江戸は夢か筑摩書房このアイテムの詳細を見る |
久しぶりに、突然書きます。
個人掲示板の方でこの本を思い出させていただいて、けっこうこれは、明治維新の本質にかかわる問題かな、と。
水谷三公氏の『江戸は夢か』は、手元にあるちくまライブラリー版が、1992年の発行になってまして、現在の江戸時代再評価のはしりのような書であったかと思うのです。
「江戸は極楽である、しかし失われる運命にあった極楽である」という福沢諭吉の言葉が、はしがきの冒頭に引かれていまして、なにやらここいらあたり、なぜいま江戸ブームなのか、という理由が見えてくるのではないか、という気がしないでもないんです。
つまり、福沢諭吉の著述を水谷氏が現代的に言い直した表現では、「江戸時代は経済的な平等政策が行き渡り、一種社会主義的な極楽社会だった。鎖国を守り、自分たちだけでやっていられるなら、この極楽をずっと楽しんでいられたかもしれない。しかし、対外的解放体制に移行した今となっては、国際的競争力向上のため、国内でも弱肉強食と不平等配分をさけることはできない」となり、これは、「江戸時代」を「太平洋戦争中にはじまり、戦後確立して最近まで存続した社会主義的な日本の経済体制」に置き換えると、昨今の世界経済グローバル化にあわせた結果の国内格差拡大懸念、という問題と、重なって見えてくるからなのです。
この本のお話は、明治五年、アメリカはワシントンでくりひろげられた、まだ若い薩摩人二人の大喧嘩にはじまります。
アメリカ駐在公使役だった26歳の森有礼と、大蔵省次官級役人で28歳の吉田清成です。
どちらも、幕末の薩摩藩が、ひそかにイギリスに送り出した留学生で、わけてもこの二人は、藩の仕送りが途絶えた後もアメリカに渡って勉強を重ね、維新後に新政府に呼び返された俊英です。
ただ、この二人、同じ経験を重ねながら、日本人が西洋近代の受け入れをどうなすべきかについて、根本的な見解の相違を持っていたようなのです。
幕末、日本へ来た外交官に、ローレンス・オリファントというイギリス人がいました。水戸攘夷藩士によるイギリス公使館襲撃で刀傷を負い、帰国するのですが、日本文化に好感を持ち続け、留学してきた薩摩藩士の面倒もみるんですね。
オリファントは、スコットランドの名門の出なのですが、スウェーデンボルグのキリスト教哲学に傾倒していました。スウェーデンボルグは、18世紀スウェーデンの科学者にして鉱山技師、政治家にして神学者、という人物です。
スウェーデンボルグの神学が革新的だったのは、キリスト教文明圏を特別なものと考えるのではなく、イスラム教も仏教も包括して、根源的な生命、普遍的な神の概念を提示したことなんじゃないんでしょうか。
で、スウェーデンボルグ信奉を通じてのオリファントの友人に、レーク・ハリスというアメリカ人の宗教家がおりました。
ハリスは、スウェデンボルグ神学から発展して、いわば原始共産制とでもいった宗教運動をくりひろげていたのですが、「共産制」といっても、けっして個人の能力を否定するものではないですし、功利的な経済活動を否定するものでもないんです。
まあ、そうですね、富の再配分は個人の宗教心と道徳観にゆだね、有志が個人の良心にしたがって新しい社会をめざす、とでもいったところなのじゃないのでしょうか。いえ、まったくもって私、よくわかっていないのですが。
ま、ともかくオリファントは、薩摩藩から帰国命令を受け、仕送りを断たれてなお欧米での勉学に心を残していた薩摩藩留学生たちに、ハリスを紹介するんですね。
ハリスの教団に入ることで、アメリカでの生活が保障され、勉学を重ねる道もある、ということで、薩摩藩留学生のうち6人がアメリカに渡ります。
その中に、森有礼と吉田清成はいたのですが、吉田清成はハリスの教団が肌にあわず、すぐに飛び出して、ラトガース大学で政治学を学びました。一方の森有礼は、ハリスに共鳴して教団に残り、ハリスの勧めで、維新直後の日本に帰国したんですね。
森有礼と吉田清成と、どちらが深く西洋近代を受け入れていたかといえば、やはり森有礼なのじゃないんでしょうか。なにしろ帰国後の森有礼は、文明開化のためにはキリスト教を受け入れ(信仰の自由を認めろ、というより、キリスト教を国教化しろ、というのに近いんです)、英語を国語にしろ、というようなことまで言っていたりしたこともあったのですから。
まあ、今はキリスト教は流行りませんが、「英語を国語にしろ」に近いような言説は、昨今のグローバル化危機感からか、現在もよく聞きますね。
