出します。
前回も書きましたように、12月11日夜、西郷隆盛は、吉井幸輔、税所篤を供に下関に渡り、諸隊の隊長など4、5人に会ったことは、12月23日つけ西郷の小松帯刀宛て書簡(大和書房版「西郷隆盛全集 第1巻」収録)にあります。
西郷が会った諸隊の隊長などの中心が赤禰武人であったことは、「防長回天史」の推察する通りだと思うのですが、太田市之進、野村靖、品川弥二郎なども赤禰に誘われて会った可能性が高いのではないでしょうか。
赤禰は短期間とはいえ、松下村塾に籍を置いていましたし、高杉を説得して挙兵を押さえることができるのは、彼ら(太田、野村、品川など)である、と思っていたはずですし、西郷は「諸隊4、5人」と言っているのですから、奇兵隊の赤禰だけでは無く、他の隊の者とも会ったはずです。
ちなみに、青山氏が「高杉晋作と奇兵隊」で挙げておられます表から言いますと、挙兵後の翌元治2年(慶応元年)1~2月、総勢1637人(人数不明二隊のぞく)にふくれあがりました諸隊のうち、奇兵隊は303人、御盾隊が277人ですから、もともとそれほど人数に差があったわけではなかったようなんです。
この翌日の12月12日、西郷と諸隊の交渉を踏まえた月形、早川は、五卿と面談し、「移転された後には、筑前・薩摩が共同で、三条侯の朝廷復帰をはかり、幕府の横暴を防ぐ」と訴え、それに対して五卿は「諸隊の要求が通り、長州の内紛がおさまれば即、移転しよう」と答えています。
一方、西郷の小松宛書簡によれば、西郷は「諸隊と俗論党政府の和解が成り立てば五卿移転が可能」という諸隊、五卿との会談結果に基づき、吉川監物に動いてもらおうと岩国へ向かったわけです。
その最大の目的は「萩府にての俗吏両三人を退け、激党より望みを掛け居り候者両三人も引き上げ、調和の筋も相立つつもりに御座候」
(萩の「俗論党」政府から三人を罷免し、代わりに諸隊が希望する「正義党」から三人を政府に入れたら、長州の内紛もおさまり、五卿移転の障害も無くなるものと思っておりました)ということです。
「正義党」幹部から三人復職、ということは、前提として「正義党」幹部の解放は含まれているはずですから、征長軍参謀の西郷が乗りだし、仲介役の岩国藩主・吉川監物を動かして、確実に「正義党」幹部解放、政権復帰は行われる手はずとなっていた、わけなんです。
太田市之進(御堀耕助)が挙兵をとりやめたのは、当然じゃなかったでしょうか。
で、高杉です。
この12月11日、高杉は西郷に会ったと、後年、早川養敬は証言しています。
しかし、この証言に問題がないわけでは、ありません。
西郷と高杉が会見したときに同席していたのは月形洗蔵で、早川は月形から伝え聞いただけだそうなんですね。おまけに月形は、会見の翌年、慶応元年の秋には、築前藩の内紛で斬首されていますので、伝え聞きが正しいかどうか、確かめる術もなかったわけなんです。
以下、宮地佐一郎氏編「中岡慎太郎全集」収録、史談会速記第241輯「報効志士早川勇事蹟書(下)」より、です。
隆盛、友実(吉井)、税所篤をともない下ノ関に至る。隊士(諸隊過激派)の暴行を避け、秋月藩士と唱う。洗蔵(月形)迎へて稲荷町大阪屋に至る。宴席の間交誼を温め款話をつくし、半夜におよぶ。この日会する者、晋作(高杉)、洗蔵(月形)、円太(中村)、泰、対馬人多田荘蔵、藤四郎、安田喜八郎、真木菊四郎等とす。積日の敵讐、散解して痕なからしむ。この夜、晋作も名を裏みて席に陪し、晋作は酔余、隆盛を指して薯堀爺(いもほりじい)と戯言を発し、隆盛一笑ただいに隔意なかりしと。隆盛、洗蔵、晋作など内密の主意は、以後幕府如何の処為におよばんも計られず、薩、筑、長三藩聯合して輩下(猊下?)を取り巻かずんばあらずというに存す。
この引用、少々漢字をひらいたり、仮名遣いを改めたりしていますので、正確ではありませんことをお断りします。
非常にわかりづらいのですが、まず晋作も名を裏みて席に陪しとあるのですが、これは高杉は変名を使って同席したということで、いいんじゃないんでしょうか。
で、この会合の他のメンバー、洗蔵(月形)、円太(中村)、藤四郎、安田喜八郎の4人は、筑前の尊攘派(いわば「正義党」)です。
対馬人・多田荘蔵は、桂小五郎と親しく、この時期、京都から幾松を連れて下関へ来ていたようなのですが、対馬藩も保守派が政権を握って帰れなくなり、九州の藩の飛地と下関(あるいは長府)の間を、いったり来たりしていたんだそうなんですね。
真木菊四郎は、禁門の変で自決しました真木和泉の4男。久留米の人ですが、父に従って禁門の変に参戦し、五卿側近として長州に身をよせていました。
「泰」が誰なのかは、私にはわかりませんで、どなたかおわかりの方、ご教授頂ければ幸いです。
ともかく。
高杉以外で名前が挙がっています中に、長州人はいないんですね。
となりますとこの会合は、西郷が「諸浪(諸隊)の内4・5輩も参り」と書簡で述べている会合とは、別ではないでしょうか。高杉はこのとき、どこの隊にも属してはいませんし。
しかも話の内容も、対諸隊のものと高杉が出たものでは、少々、ちがっていたように思えます。
先に述べましたように、西郷と諸隊との話の中心は「萩「俗論党」政権の改革」であったと推測できるのですが、高杉のいた会合では、「薩、筑、長三藩聯合して輩下(猊下?)を取り巻かずんばあらず」の輩下を猊下のまちがいだと考え、三条侯のことだとしますと、これは筑前移転後の五卿の待遇の問題ですから、翌12日に早川、月形が五卿に訴えた「移転された後には、筑前・薩摩が共同で、三条侯の朝廷復帰をはかり、幕府の横暴を防ぐ」ということだったようです。
つまるところ、高杉は名前を変え、長州人であることも隠して、薩摩の出方をさぐるため、九州の人々にまじって西郷に会った、ということではないでしょうか。
そして、それとは別に、西郷と諸隊(赤禰、太田、野村など)の会合があり、したがって、西郷その人も税所篤も吉井も、長州の高杉晋作に会った、という認識はなかった、と思われます。
とすれば、ここで高杉は、「薩摩は解兵したがっている。とすれば、幕府がどういうつもりだろうが、薩摩が長州の内政に干渉する気は無いな」ということのみを洞察し、西郷は相手が長州人だとは思っていませんので、長州「正義党」復権のために岩国へ出かけて吉川監物を動かすつもりだ、というようなことは、話さなかったのではないでしょうか。
高杉晋作とモンブラン伯爵で、高杉の漢詩を紹介しておりますが、あきらかに高杉は、五卿の扱いで、薩摩の幕府との距離のとり方をはかっていた、ということでしょう。
長くなりましたので、続きます。
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