いろは丸と大洲と龍馬 上、いろは丸と大洲と龍馬 下の続きです。
「龍馬史」が描く坂本龍馬にも、関係します。
真紅さまのご紹介により。下の本を買って読みました。
いや、もうなんといいますか……、ともかくおもしろい!!!のですが、これもしかして、副題を「『竜馬がゆく』の真っ赤な嘘」と変えた方が、インパクトがあっていいのではないか、と。
著者の鈴木邦裕氏は、外国航路の船長という経歴をお持ちの海事の専門家でおられ、弓削商船や神戸商船大学で非常勤講師をなさったご経験からでしょうか、非常に簡潔で、読みやすい文章を書かれます。
おどろきましたことに、現在、松山ご在住です。
もしかして……、伊予の人間はけっこう「歯に衣着せず批判する」性癖があるんでしょうか。いえ、私も含めてのことなんですが(笑) そういえば、正岡子規の歌論や俳句論って、ずけずけと、既成の歌壇、俳壇批判をしておりましたっけ。
司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」は、司馬氏の幕末ものの中では初期の作品でして、先に書きましたが娯楽に撤した結果、ほとんど史実にはかまっておられないんですね。
私は本来、これを史実だと受け取るのは、受け取る方がまちがっているのだ、という見解です。
また、史実にそったものではなく、伝説の集成であったにしましても、「時代の雰囲気を映している」という意味でのリアリティにおいて、司馬作品には、他と隔絶した、といえるほどのすばらしさがあり、これはもう、脱帽するしかありません。
しかし、ですね。
とはいうもの、世間一般で司馬作品がそのまま史実のように受け入れられていますことには、腹立たしくなることもあり、私の場合、それは「翔ぶが如く」である場合が多かったんです。
「竜馬がゆく」はまだしも、一読して伝説の集成、なんですが、「翔ぶが如く」になってきますと、史伝風の書き方をなさっていて、「だ・か・ら、あれはフィクションですっ!!!!!」と叫んだことが、過去、数えきれず、です(笑)
大昔の話です。
おそらく、大河ドラマで「翔ぶが如く」をやった直後くらい、だったと思うんですが、漫画家の卵だとおっしゃる男性の方からお手紙をいただき(当時はまだネットはありません)、「『翔ぶが如く』を読んで、中村半次郎に興味を持ちました。差別された郷士が、人斬りを重ねてのしあがっていく、そんな姿を作品にしたいんです」とまあ、おおよそ、そんな内容だったと思うのですが、「まず、桐野(中村半次郎)は郷士じゃありません。城下士です」とお返事を書いてもなかなか信じてもらえませんで、「えーと、ですね。『翔ぶが如く』に木戸孝允が欧州から帰ってきて、山内容堂と話す場面がありますよね。でも、ありえないんです。容堂は明治5年に死去していますから。『翔ぶが如く』は、史伝風に書かれている部分も、都合によっては死人が蘇っているフィクションです」と説明して、ようやくわかってもらえたんですが、当時、司馬さんの戦国ものを参考に、ある漫画家さんが作品を描きましたところ、たまたまそれが司馬さんの創作部分で、盗作問題に発展した、というような噂話もありまして、「他人の創作物を資料にすること」の危険性をご説明したような次第でした。
しかし私、昔から坂本龍馬には、それほど関心がありませんで、「過大評価されすぎだよなあ。しかし、桐野のお友達だから、性格が悪い人じゃなさげ」(笑)くらいのところで、まじめに「竜馬がゆく」と史実の関係を追求しようと思ったことはなく、またまたしかし、昨今の「あれもこれも、なにもかもが龍馬のしたこと」みたいな風潮に、うんざりしていたことも事実です。
(えー、桐野が龍馬とお友達だった、ことについては、「桐野利秋と龍馬暗殺 前編」、「桐野利秋と龍馬暗殺 後編」、「中井桜洲と桐野利秋」を御覧下さい。海援隊の客分で、大政奉還の建白書に手を入れた中井桜洲と桐野はお友達で、龍馬の野辺送りでは、高松太郎(龍馬の甥・海援隊)、坂元清次郎(龍馬の姪の夫)といっしょにいたんです。さらに大正年間の回想ですが、桐野の正妻の久さんは、寺田屋事件の後、薩摩に滞在した龍馬を歓待した、と語り残しています。小松帯刀書簡により、桐野が神戸海軍操練所で学ぶことを希望していたことはわかりますし、薩長同盟は桐野の悲願でしたから、信憑性のある回想です)
「龍馬史」が描く坂本龍馬で書きましたように、特に海軍と交易に関して、なんですが、昨今の龍馬と海援隊への過大評価は著しく、鈴木邦裕氏がばっさりと斬って捨てておられますのには、胸がすきます。
