広瀬常と森有礼 美女ありき12の続きです。
えーと、まず。
広瀬常と森有礼 美女ありき1において、「広瀬姓の幕臣で、旗本は一家しかない」ということが判明いたしまして、以下のように書きました。
「これ(寛政重修諸家譜 )に載っている広瀬家は、一家だけです。初代が、延宝8年師走(1681年1月)に召し抱えられ、徒歩目付。4代目から名前に「吉」がつくようになりまして、勘定吟味方改役。小禄ながら旗本です。
5代目の広瀬吉利(吉之丞)も勘定吟味方改役で、この人は、「江戸幕府諸藩人名総鑑 文化武鑑索引 下」に出てきます。評定所留役勘定です。
この家の後継者は、安政3年(1857)の東都青山絵図(goo古地図 江戸切絵図23 東都青山)で、青山善光寺門前の百人町に見える「広瀬吉平」じゃないかと思います。善光寺は現存していまして、現在でいうならば地下鉄表参道駅付近です」
この広瀬吉利(吉之丞)の後継者なんですが、「寛政譜以降 旗本家百科事典」という本が図書館にあり、おおよそのことが、わかりました。
広瀬伊八郎、70俵5人扶持。居屋敷・深川伊勢崎町254坪。拝領屋敷・深川寺町通57坪余。安政(1855)小普請戸川支配。
伊八郎の父親は広瀬茂十郎(小普請)だそうでして、とすれば、広瀬吉利(吉之丞)の孫になるのか、と思えます。
伊八郎は明治元年帰商。静岡へ行かず、江戸に残ったんですね。
しかし明治3年、病気になって、養子の専三郎に家督をゆずります。
専三郎は徳川家に帰藩し、相良勤番組之頭支配、5人扶持になりました。
この本によっても、広瀬姓の旗本は、この一家しかありません。広瀬吉利(吉之丞)の本国が「下野」とされているのが、ちょっと気にかかりまして、もう一度、「寛政重修諸家譜」で確かめてみる必要があるんですが、ともかく、広瀬常の父・広瀬冨五郎(秀雄)が、旗本ではなかったことは、これではっきりしたと思います。
広瀬常と森有礼 美女ありき10で書いたことなんですが、広瀬冨五郎=寅五郎としまして、慶応2年以降の寅五郎の動向は、杉浦梅潭(誠)の「箱館奉行日記」、慶応3年の前半も読んでみる必要がありそうです。あと、北海道立文書館の箱館奉行所文書に、ネットにあがっています以外の文書はないのか、というところでしょうか。
静岡県士族ということは、新政府に仕える道も、帰農(あるいは帰商)の道も選ばず、一度は駿府へ行ったと思われ、静岡へ行った幕臣の史料がないものか、という点も気になっていました。「寛政譜以降 旗本家百科事典」の参考文献により、「駿遠に移住した徳川家臣団」という本があることがわかったのですが、これも国会図書館で見るしかなさそうな文献です。
また私、広瀬常と森有礼 美女ありき11の内容を裏付ける史料をさがして、大洲まででかけたのですが、ひいーっ!!!なんと、「力石本加藤家譜」の写本を、伊予史談会が所有していまして、近くの図書館にあったんです!!! といいますか、現存する史料では、この写本にしか、明治2年以降の加藤家の話は載っていないようです。
さっそく、見に行きました。
明治4年10月、大洲藩上屋敷を加藤家私邸としたい旨を東京府に願った「邸地振替願書」や、中屋敷の処分に触れている同年12月の武田斐三郎(成章)の文書とかあり、私、広瀬冨五郎は、もしかして、大洲藩中屋敷の処分にかかわっていたのではないだろうか、と憶測していたのですが、その可能性が、ありそうな感じなんです。
ただ、私、この明治のくずし字がろくに読めません!!!
なにやら、あやしい読み取りでして、母にも読んでもらったのですが、いまひとつ。またまたfhさまと中村さまに解読をお願いしちゃいましたので、また後日。
本日は、お常さんを主人公にしました短編小説二編の感想を、手短に。
上の本に収録されています「うらみ葛の葉」は、お雇い外国人でドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツと結婚しました花の視点から、青い目の子を産んだばかりの森有礼夫人・常を描いています。
ちょっと怪談じみた書き方なんですが、ともかく上手い!!!
「秋霖譜―森有礼とその妻」の創作ともいえます藪重雄義兄弟説を踏襲なさるなど、ろくに資料を読まれていないんですけれども、思わず引き込まれてしまいますところが、すごい筆力です。
しかし、さすがに、最後の種明かしには、笑い転げてしまいました。
有礼はえらい変人ですが、ピューリタニズムとシンクロしたモラリストの薩摩隼人です。絶対に、そんな「倫理」にはずれたこと、しませんってば!!!
