あけましておめでとうございます。
昨年、桐野利秋in宝塚『桜華に舞え』観劇録で躓きまして、ブログを書くのがおっくうになり、肝心のことを書きそびれました。
防府の山本栄一郎氏が、大村益次郎の伝記を出されました。
上は、東京都世田谷区の松陰神社のお祭りで、本が売られていた様子です。
発行者は以下ですので、読んで見られたいと思われましたら、お問い合わせください。
大村益次郎没後一五〇年事業実行委員会
TEL050-5207-1118
Eメール:suzenjik@c-able.ne.jp
〒747-1221 山口市鋳銭司5435-1
本の表紙は大村神社なんですが、その案内動画がありました。
大村益次郎墓所 鋳銭司郷土館と大村神社
私は以前、山本氏のご案内で、お参りしたことがあるのですが、車がなければ、行くのがけっこう不便な場所にあります。
新資料で変わる楠本イネ像でも書いたのですが、みなもと太郎氏の「風雲児たち」幕末編・第8巻には、宇和島時代の村田蔵六(大村益次郎)とおイネさんが出てきます。
このコミックでは、同居するイネと蔵六に、あらぬ噂が立ったため、蔵六はイネを卯之町の二宮敬作邸から通わせることとし、妻のお琴さんを呼び寄せます。
お琴さんの実像は、山本氏に言わせますと「情熱的に恋する妻」だそうなんですね。
山本氏は、宇和島で調べた史料も加味し、「蔵六に村医者としての生活能力がなかったため、琴の実家は無理矢理離婚させたが、蔵六を愛してやまない琴は親の言うことを聞かず、宇和島まで後を追って押しかけてきた」と結論づけておられます。うーん。蔵六のどこがよかったんでしょうか? 私にはまったく理解ができません。きっと、おイネさんも理解ができなかったはず、です(笑)
もう一つ、大村益次郎とおイネさんには、接点があります。
浅丘ルリ子vs加賀まりこ ご臨終の蔵六先生
NHK大河「花神」の名場面です。いや、私はまったく見ていないので知りませんでしたが、加賀まりこさんがお琴さんを演じてたんですね。
ところで、新資料で変わる楠本イネ像のコメント欄に書いておりますが、私は「イネが蔵六の最後を看取った」 というのは司馬遼太郎氏の作り話ではないかと思っていました。
いや、蔵六は大阪病院に入院してボードウィンの治療を受け、その大阪病院には、イネの娘高子の夫で、二宮敬作の甥である三瀬周三が、ボードウィンの通訳として勤務していたわけですし、三瀬周三もイネとともに、蔵六に学んだことがあるわけですから、どうやら当時、神戸に住んでいたらしいイネさんは、見舞いにくらいは行ったのではないかと思われます。しかし、イネさんは産婦人科医であって、看護婦ではありません。恋愛関係が嘘なら、看護をしたことも嘘でしょう。
ところが、山本氏によれば、昭和19年に書かれました大村益次郎の伝記には、「瀕死の蔵六のもとにイネが駆けつけ、献身的な看護に務めた」とあるのだそうです。
で、私、いろいろ調べましたところ、どうやら、昭和3年に大洲の史家・長井音次郎が刊行しました「蘭学大家 三瀬諸淵先生」が、「イネが横浜から駆けつけ献身看護した」説の初出だったようです。長井音次郎は、高子さんにいろいろ手紙で問い合わせたりしているのですが、それは昭和3年よりあとの話ですし、現存します高子さんの語り残しや書翰で、イネさんが蔵六を看護したことを裏付けるものは、まったくありません。いえ、見舞ったということさえも、裏付けられてはいないんです。
追記
詳しくはコメント欄を見ていただきたいのですが、あらためて資料を検討してみました結果、イネが、宇和島から神戸経由でかけつけ、蔵六臨終の最期の3日間、大阪病院で看護した可能性は、かなり高いのでは、と思います!