いやほんと、素人が見ましても、ワイルウェフ号といろは丸と、砲撃されたわけでもなんでもなく、通常の運行で、短期間に二隻も船をおしゃかにしています龍馬と亀山社中(海援隊)は、ろくに航海の技量を持っていなかったのではないか、としか思えなかったのですが、海事の専門家でおられます鈴木邦裕氏が、それを裏付けてくださったわけです。
私、いろは丸と紀州藩船・明光丸の衝突事件そのものにつきましては、「竜馬がゆく」の著述内容でさえ、忘れこけておりました。
鈴木氏によって思い出させていただいたのですが、司馬氏は、明光丸船長・高柳楠之助について、以下のように書いておられます。
若いころ蘭学を志し、有名な伊東玄朴を師として蘭学と医学を学び、その後箱館(函館)へゆき、そこで西洋人からすこし航海術を学んだという。医術はさておき、航海術となると心細い経歴である。
しかしこの程度の者が、「西洋機械熟練之者」ということで十分に通用した時代であった。
鈴木氏によりますと、高柳は函館で武田斐三郎に航海術を学んでいるんだそうなんです。
ひいーっ!!! なんで司馬さんは、武田斐三郎がお嫌いなんでしょ。
たしか、「燃えよ剣」だったと思うんですが、五稜郭の設計者として、ぼろくそけなしておられた記憶が、鮮明にあります。
しかし、広瀬常と森有礼 美女ありき10に書いておりますが、五稜郭が中途半端なものだったのは、まったくもって斐三郎の責任ではないですし、鈴木氏も指摘され、いろは丸と大洲と龍馬 上で私も書いておりますが、斐三郎は船長としてニコラエフスクまで出かけたほどの航海者でして、実践的な教え方をしたようなのですね。
鈴木氏は、高柳はその後、明光丸の船長として、上海や香港にまで、無事航海を重ねていると述べておられまして、おっしゃるように、龍馬やその他海援隊の面々よりは、はるかに航海術に長けていたわけです。
いや、ですね。
武田斐三郎にしろ、高柳楠之助にしろ、勝海舟や坂本龍馬のような、政治的な周旋(取り持ち)の才はありませんわね。
しかし、実践的な技術者としての才能は、彼らよりはるかに上ですのに、なぜ司馬さんは、そこをけなしてしまわれるんでしょうか。
作家にとっての龍馬が、非常に魅力のある素材であったことはわかりますし、娯楽のためには万能の英雄に仕立てることもあり、なんでしょうけれども、そのために他を貶めるのはいかがなものかと、私も思います。
鈴木氏は、龍馬暗殺の黒幕話にも触れられ、これもばっさり、斬って捨てられています。
これ、私、昔から思っていたんですけど、龍馬は寺田屋で伏見奉行所の同心を撃ち殺しているんです。現在で言えば、警官殺しです。
同じことを鈴木氏が書いておられて、なぜ龍馬暗殺において、それが語られないことが多いのか、不思議です。
鈴木氏に教えていただいたことが、もう一つ。龍馬英雄伝説の素地が「維新土佐勤王史」に、すでにあった、ということです。
いえ、私、まったく読んだことがないわけじゃあないんですが、ごく一部を読んだだけでして。
考えてみれば、「汗血千里駒」の著者、坂崎紫瀾が著者なんですものねえ、ふう。
話は変わりますが、この「いろは丸事件と竜馬―史実と伝説のはざま」には、新資料、ポルトガル語のいろは丸購入契約書の写真が載せられていて、岡美穂子氏の翻訳文も全文収録されております。
私、大洲へ出かけましたときに、Mr.K氏にお聞きしたのですが、この資料の出所は確かで、一級の一次資料なんです。
ただ、ですね。
鈴木氏は愛媛新聞・平成22年4月23日の記事を典拠に、40000メキシコパタカ(ドル)=一万両とされていまして、これって、非常に、この契約書の信憑性を疑わせる記述なんですね。
慶應義塾大学学術情報リポジトリ: KOARAに、西川俊作氏の幕末期貨幣流出高の藤野推計について : 批判的覚書があります。
修好通商条約(第5条)において同種同量の原則により定められた協定レートは、メキシコ・ドルまたは洋銀1枚(1ドル)=一分銀3個(3分(ぶ))であった。一分銀4個.(4分)・小判1枚(1両)であったから、メキシコ・ドル4枚で小判3枚(3両)と交換できることになる。
ということですから、40000メキシコドルは、この公定レートで3万両なんです。
いろは丸と大洲と龍馬 下でご紹介しました紀州藩の資料「南紀徳川史」によりますと、ボードウィンとの借金契約におけるレートは、100メキシコドル(銀貨)=77両2歩で、=75両の公定レートと少々ちがうものですから、3万1千両になるわけです。
