あー、また下手な写真なんですが、桂浜の龍馬像です。おもしろい角度でしょう?
逆光で、太平洋がきれいに写っていると龍馬像が蔭になって黒くなってしまい、像がちゃんと写ると、この写真のように海がとんでしまっちゃったんです。
一昨日のことです。
この写真の近くに住んでおります妹から、電話がありました。
「今ね、大河がつまらなくて、見るものがなくて、退屈しているだろーと思って、電話してあげたの」
たしかに、つまらない大河を、見るともなくつけていたのですが、「電話してあげた」ってあーた、退屈ならすることは他にもありますわね。
ま、ともかく、最近の大河はほんとうにつまらない、という話になりまして、なにが題材ならいいんだろうと、あれこれ、言いあっておりました。
私は以前にも、「土佐なら長曽我部。『夏草の賦』がいいのに」といったことがあったのですが、妹は、これには賛成ではありませんでした。
地味すぎる、というのです。
司馬遼太郎氏の『夏草の賦』は、いいと思うんですけどねえ。
「男は容姿」の私としましては、やはり、薩摩島津との戦で戦死する、元親の長男、弥三郎信親がよいですわ。
しかし、やはり、幕切れが寂しいといえば、寂しいですね。
敵の長男の死を悼む薩摩の家老が風格があって、実に絵になっているんですけど、ともかく悲しい。
たしかに、地味かもしれませんね。
しかし土佐なら、山内さんよりいいじゃありませんか。
四国を席巻した長曽我部の地侍たちと、後に土佐に乗り込んで来た山内家の家臣たちの確執は、結局、幕末まで尾を引きますよね。
龍馬も含め、脱藩して命を落とした土佐勤王党の志士たちの大多数は、郷士や庄屋で、長曽我部侍です。
土着の土佐勤王党の志士たちは、京へ上れば、長曽我部氏の墓に参っていたりします。
上士、つまりお城勤めのサラリーマン武士が山内侍。
土佐藩そのものの姿勢は、ぎりぎりまで幕府よりでした。
ところで、この土佐の郷士と上士の対立を激化させた井口村事件が、実は男色がらみなのです。
この事件は、土佐勤王党史をはじめ、龍馬の伝記など、土佐の幕末を描いたものにはかならず出てきまして、司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』でも取り上げられています。
事件を簡単にのべますと、中平忠一という若い郷士が、ちぎりをかわした少年・宇賀喜久馬と夜道を歩いていて、鬼山田という上士につきあたります。
酒が入っていたこともあり、殺傷沙汰となって、忠一は鬼山田に斬り殺されます。喜久馬は、忠一の実家に知らせに走り、忠一の兄がかけつけて、鬼山田を斬り殺します。
これが、郷士VS上士の大騒動に発展するのですが、司馬氏の『竜馬がゆく』では、中平忠一の男色について、「愚にもつかぬ男で、衆道にうつつをぬかし」と、しています。
しかしこれは、娯楽小説ゆえの表現、というべきでしょう。
忠一と喜久馬との関係が、「衆道にうつつをぬかし」などというものではなかったことは、安岡章太郎氏の『流離譚』(講談社文芸文庫)により、知ることができます。
安岡氏は土佐郷士の家の出身でして、宇賀家の遠縁です。
親族などから、「宇賀のとんと(稚児)の話」として、喜久馬が中平忠一に準じて切腹したいきさつを、聞かされていました。
喜久馬は、切腹したとき、わずか13歳でした。
宇賀家の親族は、みなで喜久馬に、「腹を切っても痛いというて泣いちゃいかん、みっともないきに泣かれんぜよ。泣いたらとんとじゃというて、またてがわれるきに」と、いってきかせたそうです。
つまり喜久馬の切腹、忠一への殉死は、親族全体から認められ、励まされる行為であり、二人の関係は、双方の家族から認められ、郷士社会も公認したものであったわけです。
物理学者で随筆家の寺田寅彦氏は、喜久馬の甥にあたりまして、寅彦氏の父が、弟の喜久馬を介錯したそうです。
あー、なにが言いたいかといいますと、これは、習俗としての男色なのですね。
なにも土佐だけではなく、日本全国にあったわけでして、長州下関の奇兵隊のパトロン、白石正一郎の短歌にも、こういうものがあります。
みめよきはあやしき物か 男すらをとこに迷う心ありけり
(『白石家文書』 下関市教育委員会編 より)
って、まさか正一郎さん、お相手は晋作さんじゃ、ないですよね。
