郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

岩倉使節団の宗教問題 木戸vs大久保

2007年03月03日 | フリーメーソン・理神論と幕末
えーと、本日はもしかして、江戸は極楽である の続きだったりします。
どこが続きかって………、明治4年(1871)暮れから明治6年にわたって、欧米をまわった岩倉使節団における、もめ事の話だからです。幕末維新の天皇と憲法のはざま半神ではない、人としての天皇を で、少しだけ触れましたように、留守政府ももめましたが、使節団ももめました。

もっとも、台風の目は、使節団員ではない、駐米公使(正確には初代少辮務使)森有礼だったんです。
江戸は極楽であるで触れました吉田清成との喧嘩はすさまじいもので、吉田の起債を邪魔するために、あらゆる手をつくし、ついに吉田はアメリカでの公債をあきらめ、イギリスで起債することになります。しかし、森有礼は、イギリスにまで手をのばして、邪魔しようとしたんです。
いえ、あのー、つい数年前、パリで薩摩藩は幕府の起債をモンブラン伯を使って妨げましたし、留学生としてイギリスにいて、ある程度はその経緯を知っているだろう森有礼と吉田清成なんですが、えーと、もう幕府は倒れていまして。
森有礼は明治新政府から派遣された公使で、吉田清成個人が起債しようとしているわけではなく、明治新政府が起債しようとしているんです。
これは、木戸孝允でなくとも、あきれますよね。

木戸が、森有礼に激しい怒りを覚えていたのは、それだけが原因ではないんです。
幕府が欧米各国と結んだ不平等条約の改正は、明治新政府の悲願でした。明治5年(1872)から改正交渉に入ることになっていたため、岩倉使節団は派遣されたのですが、現在では、改正するための国内法の準備が進んでいないので延期交渉をするためだったのではないか、といわれているそうです。
少なくとも、岩倉使節団が、直ちに本格的な改正交渉をするつもりがなかったことは確かなのですが、森有礼は、アメリカ政府はただちに日本側に有利な改正に応じる可能性がある、というような幻想を抱きまして、使節団の伊藤博文は、その説に心酔するんですね。
それで、本交渉をするつもりならば全権委任状が必要だとアメリカ側に指摘され、大久保利通と伊藤博文が日本へ取りに帰り、その間、使節団はアメリカに足止めされます。
しかし、結局、アメリカ側の思惑は、かならずしも日本側の立場に譲歩したものではなく、大久保と伊藤がアメリカに帰りつく前に、交渉は暗礁に乗り上げていました。
森有礼のアメリカ幻想にふりまわされ、しかもそれに子分の伊藤博文が心酔しているとなりますと、まあ、木戸にしてみれば、おもしろかろうはずもありません。
しかも、その心酔の仕方が、です。『醒めた炎 木戸孝允〈4〉』によれば、どうも、「キリスト教を国教にする」という話が中心であったらしいのです。使節団にいた土佐出身の佐々木高行の日記に、「耶蘇教国ならずては、とても条約改正も望みなく、かつ日本の独立もむつかしくと伊藤などは信じたるなり」と、あるんだそうです。

『青木周蔵自伝』

平凡社

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これは、長州出身で、当時ドイツに留学していた青木周三の後年の回顧録なんですが、これを見ますと、佐々木高行が、簡単に記していた問題が、詳しく記されています。
当時ベルリンで政治学を学んでいた青木は、木戸にロンドンまで呼び出されて、質問されたのだそうです。以下、引用です。

木戸翁は予に問いて曰く
「欧米人は何故に彼の如く宗教に熱心なるや。予の如きは、仏教以外他の宗教の真意を知らざるのみならず、従前予等の学問は孔孟(儒教)を主としたれば、仏教と雖も、現世と未来にわたる勧善懲悪の意味以外、果たして別に高尚なる教義の存するや否やも、なおかつ解する能はざるなり。そもそも西人(西洋人)の尊信する宗教は素といかなるものなりや。足下、もし知る所あらば幸いに語るべし」
と。予答へて曰く
「本件たる、ほとんど天地を震動せしむる大問題あり。不肖、欧州に留学せし以来、欧人の宗教に熱心なるを目睹として多大の疑惑を生ぜしにより、某宗教家ついてキリスト教教典の講義を聞き、また、あるインドの学者について多少仏教の教義に関しても聞知する所有り。しかれども未だいづれに関してもその堂奥に達せざるをもって、なんら参考に資すべき説なし」

