広瀬常と森有礼 美女ありき2の続きです。
森有礼の伝記において、有礼がカルト的教祖トーマス・レイク・ハリスにはまりこんだことは、論者によって評価がわかれます。一般的には、洗脳がとけてたいした影響はなかったようにいわれてまして、略伝などでは、ハリスのハの字も出てこなかったりしますが、嘘です!。
この件に関して、真摯にご研究されましたのは、林竹二氏です。
森有礼 悲劇への序章 (林竹二著作集) | |
林 竹二 | |
筑摩書房 |
上のご著書の元になりました論文は、薩摩スチューデントの血脈 畠山義成をめぐって 上でも紹介しておりますが、オンライン公開されています。森有礼研究第一 森駐米代理公使の辞任と、森有礼研究第二 森有礼とキリスト教ですが、第二の方で、ハリス問題が主にあつかわれています。
で、ですね。なんでイギリス留学生がー、イギリス留学生が、といいますのは、「畠山義成をめぐって」で書いておりますが、ローレンス・オリファントとハリスは、薩摩以外の留学生にも手をのばしていまして、実際に、高杉晋作の従弟・南貞助もはまりこみ、長州の殿様を誘い込むために帰国した形跡があるわけなのですが、ともかく、幕末イギリス留学生がなぜはまりこんだか、といいますと、ローレンス・オリファントがハリスにはまっていたがゆえ、だったでしょう。
オリファントは、攘夷まっさかりの日本に外交官として来日し、東禅寺事件で水戸浪士に襲われて深手を負い、帰国後、下院議員になりますが、なぜか、非常に親日的だったんですね。まあ、スコットランドの出身ですし、幕末、日本にいた商人は、グラバーをはじめ、スコットランド系がほとんどでしたので、幕府とむすんだフランスに反発して雄藩に肩入れ、というのはあったと思うのですが、オリファントの場合、それだけでもなく、世界中を旅してまわった結果、既成キリスト教があきたらなくなったのではないのでしょうか。そこらへんのオリファントの心理については、宮澤眞一氏のローレンス・オリファントに於ける転石の苔が参考になります。
まあ、いずれにしろ、オリファントもハリスもエキセントリックであったことは確かでして、「英国畸人伝」の「いかさま師と錬金術師」の章では、ハリスとオリファントを、性的に放埒な教団を運営したと決めつけています。実際、後年のアメリカで、こういった非難がハリスにあびせられましたのは事実のようですし、有礼が教団にいたと同時代にもすでに、既成キリスト教団からは「社会主義カルト」といった類の非難があびせられています。
しかし、これはどうなんでしょう。アメリカの既成の価値観からは遠く離れた教団だったでしょうし、ハリスはとんでもなく変なおっさんですし、カルトといえば確かにカルトでしょう。
ただ、林竹二氏の著作で、教団に残った森有礼&鮫島尚信と、出て行って既成のキリスト教信者となった畠山義成の論争を見ますと、要するに、ハリス教団は、スウェーデンボルグを奉じた修道会をめざした、といえるんじゃないんでしょうか。プロテスタントには修道会がありませんで、カトリック嫌いから修道会とはいえないんでしょうけれども、修道院というのは、理不尽なものなのですね。建前上、全財産を寄付して入会し、神のためにひたすら自己を殺して、修道院長の命令を受け入れるんです。『千々にくだけて』と『哀歌』の後半に書いているんですが、既成の修道院でさえも、人間が運営するものですから、俗の価値観はしのびこんでいますし、院長や同僚と馬があわないことだって、多々あります。
ましてハリスは、既成の権威とは無縁の変なおっさんです。
林竹二氏のおっしゃる通り、究極的には、ハリスをいわば命令権を持つ「修道院長」として認めるかどうか、の問題だったのだと思います。そして、畠山義成は、宗教問題をあくまでも個人的なものと考えていたがため、ハリスが奇矯なのは天然自然であって、決して悪人ではないが、他宗を許容しないことはまちがっている、という結論に達したのだと思うのですが、森有礼と鮫島尚信の場合、宗教を個人的なものと考えるよりも、近代国家を成り立たせる根本にあるものだ、という意識が強かったのではないでしょうか。で、あった場合、既成のキリスト教ではなく、ハリスが信奉するスウェーデンボルグは、定まった組織や解釈がある宗派ではないですから、日本流の解釈がしやすく、抵抗がないように思うのです。
