郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

続・龍馬暗殺に黒幕はいたのか?

2012年02月04日 | 幕末土佐

 龍馬暗殺に黒幕はいたのか?の続きです。
 続きを書くつもりはなかったのですが、近くの図書館で「坂本龍馬全集」を借り出すことができまして。


坂本龍馬全集 (1982年)
坂本 竜馬,宮地 佐一郎
光風社出版


 これを借り出すことができるとは、存じませんでした。
 ぺらぺらとめくっておりましたら、発見があるものです。
 桐野と前田正名につながるかも、な発見もありますので、またそれは、「普仏戦争と前田正名」シリーズで書きたいと思うのですが、ちょっと龍馬により道を。

  ところで先だって、時代劇専門チャンネルで放映してくれていました「獅子の時代」が終わりました。
 「獅子の時代」は架空の人物が主人公ですし、その一人、菅原文太演じます平沼銑次は、あきらかに花冠の会津武士、パリへ。で書きました海老名李昌をモデルにしながら、……いや、海老名は上級士族で銑次は下級で、やーさんぽい文太の銑次は海老名に比べてまるで品がないのですが、残された海老名の写真を見ますと、文太によく似たお顔なんです、これが……、最後、秩父困民事件で自由民権運動激派として行動していたりするんですが、本物の海老名さんは、最初の檄派事件だった福島事件で、自由党を弾圧する薩摩出身の県令・三島通庸の側についていまして、まあ、なにしろ福島の自由民権運動の巨魁は、三春藩裏切りの元凶だった河野広中でしたから、薩長よりも裏切り者の三春を恨んでいました元会津藩士としては当然の行動なのですが、ともかく、かなりな大嘘ばかりで、平沼銑次は鞍馬天狗かジャン・バルジャンか、という描かれ方なんですが、大筋としましてはまあこんなものかも、といいますような時代相の基本が大きくはずれているわけではないですし、これがけっこう、おもしろいんです!!!
 なんといいましても、30年も前のテレビドラマなのに、ちゃんと薩摩のパリ工作をやってくれているのがすごいですよねえ。モンブランの来日が描かれていませんし、事実関係をかなりまちがえてはいますけれども、一応、それが軸ではあるわけでして。

 それにいたしましても、最近の大河は、なんでこう、超つまらないのでしょうか。
 NHKの「龍馬伝」については、「龍馬伝」に登場! ◆アーネスト・サトウ番外編スーパーミックス超人「龍馬伝」に書いておりますが、笑いすぎて涙がでましたほどの馬鹿らしさ。
 去年の「江 姫たちの戦国」に至っては、馬鹿馬鹿しさも極地で見ていられませんでしたが、私、院政期にはけっこう思い入れがありますので、今年の大河「平清盛」にはけっこう期待したのですが、なんなのお??? この無茶苦茶な、アニメの登場人物みたいな宇宙人な法皇さん!!!と、見る気が失せましたです。

 角田文衛先生が生きておられたら、お怒りになられましたわよ、絶対。有吉佐和子氏の「和宮様御留」を悪質なデマ小説としておられました先生が、ご専門の時代にこんなことをされましたのでは、ですねえ。角田先生の「待賢門院璋子の生涯」なくして待賢門院は描けませんし、そっちは参考にして、白川上皇と祇園女御の方のご研究は無視するって、どうなんですの!!! NHKはきっと、先生が亡くなられましたので、無茶苦茶で、どーでもで、どこの国の、いつの時代の話??? みたいな院政期を、やっているにちがいありません。

 人間も生き物なのですから、殺生禁断には、もちろんなのですが、まず第一に「人間を殺さない」という建前がありまして、それで当時の世の中がまるくおさまるわけがないですから、貴族僧侶の偽善なんですが、正式な死刑はなかったですし、よりにもよってとっくの昔に出家している法皇さんが、自分の目の前で自分が手をつけた女を殺させるなんてこと、ありえるはずもないんです。殺生は卑しい所業なんですから、尊い身が汚れるじゃないですかっ!!! 馬鹿馬鹿しい!!!
 西行と待賢門院堀河がまた、目をおおうような描かれ方です。

 私の院政期観は、角田文衛、五味文彦両先生のご著書によるだけのものなのですが、なんといいますか、ドラマの創作はどうでも好きにすればいいんですけれども、一応、その時代の基本だけははずさないでくれっ!!!です。
 で、王朝文化を、画面汚く、とてもいやなもののように描いていますし、どうしてここまで自国の文化を貶めたいんですかね、NHKは。もうひたすら、時代に対しても日本文化に対しても、愛がないんですわよ!!!

