先日から続けてご紹介しています、クリスチャン・ポラック著『絹と光 日仏交流の黄金期』には、もちろん、陸軍伝習のフランス人について、のみだけではなく、幕末から明治にかけての広範な日仏交流史が取り上げられています。
そこで、やはりモンブラン伯も登場するわけなのですが、評判の悪い人物であったためか、あるいは、もしかすると国籍がベルギーらしいためか、鉱山開発のところでちょっと触れられているだけで、疑問のつく記述もあります。
五代友厚をはじめとする薩摩視察団を「サンジェルマン・デプレの自邸に迎え入れる」と書いているのですが、資料が明記されてないんですよねえ。
モンブラン伯爵は大山師か
上の記事で、名倉予何人の日記によれば、「パリのモンブラン伯邸は、「チボリ街」にあるというのですね。これが現在のパリのどこらあたりなのか、さっぱりわかりません」と書きまして、下の記事にありますように、個人サイトのBBSの方で、「サン・ラザール駅のそば」と、お教えいただいております。
モンブラン伯とグラバー
名倉予何人の日記と、上記の記事でははぶきましたが、さらに三宅復一の日記にも、モンブラン伯邸はチボリ街とされているのですが、双方、鈴木明著『維新前夜』(小学館ライブラリー)の260ページに引用されています。
元治元年 (1864)3月25日
名倉
「午後、四、五名相伴テ、館(ホテル)ヲ出テ、チボリ街ノモンブラン家ニ至ル」
三宅
「十二時頃より、チボリ町に至り、ケンに逢ふ。並にコント(伯爵)及び其れの母、又姉に逢ふ」
五代友厚の渡欧は、この翌年、元治元年(1865)なんですが、日記を見ても、パリのモンブラン邸の場所は、書いていないんです。第一、五代は、ベルギーのインゲルムンステル城には泊まりましたが、パリではモンブラン邸に宿泊したわけではなく、ホテルに泊まり、訪れているだけです。
さらに明治2年、モンブラン伯爵は、駐仏日本公使代理となって、パリではじめての日本公使館を「ティボリ街」に置くんですが、これは、自宅を提供した、と考えるのが自然ではないでしょうか。
ポラック氏の書く「サンジェルマン・デプレ」は、学生街ですから、おそらく、モンブラン伯があずかっていた二人の薩摩留学生、田中靜洲(朝倉盛明)、中村宗見(博愛)の下宿だったんじゃないんでしょうか。
ここらあたりの事情については、詳しいサイトさんを見つけました。
意外なところに、といいますか、地質学の学者さんのサイトです。
応用地質雑文 実践的地質学の源流としての薩摩
同年6月21日(慶応元年5月28日)ロンドンに到着したが,朝倉は,11月には中村宗見(博愛:外務大書記官, 1843-1902)と共にフランスに渡り,パリでモンブラン伯(Charles Comte de MONTBLANC, 1832-1893)のところに寄寓,フランス語・殖産・鉱山学を修めた。1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会では,薩摩藩出品文物の説明にも当たっている。
同年7月帰国し,再び開成所で訓導師として勤務した。帰国後も変名の朝倉省吾(靜吾)を名乗っていた。藩に迷惑をかけない便法として用いた変名であったが,主君の命名ということで,その後も変名をそのまま用いた人も多い。11月8日薩摩藩の政治顧問格となったモンブランが,鉱山技師コワニー夫妻・坑夫1名と共に来薩したが,朝倉は五代と共に上海まで出迎えている。政治情勢が風雲急を告げ,出兵した茂久の後を追ってモンブランが五代らと兵庫へ向かった後も,コワニーは薩摩に残った。
生野銀山の開発に尽力したコワニーについては、ポラック氏も書いておられるんですが、招聘の事情は簡略で、朝倉省吾については、触れられてないんですね。
資料にあたってみないといけないんですが、風雲急を告げる慶応3年末の関西に、モンブラン伯がいたことは確かのようですね。
モンブラン伯王政復古黒幕説
上記の記事に書きました、王政復古の薩摩の政略にモンブラン伯がからんでいた可能性、まったくの妄想ではなくなってきました。
鳥羽伏見直後の神戸事件、堺事件を扱った、こちらのサイトさんの論文にも、モンブラン伯が登場していました。
明治維新期の公家外交について~東久世通禧を中心に~
