「龍馬史」が描く坂本龍馬の続きでしょうか。
あるいは、桐野利秋と龍馬暗殺 前編、後編の続きかも、なんですが、「木漏れ日に命を!」のノブさまのご著書を、読ませていただきました。
龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた 幕末京都の五十日 | |
中島 信文 | |
彩流社 |
私、いわゆる龍馬暗殺黒幕ものは、ほとんど読んでおりません。
歴史の謎、といいますものは、さまざまに設定が可能です。
素人は素人でも私は変人ですから、一般にはほとんど興味を持たれていないモンブラン伯爵の維新における活躍なんぞといいますものに、多大な関心を抱いたりしているのですけれども、通常でいいますならば、昔邪馬台国、今龍馬暗殺かなあ、と思ったりします。
そういえば、最近あまり、邪馬台国関係の出版物を見かけなくなりましたねえ。
あれこそ、史料があまりにも少なくって、素人が簡単に取り組める歴史の謎でしたから、乙女の頃の私は、あれこれと他人様のご著書を拝読しては、なるほどー、そうかもー、いやまってー、こうかもーと、推測するのを楽しんだものでした。
しかし、龍馬暗殺について言いますと、アーネスト・サトウと龍馬暗殺に書いておりますが、故・西尾秋風氏のご高説に、お口ぽっかーんとあきれてものがいえない状態になってしまいまして以来、馬鹿馬鹿しくって、読むのは時間の無駄、と思ってまいりました。
邪馬台国とちがいまして、史料がないわけではありません。
あるんです。それなりに。
実のところ私、西尾秋風氏のご高説も、詳しく承知しているわけではなくって、おそらく最初の頃と後の方では、お説にちがいがでてきていたのでは、と思うのですが、少なくとも私が知っていた範囲では、中村半次郎(桐野利秋)だということでして、これが実に馬鹿馬鹿しい話なのです。
桐野利秋と龍馬暗殺 後編に、龍馬の甥、高松太郎が事件の二ヶ月後に、龍馬の兄夫婦へ宛てた手紙を引用しております。以下、必要部分を再録。
僕六刀を受けて斃る。十六日の夕方落命。次に才谷を斬る。石川氏同時の事、然れども急にして脱力にいとまもなく、才谷氏は鞘のまま大に防戦すると雖、終にかなわずして斃る。石川氏亦斃る。石川氏は十七日の夕方落命す。衆問ふといえども敵を知らずといふ。不幸にして隊中の士、丹波江州、或は摂津等四方へ隊長の命によりて出張し京師に在らず。わずかに残る者両士、しかれども旅舎を同うせず。変と聞や否や馳せて致るといえども、すでに敵の行衛知れず、京師の二士速に報書を以て四方に告ぐ。同十六日牛の刻に、報書の一つ浪花に着く。衆之を聞き会す。すなわち乗船17日朝入京、伏見より隊士散行す。
高松太郎は、大阪にいて、16日の夜中に事件の知らせを受け取り、11月17日の朝には入京しています。そして、中岡慎太郎(石川)が落命したのは17日の夕方で、慎太郎は「知らない奴らにやられた」と語り残していた、というんです。
私は、平尾道雄氏の「海援隊始末記」から孫引きしてこのときのブログ記事を書いていまして、私が参照しましたのは古い版のものですが、いまでは、下のように文庫本で出ていますので、簡単に手に入ります。
坂本龍馬 - 海援隊始末記 (中公文庫) | |
平尾 道雄 | |
中央公論新社 |
下の「陸援隊始末記」もそうなのですが、龍馬と中岡慎太郎について、平尾道雄氏のご著書は、基本中の基本だと思うのですね。
陸援隊始末記―中岡慎太郎 (中公文庫) | |
クリエーター情報なし | |
中央公論新社 |
桐野にとって、元治元年からつきあいのある慎太郎と、寺田屋事件の後に薩摩で新妻とともにもてなしたこともある龍馬と、大詰めを迎えての二人の死は、なんとも口惜しいことであったと思いますし、それは、慎太郎ファンでもある私にとってもそうなのです。
しかし、犯人さがしについて言いますならば、平尾道雄氏が述べられておられます基本線につけ加えることは、ほとんどないのではないか、といいますのが、正直なところです。
にもかかわらず、今回、ノブさまのご著書を拝読させていただきましたのは、「犯人の狙いは龍馬ではなく、実は慎太郎が本命だったのではないか」という憶測には、私も少々関心がありましたし、ノブさまが当初ブログに書かれておりましたのは、そういうようなお話だったからです。
ただ、慎太郎本命説には、難点があります。殺された場所が、龍馬の居所の近江屋であったことと、慎太郎が即死していなかったこと、です。
即死していなかったことにつきましては、犯人は死んだと思ったけれども、昏倒していた慎太郎が一時蘇生したのではないか、とは、十分に考えられますし、慎太郎は「知らない奴らだった」と言い残しているわけですから、犯人にしてみましたならば、虫の息があったにしても正体がわかるわけがない、という安心感があったのではないか、という推測も成り立つでしょう。
しかし、事件の場所が龍馬の居所の近江屋であった、につきましては、慎太郎とともにやはり龍馬も狙われていたのだろう、としなければ説明のつき辛いことでして、今回、ノブさまがそういう観点からご著書を出されたのは、卓見だと思います。
それでー、ご著書の内容なのですが、大筋ではけっこう説得されます。
といいますか、もし、一会桑サイドではなく黒幕がいる、としましたら、この線ならまあ考えられなくはないのかなあ、と思ってしまう、常識的なお話をされていまして、声を失いますような奇説、珍説とは、一線を画しておられます。
それについては、ご著書の「はじめに」で、ノブさまはこう述べておられます。