ハリス教団は、いわばハリス教の修道院であった、といいましても、外で活動する者も多かったわけでして、教団で修行をつんで、「あんたはもうりっぱに合格したから、外でがんばりなさい」というのは、ハリスの判断です。
まあどうやら、おそらく畠山の報告を受けて、なのでしょうけれども、「こりゃ大変!」と薩摩藩から、森有礼と鮫島尚信の帰国旅費が送られていまして、ハリスはそれを受け取っているんです。だから、ではあるんでしょうけれども、ハリスが二人に「あんたたち二人は、もうりっぱに修行ができたから、日本の国を新しく造ることに専念することを、神も望んでおられる」といって日本に帰したことは、確かでしょう。だからこの二人は、在俗の修道者のつもりで、自分たちが理想とする近代日本創造に、残りの生涯をささげたわけです。自分たちは、日本のために神に選ばれている!と信じていますから、ただでさえ押しが強いところへもってきまして、独善的にならざるをえませんわね。
ただ、有礼と鮫ちゃんにとっての神が、キリスト教のGodか、といえば、大きくいえばそうなんでしょうけれども、微妙です。
私、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1で、以下のように書いております。
「いや、新納とうさんといい、薩摩開明派門閥の蘭学重視、漢学軽視には、すさまじいものがあります。長兄の町田久成は、江戸で平田国学の門下になっていますし、どうも、国学が基本にあって、漢学より蘭学を重んじるという、そういう流れがあったように感じます」
これ、まったく根拠のない妄想というわけでもありませんで、国立歴史民族博物館のHPのほっと一息 展示の裏話を見ていますと、平田国学には、そういう側面があったようです。特に、明治維新と平田国学」展 第5回 地動説と記紀神話 2004/11/10の短い紹介には、「篤胤が江戸で学んだことは、これまで真実だと思ってきた儒教的“知の体系”が大きく誤っており、ヨーロッパのそれが実証的で科学的だという、恐ろしい真実だったのである。儒学が前提とし、仏教的世界観も当たり前だとしてきた天動説ではなく、地動説が正しいとすれば、この宇宙の起源とはいかなるものでなければならないのか? 1813年に刊行された篤胤の主著『霊能真柱(たまのみはしら)』の第一の問いかけは正にこの問題だったのである。(中略)儒教や仏教に対する篤胤の批判の鋭い武器がこの地動説だった」とあって、おもしろいですよね。
清蔵くんの話を書きましたときに、私がこういう話をしておりましたところが、fhさまが、とってもおもしろいものを見つけてくださいました。備忘 八田のおじいちゃん3なんですが、すばらしい町田にいさんと寺島さん、八田のじさまを、拝むことができます。
ひいーっ!!! 実は、オリファントとハリスが平田国学にはまった???のかも、な発見です。
えー、つまり、ですね。薩摩の留学生たちは、薩摩藩の国学の大家にしまして、和歌のお師匠さま、八田知紀じいさまが書きました「大理論畧」といいます冊子をよりどころにして、オリファントやハリスに、神国日本を語ったんですね。だって、勝海舟宛の八田じいさま書簡に、「英国隠士ハリス独り、かの玄天の大道を唱て、当時をうれたむよしなるハ、尤なる事歟と存申候」とあるんですから、吉田清成や鮫ちゃんや有礼が語らなくて、だれがハリスに「大理論畧」を語るというのでしょう。
有礼がハリスにはまったのは、最終的には、ハリスが八田じいさまの「大理論畧」を認めたから、だと思います。有礼の父親は、和歌をやっていますから、八田のじさまとは親交があったでしょうし。
