本日は、白山伯vsグラバー 英仏フリーメーソンのちがい の続きなんですが、後半で、グラバーは坂本龍馬の黒幕か? にも続きます。
あー、またまた、いつものお方が、すごい資料を送ってくださったんです!
大東文化大学紀要に載った大蔵親志著「レオン・ド・ロニー研究 フリーメーソンとしての活躍」です。
私が初めてレオン・ド・ロニーに関心を抱いたのは、司馬遼太郎氏の『翔ぶが如く〈1〉』です。
物語の冒頭、明治5年(1872)、パリへ警察制度の視察に赴く、薩摩出身の川路利良が描かれます。
で、一行がパリに着いてまもなく、「羅尼(ロニー)」と名乗るフランス人の若者が、ホテルに現れます。司馬氏によれば、「日本きちがいだという。日本語を勉強し、パリで日本語塾をひらいているが、生徒はほとんど来ないようであった」ということで、さらに「極貧で、偏屈者で、母親孝行だが女嫌いの奇書生」。川路の第一印象は、「暗か若者(ニセ)じゃな」だが、「稚児好きの他の薩摩モンにみせれば食指の動く感じかもしれない」。
もう、なんといいますか………、この人いったい何者???と、好奇心をそそられる描写ではありませんか。
それで、幕末の幕府フランス使節団や留学生関係の本を読み返してみましたら、このレオン・ド・ロニー、かならず現れるのですが、説明は簡略です。例えば、大塚孝明著『薩摩藩英国留学生』では、以下の通り。
フランス人「ロニー」というのは、幕末対仏交渉関係の文献にも時折その名の見える人物で、当時、同国では著名な日本人学者であった。1837年4月の生れであるから、この時、弱冠28歳、留学生たちとは、ほぼ同年配ということになる。
若くして有名な東洋学者ジュリアンに中国語を学び、次いで東洋語学校で日本語を専攻、日本に非常な興味を抱き、日本語を話し、また日本文字をうまく書きこなしたと伝えられる。
さらに同書によれば、文久2年(1862)、竹内保徳を正使とする幕府の第一回遣欧使節団来仏の折には、フランス政府からその語学力を買われて、通訳官として接待にあたったんだそうなんです。
となれば、『翔ぶが如く』の司馬氏のロニーに関する記述は、かなりな部分が創作であることになります。なにしろ、竹内使節団来仏当時のロニーは少年で、使節団の堂々とした姿に「未知の文明」を見て、日本学を志した、としているんですから。
頭痛がしてきました。しかし、司馬氏の描くロニーは、魅力的です。
付け加えます。もう少し詳しいロニーの記述を見ていたはずなんですが、なにで見たか思い出せないでいたところ、検索をかけましたら、上智大学のHPに、佐藤文樹氏の詳細な論文がありました! レオン・ド・ロニー : フランスにおける日本研究の先駆者。
第二回遣欧使節団の池田筑後守が書きました復命書に、ロニーについて「家産寒貧、老母奉養之暇読書三昧」とあるのと、栗本鋤雲の書き残したものに「ロニー歳二〇余、一個の奇書生なり、家至って貧なれとも産を治めず。母に事へすこぶる孝なり」とありまして、司馬氏は作中に栗本鋤雲の名を出していますから、元になさったのは鋤雲の『暁窓追録』みたいですね。
佐藤文樹氏の論文では、最初の竹内使節団以来、フランス政府に用いられなかった、という点が興味深いところです。
それはともかく、です。幕末、日本人がパリへ来るたびに、いえ、薩摩留学生のときなどは、ロンドンまで足をのばして、ロニーは日本人に会うのですが、モンブラン伯爵と連携している様子がうかがえるのです。
で、普仏戦争後の明治6年(1873)には、ロニーとモンブラン伯爵は、パリにおいて、日本文化研究協会を作り、初代会長はロニーが、明治8年(1875)からの二代目はモンブラン伯爵が務めています。
モンブラン伯爵はフリーメーソンか? で、私は西周などとの関係から、モンブラン伯がフリーメーソンであった可能性が高そうに思えた、と書きましたが、そうであったとすれば、白山伯vsグラバー 英仏フリーメーソンのちがい で述べましたように、日本学におけるオランダのライデン大学との関係から、あるいは、レオン・ド・ロニーもフリーメーソン? と、考えたのですが、やはりそうだったようです。
大蔵親志氏によれば、ロニーの父親は、北フランスのバレンシアで生まれ、フリーメーソンとなり、共和主義者だったため、ナポレオン三世のクーデターで、イギリスへの亡命を余儀なくされたんだそうです。
ロニーは、父親のパリの友人(やはりフリーメーソン)に預けられ、10代のころから日本語研究と東洋研究に打ち込み、1856年、弱冠20歳でヨーロッパ初の日本語研究書『日本語研究叙説』を出版したんだそうです。