と、まあ、問答が始まるのですが、要するに、理神論的な宗教を知らない日本人である木戸には、欧米人が宗教熱心であるのが不思議で、「欧米では、宗教にはどういう高級な理論があるといっているのか」と、同じ長州の青木に、聞いたんですね。
後年の回顧録ですから、どこまで正確かはわかりませんが、さすがは松蔭を生んだ長州人の会話です。
この二人のやりとりでわかることは、結局、理神論的な普遍性を持つ一神教的な神、つまりモンブラン伯の日本観に引用しましたシュリーマンのように、ですね、「宗教……キリスト教徒が理解しているような意味での宗教の中にある最も重要なこと」が、文明の根底にあるべきだ、とする欧米人の考え方が、当時の日本の知識人には、さっぱりわけがわからなかった、ということでしょう。
といいますか、現在でも、果たしてわかるんですかね。まあ、知識人ではないんですけど、少なくとも私も、木戸と同じで、さっぱりわかりません。
そして、仏教にしろ、青木周蔵が欧州で勉強した、と言っていますように、日本の仏教は、別に普遍性のある一神教的な神、を呈示するものではありませんし、おそらくインドでも他の地域でも、そういう近代的理念に適合する仏教は、西洋近代に接触した刺激から生まれた、といってもいいんじゃないんでしょうか。といいますか、そもそも西洋人が、発見したものでしょう。
イスラム教については、ユダヤ教とともに、もともと根がキリスト教と同じですので、西洋近代の側でも、理念にくるみやすかったとは思うんですが、それにしても、現実の信仰の形は、その理念をはじくものであった、といえるような気がします。

話をもとにもどします。さらなる木戸の求めに応じ、青木は、キリスト教と西欧文明の関係を、木戸に説明します。青木がごく簡単に要約したものを、ひらたく述べますと、以下です。
「ギリシャ、ローマには一神教が存在しなかったので、物質的には繁栄したが、キリスト教の高尚な理念を理解することなく、堕落、退廃したままで滅んだ。キリスト教が、暗愚だった欧州に光をもたらし、崇神、正心、博愛的な道徳をもって、文明に導いたわけです。仏教というのは、老荘思想(儒教の中で仏教に近いもの)のように巧みな議論のみの虚無的なものではなく、哲学的で、広大無辺の思想です。しかし、バラモン教の輪廻の思想が入り込んでいて、涅槃の境地などというのは、人間の生産的な活動を妨げる趣もあります。したがって、私はキリスト教がすぐれていると思いますね」
青木はこの回顧録を書いたころには、キリスト教徒になっています。もっとも、木戸に話をしている時点では、そうではないのですけどね。

続いて木戸が聞きます。
「しからば足下は、われら日本人もまた、キリスト教を信じる必要ありとするか」
青木の答えの大意は、こうです。
「今現在、かならずしもそう言ってしまうことはできないのですが、白人だろうが黄色人種だろうが、人たるもの、なんらかの宗教を信じる必要があります。学問の要は、理論を極めることであって、それは手段であり、人がよりよく生き、国をよりよく治めるための支柱にはなりません。宗教は必要でしょう」
さらに木戸が問います。
「われわれはアメリカで条約改正を提議したが、アメリカ政府は、日本のような無宗教の国、あるいはキリスト教を信じていない国と平等の条約を締結して、日本の法律や裁判官に、日本にいるアメリカ人を任せるのは危険だと、提議をしりぞけた。有力なアメリカ人にも、条約改正を望むなら日本はキリスト教を国教にするべきだ、と熱心に言う者がいた。それを聞いて、われらの一行の中には、この事情を陛下に申し上げてまず陛下にご入信いただき、高官がみなこれに習えば、国民もすべて改宗するだろう、なんぞと言う者がいるんだが、どう思う?」
青木が答えます。
「もし、本当にそんなことを実行するという話ならば、忠告します。欧州では、キリスト教宗派の争いで、悲惨な内戦を経てきています。その苦い経験から、最近の各国憲法では、信仰の自由をうたっているんです。政略的改宗などといっても、国民がそんなことを納得するはずがありません。内乱が起こります」
この場には、伊藤博文がいたのですが、木戸は、この青木の言葉を待っていたように、「おまえが日頃言っていることと、青木くんのいうことはちがうじゃないか」と、伊藤を怒鳴りつけて怒ったというのです。