Googleブックス横山健堂著「日本教育の変遷」、目次のセクション5をクリックしますと、「大公平小公平の道 森有礼の外国留学における覚悟 森文部大臣と八田知紀」という章が出てまいります。一読してみますと、森有礼の思想はけっこう「大理論畧」で読み解けそうな気分になり、私、横山健堂に習って「大理論畧」を手にいれなくっちゃあ!!!と思いつめました。国会図書館になくてがっくりきていたところに、古書店に出物がありまして、思わず買ってしまったんですが、なんと! 鹿児島県立図書館にあったみたいですわ。
ともかく、おもしろいです。あとがきに、「此書ハ外国ニワタル人ノ若シカノ土ニテ皇国ノ道ヲ問フ者ノアランニ答フヘキノ大意ヲ示シテヨト云ヘルニ取アヘス書テオクリタル也」とありまして、いったいだれが、「じじさま、外国で日本のアイデンティティを聞かれたら困るから、アンチョコにしてよ」なんぞと、馬鹿みたいなおねだりをしたんでしょ! 私の独断と偏見で推測しますと、有礼か吉田清成か鮫ちゃんかです、きっと。
で、じさまが苦労して、平田国学の奥義を、素人にも(町田にいさんのような玄人向けにではなく、です)わかりやすく解説しましたのが、この「大理論畧」です。
えー、大理は円(まる)で、小理は方(かく)なんだそうです。
もちろん、攘夷なんて馬鹿げていて、日本人は大いに世界に出て、議論をすべきなんだそうです。なにを議論するかといえば、シナの儒学や西洋の理論は、すべて小理なんだそうで、造化主(Godに似てますが、神道は江戸時代にキリスト教の影響を受けて、一神教的なものを取り入れています)は大理に従って世界を造られたので、日本は国の成り立ちが天然自然に大理に基づいていますから、天然自然のままでもっともすぐれた国であり、その証拠が万世一系の皇統なんだ、ということを相手にわからせるべき、なんだそうなんです。
で、大理は円ですからすべてを包み込みます。読み方によっては、小理はシナ式であろうが西洋式であろうが、ともかく日本は大理の国なので、それは気にしなくていい、ということになりかねず、文化がどう変容しようとも、万世一系の皇統をいただいてさえいたならばそれでいい、という、かなりすさまじい解釈もできそうです。
日本の古伝説では、太古の昔から地動説をとっているのに、シナの小理にまどわされて天動説がはびこっていましたが、西洋で近年になって地動説が真実だとわかって、日本が大理の国だと証明されたんだそーなんです。
理屈はみんな小理です。大理は、理屈じゃないんです。感じ取らなくてはならないんです。大神楽に鞠の曲取りという曲芸があるんだそうですが、どうしてそんな不思議な動きを鞠がするかって、芸をする人の修練の結果であって理屈ではないのと、同じなんだそーなんです。
えー、私、まったくもってよくわかってないですから、まちがって要約していたら、ごめんなさい。
で、まあ、そういうことだとしまして、です。私、ふと思ったんです。
シオリストの有礼は、「感じること」なんて大の苦手ですから、「ハリスのもとで理不尽な修練に耐えて生まれ変わらなければ、造化主の大理がわからない!」と、鮫ちゃんと意気投合しちゃったんですわよ、きっと。
で、「日本は大理の国なんだから、細かいことはどー接ぎ木をしようが、国体はまもることができる!」なんちゃって、有礼の中では、英語を国語にしようが、神社の境内で牛肉を食べようが、大理の円につつまれる小理。そーいった細かいことは、日本の近代化にプラスになる方向へさっさと改変すべきなのであって、それがけっして、日本の国柄を守ることと矛楯することではなくなっていたりしちゃったんじゃ、ないんですかしらん(笑)
まあ、奇人、変人の類ですわね。
で、次回、いよいよ、その有礼と、常は出会います。
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