広瀬常と森有礼 美女ありき13の続きです。
内容の上からは、広瀬常と森有礼 美女ありき10と広瀬常と森有礼 美女ありき11の続報です。
まず、北海道文書館に頼んでおりました広瀬寅五郎に関する資料の複写2点が届きました。
2点とも箱館奉行所文書からですが、うち慶応2年の履歴明細短冊は、「江戸幕臣人名事典」収録の短冊とほぼ同内容なのですが、年齢はこちらが二つ年長になっています。保存状態がよく、虫食いもないようで、わからなかった部分が全部判明しました。
以下、北海道立文書館による解読文です。
子四月十五日講武所勤番ニ仰付候
まず冒頭、上の赤字の部分が大きく書かれて、線で消されています。
祖父田口小十郎死 元小川道伯家来
父田口喜兵衛死 同断
紋所井桁花菱
函館奉行支配定役
広瀬寅五郎 子年四十五
高三十俵三人扶持 本国生国共下野
内 三十俵二人扶持元高 一人扶持御足扶持
外 役扶持三人扶持
嘉永七寅年十一月
御先手紅林勘解由組同心高木銓太郎明跡江御抱入被
安政四巳年 九月
箱館奉行支配調役下役出役過人被仰付
文久元酉年 九月
定役被仰付
元治元子年 四月
講武所勤番被仰付候旨田安仮御殿於焼火之間替席若年寄衆出座諏訪因幡守殿被仰渡
同年 五月
講武所勤番組頭勤方見習被仰付候旨井上河内守殿以御書付被仰渡候段沢左近将監申渡
同年 八月(十七日)
箱館奉行支配定役被仰付候旨水野和泉守殿以御書付被仰渡候段赤松左衛門尉申渡候
広瀬寅五郎=冨五郎と仮定しますと、広瀬常の父・寅五郎は、安政3年(1856)に紅林勘解由が病気引退しました翌年、常が満2歳の年に箱館奉行所勤務を志願したことになります。このときの寅五郎の勤務先は、おそらくは函館ではなかった、と思われるのですが、妻と幼い娘を連れて室蘭、様似、厚岸、寿都、石狩、留萌、宗谷、国後島、択捉島、クシュコタン(樺太)などへ赴任したとも思えず、しかし、箱館奉行所勤務は7年とけっこう長くて、その間に次女も生まれているようですから、家族は函館にいたのではないか、と推測されます。
元治元年(1864)4月、武田斐三郎とともに迅速丸で江戸に向かいましたとき、寅五郎は講武所転勤が決まっていて、斐三郎の方が、当初は江戸出張だったみたいです。
しかし、斐三郎が7月23日付けで開成所教授に任じられ、挨拶と引っ越しのため箱館へ戻ったとき、寅五郎は共をしたと思われ、そしてそのまま、箱館奉行所勤務にもどったわけです。
箱館奉行所文書には。もう一つ、広瀬寅五郎の名前のある文書がありまして、これは、「慶応二年十一月十五日付 航海書並ニ字引、送付ノ件」という文書でして、箱館奉行所当番のうち、広瀬寅五郎と宮塚三平が主務者となって、箱館から江戸へ、航海書30冊、英語字引2冊、地理字引5冊、貿易方字引5冊を送付したときの書類です。
江戸の側で印鑑を押しています上席の「伊賀守」は、老中板倉勝静でしょうか。
連署は河津三郎太郎 安間純之進の二人です。
河津三郎太郎とは、河津伊豆守祐邦のことです。「モンブラン伯の長崎憲法講義」で書いたんですが、文久三年の幕府横浜鎖港談判池田使節団の副使で、最後の長崎奉行です。
彼の職歴なんですが、安政元年徒歩目付として蝦夷調査。箱館奉行支配調役、やがて組頭に出世。
武田斐三郎が設計した五稜郭の普請掛です。
文久2年新徴組組頭、翌3年外国奉行となり、鎖港使節副使。帰国後免職、逼塞。
許されて歩兵頭並となり、この慶応2年11月は関東郡代です。