この二つの事件はまだ、新政府が三職制であったときに起きたものであり、ここで外交団を急造し、これが正式に外交団となっていく。東久世は当時の外交担当者を「其時の外国掛は山階宮が総裁と云ふ名義であって(12)、併し名義は色々に変わりました能く覚えても居らぬ(13)、其次は宇和島伊豫守(中略)其次は私、其次は後藤象二郎、其次は岩下佐次右衛門即ち方平、寺島宗則、五代友厚、中井弘、伊藤博文などあった」と語っている。(14)その他、この時期の外交に携わった人物としては小松帯刀なども居る。
(中略)
五代は主に大坂で外交に当たることが多く、堺事件で活躍した。「後年朝廷より君に勲章を賜はるの栄ありしは、他に功少なからずと雖、多くは本件(堺事件)の功績を思召出されてならんと聞く」(20)と五代がよく活躍したことを表している。
小松は薩摩藩城代家老であったが、上京を命じられ、その後、二月に入ってから、大坂に出張し外交問題に携わった。
吉井は大坂に居たが、神戸事件の知らせを受け、寺島と共に兵庫に出向き、事件解決に尽力した。(21)
(中略)
また、外交官達の一人である中井は幕末に薩摩藩を脱藩し、後藤に拾われ、彼の出仕で渡英。その後、伊達に招かれて、宇和島の周旋方として京都で活躍した。(66)さらに、この時期の伊達の日記にもかなりの頻度で登場し、伊達との絆の強さを思わせる。伊達は五代とも強いつながりを持っており、十七日にはモンブランを紹介してもらっている。(67)一般に考えても、公家である東久世よりは宇和島藩主である伊達の方が、下の外交官達とのつながりは強いと言えるだろう。
どちらもフランス水兵が被害者となった事件で、この時期、モンブラン伯が確実に関西にいたのならば、おそらく薩摩は、モンブラン伯に斡旋を頼んだだろう、と思ってはいたのですが、上記サイトによれば、『伊達宗城在京日記』七〇九頁に、伊達城が五代にモンブランを紹介してもらっている旨、載っているそうですから、まちがいはないでしょう。
写真は、鹿児島・磯の異人館です。慶応三年、日本初の様式紡績工場建設と操業のため、招いた技師たちのための宿舎でした。これはイギリスの機械で、イギリス人だったといわれているのですが、モンブラン伯がらみだったという話も、ちょっと読んだような気がしまして、ちょっと調べてみないといけないのですけれども、とりあえず、モンブラン伯が訪れた頃の鹿児島をしのびまして、載せました。
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そこで、やはりモンブラン伯も登場するわけなのですが、評判の悪い人物であったためか、あるいは、もしかすると国籍がベルギーらしいためか、鉱山開発のところでちょっと触れられているだけで、疑問のつく記述もあります。
五代友厚をはじめとする薩摩視察団を「サンジェルマン・デプレの自邸に迎え入れる」と書いているのですが、資料が明記されてないんですよねえ。
モンブラン伯爵は大山師か
上の記事で、名倉予何人の日記によれば、「パリのモンブラン伯邸は、「チボリ街」にあるというのですね。これが現在のパリのどこらあたりなのか、さっぱりわかりません」と書きまして、下の記事にありますように、個人サイトのBBSの方で、「サン・ラザール駅のそば」と、お教えいただいております。
モンブラン伯とグラバー
名倉予何人の日記と、上記の記事でははぶきましたが、さらに三宅復一の日記にも、モンブラン伯邸はチボリ街とされているのですが、双方、鈴木明著『維新前夜』(小学館ライブラリー)の260ページに引用されています。
元治元年 (1864)3月25日
名倉
「午後、四、五名相伴テ、館(ホテル)ヲ出テ、チボリ街ノモンブラン家ニ至ル」
三宅
「十二時頃より、チボリ町に至り、ケンに逢ふ。並にコント(伯爵)及び其れの母、又姉に逢ふ」
五代友厚の渡欧は、この翌年、元治元年(1865)なんですが、日記を見ても、パリのモンブラン邸の場所は、書いていないんです。第一、五代は、ベルギーのインゲルムンステル城には泊まりましたが、パリではモンブラン邸に宿泊したわけではなく、ホテルに泊まり、訪れているだけです。
さらに明治2年、モンブラン伯爵は、駐仏日本公使代理となって、パリではじめての日本公使館を「ティボリ街」に置くんですが、これは、自宅を提供した、と考えるのが自然ではないでしょうか。
ポラック氏の書く「サンジェルマン・デプレ」は、学生街ですから、おそらく、モンブラン伯があずかっていた二人の薩摩留学生、田中靜洲(朝倉盛明)、中村宗見(博愛)の下宿だったんじゃないんでしょうか。