パリ・コミューン時には、コミューン側の新聞発行にかかわっていますので、あきらかに共和主義者ですが、穏健派だったのでしょう。追放などの憂き目にはあっていません。
先に、フランス政府に用いられなかった旨、書きましたが、共和主義者であったという、政治的経歴が忌諱されたのでは、という気がします。
なお、ロニーに会った日本人は独身と思いこんでいたようで、佐藤氏もそう書かれていますが、この大蔵氏の論文では、1891年(明治24年)に21歳の長女を亡くしていますから、少なくとも明治初年ころには、結婚していたことになります。
さらに大蔵親志氏は、モンブラン伯爵がベルギーのフリーメーソンであったと、されています。
幕末の駐日フランス公使だったレオン・ロッシュもパリのフリーメーソン、グラバーはスコットランドのフリーメーソン、東北列藩同盟に武器を売っていたエドワルド・スネルはプロシャのフリーメーソン、なんだそうです。
ところで、グラバーは坂本龍馬の黒幕か?で書きました、加治 将一の本を初めて読みました。
いや、まあ、話をおもしろおかしくしようとなさっているんでしょうけど、こじつけもここまできますと………。
といいますか、アーネスト・サトーがフリーメーソンのエージェントで、なんで中岡慎太郎と陸援隊が龍馬暗殺の主犯???
なんかもう………、あきれてものも言えません。
イギリスの陰謀で明治維新がなった、と大まじめな推理小説仕立てにされるよりは、モンブラン伯王政復古黒幕説 で書きました、鹿島茂氏の『妖人白山伯』の方が、はるかに面白いですね。いえ、くらべること自体、鹿島氏に失礼なんですが。鹿島氏は、あきらかにパロディになさっていますから、私が楽しめなかったのは、おそらく、私の好みの問題でして。
ただ一つ、この本で有益だったのは、オランダ東インド会社の社員として来日し、長崎のオランダ商館長を務めて、日本に関する著作を多く残したティチング(Issac Titsingh)が、フリーメーソンだったという話。
日本フリーメイスン のページにも載っていますし、ライデン大学の日本学、そしてパリの日本学、という幕末の流れを考えますと、ヨーロッパにおける日本学へのフリーメーソンの貢献、という面で、注目されます。
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大東文化大学紀要に載った大蔵親志著「レオン・ド・ロニー研究 フリーメーソンとしての活躍」です。
私が初めてレオン・ド・ロニーに関心を抱いたのは、司馬遼太郎氏の『翔ぶが如く〈1〉』です。
物語の冒頭、明治5年(1872)、パリへ警察制度の視察に赴く、薩摩出身の川路利良が描かれます。
で、一行がパリに着いてまもなく、「羅尼(ロニー)」と名乗るフランス人の若者が、ホテルに現れます。司馬氏によれば、「日本きちがいだという。日本語を勉強し、パリで日本語塾をひらいているが、生徒はほとんど来ないようであった」ということで、さらに「極貧で、偏屈者で、母親孝行だが女嫌いの奇書生」。川路の第一印象は、「暗か若者(ニセ)じゃな」だが、「稚児好きの他の薩摩モンにみせれば食指の動く感じかもしれない」。
もう、なんといいますか………、この人いったい何者???と、好奇心をそそられる描写ではありませんか。
それで、幕末の幕府フランス使節団や留学生関係の本を読み返してみましたら、このレオン・ド・ロニー、かならず現れるのですが、説明は簡略です。例えば、大塚孝明著『薩摩藩英国留学生』では、以下の通り。
フランス人「ロニー」というのは、幕末対仏交渉関係の文献にも時折その名の見える人物で、当時、同国では著名な日本人学者であった。1837年4月の生れであるから、この時、弱冠28歳、留学生たちとは、ほぼ同年配ということになる。
若くして有名な東洋学者ジュリアンに中国語を学び、次いで東洋語学校で日本語を専攻、日本に非常な興味を抱き、日本語を話し、また日本文字をうまく書きこなしたと伝えられる。
さらに同書によれば、文久2年(1862)、竹内保徳を正使とする幕府の第一回遣欧使節団来仏の折には、フランス政府からその語学力を買われて、通訳官として接待にあたったんだそうなんです。
となれば、『翔ぶが如く』の司馬氏のロニーに関する記述は、かなりな部分が創作であることになります。なにしろ、竹内使節団来仏当時のロニーは少年で、使節団の堂々とした姿に「未知の文明」を見て、日本学を志した、としているんですから。
頭痛がしてきました。しかし、司馬氏の描くロニーは、魅力的です。