今までに論じられていた諸説に対して、論議の前提や思考方法にどこか違和感を感じていた。というのは、江戸時代や幕末、そして、現代にしても、人間の行動や思考は大きくは変わらず、龍馬らの暗殺も現代に通じる事件ではないかと考えたからである。そういったことから、当時の幕府や諸藩の動きを洗い直し、現代における会社組織などの動きや人間の行動と比較検討が必要ではないかと思った。
「時代は変わっても人間の行動や思考は大きくは変わらない」という信念を基本に持っておりました歴史家として、『近世日本国民史』の徳富蘇峰がおります。彼は、そういう目で歴史を見、現実も見ておりましたので、敗戦後にはいち早く、アメリカが日本を助ける方向に舵をきるだろうと見極めた、鋭い観察眼を示していたりします。
基本的には、ノブさまのおっしゃる通りなんです。
ですけれども、しかし……、です。
時代は変わりますし、その時代の風潮に、人間は大きく影響されるものである、とも、私は思っています。
例えば、暗殺という行為に対します評価です。
幕末・明治と現代では、受け止め方が、まったくちがうと思うのです。
古い記事ですが、慶喜公と天璋院vol2に大筋のところは書いてあるのですが。
まずは桜田門外の変。
幕府の側からしますならば、大老が公道で浪士に襲われ、殺されたのですから、まぎれもないテロです。
しかし、井伊大老は安政の大獄という政治的な大弾圧を行っていましたので、弾圧されました側からは、この暗殺は義挙でした。
弾圧された側には、高位の公卿・大名もあり、土佐の山内容堂などは、「首を失って負けたおまえが成仏できるものかな。おまえの領地は犬や豚にくれてやれ」というものすごい漢詩を作って大喜びしています。
まあ、しかし、です。当時の状況としましては、密かに漢詩を作っていただけなのですから、自分を失脚させた政敵が殺されて、表面ではお悔やみを言いながら日記に罵詈雑言を書き残すくらいのことは、現在でもありえそうなのですけれども。
しかし、ですね。
いつのまにかテロが正義となり、堂々と天誅がまかり通ったあたりは、どうでしょうか。
「京の天誅の最初の一石となった島田左近暗殺には島津久光のひそかな指示があったのではないか」と書いたことについて、私はいまもそうであったのではないか、と思っています。久光に「あいつが怖いんですのやー」と訴えた近衛忠房は、島田が無事殺されたと知って「希代希代珍事、祝すべし、祝すべし」と喜んだというのですから。
大会社の会長がですね、提携する政治家から「ライバルの用心棒が怖いんやー」と訴えられたので部下に暗殺を命じるって、現代ではまず、ありえんですわね。
これに証拠があるのか、といえば、状況証拠しかないわけですけれども、確実なところでいけば、例えば久光の命令による上意討ちであった方の寺田屋事件、です。大会社の会長がですね、社員が勝手に他者の社員と連携して事を起こそうとしているからって、「やめろというわしの命令に従わないなら殺せ」って部下に命じるなんてこと、現代ではありえないですわね。書きかけなんですけれども、寺田屋事件と桐野利秋 前編は、時代相に即して、事件を追おうとしたつもりです。
暗殺といっても、それは自分の命をかけてするものですし、命がけですることは賞賛される時代だったのだと、私は思います。
それはしかし、当時においては日本だけのことではなく、世界的にもそうだったのではないでしょうか。
例えば、イタリア統一運動にかかわっていましたカルボナリ党のフェリーチェ・オルシーニですけれども、もともとはカルボナリ党であったにもかかわらず、フランスの皇帝となってからのナポレオン三世がイタリア統一に背を向けたと見られたことから、皇帝の馬車に爆弾を投げつけるというテロを決行するのですけれども、失敗に終わって皇帝は軽傷。しかし、周囲のなんの関係もない一般フランス人がまきこまれて、死者十数人、負傷者百名以上という、大惨事になってしまいます。
しかし、大義に殉じようとするオルシーニの裁判での態度がりっぱだということで、一般のフランス人もけっこう同情しますし、結果、ナポレオン三世は、イタリア統一に力を貸す決意をします。
ちょっと、現代ではありえない話ですよね。
もしかしましたら近デジにあるかな、と思うのですが、明治32年発行の「尚武養成 軍隊必読」という読み物があります。古今の武勇談を集めた読み物なんですが、新撰組の近藤勇が一人で龍馬と慎太郎を斬り殺したことになっていまして、その武勇が賞賛されていたりします。
「龍馬死に臨み慎太郎を呼び起し、幕府末運に臨むもかかる武士あり。未だ侮るべからずと語り、嗟嘆して死す」って、現代ではちょっと理解し辛い価値観、ではないでしょうか。
まあ、明治42年、伊藤博文を暗殺しました安重根を、日本人が義士と称えるような風潮もあったわけですし。
と、まあ、そういうような観点からしまして、ですね、ノブさまの描写されます時代の様相が納得がいくかといいますと、ちょっとちがうかな、と感じるんです。例えば、以下です。
京都の街自体は、緊張感は以前とは比べものにならないほど高揚してはいたが、それが逆に街の安全や治安に効いており、表面上は台風の目の中にいるような、ひと時の奇妙な静けさを持った、治安もかなり守られていた街だったのだ。笑い話だが、慶喜に大政奉還を建白した土佐藩要人などは、坂本龍馬らが斬殺された日、仲間と朝から芝居見物を暢気に楽しんでいたという話も残っているくらいである。
えーと、まず芝居見物については、ですね。