確かに上手いんですが、現実離れのしすぎ、です。
フィクションはフィクションとしても、時代を映している、という意味のリアリティが、ありません。
だけど、上手いから、困るんですよね。いくらなんでも、やくざな悪鬼にされたのでは、有礼もうかばれませんわ。鮫ちゃん、怒ってやって!(笑)
史実離れのおとぎ話風お常さんの物語でありながら、時代を映している、という意味での傑作としては、山田風太郎氏の「エドの舞踏会」をあげることができます。
上も開化ものの連作小説なんですが、冒頭の「鹿鳴館の肖像」が、お常さんのお話です。
これはまた、だれもかれもが苦悩する善人でして、「うらみ葛の葉」を読んだ後では、ほっとするのですが、いくらなんでも、ジョサイア・コンドルの妻・おくめさんが実はお常さんだったって……、荒唐無稽にすぎまして、ちょっと真面目に読む気になれませんでした。
このシリーズ、続きます。
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えーと、まず。
広瀬常と森有礼 美女ありき1において、「広瀬姓の幕臣で、旗本は一家しかない」ということが判明いたしまして、以下のように書きました。
「これ(寛政重修諸家譜 )に載っている広瀬家は、一家だけです。初代が、延宝8年師走(1681年1月)に召し抱えられ、徒歩目付。4代目から名前に「吉」がつくようになりまして、勘定吟味方改役。小禄ながら旗本です。
5代目の広瀬吉利(吉之丞)も勘定吟味方改役で、この人は、「江戸幕府諸藩人名総鑑 文化武鑑索引 下」に出てきます。評定所留役勘定です。
この家の後継者は、安政3年(1857)の東都青山絵図(goo古地図 江戸切絵図23 東都青山)で、青山善光寺門前の百人町に見える「広瀬吉平」じゃないかと思います。善光寺は現存していまして、現在でいうならば地下鉄表参道駅付近です」
この広瀬吉利(吉之丞)の後継者なんですが、「寛政譜以降 旗本家百科事典」という本が図書館にあり、おおよそのことが、わかりました。
広瀬伊八郎、70俵5人扶持。居屋敷・深川伊勢崎町254坪。拝領屋敷・深川寺町通57坪余。安政(1855)小普請戸川支配。
伊八郎の父親は広瀬茂十郎(小普請)だそうでして、とすれば、広瀬吉利(吉之丞)の孫になるのか、と思えます。
伊八郎は明治元年帰商。静岡へ行かず、江戸に残ったんですね。
しかし明治3年、病気になって、養子の専三郎に家督をゆずります。
専三郎は徳川家に帰藩し、相良勤番組之頭支配、5人扶持になりました。
この本によっても、広瀬姓の旗本は、この一家しかありません。広瀬吉利(吉之丞)の本国が「下野」とされているのが、ちょっと気にかかりまして、もう一度、「寛政重修諸家譜」で確かめてみる必要があるんですが、ともかく、広瀬常の父・広瀬冨五郎(秀雄)が、旗本ではなかったことは、これではっきりしたと思います。
広瀬常と森有礼 美女ありき10で書いたことなんですが、広瀬冨五郎=寅五郎としまして、慶応2年以降の寅五郎の動向は、杉浦梅潭(誠)の「箱館奉行日記」、慶応3年の前半も読んでみる必要がありそうです。あと、北海道立文書館の箱館奉行所文書に、ネットにあがっています以外の文書はないのか、というところでしょうか。
静岡県士族ということは、新政府に仕える道も、帰農(あるいは帰商)の道も選ばず、一度は駿府へ行ったと思われ、静岡へ行った幕臣の史料がないものか、という点も気になっていました。「寛政譜以降 旗本家百科事典」の参考文献により、「駿遠に移住した徳川家臣団」という本があることがわかったのですが、これも国会図書館で見るしかなさそうな文献です。
また私、広瀬常と森有礼 美女ありき11の内容を裏付ける史料をさがして、大洲まででかけたのですが、ひいーっ!!!なんと、「力石本加藤家譜」の写本を、伊予史談会が所有していまして、近くの図書館にあったんです!!! といいますか、現存する史料では、この写本にしか、明治2年以降の加藤家の話は載っていないようです。
さっそく、見に行きました。
明治4年10月、大洲藩上屋敷を加藤家私邸としたい旨を東京府に願った「邸地振替願書」や、中屋敷の処分に触れている同年12月の武田斐三郎(成章)の文書とかあり、私、広瀬冨五郎は、もしかして、大洲藩中屋敷の処分にかかわっていたのではないだろうか、と憶測していたのですが、その可能性が、ありそうな感じなんです。
ただ、私、この明治のくずし字がろくに読めません!!!
