またまたまたまた、脱線します。
実は、近々、大先輩のお誘いで、鹿児島へ、桐野利秋のお墓参りに出かけます。
で、指宿にも行きますので、モンブラン伯爵が作った薩摩琉球国勲章を所蔵する薩摩伝承館を訪れようと、サイトを見ておりました。
ここのミュージアムショップに、「薩摩ボタン」というグッズがありまして、薩摩焼なのは一目でわかりますが、うかつにもなににつかうものか知らずに???となって、検索をかけてみました。
薩摩ボタン オフィシャルウェッブサイト
なんと、洋服につける、あのボタンだったんですね。薩摩伝承館のショップに置いているのは、下の方の作品のようですが。
薩摩志史-薩摩ボタンからSATUMAまで
で、その起源については、大方、「薩摩藩が討幕の軍資金を作り出すために」、つまるところ、「幕末から御用窯で」ボタンを作って海外に輸出した、とされています。
うー、一個一個の手作りボタンで軍資金がかせげるほど、海外交易も甘いものではなかったろうに、という気がしまして、伝説の域を出ない話のようにも思います。
実際、ウェッブで輸入アンティーク雑貨ショップや海外のオークションサイトを見る限りにおいては、現在手に入るアンティーク薩摩ボタンは、ほとんどが20世紀に入ってのもののようなんです。とはいえ、これも当然、時代がさかのぼればさかのぼるほど貴重なのでしょうし、幕末のものは、あってもなかなか出てこない、とは考えられますし、幕末から作られていた可能性も、もちろん、ないわけではないでしょう。
上の本には、6ページにわたって薩摩ボタンが紹介されていますが、確かに「19世紀後半」といわれるものは、絵付けが非常に丁寧で、黒と金のふちどりなど、薩摩で焼かれた初期SATUMAっぽい雰囲気がうかがえます。とはいえ、なにしろボタンですから、銘が入れてあるわけでもなく、幕末から作られていた確証はなさそうなのです。
どうもこれは、薩摩焼全体について調べてみる必要がありそうだと、下の本を読んでみました。
世界に翔けた幕末明治の薩摩(SATSUMA)焼―薩摩焼発祥400年記念出版
なんとも無知な話なのですが、私、本来の薩摩焼と、海外輸出されたSATUMAについては、わけて考える必要があることを、よくは存じませんでした。
京薩摩、などといった言葉は、聞いたことがあり、明治になって、海外輸出用に京都でも、薩摩焼の意匠をまねたものが作られた、というような話は、ぼんやりと知ってはいたのですが、京都SATUMAだけではなく、大阪SATUMA、神戸SATUMA、名古屋SATUMA、金沢SATUMA、東京SATUMA、横浜SATUMAなどなど、薩摩焼の意匠をとり入れてSATUMAの名で海外輸出した窯が、明治以降、全国各地にあったとは、ちょっとびっくりしました。
こうなってきますと、明治以降の薩摩ボタンなぞ、あるいは横浜や神戸で作られていた可能性の方が高いのではないか、という気がしたりするのですが、どこかに、薩摩ボタンの歴史を詳しく調べた方は、おられないものなのでしょうか。
なにはともあれ、上記の本から、SATUMAの起源、つまり薩摩焼が海外輸出されるようになった状況について、簡単にまとめてみます。
私が漠然と、以前にどこかで読んだ話では、です。薩摩焼の海外輸出を考えたのは、島津斉彬で、安政2年(1855年)、磯窯(御庭焼といわれる御用窯)に、苗代川(朝鮮陶工たちの郷士村)から朴正官を招いて指導させ、西洋顔料も導入された、という話だったんですが、この窯は、文久3年(1863年)の薩英戦争で破壊されてしまいますし、なにしろ御庭焼で、いわば超高級品ですから、果たして実際に輸出されていたのかどうか、疑問のようです。といいますか、もし輸出されていたにしても、ごくわずか、見本品程度だったんじゃないんでしょうか。
SATUMAの名がヨーロッパに知れわたったのは、どうも、慶応3年(1867年)のパリ万博において、つまりモンブラン伯爵がプロデュースして、薩摩琉球国名義で幕府に喧嘩を売ったパリ万博、ですが、朴正官作の白薩摩錦手花瓶を出品して、好評を博してからのようです。