わしが稚児(とんと)に 触れなば触れよ
腰の……が鞘走る~♪
よさこい、よさこい~♪
……部分を忘れてしまいましたが、そんなよさこい節もあります。
まあ、ともかく、日本全国に幕末まで残った習俗ではあったのですが、土佐、薩摩で特に色濃く残っておりまして、私は、これは南島文化の通過儀礼としての男色の名残、であったのだと思っております。
で、別にそのつながりではないのですが、大河の題材について、妹はこう申しました。
「島津はどうよ? 薩摩ならじめじめしてなくてよさそう」
「あー、それはいいわね」
と、私も即座に賛成いたしました。
関ヶ原の退(の)き口といい、その後の生き残り政略といい、爽快です。
戦国時代の大河なら、今度は薩摩島津がいいですね。
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逆光で、太平洋がきれいに写っていると龍馬像が蔭になって黒くなってしまい、像がちゃんと写ると、この写真のように海がとんでしまっちゃったんです。
一昨日のことです。
この写真の近くに住んでおります妹から、電話がありました。
「今ね、大河がつまらなくて、見るものがなくて、退屈しているだろーと思って、電話してあげたの」
たしかに、つまらない大河を、見るともなくつけていたのですが、「電話してあげた」ってあーた、退屈ならすることは他にもありますわね。
ま、ともかく、最近の大河はほんとうにつまらない、という話になりまして、なにが題材ならいいんだろうと、あれこれ、言いあっておりました。
私は以前にも、「土佐なら長曽我部。『夏草の賦』がいいのに」といったことがあったのですが、妹は、これには賛成ではありませんでした。
地味すぎる、というのです。
司馬遼太郎氏の『夏草の賦』は、いいと思うんですけどねえ。
「男は容姿」の私としましては、やはり、薩摩島津との戦で戦死する、元親の長男、弥三郎信親がよいですわ。
しかし、やはり、幕切れが寂しいといえば、寂しいですね。
敵の長男の死を悼む薩摩の家老が風格があって、実に絵になっているんですけど、ともかく悲しい。
たしかに、地味かもしれませんね。
しかし土佐なら、山内さんよりいいじゃありませんか。
四国を席巻した長曽我部の地侍たちと、後に土佐に乗り込んで来た山内家の家臣たちの確執は、結局、幕末まで尾を引きますよね。
龍馬も含め、脱藩して命を落とした土佐勤王党の志士たちの大多数は、郷士や庄屋で、長曽我部侍です。
土着の土佐勤王党の志士たちは、京へ上れば、長曽我部氏の墓に参っていたりします。
上士、つまりお城勤めのサラリーマン武士が山内侍。
土佐藩そのものの姿勢は、ぎりぎりまで幕府よりでした。
ところで、この土佐の郷士と上士の対立を激化させた井口村事件が、実は男色がらみなのです。
この事件は、土佐勤王党史をはじめ、龍馬の伝記など、土佐の幕末を描いたものにはかならず出てきまして、司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』でも取り上げられています。
事件を簡単にのべますと、中平忠一という若い郷士が、ちぎりをかわした少年・宇賀喜久馬と夜道を歩いていて、鬼山田という上士につきあたります。
酒が入っていたこともあり、殺傷沙汰となって、忠一は鬼山田に斬り殺されます。喜久馬は、忠一の実家に知らせに走り、忠一の兄がかけつけて、鬼山田を斬り殺します。
これが、郷士VS上士の大騒動に発展するのですが、司馬氏の『竜馬がゆく』では、中平忠一の男色について、「愚にもつかぬ男で、衆道にうつつをぬかし」と、しています。
しかしこれは、娯楽小説ゆえの表現、というべきでしょう。
忠一と喜久馬との関係が、「衆道にうつつをぬかし」などというものではなかったことは、安岡章太郎氏の『流離譚』(講談社文芸文庫)により、知ることができます。
安岡氏は土佐郷士の家の出身でして、宇賀家の遠縁です。
親族などから、「宇賀のとんと(稚児)の話」として、喜久馬が中平忠一に準じて切腹したいきさつを、聞かされていました。
喜久馬は、切腹したとき、わずか13歳でした。
宇賀家の親族は、みなで喜久馬に、「腹を切っても痛いというて泣いちゃいかん、みっともないきに泣かれんぜよ。泣いたらとんとじゃというて、またてがわれるきに」と、いってきかせたそうです。