ともかく、その森有礼と吉田清成が、アメリカで再会してなぜ大喧嘩をしたか。
実は大蔵省の清成は、士族の秩禄奉還を一手に任されていまして、奉還者を救済する資金として、外債募集を計画し、実行するためにアメリカに渡ったんですね。
前年の明治4年、廃藩置県が成り、それにともなって、各藩が抱えた士族の処遇が、問題となっていたわけなんです。
吉田清成の見解では、「士族の禄とは地方公務員の俸給のようなもので、廃藩置県で士族は失業したのであるから、退職金と失業手当を渡して救済する必用がある」というものでした。
ところが有礼は、そうは考えませんでした。「禄とは給金ではなく、農地を基本とする私有財産だ。私有財産を一方的に政府が奪うということは、個人の権利を侵害する古めかしい東洋流の横暴だ」というのですね。
これに対して、従来の歴史家は、「進歩的といっても森有礼は鹿児島士族なので、封建的な鹿児島の階級的な立場にとらわれていた」とか、あるいはもっと好意的なものでも、「鹿児島は商品経済が発達せず遅れていて、城下士も郷士のように農地を所有している形態になっていたので、鹿児島士族の有礼は私有財産と見た」というような見解だったわけなのですが、喧嘩相手の清成も鹿児島士族なのですから、どうも説得力に欠けていたんですね。
これを、水谷氏は、「有礼が西洋的な所有と権利の観念を全面的に受け入れていたから、こういう見解になった」と、おっしゃるのです。
つまり、ヨーロッパの貴族的土地所有は、封建制下の「封」に由来し、簡単に言ってしまえば、鎌倉武士が幕府から認められたと同じように、王から占有権を認められた貴族の封土が、やがて法に守られた私有財産となり、その法整備が進む過程で、貴族ではない一般人の財産権も認められるようになってきたんですね。
そういうヨーロッパの歴史を踏まえると、財産権は個人の権利であり、貴族だからといってその例外ではなく、それを侵害するのは政府の暴挙、となるわけです。
上は森有礼、下のリンクは北大図書館所蔵写真の吉田清成です。なんとも濃ゆい大喧嘩でしょう?
吉田清成写真
このときアメリカには、岩倉使節団が滞在していました。
その一員だった木戸孝允も、留守政府が企てた士族の家禄処分の話を、苦々しく思ったようですが、それはなにも、「家禄は私有財産なので奪うのは不当」と思ったからではなく、「留守政府の思惑はあまりにも性急すぎて、士族を追い詰めることになってしまう」と思ったからでして、基本的には、清成と同じ理解です。
つまり、日本の士族は公務員として俸給をもらっていたのであって、西洋貴族のように、土地を領有していたわけではなかったのですね。
だからこそ、廃藩置県もあっけないほど簡単にできてしまったわけでして、幕末の日本を、「幕府が倒れた後はドイツのような諸侯連合国になるだろう」と見ていたイギリス外交官の見方も、大きくはずれていたわけなのです。
ではなぜ、江戸の日本は西洋の封建制と大きくちがっていたのか。
この本は、楽しく、わかりやすく、それを解説してくれています。
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うわー、このかたですか...
幕末明治のイギリスの外交官アーネスト・サトウ。兄弟が図書館から借りてきた、ローレンスが日本をかいたロマンチックな本に魅せられて、サトウは、おとぎの国・日本に想いをはせるようになったんですってね。いろんな、つながりあるんですねえ~
サトウは、ひじょうな秀才、両親はケンブリッジ・トリニティカレッジに入れようと期待していたのに、18歳の時にイギリス外務省の通訳生試験に通って念願の日本駐在を命じられ1861年サザンプトンを出航...
幕末維新の風雲急を告げるまさにその時の日本に、通算25年もいて、おもしろい話を記録してくれた...「遠い崖...」は、まだムリなので、「一外交官...」を眺めてました。(またツンドクになるのか?)
「一外交官」でどびっくりしてしまう記述を見つけましてー、つまり、倒幕の密勅を受けて、島津忠義、西郷、岩下などが、春日丸で薩軍を率いて三田尻により、長州藩主と堅めの約束をかわして、上洛します。それに、モンブラン伯爵が同行していたとしかとれない一行を、サトウが記していたものですから、ええっ!!! となって、さるお方に「遠い崖」のその箇所を見ていただいたんですの。
それで謎はとけましたが、これは読むしかないだろう、というので、買いましたような次第です。