例えば一会桑側が、です。れっきとした土佐藩要人を襲ったのでは、それで黙っていては土佐の藩としての面目が立たず、確実に土佐藩そのものを敵にまわしてしまいますし、そんなことをば一会桑側も望むわけがないですから、別に土佐藩要人の身に危険はないわけです。
一方、龍馬と慎太郎は、といえば、です。現実に二人が殺された後、犯人は新撰組だと噂されましたが、むしろ土佐藩邸は、二人を関係ないものとして扱うことで面目を保ち、それで一会桑の敵にまわるということもなかったのですから、殺したところで大問題とはならず、ひるがえって考えると、彼らは危険にさらされていたわけです。
危険か危険でないかは立場によってちがった、ということでして、桐野利秋と龍馬暗殺 後編に書きました以下の部分を訂正する必要を、私は感じておりません。
慶応三年十月、大政奉還が公表された当時の京は、殺伐とした空気を濃くしていました。
昨日もご紹介しましたが、10月14日、大政奉還のその日、京在海援隊士・岡内俊太郎から、長崎の佐々木高行への手紙の最後は、この文句で結ばれています。
「新撰組という奴らは私共の事に目をつけ、あるいは探偵を放ちある由にて、河原町邸(土佐藩邸)と白川邸(陸援隊)との往来も夜中は相戒め居候次第に御座候」
新撰組のやつらはぼくたちに目をつけて、探偵にさぐらせていたりして、ここ白川邸と河原町藩邸とを行き来するのも、夜はやめておこうと気をつけているほどなんだよ。
10月28日の桐野の日記には、そんな殺伐とした状況をうかがわせる記事があります。
桐野の従兄弟の別府晋介と、弟の山之内半左衛門が、四条富小路の路上でいどまれ、「何者か」というと、「政府」との答え。「政府とはどこか?」とさらに聞けば、「徳川」とのみ答え、刀をぬきかかったので、別府が抜き打ちに斬り、倒れるところを、半左衛門が一太刀あびせて倒した、というのです。
大政奉還があった以上、薩摩藩士は、すでに幕府を政府とは思っていません。
一方で、あくまでも徳川が政府だと思う幕府側の人々にとって、大政奉還は討幕派の陰謀なのです。
そして………、土佐藩在京の参政、神山佐多衛の日記です。
11月14日
薩土芸を会藩より討たずんば有るべからざると企これあるやに粗聞ゆ。石精(中岡)の手よりも聞ゆ
「会津藩は薩摩、土佐、安芸藩を討つべきだということで企てがあるという。中岡慎太郎も同じ事を言っていた」というんですね。
神山佐多衛の日記などを読んでいますと、あきらかに、この時期の京都土佐藩邸要人は、おびえています。なににおびえているかといいますと、白川の土佐藩邸にいる陸援隊と新撰組の間で騒動が起こり、それに土佐藩そのものがまきこまれるかもしれないことに、です。
一橋慶喜や松平容保のレベルの話では、ないんです。
幕府にしろ会津藩にしろ、新撰組の動きを確実にコントロールできているわけではないですし、陸援隊にしろ海援隊にしろ、浪士の集まりなんですから、土佐藩がコントロールできたわけでは、決してありません。
もう一つ。
倒幕派と佐幕派と、あるいは土佐藩士と会津藩士と、自由に会っていたについて、なんですけれども、いや、桐野利秋と龍馬暗殺 後編、そして中井桜洲と桐野利秋をご参照いただきたいのですが、脱藩薩摩人で、海援隊に席をおいておりました中井桜洲は、です。倒幕派の桐野利秋・永山弥一郎と非常に親しく(このことは、後世のものになりますが、中井の書簡で確かめられます)、西郷・大久保・小松が討幕の密勅を奉じて国元に帰りました直後に、永山とともに桐野を訪ねているんですね。桐野の日記によれば、桐野は西郷から密勅の写しを見せてもらっていて、なぜ京都薩摩藩邸の要人三人がそろって国元に帰ったのか、真相を知っています。中井は、密勅について、桐野から聞き知っていた可能性が非常に高いんですね。
しかし、かなり自由にいろいろな陣営の人物と会って、土佐藩邸要人の情報源になったりもしています。どこまで中井がしゃべっていたかは、謎なんですけれども。
あと、ですね。
詳しくはfhさまのところの2007.08/16 [Thu]「備忘 寺島宗則19」にありますが、いわゆる王政復古のクーデターのその日、その首謀者といっていい大久保利通のブレーンだった寺島宗則が、なんでだか知りませんが、慶喜の側のブレーン西周に会おうとしていたりするんですね。寺島の自叙伝によれば、西周と榎本武揚に会おうとしていたことになっていまして、「西家略譜」『西周夫人升子の日記』でも、それは確かめられることなんです。
寺島宗則は幕府の蕃書調所にいた人ですから、もともと西周とは親しく、えーと、このとき大阪の薩摩藩邸には五代とともにモンブランがいますし、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書いておりますが、フリーメーソンに加盟した西周は、オランダ留学帰りにパリにより、モンブランのもとを訪ねていたりするんですね。
私といたしましては、寺島ママンはモンブラン・五代と西周を会わせて、そうですね、慶喜に対して、開港地を朝廷に渡して外交権を手放すことを勧めてもらおう、とか、考えていたんじゃないだろうか、と妄想したくなります。
ま、あれです。治安がどうだろうが、会うべきと思えば、敵陣営の人物でも会おうとしてしていたりするもの、と、私は思うのです。
それで、ですね。
肝心要な部分、なんですが、最初に述べましたように、大筋では、ノブさんのなさっているような推理も、なりたたなくはない、と、私は思っています。
土佐藩の史料をあまり読んでいないものですから、勉強させていただいたことも多々あります。
しかし、そのご推測に関して、証拠はありません。証拠と思われたのでしたら、それは誤読、だと思います。