なにやら、あやしい読み取りでして、母にも読んでもらったのですが、いまひとつ。またまたfhさまと中村さまに解読をお願いしちゃいましたので、また後日。
本日は、お常さんを主人公にしました短編小説二編の感想を、手短に。
へび女房 | |
蜂谷 涼 | |
文藝春秋 |
上の本に収録されています「うらみ葛の葉」は、お雇い外国人でドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツと結婚しました花の視点から、青い目の子を産んだばかりの森有礼夫人・常を描いています。
ちょっと怪談じみた書き方なんですが、ともかく上手い!!!
「秋霖譜―森有礼とその妻」の創作ともいえます藪重雄義兄弟説を踏襲なさるなど、ろくに資料を読まれていないんですけれども、思わず引き込まれてしまいますところが、すごい筆力です。
しかし、さすがに、最後の種明かしには、笑い転げてしまいました。
有礼はえらい変人ですが、ピューリタニズムとシンクロしたモラリストの薩摩隼人です。絶対に、そんな「倫理」にはずれたこと、しませんってば!!!
確かに上手いんですが、現実離れのしすぎ、です。
フィクションはフィクションとしても、時代を映している、という意味のリアリティが、ありません。
だけど、上手いから、困るんですよね。いくらなんでも、やくざな悪鬼にされたのでは、有礼もうかばれませんわ。鮫ちゃん、怒ってやって!(笑)
史実離れのおとぎ話風お常さんの物語でありながら、時代を映している、という意味での傑作としては、山田風太郎氏の「エドの舞踏会」をあげることができます。
鹿鳴館の肖像 | |
東 秀紀 | |
新人物往来社 |
上も開化ものの連作小説なんですが、冒頭の「鹿鳴館の肖像」が、お常さんのお話です。
これはまた、だれもかれもが苦悩する善人でして、「うらみ葛の葉」を読んだ後では、ほっとするのですが、いくらなんでも、ジョサイア・コンドルの妻・おくめさんが実はお常さんだったって……、荒唐無稽にすぎまして、ちょっと真面目に読む気になれませんでした。
このシリーズ、続きます。
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お心遣いも有難うございます。
読めない、読んでも誤読とご迷惑をおかけし、こちらのほうがお世話になっていますのに、恐縮です。
本日、コピーの束をいただきました。
これからじっくり、読ませていただきます。
紀行、がんばってくださいませ。
もたらしたりしたドイツ人の孫にあたる
方にお話を伺いました。
また、私の家系自体何らかの外国人かもしれません。
男女関係につき、他人が話を作る事自体、バカバカしいと思います。
そのライマン系の事でも、かなり不愉快です。
何故、実際した人物の名前で、話を書いて良いと、思ったのでしょうか?
ここにあげました二つの小説に、ライマン氏が出てきたかどうか、私はさっぱり覚えておりません。
私がブログを格上で参考にさせていただきましたライマン氏関連の文献は、藤田文子氏の「北海道を開拓したアメリカ人」 (新潮選書)で、これは小説ではなく、想像で書かれたものではありません。あと、どなたかの学術論文も、参考にしたように覚えておりますが、小説は参考にはいたしません。
実在した人物が出てまいります小説は、世の中に山のようにございますし、なぜ、あなたさまが、ライマン氏のものにのみ不快を感じ、しかもその感情を私のブログに書かれるのか、理解できないでおります。
私は、このブログで小説は書いておりません。
このブログで書いておりますのは、人様の小説、あるいはNHKなどのドラマにに出てまいります実在の人物が、史実とはまるでちがう、ということでして、しかしそれはその作品の値打ちとはまた別の話です。
私が申し上げたいのは、いくら権威あるNHKのドラマだろうが、司馬遼太郎氏の小説だろうが、あくまでフィクションなのですから、史実だと勘違いしないでくださいね、ということです。
外国人のご子孫が、日本人に受け止められている祖先の像に衝撃を受け、反発なさったといえば、ライマン氏などより、モンブラン伯爵の方が、特筆すべきではないでしょうか。何十年か前に、ご子孫の女性が来日されて、擁護の文章を書かれたそうなのですね。
まあ、乃木さんのご子孫など、司馬遼太郎氏の小説に抗議をなさっていたそうですが、どうにもなっておりませんし、小説やドラマを、史実だと思い込む方が多いのは、困ったものでございますね。