山本氏の「大村益次郎」は、これまで活用されていませんでした宇和島の史料を使うなど、非常に興味深いものなのですが、ご本人いわく、まだまだ発展途上の産物だそうでして、軍事的な業績なども、従来説に囚われないご研究が待たれます。
私、桐野の指切断の件で、ちょっと上野戦争の史料を調べかかったんですが、ほんと、大変ですわ。
一つだけ。上野戦争に際して、なんですが、作戦会議を仕切った蔵六が、薩摩藩を黒門口にまわしたことに対して、西郷が「薩摩藩兵を皆殺しにするおつもりか」と聞き、蔵六が「そうだ」と言ったというエピソードがあります。
「防長回天史」に出てくるもので、山本氏も引用されています。
ただ、私、なぜこの時期、西郷隆盛が身を引いて、蔵六を立てたのか、について、最近、ある推測をするようになりました。
「消された歴史」薩摩藩の幕末維新に書きました以下の部分。
「その篤姫さんが、70万石で駿府移住という決定に愕然としまして、西郷を呼びつけても逃げられ、怒り心頭に発して、仙台藩主やら輪王寺宮さまやら会津藩主などに、「悪辣な薩長を討って!」と手紙を書きまくっていましたことは、私、この安藤氏の著作で初めて知りまして、どびっくりしました」
私、篤姫のその書翰が活字化されています天璋院篤姫展の図録(発行・2008年 NHK、NHKプロモーション)を古書で手に入れ、見てみたのですが、いやはや、もう、びっくりの2乗です。実物はすべて、仙台市博物館所蔵ですが、博物館での刊行物には載ってないみたいです。
図録に収録されています、書翰類を利用した藤田英昭氏の論文「知られざる戊辰戦争期の天璋院」は、もっと注目されてしかるべき、です。
あくまでも仮説ですが、篤姫の激怒に接して、西郷は、すっと身をひいたのではないんでしょうか。
で、蔵六の遠慮の無いやり口と篤姫の間に入って、海江田信義は一人で苦労し、蔵六への怒りを募らせていった、と考えれば、当時の状況が読み解けるように思います。
しかし……、すごいです! 篤姫。
昨年、桐野利秋in宝塚『桜華に舞え』観劇録で躓きまして、ブログを書くのがおっくうになり、肝心のことを書きそびれました。
防府の山本栄一郎氏が、大村益次郎の伝記を出されました。
上は、東京都世田谷区の松陰神社のお祭りで、本が売られていた様子です。
発行者は以下ですので、読んで見られたいと思われましたら、お問い合わせください。
大村益次郎没後一五〇年事業実行委員会
TEL050-5207-1118
Eメール:suzenjik@c-able.ne.jp
〒747-1221 山口市鋳銭司5435-1
本の表紙は大村神社なんですが、その案内動画がありました。
大村益次郎墓所 鋳銭司郷土館と大村神社
私は以前、山本氏のご案内で、お参りしたことがあるのですが、車がなければ、行くのがけっこう不便な場所にあります。
新資料で変わる楠本イネ像でも書いたのですが、みなもと太郎氏の「風雲児たち」幕末編・第8巻には、宇和島時代の村田蔵六(大村益次郎)とおイネさんが出てきます。
風雲児たち 幕末編 8巻 | |
みなもと太郎 | |
リイド社 |
このコミックでは、同居するイネと蔵六に、あらぬ噂が立ったため、蔵六はイネを卯之町の二宮敬作邸から通わせることとし、妻のお琴さんを呼び寄せます。
お琴さんの実像は、山本氏に言わせますと「情熱的に恋する妻」だそうなんですね。
山本氏は、宇和島で調べた史料も加味し、「蔵六に村医者としての生活能力がなかったため、琴の実家は無理矢理離婚させたが、蔵六を愛してやまない琴は親の言うことを聞かず、宇和島まで後を追って押しかけてきた」と結論づけておられます。うーん。蔵六のどこがよかったんでしょうか? 私にはまったく理解ができません。きっと、おイネさんも理解ができなかったはず、です(笑)
もう一つ、大村益次郎とおイネさんには、接点があります。
浅丘ルリ子vs加賀まりこ ご臨終の蔵六先生
NHK大河「花神」の名場面です。いや、私はまったく見ていないので知りませんでしたが、加賀まりこさんがお琴さんを演じてたんですね。
ところで、新資料で変わる楠本イネ像のコメント欄に書いておりますが、私は「イネが蔵六の最後を看取った」 というのは司馬遼太郎氏の作り話ではないかと思っていました。
いや、蔵六は大阪病院に入院してボードウィンの治療を受け、その大阪病院には、イネの娘高子の夫で、二宮敬作の甥である三瀬周三が、ボードウィンの通訳として勤務していたわけですし、三瀬周三もイネとともに、蔵六に学んだことがあるわけですから、どうやら当時、神戸に住んでいたらしいイネさんは、見舞いにくらいは行ったのではないかと思われます。しかし、イネさんは産婦人科医であって、看護婦ではありません。恋愛関係が嘘なら、看護をしたことも嘘でしょう。
ところが、山本氏によれば、昭和19年に書かれました大村益次郎の伝記には、「瀕死の蔵六のもとにイネが駆けつけ、献身的な看護に務めた」とあるのだそうです。
で、私、いろいろ調べましたところ、どうやら、昭和3年に大洲の史家・長井音次郎が刊行しました「蘭学大家 三瀬諸淵先生」が、「イネが横浜から駆けつけ献身看護した」説の初出だったようです。長井音次郎は、高子さんにいろいろ手紙で問い合わせたりしているのですが、それは昭和3年よりあとの話ですし、現存します高子さんの語り残しや書翰で、イネさんが蔵六を看護したことを裏付けるものは、まったくありません。いえ、見舞ったということさえも、裏付けられてはいないんです。
追記
詳しくはコメント欄を見ていただきたいのですが、あらためて資料を検討してみました結果、イネが、宇和島から神戸経由でかけつけ、蔵六臨終の最期の3日間、大阪病院で看護した可能性は、かなり高いのでは、と思います!