(追記)うへー!!! 河津三郎太郎が五稜郭の普請掛であったことは確かなんですが、「文久三年の幕府横浜鎖港談判池田使節団の副使で最後の長崎奉行・河津伊豆守祐邦と同一人物かどうかは、わからなくなりました。どうも鳥羽伏見の伝習隊指揮官に、河津三郎太郎という人物がいるようなんです。これから、ちゃんと調べてみます。
安間純之進についても、函館市史(デジタル版)によれば、安政元年のペリーの箱館来港時、外国通の支配勘定役として、応接の一行の中にいます。そしてこの一行の中には、通訳として武田斐三郎がいました。
つまり、もしかしまして、この航海書や字引は、武田斐三郎のもので、その要望により、函館から江戸に送られたのではなかったんでしょうか。
この三日後、慶応2年11月18日、講武所が廃止になり、講武所の砲術部は陸軍所砲術部になっています。
そして武田斐三郎は、陸軍所の大砲製造頭取に就任するんです。
また、広瀬寅五郎が当初属していた紅林勘解由の後継者も、砲術教授方として、こちらにいたようです。
憶測でしかないんですが、同年8月の時点で、すでに講武所廃止の方向はうちだされていて、広瀬寅五郎は、武田斐三郎が箱館で開いていました諸術調所の後始末のためにも、とりあえず箱館奉行所勤務に戻ったのではないでしょうか。
としますと、間もなく陸軍所勤務になり、江戸へ帰ったのではないかと推測され、とりあえず杉浦梅潭(誠)の「箱館奉行日記」で、慶応2年の11月と12月を、見てみる必用がありそうです。
次回、fhさまのご協力によりまして、「力石本加藤家譜」をもとに、武田斐三郎と広瀬冨五郎の関係を追ってみたいと思います。
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内容の上からは、広瀬常と森有礼 美女ありき10と広瀬常と森有礼 美女ありき11の続報です。
まず、北海道文書館に頼んでおりました広瀬寅五郎に関する資料の複写2点が届きました。
2点とも箱館奉行所文書からですが、うち慶応2年の履歴明細短冊は、「江戸幕臣人名事典」収録の短冊とほぼ同内容なのですが、年齢はこちらが二つ年長になっています。保存状態がよく、虫食いもないようで、わからなかった部分が全部判明しました。
以下、北海道立文書館による解読文です。
子四月十五日講武所勤番ニ仰付候
まず冒頭、上の赤字の部分が大きく書かれて、線で消されています。
祖父田口小十郎死 元小川道伯家来
父田口喜兵衛死 同断
紋所井桁花菱
函館奉行支配定役
広瀬寅五郎 子年四十五
高三十俵三人扶持 本国生国共下野
内 三十俵二人扶持元高 一人扶持御足扶持
外 役扶持三人扶持
嘉永七寅年十一月
御先手紅林勘解由組同心高木銓太郎明跡江御抱入被
安政四巳年 九月
箱館奉行支配調役下役出役過人被仰付
文久元酉年 九月
定役被仰付
元治元子年 四月
講武所勤番被仰付候旨田安仮御殿於焼火之間替席若年寄衆出座諏訪因幡守殿被仰渡
同年 五月
講武所勤番組頭勤方見習被仰付候旨井上河内守殿以御書付被仰渡候段沢左近将監申渡
同年 八月(十七日)
箱館奉行支配定役被仰付候旨水野和泉守殿以御書付被仰渡候段赤松左衛門尉申渡候
広瀬寅五郎=冨五郎と仮定しますと、広瀬常の父・寅五郎は、安政3年(1856)に紅林勘解由が病気引退しました翌年、常が満2歳の年に箱館奉行所勤務を志願したことになります。このときの寅五郎の勤務先は、おそらくは函館ではなかった、と思われるのですが、妻と幼い娘を連れて室蘭、様似、厚岸、寿都、石狩、留萌、宗谷、国後島、択捉島、クシュコタン(樺太)などへ赴任したとも思えず、しかし、箱館奉行所勤務は7年とけっこう長くて、その間に次女も生まれているようですから、家族は函館にいたのではないか、と推測されます。
