例によって、長くなりすぎましたので、上下編に分けていましたところ、ミスってしまって上が全部消えてしまいました。
書き直しです。ふう。
広瀬常と森有礼 美女ありき10で、大洲藩の幕末を調べておりますうちに、いろは丸購入のきっかけになりました建白を、武田成章(斐三郎)の兄、亀五郎敬孝が出しているのだと知り、ちょっと調べてみたくなりました。
いろは丸って、海援隊が借りていて紀州藩の船にぶつかって沈み、賠償金問題で龍馬が活躍しました大洲藩の船です。
大昔に、いろは丸の謎、みたいな本は読んだことがあったのですが、内容をほとんど忘れてしまい、それほど関心をもっていなかった私の頭の中には、「いろは丸は海援隊が運用していた大洲藩の船」というイメージが強固にありました。
ところが、ちょっと資料や論文を読んでみますと、ちがうんですね。
結論からいいますと、「いろは丸は大洲藩が運用していて、一航海だけ海援隊に貸し出した大洲藩の船」なんです。
実は、NHK大河の「龍馬伝」、ほとんど見てないんです。初回、食事をとりながらBSハイビジョンの放送をちらちらっと眺めたんですけど、映像がこう、なんというのでしょうか、古い言い方かもしれませんが「ニューシネマ」っぽいのに、上士と郷士の対立が、お涙ちょうだいの母芸で終始してしまっている風で、「気持ち悪いなあ。この映像でやるなら、史実そのまま井口村事件をやるべき!!! ふんどし旗をおしたてた郷士の奮闘が似合う撮り方なのになあ」と、ぼんやり眺めていただけで、続きを見る気が失せました。(井口村事件につきましては古い記事ですが「大河ドラマと土佐勤王党」をご参照ください)
したがって、いろは丸事件がどう描かれたかも知らないのですが、まあ、TVなどのフィクションで坂本龍馬を描くにあたって、焦点は賠償金交渉でしょうから、いろは丸の購入経緯なんぞというのは、一般にはどーでもいいこととして扱われているのでしょうけれども、「これって絶対、司馬さんの影響だよねえ」と思い、下の本を読み返してみましたら、やっぱりそうでした。
以下、引用です。
「どうであろう、大洲藩はいっそ蒸気船を一隻買わんかい」
と、竜馬はもちかけた。国島はおどろいて、
「無茶をいわしゃるな。大洲は山国ぞなア、それに蒸気船を買うても運転する者がありゃせんがの」
「運転はわしらでやってやる気に」
と、竜馬は熱心にすすめた。
国島はだんだんその気になってきた。
いや、そのー、まず、大洲は山国じゃありませんから!!!
えー、それに、国島六左衛門は郡中奉行ですし!!!
さすが司馬さんです。
これが、ですね。虚実とりまぜで、いくら愛媛県人とはいえ、普通は大洲藩領がどこからどこまでだったかなんて知りませんから、すっと無理なく頭の中に入ってしまうんですね。だって、大洲城は内陸の盆地にありますから。
しかし、大洲城のある中心地には、肱川というかなり大きな川が瀬戸内海に向かって流れていまして、河口に長浜港という港があり、参勤交代は船ですし、お船手組だってちゃんといます。
しかも大洲藩領は海岸線が長く、19世紀のはじめ、瀬戸内海に面した郡中(現在の伊予市)に、大洲藩は苦労して萬安港(現在の郡中港)を築き、国島六左衛門が奉行を務めていましたこの郡中は、商人が集住する港湾都市になっていたんです。
いろは丸事件の基本文献のひとつが、豊川渉の「いろは丸終始顛末」(あるいは「いろは丸航海日記」)です。
豊川渉は、長浜の廻船問屋・豊川覚十郎の息子でして、いろは丸が大洲藩のものになってから、国島に頼まれ、父の覚十郎は俗事方、渉は機関見習いとなって、乗り組んだんです。その間、日記をつけていまして、それをもとに後年まとめましたのが、「いろは丸終始顛末」です。日記の原本は、現在失われているそうです。
司馬氏も、これを下敷きになさったと思われるのですが、実はこれにさえ、「いろは丸を大洲藩に斡旋したのは坂本竜馬」とは、書かれていません。では誰だったかといえば、「薩摩藩の五代友厚」です。
以下、「いろは丸終始顛末」から、引用です。(カタカナをひらがなにし、句読点をおぎなうなど、正確ではありませんので悪しからず)
慶応二年六七月頃、国島六左衛門氏に井上将策氏が随従して、軍用小銃購入として、長崎に出張になった。国島氏は豫て某々二三の同志と謀議があったものと見えて、薩洲士五代才助の周旋て、長崎出島に商館を構へていた「ボードイン」と云ふ阿蘭陀人の所有蒸気船、長さ百八十尺、約四百五十頓。六十五馬力、大洋中航海には帆を用ふるか故に三本檣の鉄船を船価約三万円で買受の契約が成立した。