思います、といいますのは、私は直接「寺村左善道成日記」を読んでいませんので、断言はできないんです。
しかし、ちょっとネタバレになるかもしれませんが、慶応三年九月二十四日の「寺村左善日記」について、寺尾道雄氏が「陸援隊始末記」でこう記していると述べておられます部分を、以下、引用します。
「相談の上、(陸援)隊士を白川邸から放逐することにしたが、命しらずのものが、うかつに処分するとどんな大事をおこすかも知れない。ついに後藤の裁断で壱千両を投げだし、おだやかに出すことにした」
えーと、ですね。
このもとの文章がどういうものなのか、私は読んでいないのでわからないのですが、ノブさまが引用しておられますこの日の日記の末尾、「吾邸内ヲ出ス事ニ決シタリ」が、平尾氏が要約しておられます冒頭の「(陸援)隊士を白川邸から放逐することにした」に呼応していると思われるんですね。
で、この「吾邸内ヲ出ス事ニ決シタリ」を、ノブさまは「白川土佐藩邸にいた陸援隊や海援隊の隊長(巨魁)である坂本龍馬と中岡慎太郎を飢寒の徒で何をするか分からない危険な浪士であるので排除したい」と訳しておられるんですけれども、この意訳を平尾氏の解釈とくらべましたとき、大きく意味がちがっていますし、平尾氏の解釈の方が、原文に素直なものではないのか、という気がするんですね。
平尾道雄氏は、「(土佐)藩邸でも佐幕派の連中は、この陸援隊を厄介視していた。幕府や会津の猜疑をおそれ、薄氷を踏む気持ちである」とも述べておられまして、「海援隊始末記」をあわせ読みますと、土佐の佐幕派が、海援隊も陸援隊も、同じように厄介視ししていたことは、大前提なんですね。
そこまでは変わらないんですけれども、では陸援隊と海援隊を土佐藩から切り離すためにどうしようというのか、というところで、平尾氏とノブさまの解釈は変わってきています。そしてノブさまのように、龍馬と慎太郎を排除するというような解決法は、成り立たないのではないでしょうか。
現実に、龍馬と慎太郎が暗殺されました後、海援隊・陸援隊の隊員の一部が、紀州藩士三浦休太郎と新撰組を襲う天満屋事件を起こしていまして、平尾氏の解釈のように「命しらずのものが、うかつに処分するとどんな大事をおこすかも知れない」という心配が大きかったと思います。
先に述べましたように、佐幕派が陸援隊、海援隊を厄介視していましたのは、自分たちのコントロールできない浪士集団であり、彼らが勝手に暴れかねないことでして、そんな集団が土佐藩の白川藩邸に巣くっていたのでは、自分たちに災難をもたらしかねないから、です。
以上を踏まえまして、ノブさまが引用しておられます「寺村左善道成日記」慶応3年10月5日の「白川邸浪士所分之事」を解釈しますと、これはもう素直に、そして平尾氏の解釈通りに「陸援隊士を白川邸から放逐すること」でまちがいはなく、「龍馬と慎太郎を暗殺すること」と解釈いたしますのは、不可能です。
結論からいいまして、平尾氏が書いておられます通りに、陸援隊を白川邸から放逐したい、という、寺村左善の望みはかないませんでした。そして、なぜその当時、左善が切実にそう思ったのか、というような分析に関しまして、ノブさまのご推測は、非常に説得力のあるものなのです。
いったいなぜ、慎太郎が龍馬とともに襲われたのか。
ノブさまの他のご推測の部分、実は新撰組も関係していたのではないか、とか、考えさせられる部分は多かったですし、ご労作、楽しんで読ませていただきました。
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私もやや変人で、へ理屈好きで、今度のような本を書いてしまったのです。
少し、本の内容ですが、
①、9月24日の日記内容は平尾さんとそれほど解釈は違いません。但し、この寺村左膳の浪士退去の希望は実現せず、大政奉還時点でも陸援隊など居座っていました。(この間、寺村は白川邸の中岡慎太郎などを排除は難しいと
実感していたのです。)
そして、この24日は、まだ、慶喜が大政奉還をすると分かっていない時期だったということです。寺村は強硬に出られなかった。
それで、
ご指摘を受けるとは思っていましたが、
ですが、10月5日の内容の解釈は、単なる排除ではないと断言できるのは、「処分」に言葉が変化していますし、この日は、大政奉還を慶喜に上程した後で、佐幕派の勢いは大きく変化していたという事情があるのです。幕府と一緒に今後の政局を動かせると。
この変化と中岡らは白川邸居座っていた点などを考慮して、二つの日記の内容は区別すべきなのです。この情勢の変化は大きいのです。これを見落としていることが多いのです。(ですから幕末京都50日と副題にもしているのですが。この期間は、大きな変化があった。)
②、田中幸助(中井桜州)は好きな武士ですが、確かに桐野利秋は密勅を知っていたのですが、本国、鹿児島で完全に倒幕で纏まったことは事件当日はほとんど知りえません。それ故、桐野が13日に田中に薩摩藩の詳しい内容を説明することはできないということです。
仲が良かったことは、あなた様のブログで良く知っておりましたが、私は、特定の人物に感情移入は避けて、極力、論じた次第です。
③、京都の街の表現には、多少のデフォルメがあったとは思いますが、時代が大きく変化してきたことを述べたもので、本論とはメインではなく、ご容赦を。
④、現代と通じるという表現は、一つには、組織悪や集団の動きなどは変わらぬ人間の考え方、人間の浅はかさ、悲しさなどから来ているということを