 と、脱線してしまいましたが、ちょっと、ですね。
 龍馬暗殺薩摩藩黒幕説は、現在ではだいぶん減ってきたようなんですが、それでも「龍馬は大政奉還推進派だから平和路線で、中岡慎太郎と対立していたし、薩摩藩も邪魔だった」みたいな見解は、まだあるんじゃないんでしょうか。薩摩藩も一枚岩ではありませんでしたし、薩摩藩にしましても中岡慎太郎にしましても、状況に応じての変化は、当然あるんですけれども、それは置いておきましても。
 ともかく、です。龍馬の平和路線を示すとされますその元凶の一つが、暗殺される三日前、慶応三年11月11日付け林謙三当ての書簡の追伸に「彼玄蕃ことハヒタ同心ニて候」とあります文句の解釈です。

 えーと、ですね。現在、青空文庫に龍馬の手紙はほとんどあがっておりまして、これも無料で見ることができます。図書カード:No.52031です。
 これの本文には、「今朝永井玄蕃方ニ参り色談じ候所、天下の事ハ危共(あやふしとも)、御気の毒とも言葉に尽し不レ被レ申候」とありまして、龍馬は当時、幕府若年寄格の永井玄蕃(尚志)に頻繁に会いにいっていまして、「今朝永井玄番のところへ行っていろいろ話した所が、天下のことは危ういし、気の毒だし、言葉にできないほどだよ」と、「同情?」と思われる言葉の後の追伸に「ヒタ同心」がくるものですから、「わし(龍馬)は永井玄番と同じ思いだよ」と解釈するむきが、けっこう多いようなのです。

 永井玄蕃(尚志)って、野口武彦氏をしまして「永井尚志という武士は、三島由紀夫の曾祖父にあたるので何となく言いにくいのだが、有能な外交官だったせいか責任転嫁の名人であった」といわしめたお方でして、お生まれはいいですし、一橋派で、オランダの長崎海軍伝習所の所長でしたし、開明派なんですが、なんとも変に軽いとでもいうのでしょうか、信用ならないところのあるお方です。
 
 手紙の相手の林謙三は、芸州藩出身で、薩摩海軍の指導をしていた人ですが、龍馬とも知り合いで、当時、大阪にいました。
 で、前日の龍馬の手紙とあわせ読みますと、どうも身の振り方を相談したような感じです。
 「龍馬全集」を見てみますと、宮地佐一郎氏の解説で「ヒタ同心」「ぴったり心のあった仲間ほどの意味」となっていますから、これがその最初の解釈なんでしょうか。といいますのも監修の平尾道雄氏は、「海援隊始末記」の方では、なんと「彼玄番ことはヒラ同心にて候」になっていまして、一応、「右の文中にある永井玄番はのちの幕府若年寄であり、進歩的な人物と目され、龍馬と相通ずるところを持っていたようである」と解説はなさっているのですが、「ヒタ同心」「ヒラ同心」では、えらく意味がちがいますよねえ。

坂本龍馬 - 海援隊始末記 (中公文庫)
平尾 道雄
中央公論新社


 「ヒラ同心」では、「永井玄番はけっこうな役職の割には、平の同心みたいに大したことのない人物だよ」と受け取れます。
 「龍馬全集」の書簡の写真を見ます限りは、「ヒタ同心」でよさそうに思うのですが、なぜ「わし(龍馬)は永井玄番とヒタ同心」という解釈になるのかが、私にはさっぱりとわかりません。

 大佛次郎氏の「天皇の世紀 大政奉還」に、当時、慶喜のブレーンとして京都にいた西周(にしあまね)の「西家譜略」の一節が引用されています。国会図書館の「江戸時代の日蘭交流」に西家譜略・履歴がありますので、関心がおありの方はお確かめになってみてください。
 
天皇の世紀〈7〉大政奉還
大佛 次郎
朝日新聞社


 「この頃のことなりける。英国公使への書翰を表にて命ぜられ英文に訳せしめられたり。その旨は今度政権を朝廷に奉還するは旧来覇府に於ける異る莫(な)しとの事なり。是は若年寄の永井玄番頭の申付けなり」

 つまり、大政奉還について、イギリス公使パークスへ英語で説明の手紙を書きますのに、永井玄番は「幕府の役割はまったく変化しない」と書けと、西周に命令したというのです。
 西周については前回に書きましたが、津田真道とともに幕府のオランダ留学生として法学、経済学を学び、当時の日本人としては、もっともきっちり西洋の政体や法律について知っていただろう学者です。
 幕府の役割をなんにも変えるつもりのない永井玄番と龍馬が「ヒタ同心」なんでしょうか???

