郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

桐野利秋in宝塚『桜華に舞え』観劇録 後編下

2016年11月28日 | 宝塚
桐野利秋in宝塚『桜華に舞え』観劇録 後編上の続きです。

宝塚『カフェブレイク 礼 真琴・妃海 風』


 上のカフェブレイクには、ヒロインの大谷吹優を演じます娘役トップの妃海風さんと、これも架空の主要人物で、遊女になった姫君を慕う会津藩士を演じます礼真琴さんが出演しています。
 いや、私、最近、「わかーらない、わかーらない、帰り道がわからない〜♪」という歌がふと、頭の中をかけめぐっていたのですが、これを見るまで、ヒロインが歌った劇中歌だったということを、忘れてしまっておりましたわ。妃海さんは歌唱力がおありですし、ほんと、耳に残る歌です。

 次は妻のヒサさんについて。パンフレットにわざわざ「竹下ヒサ」と明記されているのには、呆然。中村さまは即座に「東郷隆氏の小説『九重の雲』を信じて、取り入れたんじゃないでしょうか」とおっしゃいました。

九重の雲 闘将 桐野利秋
東郷 隆
実業之日本社



 中井桜洲と桐野利秋のコメント欄に、中村さまと私のやりとりがございますが、戸籍では「帖佐小右衛門(鹿児島県鹿児島郡山之口馬場町士族)の二女ヒサ」となっていまして、私、まちがった知識がひろまるのも困るな、と、Wiki-桐野利秋に加筆しておきました。
 この劇のヒサさんは、実は衣波隼太郎と思い合っていて、桐野もそれを祝福していましたのに、本人たちのあずかり知らない家同士の思惑で、思いもかけず桐野に嫁ぐこととなり、結婚後もお互い遠慮がちだった、という設定でした。
 現実のヒサさんは、他所に複数愛人がいた桐野に文句もいわず、気丈に家を守った賢夫人、という感じでして、現代ではちょっと感情移入しづらいですし、劇中、桐野は妻ではなく大谷吹優に淡い思いを抱くわけですから、上手くヒサさんを位置づけたなと、その点は感心しましたので、わざわざパンフに「竹下」と書かなければよかっただけのことなのですが。

 最後に、付け加えておきます。
 中村半次郎(桐野利秋)がいた! 映画「オトコタチノ狂」ほかに書きました、「北海道野幌に屯田入植しました桐野利春と利秋の関係」について、です。実は、コメント欄にいらしてくださいました利春氏の子孫、中島美弥さまが、野幌屯田兵の兵籍簿のコピーを取り寄せられまして、書類上では、利春と利秋はまったく関係ない、とわかりました。ただ、利春氏の娘さん4人が、はるばる北海道から鹿児島まで、利秋の墓参りをした痕跡がありますし、中島さまの実家では、桐野利秋の子孫である旨、言い伝えてこられたんだそうなんです。さらには、ご親族の写真が利秋の写真に似ていたりもしまして、実は利秋の実子で養子に出たのでは?、という可能性も捨てきれません。しかし、入植以前の鹿児島の除籍簿は、すでに処分されていて、これ以上、追求のしようもなかったり、します。

 

 上のように、宝塚ホテルのフロントにも、公演のポスターが飾られていました。
 北翔さんは、すばらしい男役トップで、熱心に役柄を研究され、役作りのために鹿児島にまで行かれて演じてくださったのは、感激でした。ひまわりのように明るいところは、桐野にぴったりでいらしたのですが、欲をいえばやさしすぎる感じでして、軍人としての迫力や、民主革命家としての鋭利さには欠けていたかな、と。
 単純に顔立ちだけでしたら、花組の柚香光さんが似ている感じですし、星組新人公演で桐野を演じられた天華えまさんも、まだちょっとお若いですが、雰囲気があっているかな、と。

  宝塚は、実は体育会系集団だと、今回初めて知ったのですが、中でも星組はその感じが強くて、星組の躍動する一体感は、薩摩士族の紐帯を上手く表現してくれていましたから、また星組にお願いしたいような気もします。
 再来年の大河ドラマは「西郷どん」だそうですが、なにしろ、NHKのやることですからねえ。とんでもなく悲惨なことになるのでは、といまから危惧しておりますが、一般に関心は高まるはずです。「桜華に舞え」再演もあるんじゃないのかなあ、と思ったりするのですが、今度は紅さんが桐野、というのも、あったりしませんかねえ。



 観劇翌日、朝食時にポケモンgoを立ち上げ、ミニリュウをゲット。
 宝塚に栄えあれ!!! また、きっと行きます。

 私、一週間もupできないと悩んでおりましたところが、gooサポートの方が、問題を見つけてくださいました!
 なんと、HTMLのほんのちょっとした私のミスだったんです! 
 お待たせいたしました。