述べただけで、深いものでありません。
⑤、再度、くどいですが、10月5日の内容は、福岡藤次の処罰の件や板垣退助などに関する叙述などを総合して、解釈できると判断したもので、平尾氏の24日だけの日記内容だけで平尾氏の論が正当というのは、今回の私の趣旨とは違うのです。
大政奉還の慶喜受け入れで、大きく、土佐藩の要人たちの動きが変化したことが、私の言いたいことであり、本の主旨なのですよ。
それと、明治の歴史への疑問など。
少し、述べすぎましたが、でも、こんな論議が出来て、楽しいですね。
また、ここに訪問いたします。
海音寺氏の「桐野」コピーしました。挿絵入りなので、全部で141枚です。(笑)6枚しか読んでいません。第二部終了までです。未完なのでしょうねぇ~。
別件でチョイ忙なので、しばらくお待ちください。
畠山の勝小鹿などとの集合写真(モルレー紀念帖)は、門田明氏の『若き薩摩の群像』P.153にラトガス・カレッジ蔵で掲載されてました。
えーと。大政奉還を幕府が受け入れた後の成り行きについて、土佐の佐幕派が大きな勘違いをしていたのではないだろうか、ということは、ご著書を拝読しまして、私にもよくわかりました。
しかし薩摩藩は、大政奉還を推進しました小松帯刀と、討幕の密勅工作をしておりました西郷・大久保と、意見がわかれていたわけではありません。
確かに、京の薩摩藩邸にも討幕反対派がおりましたけれども、小松帯刀はそうではありませんし、在京首脳陣の意見は、分かれてはいませんでした。あと、パリでの外交工作がうまくいかず、独自の大々的な通商交易の望みが絶たれましてから、経済ブレーンの大方も倒幕に傾いたと思います。経済的に行き詰まりかかっていましたから。
西周の「西家譜略」によれば、大政奉還についてイギリス公使パークスに説明する手紙を英語に翻訳したが、永井玄番の指示で「政権を朝廷に返すと言っても幕府の役割はこれまでと変わりがない」と書いた、ということでして、慶喜公が、大政奉還をしたところでいままでと対して変わりがない、と高をくくっていましたことは確かですし、土佐の佐幕派もそういう見地から、お気楽に事態を見たかったんでしょう。
しかし、新撰組の近藤は、10月9日に守護職屋敷へ、「薩摩は、長州が許されたら武装して大阪に来て、そのまま入京して薩摩軍とともに二条城を攻撃。土佐浪人、十津川浪人(つまり土佐白川藩邸の陸援隊)は会津守護職屋敷を攻撃する、という計画をたてている」と報告しているそうでして、大政奉還が行われましたところで、長州をいったいどうするのか結論は出ていませんし、兵庫開港、大阪開市を目前にして、「幕府の交易独占が続くのは許せない」という薩摩の不満が解消するめどはありませんし、なにも変えないつもりで慶喜がいるわけなのですから、不満、矛盾も、なにも変わりはしないんです。
私、これはちゃんと調べて書いてみたいなあ、と思っているんですが、坂本龍馬がなにも変えるつもりのない永井玄番と「ヒタ同心」なのだとはとても考えられませんで、薩摩に身をよせておりました林謙三に、「自分は永井とヒタ同心」なんぞと書くわけがないと思うんです。どなたが始めた解釈かわからないんですが、なんで「ヒタ同心」の主語が龍馬なんでしょうか。私は、「永井は慶喜とヒタ同心」という情報を、龍馬は林謙三に伝えたのだと解釈します。
えーと。また脱線しましたが、土佐藩要人が、討幕の密勅を知らず、もちろんなんですが薩摩が藩をあげて兵を上京させることに決したことも知らず、としましても、龍馬と慎太郎を殺して、それで白川邸の浪人たちの始末がつくわけでは決してない、ですよね?
板垣の話を出してきているのだとしましたら、江戸で板垣がしたと同じく、白川の浪人たちも薩摩に引き取ってもらう、あるいは白川邸ごと薩摩に買い上げてもらう、とか、もしも、薩摩も佐幕派が大勢をしめた、と土佐の佐幕派が判断したのだとしましたら、そういう処分も可能だと思います。
土佐には、斉彬公の妹・智鏡院が容堂の義母としておりますし、智鏡院と篤姫との連絡が密だったことは確かですから、佐幕派的な親しさもあって当然、と思います。
ともかく、です。二人の暗殺で、土佐藩佐幕派にとっての白川邸浪士問題はなにも解決しませんし、「白川邸浪士所分之事」が二人の暗殺を意味するとは、普通にこの文章を読みます限り、飛躍にすぎる解釈、と私は感じます。
まだしばらくの間、普仏戦争と正名くんに振り回されそうですので、いつでもかまいません。またどうぞ、よろしくお願いします。
気持は、私もよくわかりますよ。 暗殺とは書いていない。
但し、処分には、白川邸から浪士を出すという意味には、余り取れないですね。 むしろ、処分は暗殺とか、抹殺とかの意味合いの方が強い、その意味が処分という言葉には多く含まれているということですよ。
白川邸から出すという意味合いが、まったくないとは言いませんがね。
それと、この文だけでなく本にも示しましたが、次の文の福岡藤次の対応などからも、それは言えるのですがね。
この点は、薩摩の寺田屋事件でも、結局は薩摩藩士同士で、殺し合いをしなければ、相手の行動を止められないという事実です。
土佐藩内の倒幕強硬派の武士を言葉で言いくるめることが、当時の寺村ら佐幕派に出来ないでしょう。
殺害するほか、術がないでしょう。
**薩摩に引き取ってもらうなどと貴方様は言って居ますが、土佐藩内の倒幕派は消えたわけではないので、それこそ、問題は何も土佐藩佐幕派には解決してはいないのですよ。
貴方様の暗殺の定義でも述べているように、当時は抹殺するしか解決策はないです。別の処分方法ががありますか?