 私にはそこまで龍馬が観察眼のない男とも思えませんし、身の上相談をしたらしい林謙三に答えまして、「大兄御事も今しバらく命を御大事ニ成さられたく、実は為すべきの時は今ニてござ候。やがて方向を定め、修羅か極楽かに御供申すべく存じ奉り候」、つまり「しばらくの間、命を大事にしていなさいよ。今、なすべきことをしていて、やがて方向が定まるから、そうなったら天国か地獄か、どちらにせよ一緒にいきましょうぞ」と言う龍馬が、その直後に、なにも変えたくない永井玄番とひたすらに同じ心、なんぞと書くわけない、と思うのです。

 したがいまして、私の解釈は、「永井玄番は慶喜公とヒタ同心だよ」でして、「今朝永井玄番のところへ行っていろいろ話した所が、あんなにも世の中を変える気がないじゃあ、天下のことは危ういし、幕府もどうなることやら気の毒だし、言葉にできないほどだよ。ああ、永井は慶喜公とヒタ同心だから、永井がそうだということは、慶喜公もそうだということです。今しばらく、命を大切に待っていてください。開戦は近い。天国か地獄か、いっしょにいきましょう」です。
 解釈の問題ですから証拠はないんですが、とりあえずなにかないかな、と「龍馬全集」を見てみましたところ、「犬尿略記草稿、男爵安保清康自叙伝」で、後年のことながら、手紙を受け取った林謙三さんご本人が、解説してくれていました。

 調べてみましたら、「男爵安保清康自叙伝」は近デジにありまして、全編、読むことが出来ます。ノーパソの画面が小さく、読み辛いので、まだ全部は読んでないんですけど。
 林謙三は、後の名前が安保清康。龍馬の死の後、薩摩の春日丸の責任者となり、阿波沖海戦を戦って、奥羽北陸に転戦し、明治、海軍創設に参加し、男爵にまでなったんですね。
 薩摩藩に春日丸(キャンスー)を買うことを勧めたっていうんですけど、うーん。キャンスーはモンブランが仲買した船ですしねえ。
 「薩藩海軍史」にはちがうことが書いてあるのですが、萩原延壽氏の「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄 」(朝日文庫 (は29-1))の何巻だったかに、イギリス人の書翰が引用されていまして、それによれば、モンブラン伯爵が仲買したんだそうなんです。
 まあ、どっちみち、モンブラン伯の長崎憲法講義に書いておりますが、長崎の佐々木高行が、モンブラン伯爵の憲法講義を受けているわけですし、薩摩がパリでなにをしてきて、なにを欲しているのかを、いくらなんでも龍馬がまるで知らない、ということは、ありえないでしょう。
 そういうわけでして、安保清康男爵が聞きました坂本龍馬の当時の時事分析を、以下引用です。

 将軍建議を容れ大政を奉還するも、天下の現況は危機一髪の間に在り。然るに四藩(薩長土芸)一致の運動も今日に至りては内実二派に分かれんとす。薩長は依然固結し、両国の全土と生命とを尽し目的を達せんとて断乎として動かず。芸藩は最初より薩長と意見を一にせしも、方今に至り土藩に同意するの色あり。しかれどもその目的においては依然変化せず。
 薩長の見るところは数百年間睡眠したる天下太平の夢は尋常の手段にては醒め難し。これを驚覚せしめんと欲せば、砲声天を震動し、万雷地より迸(ほとばし)らしむにしかず。これ兵を擁するゆえんなり。しからざれば真に王政復古し、積年の旧慣を一洗し、宇内各国と併立しがたしというにあり。
 また土藩の論拠は然らず。今や外敵我の虚を虎視す。内乱は勉めて之を避けざるべからず。また兵を擁するの行為は強迫に類する嫌あり。あくまでも正道平和の手段を取り、もってその目的を達するにしかずというにあり。
 我その中間に立ち、木戸、西郷、大久保はむろん、後藤、辻等と謀りしも、彼ら互いに固執し、終に四藩提携して一致運動するの命脈ほとんど絶せり。つらつら将来を推考するに、開戦は到底避くべからず。ことここに到りて四藩は再び合同して素志を貫くや、また正反対の地位に立つや、憂慮に堪えず。
 かつ今回の大政奉還も或いは一時の策略たるやも期しがたし。しかれども西郷、木戸、大久保のごときは計略に乗るものにあらず。幕府もよくこれを知る。しかれば大政奉還もその真意たるものと断定するも可なり。
 去りながら戦争の大小は確信し難きも必ず開戦となることは確信す。
 足下は開戦に至るも、必ず之に干与せず、我海援隊所有の船をもって、北海道に避け内乱を顧みず、一意足下の意志たる海軍術を養成せよ。異日外敵と戦ひ、国家に忠死すべし。今日は兄等の死すべき時に非ず、内乱は直に鎮定すと信ず云々。


 うーん。
 微妙なんですが、「幕府が大政奉還したのは一時の策略にすぎないのかもしれない」というのですから、なにも変える気がない永井玄番の真意を、龍馬は見抜いていたのではないでしょうか。
 ただ、永井がなにをしゃべったのか、「しかし幕府も馬鹿ではなく、西郷、木戸、大久保がそんな策略にひっかかることはないと知っているのだし、大政奉還の実を示す可能性にかけるのもありだ」という希望的観測も、持ってはいたみたいですね。
 ですけれども、あくまで武力倒幕に反対の土佐藩と、全土と全生命を断乎として倒幕にかけようとしている薩長の中間に自分はいる、と龍馬は言っていた、というのですから、永井玄番とヒタ同心は、ありえないと思えます。
 