明治6年(1873年)のウィーン万博は、すでに廃藩置県の後で、薩摩にも民営窯ができていました。苗代川、沈壽官の玉光山窯です。ここからウィーンに出品された白薩摩錦手花瓶が、またも大好評で、SATUMAの名は決定的になり、各地で、白薩摩錦手の趣向が大々的に取り入れられるようになったのは、このころからのようです。
で、慶応年間から明治4、5年ころまでの初期のSATUMA、もしも「討幕の軍資金作りに薩摩ボタンを輸出」という伝説に可能性を見るなら、この時期のはずなのですが、どうも、この時期に輸出品を作った可能性の高い薩摩焼の窯は、磯でも苗代川でもなく、主に川内の平佐城主・北郷久信が力を入れた平佐窯、であるようなのです。
なんと、町田清蔵くんの養子先!!!じゃないですか。
しかも、その平佐窯に、「慶応2年(1866年)、フランスの貿易商コント・デ・モンブランが来航した」という語り伝えがあるそうなのです。慶応2年はちょっとありえないのですが、翌慶応3年、あるいは翌々明治元年から2年にかけてならば、あっておかしくない話です。
川内港は、東シナ海に面した薩摩北部にあり、その港からおよそ14キロ上流の平佐窯が、長崎からの輸出を意識して、大きくてこ入れされたのは、慶応元年(1865年)のことです。伝統ある長崎(大村藩)長与窯から陶工を招き、特殊な顔料を使って、三彩なども焼くようになったようです。窯の跡は残っているのですが、薩摩藩の改革、廃藩置県と続いた維新後の激動で、早くに廃止され、しかも北郷家の資料は、大正8年の火災ですべて焼け失せたそうでして、どんな陶器を輸出したのか、詳しくはわかっていないのです。
しかし、慶応元年に輸出を志した薩摩の窯が、パリ万博に関係していないはずは、ないはずです。
町田兄弟の末弟、町田清蔵くんについては、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1、vol2で、後年の回顧談を詳しく紹介しております。
ただ、この回顧談、はるか後年のものの上に、町田清蔵くんとパリス中尉でも書きましたが、帰国後のことはつけ足しであったらしく、年月日をそのまま受け取りますと、慶応2年に帰国して、戊辰戦争がはじまるまで、一回も薩摩に帰らないで長崎で過ごした、という、なんとなく変なことになってくるのです。
で、私、先に書きました巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2の最後では、勘違いしてしまい、維新前に薩摩に帰ったことにしてしまっております。
清蔵くんは、渡欧以前から、北郷家に養子に入ることが決まっていたようでして、慶応2年の秋には、パリから長崎へ帰っていたことは、確かなことです。
だとすれば、翌年のパリ万博をめざして、どういうものがヨーロッパで売れそうなのか、北郷久信が、養子になる約束の清蔵くんを平佐窯に招いて、聞いたりすることは、十分にあるんじゃないでしょうか。あるいは、陶工を長崎にやって、清蔵くんの話を聞かせる、ということも、ありえるでしょう。
薩摩ボタンを思いついたのは、町田清蔵くんではないだろうかと、ふと、思ったりするのです。もちろん、パリ万博がすんで後に、清蔵くんが、モンブラン伯爵を平佐窯に案内したということは、かなりの確立でありそうなことですし、モンブラン伯爵が薩摩ボタンを思いついたという線もありかなあ、とも想像します。
いずれにせよ、平佐窯が得意とした三彩は、フランスの植民地だったベトナムの港が中継貿易港で、つまりフランス人は、三彩を好んだらしいのです。モンブランが清蔵くんに連れられて、平佐窯を訪れ、輸出に手を貸したことは、かなり可能性の高いことのようです。
薩摩ボタンの歴史について、詳しくご存じの方がおられましたら、どうぞ、ご教授のほどを。
続きモンブラン伯爵の薩摩平佐焼き輸出指導◇続薩摩ボタンはだれが考えたのか???