薩摩に引き取ってもらうことなどは、司馬遼太郎らの龍馬の平和論という空論の域を、当時では、出ません。
中岡慎太郎が、武力で幕府を倒さないと駄目だという論理と同じで、当時の土佐藩佐幕派は倒幕派は武力で抹殺しかないでしょう。
処分という意味を、白川邸から出すという解釈は、逆に、あり得ないのが当時です。
いずれにしても、10月5日の日記の解釈は、平行線に終わるでしょうが、
*いくらなんでも家老の寺村でも日記に殺すという言葉は使わないでしょう。
それは、黒幕的存在としては、当然ですね。
考えて欲しいのは、貴方様が述べた、島津久光が寺田屋事件で藩士を寺田屋に送った時も殺せとは言っていないでしょう。
せいぜい、「やむを得ない場合、処分せよ」くらいでしょう。
それを寺田屋に向かった藩士は、どう理解したかと言えば、相手を殺したのですよ。
この論争は、本の、一つの問題提起であることは確かで、状況証拠を加味して論じるか、
言葉の解釈だけで論じるか、など、
論じる視点で、変わりもしますよね。
この点は、いたしかたない論点ですね。ここを突くのは、よく理解はできます。
付記
*小松は家老という立場で、久光と倒幕派の西郷らとの板挟みというのは、よく理解できます。彼が大政奉還の時、将軍職の辞退も慶喜に迫ったのは、武力討幕でない選択枝も、多少は抱いていた。それは、龍馬も同じかも。
と本では述べたのですが。
龍馬と慎太郎が、見回り組に殺されたならば、白川邸から浪士がいなくなるわけでは、ないですよね。
薩摩の寺田屋事件のように、上意討ちだったのならば、わかります。土佐藩から正式に刺客が出て「浪士をみんな出身藩に帰せ。そうしなければ上意によりおまえらを討つ」といって、慎太郎と龍馬を斬り殺したのなら意味がありますが、見回り組にこっそり暗殺させたのでは、浪士たちは憤激して、当時の勢いでは新撰組だと断定し、新撰組と会津藩、幕府への怨念を募らせるだけのことです。
二人を暗殺して、いったい、誰の、どういう行動が止まるんでしょうか??? 私がよほどの馬鹿なのか、おっしゃる意味が、私にはさっぱりわかりませんです。
江戸の土佐藩邸の浪人は、板垣の要請で江戸の薩摩藩邸が引き受けたわけですし、京でもおなじことがあって、不思議はないと思うのですが。
多少、論点が移ってきて、楽しいです。
その指摘も、「白川邸浪士処分ノ事」という文だけを論じれば、その通りです。
*ですから、この十月5日の文章が、誰の目にも止まらなかったのは事実ですから。
多くの人は人名だけを拾って日記を見ていた。龍馬居ないか?龍馬居ないか?中岡慎太郎居ないか??と。
では、当時ですが、寺村が白川邸浪士で一番、気にしていたのは中岡慎太郎だと思います。彼が浪士を集めていたのですから。
彼を処分することは、浪士の求心力がなくなり、自然解散で、実質的には白川邸浪士を処分することだったと同義語に近い。
それ故、寺村左膳の頭にあるのは、白川邸浪士とは、イコール、中岡慎太郎であり坂本龍馬と見て妥当なのです。
それを裏付けるのが、中岡慎太郎と坂本龍馬を庇護していた上司、参政の福岡藤次の処分も考えるとなっている次の文なのですよ。
「中岡慎太郎と坂本龍馬を庇護している福岡藤次は、寛容に(処分する)事を相談する」と、次の文に述べているのです。
寺村左膳の頭の中が、隊長の二人を処分すれば他藩の浪士は容易に処理できると考えていたと自然に考えれば妥当だと思いますね。
(井伊大老を殺せば、他はなんとでもなり変わる。大村を、西郷を殺せば、他はどうでもなる、だから、中心人物を処分する、暗殺すると寺村が当時、考えていたのは、かなり、明白であるし、自然でもありますよ。この白川邸浪士の処分は二人と考えても不自然ではない。)
中岡慎太郎と坂本龍馬以外なら、特に、他藩の浪士なら薩摩藩に引き取ってもらうという選択肢もあるでしょう。事実、彼等は薩摩藩にも行き来している。
でも、中岡慎太郎と坂本龍馬は、そうはいかない。土佐藩関係であり藩内の倒幕派の中心人物で後藤象二郎も福岡も庇護をしているのですから。
ですから、この日記の中で、寺村が問題にしているのは浪士を集めてる人物で、白川邸浪士の処分とは、土佐藩関係の隊長の二人と定義するのは、妥当なものでもあります。
(寺村は二人をずっと浪士輩と述べてもいますが。)