 かならず戦いは始まる、と、龍馬は確信していたというのです。
 しかし、薩長が孤立して戦うのではないだろうか。あなた(林)の出身の安芸、自分の出身の土佐、ともに、薩長とともに戦わない、ということになりそうで心配だ。そうなったとき、優秀な海軍の人材であるあなた(林)は、戦をさけて命を大切にし、蝦夷で海軍の人材を育てることに専念してはどうだろうか? 内乱は長くはない、すぐに終わると信じたい。
 だいたい、龍馬はそう言ってくれていたのだと、林謙三、後の安保清康は、受け取っていたようです。

 書面にはまったく出てこないのですが、時期からいって、ちょうど薩摩は春日丸(キャンスー)を買い込んだばかりのころで、林謙三は薩摩海軍の指導者として、開戦が近そうだと感じていたようです。
 しかし、林は薩摩藩籍を持ってはいませんで、出身は安芸ですし、「芸、土はどういうつもりでしょうか? 自分はこのまま薩摩にいて、故郷を敵にしたりすることにはならないでしょうか?」と、龍馬に相談したのだと思われます。
 で、龍馬は、「できれば海援隊で活躍してもらいたいけれども、海援隊では君にまかせる船が用意できないので、君の能力を買ってくれるのならば、薩摩だろうが幕府だろうがいいんじゃないだろうか。しかし、海援隊の名前をもっていればいいし、できれば命は大切にして、日本の海軍の人材を育てることを考えてくれないだろうか」という、龍馬の返事だったのではないでしょうか。

 「龍馬全集」に収録されています「男爵安保清康自叙伝」なんですが、驚きましたことに、後半は、林さんご本人が慶応3年11月16日未明、龍馬が襲われて絶命し、中岡慎太郎が苦悶しております近江屋を訪れたときの話なんです。
 大昔に、ですね。雑誌かなんかで、「龍馬と慎太郎が襲われた後、近江屋の人々は怖れて近づかず、頼まれてシャモ肉を買いにいっていた菊屋峯吉も怖がったのか逃げてしまい、明け方まで放っておかれた」といったような話を、読んだような気がして、ちょっとひっかかっていたんですが、この林謙三の自叙伝によれば、たしかに、そのようにも受け取れなくはないんですね。
 
 どうも、ですね。大阪から京都へ向かう川船には、夜中に出て明け方京都に着く便があったようでして、前回も引きました高松太郎の書簡でも、16日に知らせを受け取った大阪の海援隊士が、夜の船に乗って朝入京、とあります。
 龍馬と会う約束をしておりました林謙三は、15日の夜の船で京へ向かい、16日未明に伏見に着いて、近江屋を訪れました。
 つまり、近江屋に着いたのは明け方のことで、龍馬と慎太郎が襲われたのは15日の夜のことですから、相当に時間がたっています。
 「近江屋はしんとしていて、血濡れた足跡がところどころにあった。なにかあったのかとびっくりして、2階に駆け上がると、龍馬は自室で抜刀したまま血だまりに倒れ、次の部屋では慎太郎が半死半生で苦悶していて、隣の部屋では従僕が声を上げて煩悶していた。愕然として、近江屋の主人に問いただすと、震え上がって答えることもできず、海援隊士・白峰駿馬の宿の場所を告げて、そちらに聞いてくれと言った」
 というようなことで、林は白峰に知らせていっしょに引き返し、慎太郎の話を聞いた、というのですが。
 通説とまったくちがう話で、後年に書かれたものですし、記憶ちがいか、と思わないではないのですが、以下、高松太郎の書簡から、引用です。

 不幸にして隊中の士、丹波江州、或は摂津等四方へ隊長の命によりて出張し京師に在らず。わずかに残る者両士、しかれども旅舎を同うせず。変と聞や否や馳せて致るといえども、すでに敵の行衛知れず、京師の二士速に報書を以て四方に告ぐ。同十六日牛の刻に、報書の一つ浪花に着く。