ここらあたりの事情については、詳しいサイトさんを見つけました。
意外なところに、といいますか、地質学の学者さんのサイトです。
応用地質雑文 実践的地質学の源流としての薩摩
同年6月21日(慶応元年5月28日)ロンドンに到着したが,朝倉は,11月には中村宗見(博愛:外務大書記官, 1843-1902)と共にフランスに渡り,パリでモンブラン伯(Charles Comte de MONTBLANC, 1832-1893)のところに寄寓,フランス語・殖産・鉱山学を修めた。1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会では,薩摩藩出品文物の説明にも当たっている。
同年7月帰国し,再び開成所で訓導師として勤務した。帰国後も変名の朝倉省吾(靜吾)を名乗っていた。藩に迷惑をかけない便法として用いた変名であったが,主君の命名ということで,その後も変名をそのまま用いた人も多い。11月8日薩摩藩の政治顧問格となったモンブランが,鉱山技師コワニー夫妻・坑夫1名と共に来薩したが,朝倉は五代と共に上海まで出迎えている。政治情勢が風雲急を告げ,出兵した茂久の後を追ってモンブランが五代らと兵庫へ向かった後も,コワニーは薩摩に残った。
生野銀山の開発に尽力したコワニーについては、ポラック氏も書いておられるんですが、招聘の事情は簡略で、朝倉省吾については、触れられてないんですね。
資料にあたってみないといけないんですが、風雲急を告げる慶応3年末の関西に、モンブラン伯がいたことは確かのようですね。
モンブラン伯王政復古黒幕説
上記の記事に書きました、王政復古の薩摩の政略にモンブラン伯がからんでいた可能性、まったくの妄想ではなくなってきました。
鳥羽伏見直後の神戸事件、堺事件を扱った、こちらのサイトさんの論文にも、モンブラン伯が登場していました。
明治維新期の公家外交について~東久世通禧を中心に~
この二つの事件はまだ、新政府が三職制であったときに起きたものであり、ここで外交団を急造し、これが正式に外交団となっていく。東久世は当時の外交担当者を「其時の外国掛は山階宮が総裁と云ふ名義であって(12)、併し名義は色々に変わりました能く覚えても居らぬ(13)、其次は宇和島伊豫守(中略)其次は私、其次は後藤象二郎、其次は岩下佐次右衛門即ち方平、寺島宗則、五代友厚、中井弘、伊藤博文などあった」と語っている。(14)その他、この時期の外交に携わった人物としては小松帯刀なども居る。
(中略)
五代は主に大坂で外交に当たることが多く、堺事件で活躍した。「後年朝廷より君に勲章を賜はるの栄ありしは、他に功少なからずと雖、多くは本件(堺事件)の功績を思召出されてならんと聞く」(20)と五代がよく活躍したことを表している。
小松は薩摩藩城代家老であったが、上京を命じられ、その後、二月に入ってから、大坂に出張し外交問題に携わった。
吉井は大坂に居たが、神戸事件の知らせを受け、寺島と共に兵庫に出向き、事件解決に尽力した。(21)
(中略)
また、外交官達の一人である中井は幕末に薩摩藩を脱藩し、後藤に拾われ、彼の出仕で渡英。その後、伊達に招かれて、宇和島の周旋方として京都で活躍した。(66)さらに、この時期の伊達の日記にもかなりの頻度で登場し、伊達との絆の強さを思わせる。伊達は五代とも強いつながりを持っており、十七日にはモンブランを紹介してもらっている。(67)一般に考えても、公家である東久世よりは宇和島藩主である伊達の方が、下の外交官達とのつながりは強いと言えるだろう。
どちらもフランス水兵が被害者となった事件で、この時期、モンブラン伯が確実に関西にいたのならば、おそらく薩摩は、モンブラン伯に斡旋を頼んだだろう、と思ってはいたのですが、上記サイトによれば、『伊達宗城在京日記』七〇九頁に、伊達城が五代にモンブランを紹介してもらっている旨、載っているそうですから、まちがいはないでしょう。
写真は、鹿児島・磯の異人館です。慶応三年、日本初の様式紡績工場建設と操業のため、招いた技師たちのための宿舎でした。これはイギリスの機械で、イギリス人だったといわれているのですが、モンブラン伯がらみだったという話も、ちょっと読んだような気がしまして、ちょっと調べてみないといけないのですけれども、とりあえず、モンブラン伯が訪れた頃の鹿児島をしのびまして、載せました。