付け加えます。もう少し詳しいロニーの記述を見ていたはずなんですが、なにで見たか思い出せないでいたところ、検索をかけましたら、上智大学のHPに、佐藤文樹氏の詳細な論文がありました! レオン・ド・ロニー : フランスにおける日本研究の先駆者。
第二回遣欧使節団の池田筑後守が書きました復命書に、ロニーについて「家産寒貧、老母奉養之暇読書三昧」とあるのと、栗本鋤雲の書き残したものに「ロニー歳二〇余、一個の奇書生なり、家至って貧なれとも産を治めず。母に事へすこぶる孝なり」とありまして、司馬氏は作中に栗本鋤雲の名を出していますから、元になさったのは鋤雲の『暁窓追録』みたいですね。
佐藤文樹氏の論文では、最初の竹内使節団以来、フランス政府に用いられなかった、という点が興味深いところです。
それはともかく、です。幕末、日本人がパリへ来るたびに、いえ、薩摩留学生のときなどは、ロンドンまで足をのばして、ロニーは日本人に会うのですが、モンブラン伯爵と連携している様子がうかがえるのです。
で、普仏戦争後の明治6年(1873)には、ロニーとモンブラン伯爵は、パリにおいて、日本文化研究協会を作り、初代会長はロニーが、明治8年(1875)からの二代目はモンブラン伯爵が務めています。
モンブラン伯爵はフリーメーソンか? で、私は西周などとの関係から、モンブラン伯がフリーメーソンであった可能性が高そうに思えた、と書きましたが、そうであったとすれば、白山伯vsグラバー 英仏フリーメーソンのちがい で述べましたように、日本学におけるオランダのライデン大学との関係から、あるいは、レオン・ド・ロニーもフリーメーソン? と、考えたのですが、やはりそうだったようです。
大蔵親志氏によれば、ロニーの父親は、北フランスのバレンシアで生まれ、フリーメーソンとなり、共和主義者だったため、ナポレオン三世のクーデターで、イギリスへの亡命を余儀なくされたんだそうです。
ロニーは、父親のパリの友人(やはりフリーメーソン)に預けられ、10代のころから日本語研究と東洋研究に打ち込み、1856年、弱冠20歳でヨーロッパ初の日本語研究書『日本語研究叙説』を出版したんだそうです。
パリ・コミューン時には、コミューン側の新聞発行にかかわっていますので、あきらかに共和主義者ですが、穏健派だったのでしょう。追放などの憂き目にはあっていません。
先に、フランス政府に用いられなかった旨、書きましたが、共和主義者であったという、政治的経歴が忌諱されたのでは、という気がします。
なお、ロニーに会った日本人は独身と思いこんでいたようで、佐藤氏もそう書かれていますが、この大蔵氏の論文では、1891年(明治24年)に21歳の長女を亡くしていますから、少なくとも明治初年ころには、結婚していたことになります。
さらに大蔵親志氏は、モンブラン伯爵がベルギーのフリーメーソンであったと、されています。
幕末の駐日フランス公使だったレオン・ロッシュもパリのフリーメーソン、グラバーはスコットランドのフリーメーソン、東北列藩同盟に武器を売っていたエドワルド・スネルはプロシャのフリーメーソン、なんだそうです。
ところで、グラバーは坂本龍馬の黒幕か?で書きました、加治 将一の本を初めて読みました。
『あやつられた龍馬 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』祥伝社このアイテムの詳細を見る |
いや、まあ、話をおもしろおかしくしようとなさっているんでしょうけど、こじつけもここまできますと………。
といいますか、アーネスト・サトーがフリーメーソンのエージェントで、なんで中岡慎太郎と陸援隊が龍馬暗殺の主犯???
なんかもう………、あきれてものも言えません。
イギリスの陰謀で明治維新がなった、と大まじめな推理小説仕立てにされるよりは、モンブラン伯王政復古黒幕説 で書きました、鹿島茂氏の『妖人白山伯』の方が、はるかに面白いですね。いえ、くらべること自体、鹿島氏に失礼なんですが。鹿島氏は、あきらかにパロディになさっていますから、私が楽しめなかったのは、おそらく、私の好みの問題でして。
ただ一つ、この本で有益だったのは、オランダ東インド会社の社員として来日し、長崎のオランダ商館長を務めて、日本に関する著作を多く残したティチング(Issac Titsingh)が、フリーメーソンだったという話。
日本フリーメイスン のページにも載っていますし、ライデン大学の日本学、そしてパリの日本学、という幕末の流れを考えますと、ヨーロッパにおける日本学へのフリーメーソンの貢献、という面で、注目されます。
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