この青木の回顧録を読んでいますと、青木の言い分の方がまともですし、理屈が通っているんですが、ほんとうに、ここまで単純に、伊藤博文がキリスト教を国教にしよう、というようなことを言っていたのでしょうか。
青木も、最初の問答では、理神論的な信仰が文明開化には必要だと言っていますし、しかも、その信仰は、キリスト教であるべきだ、というように述べているんです。ただ、それを国教にするとなると問題だ、ということで、信仰の自由の話になるのですが、それくらいの筋道は、伊藤にもわかっていただろうと思うのです。
あるいは伊藤にとっては、宗教は衣装のようなもので、現実に天皇陛下に洋装をお願いし、官員も洋装になったのだから、理神論的な信仰が必要だというのならば、そんなものは日本にはないのだから、キリスト教の導入がてっとり早かろう、という気分で、しゃべりまわったのかも、しれませんね。
この子分の軽薄さが、ただでさえ、森有礼や吉田清成や、無神経に海外で大喧嘩をする薩摩人にうんざりしていた木戸さんにとって、がまんの限界を超えて、癇に障ったのでしょう。

そんなわけで、親分のご不興にむっとした伊藤は、大久保利通になつきます。それがまた、木戸さんの気に障るのですが。
しかし、大久保はなにを考えていたのでしょうか。森有礼のしたことに、もっとも腹を立ててしかるべきは、同じ薩摩人の大久保でありそうなものですが、あまり、そんな様子もみえません。
外交という分野は、これまで、大久保は薩摩藩時代にも体験していませんから、口を出せなかった、というのもあるかもしれませんが、「若者(ニセ)どんの暴走と失敗は成長の肥やし」くらいに、高をくくっていた気がしないでもないんです。実際、後に大久保は、台湾出兵の際の清との交渉に森有礼を使い、見事に成功しています。

そして、キリスト教の国教化の話、ですね。
はっきり言って、木戸は、神経を昂ぶらせすぎだったでしょう。
伊藤博文の説は、森有礼の影響だと思われます。現実に森は、アメリカの有識者に、日本の教育についての助言を求めているのですが、当時のアメリカの有識者というのは、プロテスタントの牧師が多いですし、かなりの人数が、「日本におけるキリスト教の国教化」を提言しているんです。
しかし、いくら伊藤や森が外国で叫んでみても、現実に当時の日本で、そんなことが可能なはずがないんです。
そして、伊藤博文にしろ森有礼にしろ、事の本質を見ていないわけでは、ありません。
むしろ、イギリスの王制がイギリス国教会にささえられている現実を見て、幕末維新の天皇と憲法のはざま半神ではない、人としての天皇を で書きましたように、半神ではなくなった天皇の新しい権威に思をめぐらしていた大久保にとっては、森や伊藤が持ち出すキリスト教の方が、日本的な儒教道徳よりも、はるかに頷けるものだったでしょう。

