郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

広瀬常と森有礼 美女ありき8

2010年09月21日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき7の続きです。

 今回は、前回ギャグにしましたように、なぜ広瀬常が、森有礼との結婚を望んでいなかったと私が考えたか、その理由について、ちょっと書いてみたいと思います。
 「若き森有礼―東と西の狭間で」において、犬塚孝明氏は、常にとっての有礼の求婚は、「まさに玉の輿であった」と書いておられます。
 
 これは、おっしゃる通りでしょう。
 この当時の官員は、ものすごい給料をもらっていまして、位階なども、ですね、森有礼クラスになりますと小大名級。おまけに東京の屋敷は、元大名屋敷の払い下げを受けていたりします。
 森有礼全集の伝記資料によりますと、有礼は、明治6年(1873)、帰国当初は仮住まいで、翌7年(1874)、木挽町に屋敷をかまえています。明治7年のいつからなのか、正確にはわからないみたいなのですが、この屋敷に西洋館を建てて、翌8年(1875)2月、常とのシヴィルウェディングを執り行い、同年8月には、アメリカから商法講習署の教授として招きましたホイットニー一家を、この洋館に住まわせているんです。
 ですから、一家の長女で、当時15歳のクララ・ホイットニーは「勝海舟の嫁 クララの明治日記〈上〉」
におきまして、この屋敷の様子を書き残してくれています。以下、引用です。

「私たちの家はこの辺で一番大きい家で、馬車道がついている門が二つあって、一つにはこぎれいな小さな門番小屋がある。(中略)台所はこの家と森さんのご両親の家との間にあり、台所の隣は浴室である。中庭はとても広く、そこを下りると庭園があって、日本人の家族が管理している。この家族は庭の中にあるきれいな小さい家に住み、すべてに行き届いた手入れをしている」

 これを読みまして私、元大名屋敷だろうな、と思い、調べてみました。
 木挽町10丁目で、采女町の静養軒の隣、ということでして、静養軒は、東銀座の現在の時事通信ビルにありました。となれば、有礼邸は、現在の銀座東駐車場を中心に、おそらくは新橋演舞場も含む一帯と思われます。これを幕末の切絵図で見ますと、松平周防守屋敷でして、あるいは隣の稲垣若狭守屋敷も含まれるかもしれませんで、あきらかに小大名屋敷です。ここいら一帯が、明治4年の東京大絵図では、外務省御用地になっていますから、払い下げを受けたみたいですね。

 薩摩出身の高級官僚であります有礼は小大名。広瀬常は食べるにも事欠く旧幕臣の娘。まさに玉の輿なのです。
 おまけにもってきまして有礼は、女子教育の推進者ですし、「妻妾論」で、夫婦間において貞節を守る義務は男性にもある、としまして、西洋流に女性を尊重する結婚観の持ち主、ということで、常にとってのこの結婚は、通常、この上ない良縁であったかのように語られます。
 しかし果たして、常はこの玉の輿を、ありがたいものと受け取っていたのでしょうか。
 経済的には、確かにそうでしょう。しかし、気持ちの上においてどうだったか、ということなのですが。
 参考書は下の二冊だけではないんですけれども、いろいろな例を参照しまして、幕末から明治へかけての下級士族の女性の結婚、恋愛観を下敷きにし、「妻妾論」を書いた有礼の意識と、それを受け止める常個人の意識とを、私なりにさぐってみたいと思います。

武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)
磯田 道史
新潮社


不義密通―禁じられた恋の江戸 (講談社選書メチエ)
氏家 幹人
講談社



森有礼の「妻妾論」について、犬塚孝明氏は、「若き森有礼―東と西の狭間で」で、「妻妾を同親等とみなす旧態依然たる国法の下、妻妾同居も珍しくない当時の社会的風潮にあって、この論説は近代的婚姻観に基づく最初の一夫一婦論として識者の注目を集めただけでなく、世間に大きな衝撃をあたえるものとなった」と書いておられまして、それがまちがっているというわけではないんですけれども、「妻妾論」の主意は、現代では、かなり重点がずれて受け取られているのではないか、と思うのです。