寺村左膳は王政復古後には、慶喜を首班として政局をやれると読んで、藩内倒幕派の一掃を図ったのですが、その象徴として、郷士の中岡と龍馬を京都で処分しようと土佐に帰った。福岡藤次は上士で、救いたかった。
というのが10月5日の日記内容と解釈できるし、その後の動きの状況証拠的にも言えると。たとえば、事件当時に、朝から夜まで寺村左膳と寺田典膳、二人が芝居見物などもあり得ないでしょう。こんあ偶然あり得ない。
この問題は、最初に出る、突っ込みかなと楽しみにしていたのですが、
最初に「処分」の定義が来たので、さすがに、貴方様は勉強もされており、9月24日の内容を知っており、平尾さんの論を出してと。但し、この9月24日は、明確に二人の名前を出して寺村は非難しているのですよ。
他の浪士を論じてはおりません。(二人が浪士を白川邸に集めて困っているとだけ述べています。
この点からも、10月5日の白川邸浪士とは中岡と龍馬と解釈するのは自然でもあると考えているのです。
いずれにしても、10月5日に、具体的に中岡慎太郎と龍馬を処分すると書かれていたら、以前に、誰かに発見されていますよ。
資料を読み砕くということは、確かに、難しいです。
ですが、この問題は、土佐藩内に、中岡慎太郎と坂本龍馬を、何とか処理したい、抹殺したいという、強い勢力がいたという論拠には十分に、なるというのが、私の重要な論点であり、
土佐藩佐幕派の大物が、龍馬と中岡の背後に
居たという証明には、大きな資料なのです。
事件当時、土佐本国でも佐幕派、三十人組が旗揚げをしているのですから。
貴方様の突っ込みの点は、今後、出てくることは間違いないのですよ。
それは想定しておりましたが、中岡慎太郎と龍馬の最大の敵が身内の土佐藩だったことは、本に手、まず、認知されればと思っています。
当時は藩内抗争が最大の事件でもありましたから。そして、多くの武士が藩内抗争でなくなくている。この事実が論点ですから、藩という組織の問題として。
11月15日に、二人は処分されていることは事実で、
本の中身が、どんどん、出ていく。笑い。
トップがぬけたらだめになる組織だとすれば、そちらの方がトップの実力が疑われますわ。
慎太郎は、けっしてそんな組織作りはしてなかったんですわ。
福岡藤次は、陸援隊に白川屋敷を使わせることに尽力した当人ですから、白川邸に浪人が集まっているのが迷惑な佐幕派が、彼の責任を問うのは当然のことでしょう。
内部抗争もわからないではないですが、内部抗争は内部の人間がやるものです。討幕反対派の奈良原と海江田が、西郷を暗殺しようとつけねらった、という話が薩摩にもありますが、これが、ですね。姑息にも藩外のものに西郷を暗殺させ、新撰組が疑われるような自体になったとすれば、求心力がなくなるどころか闘志満ちて、許せん!!! 討幕だあ!!! と大騒ぎになるに決まっています。
求心力を無くさせるために他藩に暗殺を頼むなんて、そんな馬鹿なこと、絶対にありえません。
それと、討幕の密勅は薩摩藩主と長州藩主にしか出ておりません。出ていない他藩に宣伝するなんてことは、ありえません。密勅は、あくまでも内向けのものです。
えーと、こうやって、あまり系統だっていない論争をかいま読みますと、おもしろいかも、と本を買う人がいるかもしれませんですよ(笑)
おはよう、おや、お昼になりそうですね。
関東方面ですと、幕末というと、京都や西国が中心的というか、
なかなか、遠いのですね。ですから、最初は貴方様の西国におけるモンブラン伯などの海外を含んだ動きなどはついて行けず。
これでは、郎女様や中村太郎様ですか、お二人などとは論争も出来ないと、貴方様のブログを必死に読んだのですがね。
そこで、土佐藩に集中してやってみた。特に、あなた様の述べた密勅を、土佐藩は、どう処理したか、その情報伝達はどうだったのか、
これが、最初の疑問で。
(ですから、実は、本では「終論」狂ったシナリオが早い段階で、出来ていたのですよ。)
そこから、無謀にも本を出してしまった。郎女様には、一点突破しか勝てないと。笑い。
そんな背景などもあり、田中幸助が日記に出てきた時は、貴方のブログを思い出すなど、今回は、多少、あなた様と論争も出来て、うれしかったのですよ。
ということで、今後もよろしくお願いいたします。と言いたいですが、私の中に蓄積されたものは、僅かで、今後、対等に話せるか?