山本氏の「大村益次郎」は、これまで活用されていませんでした宇和島の史料を使うなど、非常に興味深いものなのですが、ご本人いわく、まだまだ発展途上の産物だそうでして、軍事的な業績なども、従来説に囚われないご研究が待たれます。
私、桐野の指切断の件で、ちょっと上野戦争の史料を調べかかったんですが、ほんと、大変ですわ。
一つだけ。上野戦争に際して、なんですが、作戦会議を仕切った蔵六が、薩摩藩を黒門口にまわしたことに対して、西郷が「薩摩藩兵を皆殺しにするおつもりか」と聞き、蔵六が「そうだ」と言ったというエピソードがあります。
「防長回天史」に出てくるもので、山本氏も引用されています。
ただ、私、なぜこの時期、西郷隆盛が身を引いて、蔵六を立てたのか、について、最近、ある推測をするようになりました。
「消された歴史」薩摩藩の幕末維新に書きました以下の部分。
「その篤姫さんが、70万石で駿府移住という決定に愕然としまして、西郷を呼びつけても逃げられ、怒り心頭に発して、仙台藩主やら輪王寺宮さまやら会津藩主などに、「悪辣な薩長を討って!」と手紙を書きまくっていましたことは、私、この安藤氏の著作で初めて知りまして、どびっくりしました」
私、篤姫のその書翰が活字化されています天璋院篤姫展の図録(発行・2008年 NHK、NHKプロモーション)を古書で手に入れ、見てみたのですが、いやはや、もう、びっくりの2乗です。実物はすべて、仙台市博物館所蔵ですが、博物館での刊行物には載ってないみたいです。
図録に収録されています、書翰類を利用した藤田英昭氏の論文「知られざる戊辰戦争期の天璋院」は、もっと注目されてしかるべき、です。
あくまでも仮説ですが、篤姫の激怒に接して、西郷は、すっと身をひいたのではないんでしょうか。
で、蔵六の遠慮の無いやり口と篤姫の間に入って、海江田信義は一人で苦労し、蔵六への怒りを募らせていった、と考えれば、当時の状況が読み解けるように思います。
しかし……、すごいです! 篤姫。
幕末維新を調べていますと、人の記憶というものは曖昧なものなのだと、つくづく思います。高子さんは、大村益次郎にほとんど興味を持たなかった、と考えられますし、むつかしいですね。
伊達文化保存会に問い合わせたのですが、龍山公記は、ちょうどその時期の部分がないんだそうなんです。他に裏付けとなりそうな資料がないものか、現在、調べていただいております。
地元なので楽しく読まさせていただきました。
明治初期の話なのに真実は誰も分からないですね・
娘の高子の話だってイネの履歴書と食い違っているし。
小説ではなく史実が分かればまたUpしてください。
愛媛県生涯学習センターの中にも大村様のことが出てきます。
http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/2/view/406
実は私、もう一つ不安があります。手紙の相手が弟のアレクサンダーですから、あるいは、もしかして、日付が西暦の可能性があるのではないかと。一番裏付けがとれそうなのが、宇和島にいた期間で、御殿に滞在したというのですから、龍山公記を見ればいいのではないかなあ、なんぞと考えてはいるのですが、あそこは手続きが大変で、今ひとつ、訪れる決心がついておりません。あるいは、藤の季節まで伸びそうな気がしております。
アレクサンダーに伝える必要をイネが感じなかったと考えるほかありません。
私はブログとかに興味がなく、投稿はこれを最初で最後にしたいと思います。
大村益次郎の伝記と織田氏の論文のつきあわせをしなければ、と思いつつ、まだ手をつけてなかったのですが、ほんの3日間ながら、イネが大村臨終の時大阪病院にいたのだとしますと、三瀬周三と二人で、最期の看護を引き受けたのではないか、と推測できます。
山本氏の話では、お琴さんはいなかったそうなんですね。
この翌年、イネさんは、けっこう横浜へ行っていたようでして、後年、高子さんの記憶が混同して、「横浜から駆けつけて看護」となったのでは? と、思いつきました。最期を看取った可能性は、高そうです。