 「京師の二士」が林謙三と白峰駿馬なのだとすれば、話がぴったりとあいますし、林謙三は医者の家に生まれて、長崎で当初は医者になる勉強をしていて、ボードウィンに習っているくらいですから、応急の手当てくらいはできるんです。うーん。
 定説では、近江屋の主人は土佐藩邸に知らせ、シャモ肉を買って帰った菊谷峯吉は白川の陸援隊に走って田中光顕(長生きして号が青山でしたので、青山のじじいと呼ばせていただいております)に知らせ、田中は薩摩藩邸によって吉井友実を誘って駆けつけた、ってことなんですが、土佐藩邸の寺村左善は、外出先で知らせを受けて、桐野利秋と龍馬暗殺 後編に当日の日記を引用しておりますが、こういう時勢になったので、罪は問わないことになったけれども、復籍したわけではないので、表向き、土佐藩邸は関係ないと書いているくらいで、藩邸の土佐藩士に近江屋への出入りを禁じ、知らんぷりをしていた可能性が高そうです。
 そして青山のじじいも、実は飲み会だったのか遊郭にいたのか、吉井友実といっしょに遊んでいた可能性は、十分にあります。
 林謙三は吉井とは親しいですから、吉井がかけつけていて気がつかないということはありえませんし、それに、リアルタイムで最初に事件が記されているのは、11月16日付けの大久保利通の岩倉具視宛書簡でして、15日に入京しましたばかりの大久保が事件を知らされましたのは、どうも吉井からではなく、岩倉具視の使者からだった、ような感じを受けるんです。
 (追記)妄想です。
 近江屋の主人の報告を受けた土佐藩邸では、慌てて寺村左膳をさがして知らせますが、「お国とは関係ないぞ!!! 知らんぷりしろ。見張りを立てて、だれも藩士は入れないようにしろ」と命令しましたので、島田庄作が見張りに立っただけで、倒幕派の藩士は、だれも知らせを受け取りませんでした。そこへシャモ肉を買って帰った菊谷峯吉が現れ、峯吉は藩士じゃありませんので島田はいっしょに様子を見に上がり、峯吉は後を、実は「見張るだけでなにもするな」と命令を受けている島田に任せて、陸援隊に知らせに走ります。菊谷峯吉の報告を受けた白川陸援隊の大橋慎蔵は、青山のじじいをはじめ、他の幹部連中が遊びに行って留守ですし、近江屋には倒幕派の土佐藩士が行っていると信じて、すわっ!!! 新撰組が攻めてくるぞー!!! 岩倉公も危ないかもっ! と岩倉のもとにかけつけ、遊んでいる幹部連中をさがさせますが、朝まで居場所がわからず、林謙三は土佐藩士じゃありませんので見張りの島田の知ったことではなく、結局それで、陸援隊の土佐勤王党士は、海援隊関係の他藩人であります林謙三と白峰駿馬に遅れをとり、恥じて後世に嘘を伝えることになった、とか。
 「神山左多衛雑記」によれば、15日夜のうちに、福岡孝悌が現場を見分したっぽいですけど、見ただけで、後は知らんぷりだったはずです。なにしろ寺村左膳の方針がそうなんですから。「土岐真金履歴書」では、土岐真金(島村要)が「福岡藤次氏ノ通知ニ依リ岡本健三郎氏ト同行シテ該処ニ至リ、未絶命石川氏ノ介抱シテ陸援隊ノ田中光顕氏等ニ通ジ田中氏来ル」と書いているんですけど、慎太郎は17日夜に絶命しているんですから、福岡の通知が16日の朝以降なら、林謙三より遅かった可能性は十分すぎるほどにありますし、島村要も海援隊士で、青山のじじいはそれより遅かったことは確かです。福岡は近江屋の隣に住んでいましたから、見張っていて、林謙三と白峰駿馬が来たことを知り、これは土佐人も加えた方がいい、と判断して、大人しそうな島村に、倒幕派ながら上士の岡本を加えて知らせたんでしょう。
 なにしろ、12月4日付けの手紙で、太宰府の清岡半四郎が慎太郎の家族に事件を報じているんですが、慎太郎が生きていて、いろいろと語り残したことは書きながら、いったい誰が駆けつけ、慎太郎の話を聞いたのか、いっさい書いてないんです。話を聞いたのは、土佐勤王党の人間ではなかった、と考えた方が自然です。


 実際のところ、龍馬と慎太郎の暗殺に、謎は多いのです。
 しかし私は、一会桑側のしたことだという基本は、まちがっていないと思っています。
 にもかかわらず、なぜ公式の捕り物ではなく暗殺だったかといいますと、龍馬と慎太郎は、こ時期、土佐藩の保護を得ている形で、公然とそれを無視することで、一会桑は土佐を敵にまわしたくはなかったからです。
 そして、なぜ暗殺したか、という答えも、そういうことではないんでしょうか。龍馬と慎太郎は、土佐藩を薩長と結びつけ、倒幕に押しやる浪士の巨魁であったから、です。

 京都の土佐藩白川藩邸に浪人を集め、御所警備の十津川郷士まで加えて、薩摩から洋式調練の教師を招いている慎太郎の陸援隊は、もちろんのこと、どこからどー見ましても、土佐と薩摩を結びあわせて倒幕を目指す拠点ですし、海援隊にしましても、イカロス号事件を起こして(幕府から見れば海援隊が疑わしかった、ということです)面倒を引き起こすかと思えば、紀州徳川の船にぶつかっておいて脅しにかかり、双方とも浪士相手かと思えば、ずるずると土佐と薩摩が出てきまして、仲良く浪士の後ろ盾になっているわけです。
 一会桑にしましたならば、「あの浪士の巨魁を片付ければ、土佐が薩摩と結びつくことはなくなり、土佐をとりこめる」ということだったと思えますし、その土佐の内情を、佐幕派だった土佐藩要人が一会桑側に語っていた、ということは、十分にありえると思います。
 