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続編 モンブラン伯爵の薩摩平佐焼き輸出指導◇続薩摩ボタンはだれが考えたのか???
実は、近々、大先輩のお誘いで、鹿児島へ、桐野利秋のお墓参りに出かけます。
で、指宿にも行きますので、モンブラン伯爵が作った薩摩琉球国勲章を所蔵する薩摩伝承館を訪れようと、サイトを見ておりました。
ここのミュージアムショップに、「薩摩ボタン」というグッズがありまして、薩摩焼なのは一目でわかりますが、うかつにもなににつかうものか知らずに???となって、検索をかけてみました。
薩摩ボタン オフィシャルウェッブサイト
なんと、洋服につける、あのボタンだったんですね。薩摩伝承館のショップに置いているのは、下の方の作品のようですが。
薩摩志史-薩摩ボタンからSATUMAまで
で、その起源については、大方、「薩摩藩が討幕の軍資金を作り出すために」、つまるところ、「幕末から御用窯で」ボタンを作って海外に輸出した、とされています。
うー、一個一個の手作りボタンで軍資金がかせげるほど、海外交易も甘いものではなかったろうに、という気がしまして、伝説の域を出ない話のようにも思います。
実際、ウェッブで輸入アンティーク雑貨ショップや海外のオークションサイトを見る限りにおいては、現在手に入るアンティーク薩摩ボタンは、ほとんどが20世紀に入ってのもののようなんです。とはいえ、これも当然、時代がさかのぼればさかのぼるほど貴重なのでしょうし、幕末のものは、あってもなかなか出てこない、とは考えられますし、幕末から作られていた可能性も、もちろん、ないわけではないでしょう。
アンティークボタンの世界萩塚 治子(エテルニテアンティーク主宰)署柏書店松原このアイテムの詳細を見る |
上の本には、6ページにわたって薩摩ボタンが紹介されていますが、確かに「19世紀後半」といわれるものは、絵付けが非常に丁寧で、黒と金のふちどりなど、薩摩で焼かれた初期SATUMAっぽい雰囲気がうかがえます。とはいえ、なにしろボタンですから、銘が入れてあるわけでもなく、幕末から作られていた確証はなさそうなのです。
どうもこれは、薩摩焼全体について調べてみる必要がありそうだと、下の本を読んでみました。
世界に翔けた幕末明治の薩摩(SATSUMA)焼―薩摩焼発祥400年記念出版
なんとも無知な話なのですが、私、本来の薩摩焼と、海外輸出されたSATUMAについては、わけて考える必要があることを、よくは存じませんでした。
京薩摩、などといった言葉は、聞いたことがあり、明治になって、海外輸出用に京都でも、薩摩焼の意匠をまねたものが作られた、というような話は、ぼんやりと知ってはいたのですが、京都SATUMAだけではなく、大阪SATUMA、神戸SATUMA、名古屋SATUMA、金沢SATUMA、東京SATUMA、横浜SATUMAなどなど、薩摩焼の意匠をとり入れてSATUMAの名で海外輸出した窯が、明治以降、全国各地にあったとは、ちょっとびっくりしました。
こうなってきますと、明治以降の薩摩ボタンなぞ、あるいは横浜や神戸で作られていた可能性の方が高いのではないか、という気がしたりするのですが、どこかに、薩摩ボタンの歴史を詳しく調べた方は、おられないものなのでしょうか。
なにはともあれ、上記の本から、SATUMAの起源、つまり薩摩焼が海外輸出されるようになった状況について、簡単にまとめてみます。