いろは丸購入の経緯につきましては、昭和50年、桜井久次郎氏が「伊予史談」に『いろは丸と洪福丸 大洲藩商易活動の挫折』という論文を発表されており、またそれを踏まえた上で、平成16年、澄田恭一氏が『大洲藩「いろは丸」異聞~「大洲藩史料」からの考察~』(温故 復刊第二六号)を発表され、それぞれに「いろは丸終始顛末」以外の史料が紹介されております。
まずは澄田論文から、斡旋者について、ですが。
大洲藩史料
「国島六左衛門、大井上将策、井上勤吾、右の彦兵衛に伴ひ長崎に至り、薩人五代才助に依て蘭人アデリアンに示談を遂け、代金四万貳千両五度の拂込約定にて購求するを得たり」
大井上家系譜
「船号イロハ丸と称す。原和蘭国にてアビワと号。千八百六十二年打立、六十八馬力、百五十八馬力の功、長さ二百尺、幅二十九尺 深さ二十尺 一字九里行 石炭一日十トン 積高三百五十トン 和蘭国アデリアン所持 薩摩五代才助 和蘭コンシュール官ボードイエン周旋によりて約定す。価メキシコドルテル銀四万五千枚」
「大洲藩史料」は、加藤家が所持していたものですが、大洲市立博物館の学芸員の方のお話では、原本は戦災で失われているのだそうです。写本がありますが、だれが、いつ編纂したものかは、不明です。
国島六左衛門とともに、長崎へ蒸気船を買いに行きました井上将策は、維新後、苗字を大井上と改めました。したがいまして、これも後世の編纂資料ですが、「大井上家系譜」には、イロハ丸についての記述があります。
双方とも、船の元の持ち主が、ボードウィンではなく、アデリアンになっているのですが、斡旋人が五代で、「大井上家系譜」の方は、五代と共に、ここでボードウィンが出てきます。
斡旋者が龍馬ではなく五代であったことは、もともと豊川渉の「いろは丸終始顛末」がそうでして、わかっていただけたと思うのですが、蒸気船の元の所有者については、定説は豊川渉の記述に基づき、ボードウィンとされていました。澄田論文は大洲で発表されたものでして、一般には知られていません。
ところがこの春、大洲市によって、いろは丸の契約書が見つかった旨発表され、定説が覆ったんですね。
契約書はポルトガル語で、その翻訳を東京大学史料編纂所の岡美穂子氏に依頼していたため、発見から発表まで時間がかかったそうなのですが、現在、岡美穂子氏は「南蛮の華」という研究ブログを立ち上げておられまして、「いろは丸の契約証文」を拝見しますと、契約書のだいたいの内容がわかります。
船の持ち主は、マカオ出身のロウレイロ。新聞報道などではポルトガル人とされていましたが、ロウレイロはマカオ商人で、イギリス系のデント商会に傭われ、来日していたんだそうです。立会人として、アデリアン商会のメンバーが名を連ねているそうです。「大洲藩史料」「大井上家系譜」が、ともに「アデリアン」の名をあげていますことも、故のない話ではないようです。
岡氏は、「ボードウィンは大洲藩に金を貸していたのではないか」と推測されていますが、「大井上家系譜」が、周旋人として五代とともにボードウィンの名をあげていますことは、そう考えればうなずけます。
他にはっきりしたことといえば、船の値段が4万メキシコドルだったことと、契約の日付が1866年9月22日、これは慶応2年8月14日で、つまり、国島六左衛門と井上将策が最初に長崎に出かけましたときに、すでに契約は済み、全額払い込まれて、船名はいろは丸に決まっていた、ということです。
船の値段については、後で考察します。
なにより、定説に波紋を投げましたのが、慶応2年8月14日に、すでに契約が済んでいたことでしょう。
「定説」といいますのは、「いろは丸終始顛末」の以下の記述なんです。
「(購入したことが)大洲藩の庁議を経たものではないからして、大洲藩船の名義にすることか不可能である」
定説では、です。「新銃を買いに行ったのに、庁議を経たものではない蒸気船を買ってしまった」ということでして、国島六左衛門の切腹に結びつけ、そこに印象的に坂本龍馬が登場するものですから、往々にして、なにやら、いろは丸の運用自体を亀山社中、引き続いて海援隊が行っていたかのような話になっていたんです。
それは、ちがうんです!!!