 だいたいです。「妻妾論ノ一」で有礼は、「凡ソ其妾ナル者ハ概ネ芸妓遊女ノ類ニシテ、之ヲ娶ル者ハ凡ソ貴族富人ニ係ル」、つまり「妾は、たいていは芸者や遊女が金で買われたもので、したがって妾を置くのはたいていは貴族や金持ちだ」としておりまして、日本の婚姻の実態は、基本的に一夫一婦制であるにもかかわらず、立法者たる高級官僚(有礼本人がそうですが、この明治初期、高級官僚は小大名級の貴人金持ちになっています)が、かつての大名や上層士族、富商を見習って妾(側室)を蓄え、そういう意識だから、妾を公認する民法を放置しておくのだと、政府の立法姿勢を批判し、意識改革を訴えているわけです。
 これは、法制の面からいいますと、確かに「西洋近代法を見習え」ということになるのですけれども、有礼の意識からしますならば、むしろあるべき士族の道徳観だったのではないでしょうか。
 
 また有礼は、上の一説に続けまして「故ニ貴族富人ノ家系ハ買女ニ由テ存スル者多シ」としていまして、これは買春を悪としますキリスト教的価値観であり、同時に「妻妾論ノ二」を見ますと、有礼が家の血統を重んじ、基本的に父系の血筋を重視しつつ、母系の家柄も尊重します、当時の欧米の中流的な保守的価値観を享受しているものと受け取れます。
 しかし一夫一婦制のもと、夫の側の貞操をも求めます西洋的価値観は、「庄屋さんの幕末大奥見物ツアー」「『源氏物語』は江戸の国民文学」で見ましたように、おそらく、なんですが、幕末から、国学の影響下、江戸の上級旗本など、一部においては、受容されつつあったのではないでしょうか。
 そして薩摩の国学は、その中心にいました八田知紀が、島津斉彬に重んじられ、京の近衛家に出入りする歌人でありましただけに、蘭学重視、開国、雅に重点を置きました、いわば上流の国学になっていたように思えるのです。

 そしてまた、畑尚子氏の「江戸奥女中物語 」によりますと、将軍家の正妻の立場は、幕末に近づきますほど強化され、側室はあくまでも臣下であり、例え世継ぎを生みましても、世継ぎは正室の子とされ、それは大名家も同じようなものだったとされています。
 有礼は、そういった強化されました正室と、使用人としての側室をも否定しているのですが、あるいはこれには、お由羅騒動が大きく影響してはいないでしょうか。

 お由羅騒動(高崎崩れ)は、有礼が生まれて間もなく起こっておりまして、ちょうどそのころ森家は、春日町から城ヶ谷に引っ越しています。
 城ヶ谷は、西南戦争で西郷や桐野が最期を遂げました岩崎谷に近く、犬塚氏によれば「陰鬱な表情」をした場所で、ここへ移り住むとは「父有恕の仙骨めいた気風がそうさせたのであろうか」となさっておられるのです。有恕についてはさっぱり資料が無く、犬塚氏は根拠のない憶測をひかえられたのでしょうけれども、有恕は斉彬より三つ年上の中級藩士であったわけですし、心情斉彬派であったのではないか、という推測は許されると思うのです。
 いずれにしましても、お由羅騒動は、由緒正しい家柄の正室の子として生まれました世子斉彬派と、素性の知れない側室お由羅が生みました久光派と、島津家中がまっぷたつに割れ、多数の斉彬派家臣が、切腹、蟄居、遠島といった苛酷な処分を受けました事件でして、西郷、大久保一家も斉彬派でした。その後、斉彬が無事藩主となり、久光の息子を次代藩主に指名しましたことで、つぐなわれたかに見えるんですけれども、この事件が藩内に長く陰を落とし、家臣にとりましての島津家の威信をゆるがしましたことは、確かでしょう。
 いわば、です。藩主の好色がお家を危うくしたわけでして、そんな中、斉彬の母親でありました正室の良妻賢母ぶりは、藩士の間で喧伝されていくことになります。
 斉彬の母・周子は、鳥取藩池田家に生まれ、島津家に嫁するにあたって、多数の漢籍を嫁入り道具といっしょに持ち込んだ、といわれる才女ですし、斉彬の養女として将軍家正室となりました篤姫も、日本外史を愛読した良妻です。
 そもそも、です。儒教的な道徳におきましても、遊女、芸者と遊びますことは、お家を滅ぼしかねない遊蕩とされてきていたのですし、ピューリタニズムと武家道徳には、共鳴するものがありえたでしょう。

 有礼は、薩摩の中級藩士の家に生まれ、男ばかり五人兄弟の末っ子。
 武士の家におきましても、男子の母親となりました女の立場は、非常に強いのです。そこへもってまいりまして、里さんは男勝りの孟母。
 ストイックな英才教育を受け、18歳でイギリスに渡り、そこで有礼が最大の影響を受けた人物が、上流階級の淫蕩な風潮に嫌気がさして禁欲的なハリス教団に走りましたオリファントです。
 理知的な有礼の場合、国学的な価値観からすっぽりと「雅」がぬけ落ちまして(いえ、ここで「雅」が残りますと、かならずしもピューリタニズムとは合致しないわけなのですが)、男女関係におきましては、ストイックな上にもストイックな倫理観が、身についたものではないでしょうか。