クリックのほどを! お願い申し上げます。

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29 コメント

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わかーらない♪、 (中村太郎)
2016-11-29 02:43:15
のメロディは、頭に残ります。(笑)
ヒサさんの一件、ご指摘、有難うございました。
宝塚の影響力は大きいですから、桐野の妻が竹下ヒサになってしまうのではと危惧していました。
作・演出の斎藤吉正氏に手紙を書くべきかと、悩みましたが(笑)、wikiに加筆いただいたので安心いたしました。

これまでいろいろな方が、主役、準主役、脇役で桐野を演じてきましたが、「三姉妹」の米倉斉加年さん以来、良かったと思える北翔さんの桐野でした。
ストーリーとの兼ね合いがありますから、他の役者の桐野を全否定するわけではないですが。
何故なんでしょうかね。舞台だったからか、女性が演じる宝塚だったからか。
紅ゆずるさんの衣波隼太郎も素敵でしたから、何も知らずにこの芝居を見たら、桐野より衣波のファンになっていたかもしれません。
フィクションとはいえ、おかしい点はあるものの、舞台として完成していたので、納得できてしまい、印象的な桐野になったのかも。
郎女さまのおっしゃる鋭さに欠けるというご指摘も、その通りなんですが、観劇前の不安に反して満足できました。
恐るべきは、やはり「西郷どん」です。
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お久しぶりです。 (kii)
2016-11-29 12:36:44
ブログ再開してたんですねぇf^^。
ブログ村で最新記事が更新されているので気がつきました。待ってました。
宝塚歌劇って僕が大阪に住んでいる頃より気にはなっていたのですが(特に阪急電車は宝塚のポスターが沢山でしたので・・)、男にはハードルが高い気がして(そんなこと無いと何人かに言われてますが・・)、観てみたいなと思いつつ大阪を離れてしまいました。
桐野は指を失っていたとのことですが、それではそれ以降もう2度と刀は持てなかったのでしょうか?
ヤクザが指を詰める理由は、ドスを持てないようにする為で、1本でも指が無くなったらドスは持てないとか聞いた事があります。
「郎女迷々日録 幕末東西」を読むのを楽しみにしていたので、少々の間更新無く寂しい思いをしていました。
是非ともこれからも続けていただきたいなと思う次第であります。
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中村さま (郎女)
2016-11-30 13:22:19
生きているうちに、宝塚で桐野を見ることができようとは、昔は考えてもいませんでした。まして、ファン大先輩の中村さまと知り合い、ご一緒に観劇できたことは、ファン冥利です。NHKの笑劇に負けないように、再来年には、ご一緒に本を出しましょう!(笑)
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kiiさま (郎女)
2016-11-30 13:32:14
ご訪問、ありがとうございます!
北翔さんはお父様が海上自衛隊0B、お兄様が現役で、芸名は自衛隊新聞だかで募集して決められたそうで、そんな縁もあってか、男性ファンが多いことでも知られているそうです。

桐野は、西南戦争のとき、最後の城山では、銃撃戦の後、接近戦で刀を使ったように伝わっています。おそらく、普通に右手が利き手だったと思いますので、左手の欠損は、さほどひびかなかったのではないでしょうか。私が聞いたやーさんの噂では、不自由にならないよう、利き手ではない方の指をつめる、ってことだったと思うのですが。
それにしましても、黒門口の戦いで、指を失うって、よほどの接戦、激戦だったのでしょうか。

いままだ、イネさんの本がさっぱり仕上がっていませんで、ブログもいつもというわけにはいかないのですが、少しずつは書いていきたいと思っています。また、心の余裕ができましたらお訪ねしますので、どうぞ、お見捨てなく、おつきあいくださいませ。
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竹下久 (green)
2016-12-01 00:31:09
ご無沙汰しています。色々資料を見せていただき、お返しもできないままです。心苦しいばかりです。
竹下久さんが籍を入れる際、帖佐家に養女になったと思います。桐野の墓地の周辺に竹下姓の墓があります。久夫人の親族ではと思います。帖佐家は篠原国幹の家の近く。竹下家もご近所ですがやや大きいお宅のようです。西南戦争前,久夫人の実家竹下家に久光派の探索が入ったということが東郷隆氏の本にでてなかったでしょうか。三味線弾きが出入りしていたとありましたからやや富裕なお宅ではないかと思います。
偶然に今もひっそり竹下家とあるお宅を発見して幕末の頃の地図と同じ位置かなと思います。帖佐家は地図で見る限りやや小さなお宅だったようです。
中島家の方も似ておられますか?大きな口、足、面長な顔、ひげの薄いところなど強く遺伝しています。(笑)
私は中島様は桐野のご子孫と思います。いつか写真や経緯をまとめなければと思いつつ、雑事に紛れ、書くことが苦手ということもあり進みません。竹下家のひささんが何かの理由で姓名を変えて嫁いだと予想しますがいかがでしょうか。
夫の実家は南洲墓地のごく近くでした。上町には戦前だいぶ土地を持っていたようです。土地のことを調べれば関係がわかるかもと思いつつそのままです。一族の中に平成の初めころまでずっと墓守をしていた女性がいるそうで、桐野のひ孫にあたる方のようです。たぶん子孫はすごく増えているように思いますが、何分伝承です。
戸籍はつながりません。篠原家の方も不思議に思っていらしたようですが篠原家も戸籍がつながらないとか。ただし西郷の文書が時折出てきたりするようです。とりとめもないことを書きてすみません。東郷隆氏の言われる通り竹下ひさだ思います。
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人切りの子孫 (green)
2016-12-01 16:30:17
鹿児島の医師のブログか何かで見たのですが、学会で著名な外科医桐野氏に「先生は人切りの子孫ですか」と聞くと「いえ、鹿児島では桐野姓は多いのでしょう」とかえされたとありました。「人切り」と言われれば面倒ですし、「ちがう」という方が簡単です。
西南戦争直後、夫人は墓の近くで縫物をして細々と暮らしたとか。真田丸でも戦争の止め方は問題です。桐野がいたから長引いたとすれば、やはり、子孫は隠されるでしょう。夫の先祖は2の丸御殿にいたという藩士の養子という形で隠されていました。久武さんも参加しています。久光さんの保護という可能性あり?夫人も墓石の桐野の文字は久光によると言ってますし。当時のことを知る人はもういません。間接的な証拠を積み重ねるしかなさそうです。
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greenさま (郎女)
2016-12-01 16:38:53
ごぶさたしておりました。