とはいえ、「庁議を経たもの」であったかどうかは、微妙です。
実は契約書には、時の大洲藩主・加藤泰秋と家老三名の名前と印鑑もそえられています。
ただこれ、署名というには、全部が同じ筆跡でして、署名とはいい難いんですが、印鑑はそれぞれに押されています。
果たして、いろは丸の購入は「庁議を経たもの」だったのでしょうか。
「大洲藩史料」は、蒸気船の必要性は藩で討議され、「参政の輩協議を為し遂に汽船購求の議決に至り」としていまして、あきらかに「庁議を経たもの」だったことになっています。
一方、「大井上家系譜」は、「いろは丸終始顛末」と同じく、舶来の銃を買うために長崎へ派遣されたが、おりしも長州と幕府が戦争をしている最中で、それを見て必要性を感じ、「私に謀て蒸気船を買込」、買った銃を載せて帰った、としていまして、こちらは「庁議を経たもの」ではなかった、ということなんです。
そもそも大洲藩には、蒸気船購入の建白が、早くからあったんです。武田斐三郎の兄、敬孝のものです。
武田敬孝は、下級藩士でしたが、藩校明倫堂教授、藩主の侍購となり、取り立てられて、周旋方を勤めました。弟子も多く、長崎でいろは丸を買った井上将策も、その一人です。
桜井論文によれば、敬孝は文久3年(1863)、京で周旋方を勤めているときに、農兵取興しを建白して採用されますが、その建白書の中に「蒸気船大砲等速に新製可相成と奉存候」とあるんだそうです。
以降も、機会ある事に兵器の新調を進言し続け、慶応2年(1866)6月にも、新銃の購入を建白。しかし新銃購入は、敬孝が幕長戦争(第二次長州征討のことですが、大洲藩は藩主の姉が長府毛利氏に嫁いでいることもあって、あきらかに長州よりですので、この表現にします)の芸州口探索に出向いています間に、門弟の森井千代之進と井上将策が建白し、入れられていました。それを知って大喜びした敬孝は、再建白書の中で、「森井井上二生○建言仕候鉄砲購求之義御採用相成候段奉歓喜候」と、書いています。
一方、澄田論文に引用の「大洲藩史料」から、いろは丸購入にいたる経緯を、以下に要約します。
「元治元年(1864)に禁門の変が起こったとき、大洲藩では宮廷警護のために、急遽兵を上京させようとしたが、讃岐の多度津まで行ったところで、情勢を報告するため国許へ帰る京詰周旋方某に出会い、すでに騒動は終結したので上京の必要がなくなったことを知り、引き返した。その後、和船では緊急時に間に合わず、勤王において他藩に遅れをとるから、ぜひ蒸気船が欲しい、という話になった。平常には、藩産品を運び出したり、京大阪へ瀬戸内海を行き来する旅客を乗せたり、他藩の物産を運んで儲ければよいのだから、早く買おうという議論が起こった」
「大洲藩史料」は、その議論を藩庁も考慮し、「参政の輩協議を為し遂に汽船購求の議決に至り」、いろは丸購入になった、としているのですが、その議論の中心になっていたのは、あきらかに武田敬孝です。
なにしろ、敬孝の弟・斐三郎は、洋式兵術の専門家として幕府に取り立てられ、函館で、砲術、航海術を教えていたんです。
さらにいえば、函館時代の斐三郎は、文久元年(1861)、船長となって、ロシア領のニコラエフスクまで交易に出かけているんですね(長州の山尾庸三がこれに加わっていたといわれます)。
敬孝は弟と手紙のやりとりをしているのですし、弟の経験に刺激を受けないはずがありません。
次回へ続きます。
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書き直しです。ふう。
広瀬常と森有礼 美女ありき10で、大洲藩の幕末を調べておりますうちに、いろは丸購入のきっかけになりました建白を、武田成章(斐三郎)の兄、亀五郎敬孝が出しているのだと知り、ちょっと調べてみたくなりました。
いろは丸って、海援隊が借りていて紀州藩の船にぶつかって沈み、賠償金問題で龍馬が活躍しました大洲藩の船です。
大昔に、いろは丸の謎、みたいな本は読んだことがあったのですが、内容をほとんど忘れてしまい、それほど関心をもっていなかった私の頭の中には、「いろは丸は海援隊が運用していた大洲藩の船」というイメージが強固にありました。