といいますのも、日本の武家的な儒教道徳は、かならずしも天皇に絶対の権威を約束するものではなかったからです。
例えば、陽明学からきているといわれる、西郷隆盛の「敬天愛人」ですけれども、「道は天然自然のもの、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て、人を愛するなり」とあります。
「人の道の道理というものは、天然自然に存在するものであり、天を敬うことを目的として、行うべきものである。天は、他の人間にも自分にも、同等な愛を与えてくれるものなのだから、自分を愛すると同じように、他人も愛するべきである」というのですから、この西郷が言うところの「天」とは、理神論的な神の概念にかなり近いものではありますし、近代国家の道徳をささえるに十分なものなのです。
ただ、革命は死に至るオプティミズムか に出てきました孟子の言葉に、「民を貴しとなす。社稷これに次ぎ、君を軽しとなす」とありますように、天皇もまた人の子であられるのならば、天命の下にあり、人の道には従わなければいけない、というのが基本ですから、君主の絶対的権威を保証するものではありません。
現実に、半神ではない、人としての天皇を でご紹介しました小田為綱は、廃帝の規定を考えていますよね。
日本的なキリスト教者を志した内村鑑三が、西郷隆盛に心酔していたのも、ゆえのないことではないんです。
あるいは、日本的な道徳規範として、武士道をアメリカに紹介した新渡戸稲造を想起してもいいでしょう。

「天皇陛下の大権を軽重するや、曰く否」という大久保の信念は、イギリス的な王権をささえるキリスト教のかわりに、「万世一系」の国体論に守られた天皇の大権を、という置き換え論から、導かれたものともいえ、それはすでに、森有礼や吉田清成などの欧米体験談から、組み立てられていたのではないでしょうか。

明治21年(1888)5月8日、枢密院における憲法草案の審議において、伊藤博文はこう述べています。
「歐洲ニ於テハ憲法政治ノ萌セル事千餘年、獨リ人民ノ此制度ニ習熟セルノミナラス、又タ宗教ナル者アリテ之カ機軸ヲ爲シ、深ク人心ニ浸潤シテ、人心此ニ歸一セリ。然ルニ我國ニ在テハ宗教ナル者其力微弱ニシテ、一モ國家ノ機軸タルヘキモノナシ。佛教ハ一タヒ隆盛ノ勢ヲ張リ、上下ノ人心ヲ繋キタルモ、今日ニ至テハ巳ニ衰替ニ傾キタリ。神道ハ祖宗ノ遺訓ニ基キ之ヲ祖述スト雖、宗教トシテ人心ヲ歸向セシムルノ力ニ乏シ。我國ニ在テ機軸トスヘキハ、獨リ皇室アルノミ。是ヲ以テ此憲法草案ニ於テハ專ラ意ヲ此點ニ用ヒ、君憲ヲ尊重シテ成ルヘク之ヲ束縛セサラン事ヲ勉メリ」
ひらたくいって、こういうことでしょう。
「欧州においては、憲政に歴史があるとともに、宗教がこの基軸をなしているので、人心がまとまっている。しかし、わが国においては、宗教の力が微弱で、仏教にしろ神道にしろ国家の基軸にはなりえない。わが国の基軸となるのは、皇室しかない。したがって、この憲法草案においては、天皇大権を中心にすえ、これに束縛がくわわらないよう勉めた」

これは、大久保利通が明治6年に意図したところと、ほとんど変わらないでしょう。
伊藤内閣において、森有礼は文部大臣となり、「国家公共ノ福利」を教育の柱とし、国家主義的な教育施策を展開したため、「変節か」といわれたりもしますが、まったくもって、変節ではありません。
キリスト教の理神論的な神のかわりに、天皇大権を置き、その絶対の権威のもとに国民の道徳意識を確立する、という大久保の国家観は、森有礼のキリスト教受容と、かならずしも矛盾するものではなかったはずです。


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2 コメント

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やっぱり・・・ (乱読おばさん)
2007-03-04 21:02:15
木戸さんはまじめですねえ。
古代ローマなら、日本は,多神教で、つきあいやすかったかも。
返信する
木戸さんは (郎女)
2007-03-05 03:47:47
ほんとうに、まじめで苦労性ですわ。
『醒めた炎 木戸孝允』は、客観的ながら、高く木戸を評価している評伝なんですが、いいかげんな性格の私などは、「かんべんして! その性格」なんぞと思ながら、読みましたです。

若き日の鴎外がステキです。
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