これは疑問で。笑い。
中村さまはもう、桐野に集中しておいでですが、私の場合、そうですね、モンブラン伯爵でさえもかわいらしいんですわ。町田にいさんや正名くん、清蔵くんや新納少年、長十郎くんだけではなく、ライオン清成もギムリ畠山も、寺島ママンも鮫ちゃんも有礼も、みーんな愛おしいんです。もちろん慎太郎も中井も、です。
もしかして、生麦事件の続きを書きましたら、桐野の敵でした奈良原と海江田でさえ、愛おしくなるかも、です(笑)
確かに関東では、瀬戸内海のように、すぐ目の前に外国の汽船がやってきて脅威を感じる、なんてことはなかったのかもしれませんが、歩兵とシルクと小栗上野介 vol2に野州羽生陣屋(代官所)がでてまいりますが、シルクの名産地で、幕府領が多く、小栗上野介が先行的に、明治新政府がやった政策を、小規模に先取りしていた、と思います。過酷な税金と兵役も含めて、なんですけど。私にとりましては、小栗上野介も渋谷鷲郎も愛おしいんですわ(笑)
討幕の密勅につきましては、私、若い頃に読みました井上勲氏の「王政復古―慶応3年12月9日の政変 」(中公新書)に全面的に影響を受けておりまして、いまでも大好きな維新史の歴史学者さんです。
昔、史料をコピーしに、長距離バスで青山文庫に通ったことがありまして、長生きしました田中光顕を、私たち死人のおっかけは「青山のじじい」と呼んでおりました。ご著書を拝読して、なつかしかったです。
ご本が売れまして、ぜひ、土佐とともに、松山へ、こられますことを、お祈りしております。
龍馬暗殺は桐野が犯人でないということで、興味はあまりないんですけれど・・・(笑)
郎女さま
メール便で発送しました。
お尋ねの件、Nezuさまに聞いたところ、やはりノベルのファンが意味のチェックをしているのではないかとのお返事でした。
「作者が遅筆で、2年に1冊ぐらいの出版」「ファンは常にチェックしているから」とのことでした。
当方は特定の個人に思い入れをしないのですが、村田新八と桂久武がなんとも好きで、桐野利秋は女性に持てたようで、カラッとしていて駄目なのですよ。笑い。
この度は、拙書を、ありがとうございます。
郎女様
情熱を感じましたが、根底は愛、人間への。分かる気がしました。なんとしても、今年は四国に行きたいと思っています。
「三千世界の鴉を殺し」の件なのですが、あれを書いた2008年01月15日には、すでに同盟タイトルのライト・ノベルが出ていまして、しかし、これまでずっと、こんなにアクセスはなかったんですのよ。Nezuさまのお話を教えていただき、ちょっとwikiを見てみましたら、なんだか題名の意味がストーリーにからんでくるらしいんですのよ。去年、15巻目が出ているようでして、その巻が特に、そういう展開になっているのかもしれません。
津守時生さんって、ボーイズ・ラブものの方なんですよねえ。喪神の碑だったか、昔、ちょこっと読みかけたことがあったよーな気もするんですが、あんまり作風が趣味にあわなくって、すぐにやめちゃったよーな。にしても、古い作家さんで。
ノブさま
お待ちしてます。ぜひ、いらしてくださいませ。
≫「三千世界の鴉を殺し」
中村様からメールをいただき苦笑してしまいましたわ。
私も某書籍のファンでして 15巻の次がなかなか・・・の状態で WEBチェックが欠かせない状態です(笑)
と言うわけで 私も以前チェック~して跳んだら郎女様サイトに着地しましたの。
「喪神の碑」は読みにくかったですね~!
それに比べると読みやすいですよ(進化したんですね)
最もココに出てくる主人公の母上様が絡んでいるので「喪神の碑」も記憶から消せません。
完全BL物までは行かないのですが
何故か「爆笑」したい時に読む本なんですよ。
現実逃避のNezu好みとお考えください。
郎女様の御近況を伺うと
大変な事が続いていらっしゃるようで
郎女様も お体 御自愛ください
あの記事は、「桐野についてちょっとおかしなことをブログに書いておられる方がいる」というお話を中村さまからお聞きしまして、あの都々逸は大好きだったものですから、その方のあんまりにへんてこりんな解釈に「まあああああっ!」と驚き、書いたものでして、因縁でございますねえ。書き出しの方に「同好のお知り合いとは、ありがたいものです」なんぞという文句があり、ノベルの感想でも書いていそうな感じですものねえ。ぜんぜんちがって、死人のおっかけなんですけど。
Nezuさまも、いろいろとおありかと存じますが、どうぞ、お体お大切に。またお会いできればと。
あの時は、ありがとうございました。鏡川さんが亡くなられて寂しい思いです。
実は今回、やっと新刊を出しました。こんな時だけお便りをして申し訳ないです。
題名: 古代中国漢字が解く日本古代史の虚偽と真実(基礎編)
アマゾンで出しまして、すでに掲載されいます。
内容は、こんなものです。
貴方の知っている日本古代史の定説は根底から覆る!
そもそも古代中国資料(東洋史)が語る倭や倭人とは何だったのか?
残念だが、今までの日本古代史学は、古代中国資料の語る「倭」や「倭人」、「倭国」の謎(本来の意味や語源)も、その真実も解明できないでいた。
しかし、本書は「東洋史が語る真実・日本古代史と日本国誕生」シリーズの第一弾で、古代中国資料の『山海経』や『漢書』、『論衡』、『後漢書』、『三国史』等の語る倭や倭人の謎や真実を全く新たな視点から追求し解き明かしている。
また、本書は、日本古代史の最大ミステリーと言われる陳寿『三国志』の語る魏使節の邪馬台国に至った道程なども、新たな視点
からつぶさに解明をしている。
新たな視点とは、古代中国における「現在とは異なる漢字や漢文の用法」、「史書の特性」、「人々の思想や宗教観」などである。
アマゾンのネッ販売にしたのです。ですから、装丁などは良くなく、高いのですが、中身は良いですよ。ハイ。
8年以上をかけて書いた。笑い。
ということで、暇がございましたら一読を。読んで、面白かったら、ぜひ、友人たちにも宣伝してください。 敬具
中島 信文
私、家庭内の事情でちょうど取り込み中でございまして、お返事が遅れました。
邪馬台国も昔、多大な関心を抱いていた時期がございまして、自体が落ち着きましたら、また読ませていただきます。
歴史の興味って、つきません。
歴史の面白さを鏡川様から知ったのですが、鏡川様が亡くなられて、何か、さびしい気がしております。