ところが、ちょっと資料や論文を読んでみますと、ちがうんですね。
結論からいいますと、「いろは丸は大洲藩が運用していて、一航海だけ海援隊に貸し出した大洲藩の船」なんです。
実は、NHK大河の「龍馬伝」、ほとんど見てないんです。初回、食事をとりながらBSハイビジョンの放送をちらちらっと眺めたんですけど、映像がこう、なんというのでしょうか、古い言い方かもしれませんが「ニューシネマ」っぽいのに、上士と郷士の対立が、お涙ちょうだいの母芸で終始してしまっている風で、「気持ち悪いなあ。この映像でやるなら、史実そのまま井口村事件をやるべき!!! ふんどし旗をおしたてた郷士の奮闘が似合う撮り方なのになあ」と、ぼんやり眺めていただけで、続きを見る気が失せました。(井口村事件につきましては古い記事ですが「大河ドラマと土佐勤王党」をご参照ください)
したがって、いろは丸事件がどう描かれたかも知らないのですが、まあ、TVなどのフィクションで坂本龍馬を描くにあたって、焦点は賠償金交渉でしょうから、いろは丸の購入経緯なんぞというのは、一般にはどーでもいいこととして扱われているのでしょうけれども、「これって絶対、司馬さんの影響だよねえ」と思い、下の本を読み返してみましたら、やっぱりそうでした。
竜馬がゆく〈7〉 (文春文庫) | |
司馬 遼太郎 | |
文藝春秋 |
以下、引用です。
「どうであろう、大洲藩はいっそ蒸気船を一隻買わんかい」
と、竜馬はもちかけた。国島はおどろいて、
「無茶をいわしゃるな。大洲は山国ぞなア、それに蒸気船を買うても運転する者がありゃせんがの」
「運転はわしらでやってやる気に」
と、竜馬は熱心にすすめた。
国島はだんだんその気になってきた。
いや、そのー、まず、大洲は山国じゃありませんから!!!
えー、それに、国島六左衛門は郡中奉行ですし!!!
さすが司馬さんです。
これが、ですね。虚実とりまぜで、いくら愛媛県人とはいえ、普通は大洲藩領がどこからどこまでだったかなんて知りませんから、すっと無理なく頭の中に入ってしまうんですね。だって、大洲城は内陸の盆地にありますから。
しかし、大洲城のある中心地には、肱川というかなり大きな川が瀬戸内海に向かって流れていまして、河口に長浜港という港があり、参勤交代は船ですし、お船手組だってちゃんといます。
しかも大洲藩領は海岸線が長く、19世紀のはじめ、瀬戸内海に面した郡中(現在の伊予市)に、大洲藩は苦労して萬安港(現在の郡中港)を築き、国島六左衛門が奉行を務めていましたこの郡中は、商人が集住する港湾都市になっていたんです。
いろは丸事件の基本文献のひとつが、豊川渉の「いろは丸終始顛末」(あるいは「いろは丸航海日記」)です。
豊川渉は、長浜の廻船問屋・豊川覚十郎の息子でして、いろは丸が大洲藩のものになってから、国島に頼まれ、父の覚十郎は俗事方、渉は機関見習いとなって、乗り組んだんです。その間、日記をつけていまして、それをもとに後年まとめましたのが、「いろは丸終始顛末」です。日記の原本は、現在失われているそうです。
司馬氏も、これを下敷きになさったと思われるのですが、実はこれにさえ、「いろは丸を大洲藩に斡旋したのは坂本竜馬」とは、書かれていません。では誰だったかといえば、「薩摩藩の五代友厚」です。
以下、「いろは丸終始顛末」から、引用です。(カタカナをひらがなにし、句読点をおぎなうなど、正確ではありませんので悪しからず)
慶応二年六七月頃、国島六左衛門氏に井上将策氏が随従して、軍用小銃購入として、長崎に出張になった。国島氏は豫て某々二三の同志と謀議があったものと見えて、薩洲士五代才助の周旋て、長崎出島に商館を構へていた「ボードイン」と云ふ阿蘭陀人の所有蒸気船、長さ百八十尺、約四百五十頓。六十五馬力、大洋中航海には帆を用ふるか故に三本檣の鉄船を船価約三万円で買受の契約が成立した。