 
龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた 幕末京都の五十日
中島 信文
彩流社


 ノブさまのご著書に刺激を受けまして、少しだけですが私も、龍馬と慎太郎の暗殺について、思いめぐらせてみました。

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15 コメント

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偶然です (ノブ)
2012-02-06 09:54:37
 実は、私もあれから林健三への手紙を、そして、望月出した11月14日の手紙を何度も、読み返しておりました。
 本では、龍馬は平和路線ではない点は余り、論じませんでしたが、林健三への手紙は、郎女様がおっしゃるように、幕府との開戦もありと、覚悟を決めていたと思っています。
 海援隊で薩摩と組んで。
 だから、郎女さんのおっしゃる通り、林は龍馬と相談するために京に上った。
 実は、林健三の自叙伝で、郎女さんが述べたような感じで、龍馬暗殺後は谷や田中は、相当、遅れてきたと論証もしたかった。
 でも、紙数もありなどで。
 「ヒタ同心」の解釈は、郎女さんの解釈も成り立つと思います。
 寺村などは慶喜を「御同志」ですからね。永井と慶喜は同心と、笑い。寺村左膳も見ていたのは間違いないです。
 林健三の自叙伝は、薩長土以外の資料として貴重なのですね。広島藩ですから。
 龍馬と中岡慎太郎の暗殺では。
 田中光顕などの証言資料は、いずれにしても、ご指摘のように、臭い。臭い。
 岩崎鏡川の資料も臭いです。
 取り急ぎ。
 
返信する
誤記、林謙三 (ノブ)
2012-02-06 10:22:13
 駄目ですね。
誤記が多く。
 岩倉具視への対応、それと、谷や田中の面目が潰れたという、解釈。よい推理です。
 関心です。その通りだと思います。明治になって、二人は恥じたでしょうね。
 
返信する
まあ、ノブさま (郎女)
2012-02-06 13:42:29
 実際、資料を読んでおりますと、おっしゃるように相当に土佐藩邸の動きは怪しいです。私は、暗殺を依頼したとは思いませんが、知っていて黙認した可能性は、高そうに思います。

 青山のじじいは、陸奥宗光が決行した天満屋事件への対応の冷たさが、昔からちょっと気になっていたのですが、慎太郎が生きていたのに駆けつけることができず、海援隊に遅れをとったと歯ぎしりしていたのだとすれば、なんかわかるような気がします。
 谷は、悪い人じゃないんですが、相当に面目にこだわってそうな感じですね。「自分が駆けつけたのは相当に遅かった」という点だけは、正直に言っていますし、中岡慎太郎の細々とした話も、伝聞なの? と思えなくもない言い方ではあります。

 ただ、ですね。ノブさま。寺村の日記が状況を詳しく記しているのは、谷たちの報告から後に書いたのだと思います。私、憲政資料室で大山巌の渡欧日記の実物を見て知ったんですが、まずはメモを作って、それをその日の夜だか翌日だか数日まとめてだか、ともかく補足を入れて読めるようなものにして、それをまた一ヵ月分だかまとめて、清書するんですわよ。つまり三種類ありました。寺村の日記は、おまけに後世の写本みたいですし。
返信する
 岩倉の説は、参った (ノブ)
2012-02-06 15:25:24
 岩倉から大久保に龍馬らの暗殺が伝わったという点からの推理と、ヒタ同心の解釈。
 その通りだと、事実のような気がします。
 特に、幕府はかわいそうな存在(勝や大久保一翁などの話も、以前に聞いており)、当時の幕府は、やはり駄目だと龍馬は感じ、永井も同じような存在で駄目みたいと、龍馬は林に書いた。その通りだと。

 寺村左膳日記は、その通りで、本には書いたのですが、当日に書いたものではない可能性があるとは、説明はしています。最初の方に。
 郎女さんのおしゃる通り、後でまとめたものである可能性もあるし、岩崎鏡川の残した「寺村左膳手記」、別の纏めたもの(佐幕派の動きを削除したもの)かもしれない可能性も、実はあります。

 当時を考えると、龍馬らを暗殺排除したい思いで、切実なのは土佐藩佐幕派です。
 一会桑も、龍馬らが居るより、居ない方が良いとは思ってたと思うけど、龍馬ら抹殺をもっとも切実で身分制度などの怨念もあるのは土佐藩佐幕派です。彼らの黒幕は妥当と考えています。
 当時、龍馬と中岡慎太郎を一会桑が殺して、土佐藩を仲間にというのは、司馬遼太郎の偉人化伝説と余り変わらないと思います。
 そこまで、龍馬らが土佐藩を左右する、できる人物とみるかによるということです。一会桑の方が、そう、みていたか?。また、幕府側が見ていたか。