ヒサさんの実家につきましては、本文に書きましたように、下のコメント欄に、はじめてgreenさまが来られたとき、中村さまと私のやりとりにある通りです。

http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/96451e0a3130f35ea5b22afbb9c7dfc2

上で、竹下家と帖佐家が近所だと、地図で調べましたのは私です。見てみましたら、まだgoogleに残っておりました。

https://drive.google.com/open?id=1WU_0PM0hi2UTdHj30RWxaJr1DgQ&usp=sharing

明治の戸籍に帖佐家の二女とあるわけでして、あてになりません当時の探偵(川路の部下で、大方郷士です)報告よりは、戸籍を信用すべき、と思います。桐野の死後、桐野家の家督を継ぎ、女戸主になっておりますから、正確には桐野ヒサですけれども、幕末の風習に従えば、墓などには、実家の名を刻むこともございます。

greenさまのだんなさまのお家につきましては、結局、現在、鹿児島の古い除籍簿は処分されてしまっているわけですから、確証はとりようがないわけですが、言い伝えは、可能性がないわけではないと存じます。

幕末の屋敷は、「鹿児島城下絵図散歩」で、ほぼわかります。図書館でご覧になってみてください。
ちなみに、小松帯刀の兄弟・相良治部(長発)の屋敷は、草牟田2丁目です。戊辰戦争で、鳥羽伏見、黒門口、と転戦していますから、桐野との接点はあります。ただし、西南戦争では官軍にいたようです。
鹿児島の土地の持ち主も、相当に変遷があったようです。
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そうでした (green)
2016-12-01 22:52:30
そうでした、中村様、郎女様に教えていただいたのでした。南洲墓地の桐野の墓のそばに大きな竹下家の墓もありました。夫人の親族ではと考えたわけです。養女にする、身分のつり合いをとるための裏技でしょうか。そう考えると、日本人の恋愛事情は意外に合理的ではないかと思ってしまいます。お忙しいところ、ありがとうございました。
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言葉が足りなかった (郎女)
2016-12-13 11:41:09
かもしれないのですが、中村さまが桐野の墓の近くに、竹下某氏のお墓を確かめられました。南州墓地のお墓は、家族墓ではなく、西南戦争戦死者の個人墓です。しかし、中村さまのお話しでは、「確かに血縁者の墓はかためられている」とのことでして、竹下氏のお墓は、永山弥一と弟のお墓に近いそうですね。
 以前のコメントでも申しておりますが、私どもは、竹下家と帖佐家が、親戚であったかもしれない、とは推測しております。しかし、そのことと、戸籍に、ひささんの父親が帖佐某と明記されておることは、また別の問題でして、「竹下ひさ」はまちがいです。
あと、竹下家と帖佐家は、おそらくは双方小姓与で、大久保、西郷、桐野など、ほとんどの薩摩藩士がそうでした下級藩士です。上級武士でした場合、たとえ屋敷は狭くとも、添地があったりしますが、そういうわけでもありませんし。
 ひささんが養女になっていたのではないか、とおっしゃいます推測につきましては、私、おっしゃる意味が、ちょっと理解できておりません。
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カフェブレイク (中村太郎)
2016-12-17 02:36:32
天華えまさんと小桜ほのかさんの回を見ました。
お二人のお名前の「華」と「桜」で「桜華」になるのは気付いていましたが、「えま」を逆にすると、「まえ(舞え)」になるにはちょっと笑いました。
新人公演の舞台映像、少しだけですが、見られて良かったです。
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