いろは丸購入の経緯につきましては、昭和50年、桜井久次郎氏が「伊予史談」に『いろは丸と洪福丸 大洲藩商易活動の挫折』という論文を発表されており、またそれを踏まえた上で、平成16年、澄田恭一氏が『大洲藩「いろは丸」異聞~「大洲藩史料」からの考察~』(温故 復刊第二六号)を発表され、それぞれに「いろは丸終始顛末」以外の史料が紹介されております。
まずは澄田論文から、斡旋者について、ですが。
大洲藩史料
「国島六左衛門、大井上将策、井上勤吾、右の彦兵衛に伴ひ長崎に至り、薩人五代才助に依て蘭人アデリアンに示談を遂け、代金四万貳千両五度の拂込約定にて購求するを得たり」
大井上家系譜
「船号イロハ丸と称す。原和蘭国にてアビワと号。千八百六十二年打立、六十八馬力、百五十八馬力の功、長さ二百尺、幅二十九尺 深さ二十尺 一字九里行 石炭一日十トン 積高三百五十トン 和蘭国アデリアン所持 薩摩五代才助 和蘭コンシュール官ボードイエン周旋によりて約定す。価メキシコドルテル銀四万五千枚」
「大洲藩史料」は、加藤家が所持していたものですが、大洲市立博物館の学芸員の方のお話では、原本は戦災で失われているのだそうです。写本がありますが、だれが、いつ編纂したものかは、不明です。
国島六左衛門とともに、長崎へ蒸気船を買いに行きました井上将策は、維新後、苗字を大井上と改めました。したがいまして、これも後世の編纂資料ですが、「大井上家系譜」には、イロハ丸についての記述があります。
双方とも、船の元の持ち主が、ボードウィンではなく、アデリアンになっているのですが、斡旋人が五代で、「大井上家系譜」の方は、五代と共に、ここでボードウィンが出てきます。
斡旋者が龍馬ではなく五代であったことは、もともと豊川渉の「いろは丸終始顛末」がそうでして、わかっていただけたと思うのですが、蒸気船の元の所有者については、定説は豊川渉の記述に基づき、ボードウィンとされていました。澄田論文は大洲で発表されたものでして、一般には知られていません。
ところがこの春、大洲市によって、いろは丸の契約書が見つかった旨発表され、定説が覆ったんですね。
契約書はポルトガル語で、その翻訳を東京大学史料編纂所の岡美穂子氏に依頼していたため、発見から発表まで時間がかかったそうなのですが、現在、岡美穂子氏は「南蛮の華」という研究ブログを立ち上げておられまして、「いろは丸の契約証文」を拝見しますと、契約書のだいたいの内容がわかります。
船の持ち主は、マカオ出身のロウレイロ。新聞報道などではポルトガル人とされていましたが、ロウレイロはマカオ商人で、イギリス系のデント商会に傭われ、来日していたんだそうです。立会人として、アデリアン商会のメンバーが名を連ねているそうです。「大洲藩史料」「大井上家系譜」が、ともに「アデリアン」の名をあげていますことも、故のない話ではないようです。
岡氏は、「ボードウィンは大洲藩に金を貸していたのではないか」と推測されていますが、「大井上家系譜」が、周旋人として五代とともにボードウィンの名をあげていますことは、そう考えればうなずけます。
他にはっきりしたことといえば、船の値段が4万メキシコドルだったことと、契約の日付が1866年9月22日、これは慶応2年8月14日で、つまり、国島六左衛門と井上将策が最初に長崎に出かけましたときに、すでに契約は済み、全額払い込まれて、船名はいろは丸に決まっていた、ということです。
船の値段については、後で考察します。
なにより、定説に波紋を投げましたのが、慶応2年8月14日に、すでに契約が済んでいたことでしょう。
「定説」といいますのは、「いろは丸終始顛末」の以下の記述なんです。
「(購入したことが)大洲藩の庁議を経たものではないからして、大洲藩船の名義にすることか不可能である」
定説では、です。「新銃を買いに行ったのに、庁議を経たものではない蒸気船を買ってしまった」ということでして、国島六左衛門の切腹に結びつけ、そこに印象的に坂本龍馬が登場するものですから、往々にして、なにやら、いろは丸の運用自体を亀山社中、引き続いて海援隊が行っていたかのような話になっていたんです。
それは、ちがうんです!!!