元治元年(1864)4月、武田斐三郎とともに迅速丸で江戸に向かいましたとき、寅五郎は講武所転勤が決まっていて、斐三郎の方が、当初は江戸出張だったみたいです。
しかし、斐三郎が7月23日付けで開成所教授に任じられ、挨拶と引っ越しのため箱館へ戻ったとき、寅五郎は共をしたと思われ、そしてそのまま、箱館奉行所勤務にもどったわけです。
箱館奉行所文書には。もう一つ、広瀬寅五郎の名前のある文書がありまして、これは、「慶応二年十一月十五日付 航海書並ニ字引、送付ノ件」という文書でして、箱館奉行所当番のうち、広瀬寅五郎と宮塚三平が主務者となって、箱館から江戸へ、航海書30冊、英語字引2冊、地理字引5冊、貿易方字引5冊を送付したときの書類です。
江戸の側で印鑑を押しています上席の「伊賀守」は、老中板倉勝静でしょうか。
連署は河津三郎太郎 安間純之進の二人です。
河津三郎太郎とは、河津伊豆守祐邦のことです。「モンブラン伯の長崎憲法講義」で書いたんですが、文久三年の幕府横浜鎖港談判池田使節団の副使で、最後の長崎奉行です。
彼の職歴なんですが、安政元年徒歩目付として蝦夷調査。箱館奉行支配調役、やがて組頭に出世。
武田斐三郎が設計した五稜郭の普請掛です。
文久2年新徴組組頭、翌3年外国奉行となり、鎖港使節副使。帰国後免職、逼塞。
許されて歩兵頭並となり、この慶応2年11月は関東郡代です。
(追記)うへー!!! 河津三郎太郎が五稜郭の普請掛であったことは確かなんですが、「文久三年の幕府横浜鎖港談判池田使節団の副使で最後の長崎奉行・河津伊豆守祐邦と同一人物かどうかは、わからなくなりました。どうも鳥羽伏見の伝習隊指揮官に、河津三郎太郎という人物がいるようなんです。これから、ちゃんと調べてみます。
安間純之進についても、函館市史(デジタル版)によれば、安政元年のペリーの箱館来港時、外国通の支配勘定役として、応接の一行の中にいます。そしてこの一行の中には、通訳として武田斐三郎がいました。
つまり、もしかしまして、この航海書や字引は、武田斐三郎のもので、その要望により、函館から江戸に送られたのではなかったんでしょうか。
この三日後、慶応2年11月18日、講武所が廃止になり、講武所の砲術部は陸軍所砲術部になっています。
そして武田斐三郎は、陸軍所の大砲製造頭取に就任するんです。
また、広瀬寅五郎が当初属していた紅林勘解由の後継者も、砲術教授方として、こちらにいたようです。
憶測でしかないんですが、同年8月の時点で、すでに講武所廃止の方向はうちだされていて、広瀬寅五郎は、武田斐三郎が箱館で開いていました諸術調所の後始末のためにも、とりあえず箱館奉行所勤務に戻ったのではないでしょうか。
としますと、間もなく陸軍所勤務になり、江戸へ帰ったのではないかと推測され、とりあえず杉浦梅潭(誠)の「箱館奉行日記」で、慶応2年の11月と12月を、見てみる必用がありそうです。
次回、fhさまのご協力によりまして、「力石本加藤家譜」をもとに、武田斐三郎と広瀬冨五郎の関係を追ってみたいと思います。
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