私が漠然と、以前にどこかで読んだ話では、です。薩摩焼の海外輸出を考えたのは、島津斉彬で、安政2年(1855年)、磯窯(御庭焼といわれる御用窯)に、苗代川(朝鮮陶工たちの郷士村)から朴正官を招いて指導させ、西洋顔料も導入された、という話だったんですが、この窯は、文久3年(1863年)の薩英戦争で破壊されてしまいますし、なにしろ御庭焼で、いわば超高級品ですから、果たして実際に輸出されていたのかどうか、疑問のようです。といいますか、もし輸出されていたにしても、ごくわずか、見本品程度だったんじゃないんでしょうか。
SATUMAの名がヨーロッパに知れわたったのは、どうも、慶応3年(1867年)のパリ万博において、つまりモンブラン伯爵がプロデュースして、薩摩琉球国名義で幕府に喧嘩を売ったパリ万博、ですが、朴正官作の白薩摩錦手花瓶を出品して、好評を博してからのようです。
明治6年(1873年)のウィーン万博は、すでに廃藩置県の後で、薩摩にも民営窯ができていました。苗代川、沈壽官の玉光山窯です。ここからウィーンに出品された白薩摩錦手花瓶が、またも大好評で、SATUMAの名は決定的になり、各地で、白薩摩錦手の趣向が大々的に取り入れられるようになったのは、このころからのようです。
で、慶応年間から明治4、5年ころまでの初期のSATUMA、もしも「討幕の軍資金作りに薩摩ボタンを輸出」という伝説に可能性を見るなら、この時期のはずなのですが、どうも、この時期に輸出品を作った可能性の高い薩摩焼の窯は、磯でも苗代川でもなく、主に川内の平佐城主・北郷久信が力を入れた平佐窯、であるようなのです。
なんと、町田清蔵くんの養子先!!!じゃないですか。
しかも、その平佐窯に、「慶応2年(1866年)、フランスの貿易商コント・デ・モンブランが来航した」という語り伝えがあるそうなのです。慶応2年はちょっとありえないのですが、翌慶応3年、あるいは翌々明治元年から2年にかけてならば、あっておかしくない話です。
川内港は、東シナ海に面した薩摩北部にあり、その港からおよそ14キロ上流の平佐窯が、長崎からの輸出を意識して、大きくてこ入れされたのは、慶応元年(1865年)のことです。伝統ある長崎(大村藩)長与窯から陶工を招き、特殊な顔料を使って、三彩なども焼くようになったようです。窯の跡は残っているのですが、薩摩藩の改革、廃藩置県と続いた維新後の激動で、早くに廃止され、しかも北郷家の資料は、大正8年の火災ですべて焼け失せたそうでして、どんな陶器を輸出したのか、詳しくはわかっていないのです。
しかし、慶応元年に輸出を志した薩摩の窯が、パリ万博に関係していないはずは、ないはずです。
町田兄弟の末弟、町田清蔵くんについては、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1、vol2で、後年の回顧談を詳しく紹介しております。
ただ、この回顧談、はるか後年のものの上に、町田清蔵くんとパリス中尉でも書きましたが、帰国後のことはつけ足しであったらしく、年月日をそのまま受け取りますと、慶応2年に帰国して、戊辰戦争がはじまるまで、一回も薩摩に帰らないで長崎で過ごした、という、なんとなく変なことになってくるのです。
で、私、先に書きました巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2の最後では、勘違いしてしまい、維新前に薩摩に帰ったことにしてしまっております。
清蔵くんは、渡欧以前から、北郷家に養子に入ることが決まっていたようでして、慶応2年の秋には、パリから長崎へ帰っていたことは、確かなことです。