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鹿鳴館と伯爵夫人
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幕末日本と欧米 |
町田兄さんは、忘れられる運命のお方ですのよ。
えー、杉浦奉行の次は、すっかり寺島ママンのファンに
なってしまいまして、よろしくお願いします。
田中隆二氏が『幕末・明治期の日仏交流』のなかで入江文郎が残した文書を紹介していまして、「西航備忘録」という帳面の写真が掲載されています。渡仏前に入江が書いたと思われる「町田君ヨリ之伝言/Conte de Monblanc/n 8 rue de Tivolie/Paris/前田弘安/岩下長次郎/新納万太郎」(/は改行)というメモがあり、「Tivolie」(eが多いけれど)を原本の写真で確認できます。
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/28e1bd101cbe21af3529fc18b2c733a9
上において、書いておりますが、ちょっとわけのわからない記事になっているかと。
http://www.faget-benard.com/petit_bout_du_monde/textes/chap2/tivoli.html
Le passage Tivoli en 1900. Aujourd'hui dit "de Budapest".
とありますところから、チボリ街とは、現在のRue de Budapest ではないか、という話です。
現在のSNCFの建物の土台は古そうで、Rue de Budapestにむかって中庭の門が開いているみたいですし、もしここなら、そこそこのお屋敷かな、と思うのですが。
あと、カションとモンブランの接点は、グロ男爵に随行していたとき、カションが一行の通訳についていたんでしたよね。「幕末開港綿羊娘情史」には、モンブラン二度目の来日のときにつきあいがあったように書いてありますが、このときはカションは箱館にいるはずで、ありえないかと。パリ万博のときは、モンブランは薩摩方、カションは幕府方で、接触があったとすれば、険悪なものだったと思います。
三宅復一の日記は、印刷物になっています。もっているはずなのですが、出てきません。
名倉予何人の日記の方は、どうなのかよくわからないんです。「海外日録」なのだとすれば、「幕末明治中国見聞録集成 / 小島晋治監修」というのに入っているんだと思うのですが、今度、国会図書館で確かめてきます。
ご指摘の使節団の馬車がぬけた「チボリ街」の部分が、原本でどう書かれているか、ですよね。これには私、うっかり気付いていませんでした。
もしかすると、杉浦譲の全集も見てみた方がいいかもしれませんよね。
ただ、高橋邦太郎氏が「チボリ街」となさっていて、なんで読んだのか思い出せないんですが、「サン・ラザール駅の近くのごみごみしたところだった」みたいなことを言っておられたようなんです。とはいえ、高橋邦太郎氏がなぜチボリ街と思われたのかはわかりません。
エミール・ゾラの「ボヌール・デ・ダム百貨店」だったと思うのですが、当時のチボリ街のあたりの描写が出てきまして、とても貴族が住む地域とは思えないで、首をかしげておりました。
あと、メルメ・カションとモンブランは、ほとんど接点がなかったかと思うのですが。
モンブラン伯はチボリ街に住んでいたということですが、ほとんどの方は鈴木明著『維新前夜』に依拠しているようです。そのもとになっている名倉予何人や三宅復一の日記を著者はどのようにして目にしたのでしょうか。原文を参照するすべがないのが残念です。ところで同書に、使節団一行の馬車が「バスティーユ広場を左折して、チボリ街を抜け、ヴァンドーム広場を北に折れた」という記述がありますが、どう見ても「チボリ街」はあり得ず、「リヴォリ通り」の間違いのように思います。「Tivoli」と「Rivoli」はよく似ています。もとの資料(日記)を見て確かめられればと思っています。なお、フランス国立図書館も含めてほとんどの研究書が亡くなったとする数年後に、記憶違いでなければ、メルメ・カションをリヴォリ通りに成島柳北が訪ねています。