 一方の広瀬常です。
 これまで見てきましたように、広瀬家は、幕臣ではありましたけれども、どうやら、下級士族です。それも、関東の農村から出て、同心株を買った新興幕臣の可能性が高そうなのです。
 もともと農村の男女関係には、武家のように厳密な密通(私通)意識はありません。密通といいましても、武家道徳における密通は、かならずしも現在でいいます不倫だけではありませんで、親の許しを得ず、未婚の娘が男性と肉体関係を持ちますのも密通です。
 しかし、例えば樋口一葉の両親のように、関東の近郊農村のかなりな階層の家の未婚の娘と息子が、たがいに惚れあって娘が妊娠してしまい、しかし娘の親が結婚を許さないので、駆け落ちして江戸へ出て、男は武家奉公、女は旗本の家に乳母に上がり、コネと蓄えを得て同心株を買う、というようなことも、いくらでもありえたのです。
 こういった幕臣の流動化とともに、王朝文学の庶民的な受容が進みましたとき、武家道徳は相対化されます。

 そして、江戸は文化の中心地でした。
 旗本、御家人の色恋、結婚に対する感覚は、地方武士のそれとは、かなり乖離していたでしょう。
 余裕のある旗本の家では、妻女が芸者と席をともにして、夫や父親と季節の風情を楽しむことも多々あります。
 文芸の趣味を同じくした男女、ということですと、京都にもまた、新しい男女の形がありました。「『源氏物語』は江戸の国民文学」で書きました頼山陽の女弟子・江馬細香が典型的ですが、中村真一郎氏は、「頼山陽とその時代 上 」におきまして、以下のように述べておられます。

「ところで、(頼山陽と女弟子の)この対等の男女関係という問題は、さらに世代の共通課題として、発展させていく必要がある。
 また彼(頼山陽)の獲得した自由が、次の革命的世代のなかで、どのように変貌して行ったか。また、明治維新以後において、薩長の田舎漢たちの遅れた男女関係の意識が、新しい支配階級のものとして、時代の道徳を指導するに至って、もう一度、大幅に後退して行ったことが、後世、山陽を遊蕩児と見ることに、大いに役立ったことの事情についても」


 つまり、なにが言いたいかといいますと、「雅」をすっきりとぬかして、ピューリタニズムとシンクロしました有礼の恋愛観は、常のそれよりも、はるかに不自由なものであっただろう、ということなんです。
 有礼にとっての夫婦愛は、理念上、私愛であってはならず、エロスが欠落しているのです。しかし、理念上そうであったにしましても、男女の愛は、本質的には、エロスを欠落させては成り立たないものであり、有礼が理想とする媒酌が入りましての紹介婚ではなかったわけなのですから、常を見初めるにあたって、エロスが介在しない、などということはありえないでしょう。にもかかわらず、それを認めない男といのは、けっこう、疲れる相手じゃないでしょうか。

 さらにもう一つ、幕末期、士族の娘といえども、生涯、実家との縁は切れません。実家から小遣いをもらい続ける例も、多数。かならずしも、夫にすべてを頼るわけではなかったわけでして、そうであればこそ、同格か、あるいは実家よりも格下の家に嫁ぐ方が、女の立場は楽なのです。
 まして広瀬家は、男子の跡取りがなかったような様子です。はっきりわかっています妹とは、10近く年が離れ、となりますと、おそらく常は、跡取り娘として、婿養子を迎える立場だったのだろうと推測できます。こうした女の立場は、やはり、とても気楽なものです。
 それが、です。実家は落魄れて、食べるにもこと欠く状態で、小大名のような勝者のもとへ嫁ぐ、といいますのは、なにもかも夫が頼りで肩身が狭く、士族としての誇りだけはあったでしょうから、それこそ妾にあがるような、屈辱感だったのではないでしょうか。
 この点におきまして、有礼が再婚しました寛子は、岩倉具視の娘で、実家は森家よりはるかに格上です。寛子夫人の回顧談により、有礼の女性観を評価し、常に批判的な視線をそそぎますのは、犬塚氏でさえそうでして、従来の一般的な論調なのですけれども、ちょっとちがうのではないか、と思います。

 続きます。

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 広瀬常と森有礼 美女ありき7 | トップ | 明治初頭の樺太交渉 仏から... »

コメントを投稿

森有礼夫人・広瀬常」カテゴリの最新記事