つまり喜久馬の切腹、忠一への殉死は、親族全体から認められ、励まされる行為であり、二人の関係は、双方の家族から認められ、郷士社会も公認したものであったわけです。
物理学者で随筆家の寺田寅彦氏は、喜久馬の甥にあたりまして、寅彦氏の父が、弟の喜久馬を介錯したそうです。
あー、なにが言いたいかといいますと、これは、習俗としての男色なのですね。
なにも土佐だけではなく、日本全国にあったわけでして、長州下関の奇兵隊のパトロン、白石正一郎の短歌にも、こういうものがあります。
みめよきはあやしき物か 男すらをとこに迷う心ありけり
(『白石家文書』 下関市教育委員会編 より)
って、まさか正一郎さん、お相手は晋作さんじゃ、ないですよね。
わしが稚児(とんと)に 触れなば触れよ
腰の……が鞘走る~♪
よさこい、よさこい~♪
……部分を忘れてしまいましたが、そんなよさこい節もあります。
まあ、ともかく、日本全国に幕末まで残った習俗ではあったのですが、土佐、薩摩で特に色濃く残っておりまして、私は、これは南島文化の通過儀礼としての男色の名残、であったのだと思っております。
で、別にそのつながりではないのですが、大河の題材について、妹はこう申しました。
「島津はどうよ? 薩摩ならじめじめしてなくてよさそう」
「あー、それはいいわね」
と、私も即座に賛成いたしました。
関ヶ原の退(の)き口といい、その後の生き残り政略といい、爽快です。
戦国時代の大河なら、今度は薩摩島津がいいですね。
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今回の大河は、前回の義経や前々回の新撰組!のような滅びの美学が無いのでまったく関心が無いのです。
すでに来年の風林火山に関心が向いております。
九州が舞台の大河。
もし島津氏がダメなら小西行長が観たいです。
ご訪問、ありがとうございます。
沖縄とのからみなんですか?
でも、征服は戦国の習い。どこがどうダメなのか、さっぱりわかりませんです。
じゃあ、四国征伐された四国人としましては、秀吉なんかだめだめ、となっちまいますし、松山人としましては長曽我部も毛利もだめだめ、土佐にとては山内だめだめで、なにもできなくなります。
視聴料をちゃんとはらっている私としましては、NHKに抗議の電話をしたくなります。
でも、電話しても、なんだかんだとごまかすんでしょうね。
そういえば、来年は風林火山だったんですね。風林火山ならばホームドラマにはならないでしょうから、まだしも、見られるものになることを期待しております。
男色は、戦国時代などは、むしろ、紳士の心得的なものがあったように思います。
(あ!私は違いますよ・・・(汗!)。参考までに(笑)。)
思うに、長期の対陣となるような戦場では、全員の生死の鍵を握っている大将が、欲求不満などで、誤った選択をされては困るし、かといって、戦場に大将だけが、女性同伴というのも士気に関わる・・・という側面があったのではないでしょうか。
キリスト教の思想が入ってきて、特に、明治以降、それを蛮習と忌み嫌ったことで、現代ではタブーとなったように思います。
確かに、個人的には、いかがなものかと思いますが、だからといって、当時の人たちを、それで計って、蔑むのももっと、いかがなものかと思います。
我々でも、今の価値観では普通だと思っていることを、千年先の人から、変態だと言われては大きなお世話だ!と言いたくなるような・・・。
当方、昨日来、インフルエンザで死んでます。
ご自愛下さい。
御身、お大切に。
戦国時代は、ほんとうに、男色の方がほんとうの恋、というような趣があったみたいですねえ。イエズス会の宣教師が嘆いておりましたっけ。
おっしゃるように、明治以降、キリスト的な価値観が入ってきましてから、妙な受け止め方をすつようになったんだと、私も思います。
しかし、お言葉を返すようですが、戦国時代、長期の陣となれば、女郎買いは普通だったんじゃないんですか? いえ、そこらへんに詳しいわけじゃないので、まちがっていればご指摘ください。
あと、院政期の公家社会でも、けっこうすごいものがあったんですのよ。もし、お暇がおありでしたら、個人サイトの方の「日本男色模様」をご一読いただければ幸いです。