コメント、ありがとうございます。私、仙台にはまだ行ったことがありませんで、ぜひ今度、訪れねばと思っております。仙台市博物館は現在休館中だそうですが、HPで見ますと、すばらしい収蔵物の数々で、いや、篤姫の書翰、おそらくは伊達家からの寄贈なのだと思うのですが、うもれしまっていたのでしょうか。これまで、知られていなかったのが不思議です。
大村の最期の時期に、おイネさんがどこにいたか、なんですけれども、実は最近、新資料が公開されているんですね。イネの弟・ハインリッヒの日本のご子孫が所蔵されていたイネのアレクサンダー(弟)宛書翰なのですが、シーボルト記念館館長の織田毅氏の論文(鳴滝紀要第25号収録)では、明治2年12月の書翰ではないか、と推測されているんです。
その推測があたっていたとしますと、明治2年、イネは主に、神戸のオランダ領事・ボードウィン(医者のボードウィンの弟)の家を拠点にして、産科医として活動していたようなんですね。居留地の夫人のお産のため長崎へ帰ったり、また宇和島で伊達の御殿に滞在したりと、精力的に行動しています。
大村益次郎が襲われた9月4日には長崎にいまして、それから肥後経由で伊予に向かい、滞在。10月16日に伊予を発ち、11月2日に神戸へ帰り、翌3日には、大阪で娘のタカと三瀬周三に会い、12日に神戸に帰った、と書いているんです。
蔵六が大阪病院に入院したのが10月1日ですから、周三から宇和島のイネに手紙でその知らせが届いたのではないか、と考えられるのですが、10月16日付けの蔵六の三条実美宛書簡が残っているそうでして、この時点では、蔵六は自分が死ぬとは思っていなかったようです。蔵六の足の切断手術が10月27日で、死去が11月5日、ということは、イネさんは手術には間に合っていませんが、死去の2日前に大阪に着いていますし、見舞った確立は高そうです。執刀した医者のボードウィンはイネさんの恩師ですし。しかし、すでにそのとき、蔵六の意識はなかったのではないでしょうか。
藤田英昭氏は、「薩摩藩を逆賊と罵ったのは実家だからこそ言えた言葉」「外様大名から嫁いで来た人間だからこそ、一層徳川の人間になろうとした」と評しておられます。
私は、外様大名の、さらに分家の出で、徳川家の御台所としては例外的に薩摩育ちだった、というのは、大きいと思うのですね。歴代御台所となった姫君たちは、主に京都、あるいは江戸育ちで、お人形のようだったように見受けられるのですが、篤姫のみは、薩摩で、家を背負い、藩士、領民の上に立つ者の責任とはどういうことかと、士族の長としての自覚を持って、育っていたのではないでしょうか。
若い頃は、女としてはさみしい生涯に見えて、あんまり共感できませんでしたが、いまはただ、感嘆の一言です。
昔の大河ドラマ『花神』、懐かしいですね。私は毎週欠かさず見ていました。司馬遼太郎原作のドラマでは2人は不倫関係になり、十代の私には彼等とお琴との三角関係が面白かったです(笑)。ドラマでのお琴は陽気で可愛い妻ですが、時々ヒステリーを起こすという設定でした。
篤姫も大河ドラマ化されましたが、こちらは見ていません。それにしても篤姫の書翰が仙台市博物館所蔵というのは、こちらで初めて知りました。まさか地元に篤姫の書翰の実物があったとは、私もびっくりの2乗です。興味深いお話を教えて頂き、有難うございました。
これからも「郎女迷々日録 幕末東西」応援させていただきます。
並びに楠本イネに関する研究も頑張って下さいませ。
イネが大村を看病したという裏づけはないのですね。しかも見舞いさえも無いとは・・・。
襲われてから死去するまで2ヶ月もあったのに・・・。
イネは襲われたという情報自体知っていたのでしょうかね?当時、新聞や瓦版はどうだったのでしょう??
もし知っていたならばかつての師に対してあまりにも情が無いですね。記録に無くても知っているなら行っていると思いたいですね。
さてさて、篤姫は流石というか、旧家より今の家を大事にしているってのは嫁の鏡というべきでしょうか?
それに対して西郷は薩摩の姫ということで、面と向かって逆らえない・・・。そういうのって女性の方が割り切りがきっちり出来てるんでしょうね。