 身内が、意外と内情も良く知り、一番、犯罪などでは多いのですよ。身内の憎しみとかは、他人よりもかなり大きい。笑い。(暗殺は、身内が多い。)
 (ここは、平行線かな??笑い。)

 土佐藩佐幕派が会津藩に味方するという図式が、当時はおおきかったと思います。

*寺村左膳日記は、佐幕派の要人の日記ですから、明治以降に削除、改竄等があるのは止むをえませんが、当時、佐幕派が、如何に中岡慎太郎と龍馬を危険人物と思っていたかは、よく証明できる一級資料です。

 しかし、郎女さんの推理で、事件当時の近江屋の状況や、龍馬らの心情は、かなり固まっていくかもしれません。
 平和論とかが、横行するのは、やはり歴史とは区別すべきで。小説的には良いが。
 
 田中じじいなどと呼べる、四国の地が、うらやましい。
 イカルス号事件では、寺田典膳は長崎に土佐藩のものとして、幕府とのやりとりなどででかけており、寺田典膳が、当時の龍馬を、どう思ったかなど、調べたかったが、出来ず。
 この件は、郎女さんに聞こう、聞こうと
思っていたのですよ。以前は。
 詳しいだろうと。
 これは、二人だけで話したい内容でしてね。
でも、出来なかった。>_<

 取り急ぎ。

 
返信する
殺害状況の件 ( ノブ)
2012-02-06 16:02:50
 寺村が谷や田中から聞いたなどということはあり得ません。
 福岡藤次の方が先に事件を知っており、彼から聞くとすれば、聞くでしょう。
 当時、寺村は白川藩邸の武士を浪士輩と言い、谷などから聞くなどということは、ほぼ、あり得ません。
 それに、鏡川伊一郎氏も述べているように、
芝居は、かなり早くに終わっており、事件当時は、寺村と寺田は近江屋近くに居た可能性の方が高いのです。
 いや、近くに居たと私は思っています。

 この点は、重要なので。
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ノブさまへ (中村太郎)
2012-02-06 16:27:38
拝読しました。私は単なる桐野の追っかけで、郎女様のように知識もなく、議論する能力もありませんので、『一般』として、率直に感想を述べます。
ノブさまの結論に納得できません。左膳の日記の解釈がどうしてああなるのか、理解できないところも。(アホのせいもあるでしょうが。)
それと、人名の間違い、校正ミスなど、誤記がやや多い点が誠に残念でした。
あと、桐野の追っかけとして、言わせていただきますが。
「旧称 京在日記」とありますが、「京在日記」はいつ「旧称」になったのでしょう。「在京」でなく「京在」なのは私もひっかかりますが、でも日記の表紙に「京在」と書かれているのですから、致し方ございません。
田島秀隆氏の翻刻の「京在日記」をご覧になっていないと推察しますが、それには、表紙が載っています。その文字を見ると私は桐野の字とは思えず、後世の人が「京在日記」と書き込んだと思っています。勿論、原物を見たことはありませんが、日記のコピーを見ると「紙数五十八枚(実際は59枚+α)」の書き込みも入っていますから。
結論には賛成できませんが、暗殺資料の考察など、勉強になったところもあり、面白かったです。どうか、お気を悪くなさらないでください。

郎女さまへ
ノブさまのブログへ伺おうかと思いましたが、ノブさまのご訪問がありましたので、こちらに書き込みさせて頂きました。どうもすみませんでした。
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中村太郎様へ (ノブ)
2012-02-06 20:35:05
 お読み下さり、ありがとうございます。
誤字、校正ミス、確かに、私も残念でした。当方、論旨に夢中で至らなかったのと、出版社との不慣れな交流、そして、差し迫ってしまった発売日などが影響して。直したと思ったものが、治っておらずだったりもあり。
 桐野の件は、言い逃れはいたしません。
これから勉強します。
 桐野が龍馬らをやったという資料でも出ると面白いですがね。

 郎女様
 ブログをお借りして、すいません・
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それが、ノブさま (郎女)
2012-02-06 21:47:12
私、あんまり土佐の資料は読んでないんですの。
中岡慎太郎関係をのぞいては、です。慎太郎は全集を持っていますので、一応。よく見たら、寺村日記も一部、収録されていました。