とはいえ、「庁議を経たもの」であったかどうかは、微妙です。
実は契約書には、時の大洲藩主・加藤泰秋と家老三名の名前と印鑑もそえられています。
ただこれ、署名というには、全部が同じ筆跡でして、署名とはいい難いんですが、印鑑はそれぞれに押されています。
果たして、いろは丸の購入は「庁議を経たもの」だったのでしょうか。
「大洲藩史料」は、蒸気船の必要性は藩で討議され、「参政の輩協議を為し遂に汽船購求の議決に至り」としていまして、あきらかに「庁議を経たもの」だったことになっています。
一方、「大井上家系譜」は、「いろは丸終始顛末」と同じく、舶来の銃を買うために長崎へ派遣されたが、おりしも長州と幕府が戦争をしている最中で、それを見て必要性を感じ、「私に謀て蒸気船を買込」、買った銃を載せて帰った、としていまして、こちらは「庁議を経たもの」ではなかった、ということなんです。
そもそも大洲藩には、蒸気船購入の建白が、早くからあったんです。武田斐三郎の兄、敬孝のものです。
武田敬孝は、下級藩士でしたが、藩校明倫堂教授、藩主の侍購となり、取り立てられて、周旋方を勤めました。弟子も多く、長崎でいろは丸を買った井上将策も、その一人です。
桜井論文によれば、敬孝は文久3年(1863)、京で周旋方を勤めているときに、農兵取興しを建白して採用されますが、その建白書の中に「蒸気船大砲等速に新製可相成と奉存候」とあるんだそうです。
以降も、機会ある事に兵器の新調を進言し続け、慶応2年(1866)6月にも、新銃の購入を建白。しかし新銃購入は、敬孝が幕長戦争(第二次長州征討のことですが、大洲藩は藩主の姉が長府毛利氏に嫁いでいることもあって、あきらかに長州よりですので、この表現にします)の芸州口探索に出向いています間に、門弟の森井千代之進と井上将策が建白し、入れられていました。それを知って大喜びした敬孝は、再建白書の中で、「森井井上二生○建言仕候鉄砲購求之義御採用相成候段奉歓喜候」と、書いています。
一方、澄田論文に引用の「大洲藩史料」から、いろは丸購入にいたる経緯を、以下に要約します。
「元治元年(1864)に禁門の変が起こったとき、大洲藩では宮廷警護のために、急遽兵を上京させようとしたが、讃岐の多度津まで行ったところで、情勢を報告するため国許へ帰る京詰周旋方某に出会い、すでに騒動は終結したので上京の必要がなくなったことを知り、引き返した。その後、和船では緊急時に間に合わず、勤王において他藩に遅れをとるから、ぜひ蒸気船が欲しい、という話になった。平常には、藩産品を運び出したり、京大阪へ瀬戸内海を行き来する旅客を乗せたり、他藩の物産を運んで儲ければよいのだから、早く買おうという議論が起こった」
「大洲藩史料」は、その議論を藩庁も考慮し、「参政の輩協議を為し遂に汽船購求の議決に至り」、いろは丸購入になった、としているのですが、その議論の中心になっていたのは、あきらかに武田敬孝です。
なにしろ、敬孝の弟・斐三郎は、洋式兵術の専門家として幕府に取り立てられ、函館で、砲術、航海術を教えていたんです。
さらにいえば、函館時代の斐三郎は、文久元年(1861)、船長となって、ロシア領のニコラエフスクまで交易に出かけているんですね(長州の山尾庸三がこれに加わっていたといわれます)。
敬孝は弟と手紙のやりとりをしているのですし、弟の経験に刺激を受けないはずがありません。
次回へ続きます。
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「大洲歴史懐古帖」改訂第三版は、11月末には発刊できる予定で、現在、校正作業をしています。
ご存じかもしれませんが、大洲歴史探訪館へお越しの際は、お声がけください。
その時期にでもお越しになれば良いですね。
探訪館に来られたら呼んでくださいませ~
朝出て、出石寺へ行ってから大洲、という計画です。
うかがいますので、よろしくお願いします!