だとすれば、翌年のパリ万博をめざして、どういうものがヨーロッパで売れそうなのか、北郷久信が、養子になる約束の清蔵くんを平佐窯に招いて、聞いたりすることは、十分にあるんじゃないでしょうか。あるいは、陶工を長崎にやって、清蔵くんの話を聞かせる、ということも、ありえるでしょう。
薩摩ボタンを思いついたのは、町田清蔵くんではないだろうかと、ふと、思ったりするのです。もちろん、パリ万博がすんで後に、清蔵くんが、モンブラン伯爵を平佐窯に案内したということは、かなりの確立でありそうなことですし、モンブラン伯爵が薩摩ボタンを思いついたという線もありかなあ、とも想像します。
いずれにせよ、平佐窯が得意とした三彩は、フランスの植民地だったベトナムの港が中継貿易港で、つまりフランス人は、三彩を好んだらしいのです。モンブランが清蔵くんに連れられて、平佐窯を訪れ、輸出に手を貸したことは、かなり可能性の高いことのようです。
薩摩ボタンの歴史について、詳しくご存じの方がおられましたら、どうぞ、ご教授のほどを。
続きモンブラン伯爵の薩摩平佐焼き輸出指導◇続薩摩ボタンはだれが考えたのか???
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続編 モンブラン伯爵の薩摩平佐焼き輸出指導◇続薩摩ボタンはだれが考えたのか???
薩摩ボタンが、薩摩で焼かれたものなのかどうか、私が疑問を持ちましたのは、薩摩で焼かれたSATUMAには、例えばコーヒーカップとか、西洋の用途にあわせたものがないからなんです。でも、初期のものと見られる薩摩ボタンは、あきらかに薩摩焼きの趣向ですし、陶器のボタンを他の産地で作るなら、なにも薩摩焼き風にしなくてもよさそうな気もするんです。ごく小さなものなんですから。ただ、SATUMAをブランド名と考えるなら(実際、よそで焼かれたものでも、しっかり丸に十の字マークが入っていたりするそうで、ブランドとして流通した感じもします)、よそで焼かれたボタンでも、薩摩焼き風にした方が売れそうだ、ということだったのか、とも考えたり、です。
もし幕末からあったのなら、それはもう、確実に薩摩で焼かれたもので、だとすれば、モンブラン伯爵と清蔵くんがかかわった可能性が、けっこう出てくる、と推測したのですが。
できるだけ古そうな薩摩ボタンを、直にこの目で見て、悩んでみたいんです(笑)
これまた素晴らしい興味深い題材を!
って、私は全く薩摩ボタンについては無知なのですが、明治の陶器に草分けである薩摩焼に、町田一族が関係していたとすれば、面白いですねえ♪ 西洋向けの焼き物に、ボタン・・素晴らしいですね。
明治の陶器の本で、かなり時代は下がって19年頃ですが、ボタンのみならず、腕輪やベルト、バックルなどのとても装飾的な小物の焼き物を見つけて、日本人のたくましさを思いましたが、そうですか・・これは町田一家が考えたかもしれないなんて・・面白すぎ♪
薩摩伝承館においてある薩摩ボタンは、ほんとうに高そうです。
どうも本物の輸出された薩摩ボタンは、イギリスの骨董市やアンティーク雑貨ショップで、見つけることができるようでして、私はいま、イギリスにあさりに行きたい気分でいっぱいなんですけれども、とても実現できることではありませんわ。
オフ会での語らいを楽しみにされているようです。
Nezuは。。。恐怖かも。。。と狸寝入りの覚悟を!
宜しくお引き回しの程を!<笑>
薩摩ボタンなんてあるのですね~!びっくり!
以前指宿白水館に行った時は知りませんでした。
白水館で展示できなかった数々の展示品を
薩摩伝承館にて鑑賞できる事を楽しみにしています。
でも。。。それにしても。。。薩摩ボタン・・・
お土産にするにはちと高額ですね。
見るだけになりそうです。