あー、寺村が谷たちから聞いた、は、ちがうかもですね。島田庄作から、ですかね。谷は上士で、一応、土佐藩邸の役職についているわけですから、寺村が話を聞かない、ということはないです。福岡が先知っていた、といいますのは、島村要(土岐眞金)の履歴書とやらに出てくる話ですね? 土岐眞金履歴書って、もしかしまして、故・西尾氏の発見じゃなかったでしたっけ? だとしますと私、いまひとつ、信用がおけないんですけれども、おけるとしましても、「未絶命石川氏ノ介抱シテ」って、17日夕刻に慎太郎は命を絶っているわけですから、福岡が島村と岡本に伝えたのは16日の朝以降、昼頃でもまったくおかしくないわけでして、福岡は知っていたでしょうけれども、見張りの島田より先に状況を知ったとは、思えないです。
そうだ! えーと、神山左多衛雑記というのも、あるんでしたっけ? 隣だから福岡が見に行って、しかし放っておいて、知らせもしなかった可能性がありますね。
薩摩藩邸でも、大久保は早くに知っていても、桐野は知っていませんし。

土佐藩邸上層は、陸援隊・海援隊と新撰組の斬り合いが勃発するのではないかと怖れていて、知らんぷりとともに、知らせを遅らせたと思います。

芝居が終わったら、普通は料理屋でごちそうを食べるものかと。近喜にいたと、日記に書いていませんでしたっけ?

以前にも書きましたが、内輪もめは内輪でするものです。藩には面目というものがありますから、藩内の内輪もめの暗殺を他藩に頼んだりは、普通しません。他藩に弱みを握られて、危険きわまりないですから。
だけど邪魔だから黙認、なら、ありえると思うんです。平行線ですね(笑)

しかし、私が海援隊、陸援隊が浪士隊でありながら土佐の保護下にあることの意味に注目しましたのは、ノブさまのご著書のおかげ、です。土佐の長宗我部侍(土佐勤王党)については、当時の京都で、相当に有名だったと思います。天誅組の変を引き起こしたのも彼らですし、その他、事件は長州人より多く引き起こしてます。それが、他藩浪士も含む集団として、土佐の保護下に入っている、というのは、一会桑にとって、大事件です。
土佐藩が彼らに動かされる云々ではなく、新撰組なりと彼らが勝手に戦い出す可能性は十分にあり、土佐が彼らを保護下に置いているなら、それがきっかけで藩同士の激突に発展することだって、ありえます。

二人を暗殺すれば、土佐は陸援隊、海援隊への保護をやめるのではないか、という思惑はありえた、と思うんですね。

と、ご著書のおかげで、けっこう楽しませていただきました。

中村さま、ノブさま、どうぞ、ごいっしょに楽しんでくださいませ(笑)
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あー、追記するつもり (郎女)
2012-02-06 22:47:48
なんですけど、慎太郎の家族に事件を伝えた清岡半四郎の書簡、12月4日付けで、高松太郎の手紙より早いんですが、半四郎は太宰府にいて伝聞ですし、慎太郎が話した事件の様子は詳しく書きながら、だれが駆けつけてその話を聞いたのか、いっさい書いていません。陸援隊士、それも土佐勤王党の人間が駆けつけて聞いたのなら、名前を書きそうなものなんですが。事件後の話は、確実なものでは高松太郎の書簡にしかないんですよね。

楽しんだ、とはいいますものの、高松太郎や清岡の書簡を読んでいると泣けてきますし。慎太郎は生きていたのに、と思うと悔しいです。林謙三が、ボードウィンの弟子で、外科としては、当時の日本においてはかなり信頼できる方の腕前だったのではないかと思われ、少なくとも彼が看取った、ということが慰めでしょうか。
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解釈って、難しいものです。 (郎女)
2012-02-07 14:09:22
寺村が芝居を見た時間の話になっていましたので、検索をかけ、鏡川さまのサイトにとんでみましたら、谷干城の回顧談のうち「そこで此坂本の斬られたと云ふ報知のあった場合に直ぐに駆付けて行った者が、私と毛利恭助と云ふ者である。是は京都三条上る所の高瀬川より左に入る横町の大森と云ふ家がある。毛利両人は其大森の家に宿をして居った。それで先づ速い中であった。土佐の屋敷と坂本の宿とは僅に一丁計りしか隔て居らぬから、直ぐに知れる筈なれども、宿屋の者等は二階でどさくさやるものだから、驚て何処へ逃げたか知れぬ。暫くして山内の屋敷に言って来たものも、余程後れ私が行った時も最疾うの後になって居る」という部分、私とはまったくちがう解釈をしておいでです。
私の解釈は、「私(谷)と毛利が事件現場に駆けつけたのは、駆けつけた中では早い方だったけれども、近江屋の連中が怖がって、すぐそばの土佐藩邸へ知らせてきたのが相当に遅れ、私たちが駆けつけたのはそれからなので、事件があって相当に時間がたった後だった」なんですけど、これを鏡川さまは、「谷たちは近江屋が土佐藩邸に知らせてくるより先に現場へ駆けつけた」ととられていますね。どうしてそういう理解になるのか、私にはわかりませんけど。
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