鈴木氏は一方で、これまで基本資料の一つ、とされてきました豊川沙の「いろは丸終始始末」も「信用ができない」と全面的に斬って捨てておられまして、後世にまとめたもので、伝聞が相当にまじっていますし、正確とはいえないのは確かなんですが、唯一の一次資料といえます購入契約書と、照らし合わせてみる価値は、あるでしょう。
それを全部斬って捨てられた上で、「新聞を典拠に一万両」は玉に傷だよなあ、と思いまして、私、鈴木氏にお電話してみました。
快く応じてくださいました鈴木氏がおっしゃるには、「岡美穂子先生のチェックを受けている」ということなんです。
私、もう、どびっくりしまして、いったい愛媛新聞の記事の「40000メキシコドル=一万両」がどこから出た話なのか、今度は、愛媛新聞社に電話をかけました。
ちょっと存じ上げている記者の方が電話に出られまして、おっしゃるには「大洲で書かれた記事なので、大洲の駐在記者に聞かないとわかりません」ということなんですが、「大洲市側から出た話なんでしょうか?」という私の問いには、「大洲側から出なければ書きません、普通」ということでしたので、Mr.K氏にお聞きするべきなのか、と迷ったのですが、同じく関係者でおられます大洲市立博物館学芸員の山田さまにお電話しました。
その結果が、これまた驚くべき、でして、「あれは、契約書発見発表の記者会見で質問が出て、岡先生が回答されことです」とのこと。
ひいーっ!!!!! 先生………
(追記)愛媛新聞社大洲支局の記者さんと連絡がつき、確認がとれました。山田さまのおっしゃった通りの経緯で、記者会見の内容をそのまま記事にし、独自の検証はなさらなかったそうです。
えー、「教えてgoo」にある話なんですが、通商条約以前の長崎で、オランダ商人との取り引きは、メキシコドル銀貨が一分銀と等価だったそうですから、南蛮がご専門の先生は、とっさに古いレートでお答えになられたんでしょうか。
それがそのまま新聞記事になって、ひろまってしまったわけなんですかね、ふう。
山田さまから、もう一つ、「いろは丸終始始末」の記事中、「国島六左衛門が自刃したときに龍馬が訪れた」といいます、もっとも印象的な場面は、「龍馬はそのとき長崎にいないので、ありえない」という話をお聞きしました。
鈴木氏もその旨を書いておられまして、私、とりあえず龍馬の書簡を見てみたのですが、その限りにおいては、長崎にいないことの裏付けはとれませんでした。
山田さまがおっしゃるには、長府博物館が、証拠を持っているとかでして、今度は長府に電話してみるべきなんでしょうかしらん。
この点以外、「いろは丸と大洲と龍馬 上下」で書いたことにつきましては、私、いまのところ、それほど訂正の必要はないと思っているんですが、大洲でMr.K氏にいただきました「大洲歴史懐古帖 第三版」や、契約書翻訳全文を見まして、一つ、もしかして、と思いましたのは、あるいは、「大洲藩はボードウィンから金を借りていろは丸を買った」のではなく、「もともと薩摩藩がボードウィンに全額立て替え払いしてもらっていて、その借金が残っていた」のかも、と思います。
これにつきましては、fhさまが寺島宗則について調べておられましたとき、『鹿児島県史料 玉里島津家史料1』を見ておられて、幕府の文久の遣欧使節団に参加していました寺島が、なぜか欧州で薩摩藩の船を買うのに奔走していまして、ボードウィンの周旋でスコットランドに船を発注した旨の資料を発見されたそうなんです。ただ、その船は、いろは丸よりは大きなものだったそうなんですが。
しかし、契約書におきます船主・ロウレイロの属するデント商会と、立会人のアデリアン商会が、安行丸=いろは丸にどうからむのかは、あいかわらず謎でして、とりあえず、来年の岡先生の論文を楽しみに待たせていただきます。
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「龍馬史」が描く坂本龍馬にも、関係します。
真紅さまのご紹介により。下の本を買って読みました。
いろは丸事件と竜馬―史実と伝説のはざま | |
鈴木 邦裕 | |
海文堂出版 |
いや、もうなんといいますか……、ともかくおもしろい!!!のですが、これもしかして、副題を「『竜馬がゆく』の真っ赤な嘘」と変えた方が、インパクトがあっていいのではないか、と。
著者の鈴木邦裕氏は、外国航路の船長という経歴をお持ちの海事の専門家でおられ、弓削商船や神戸商船大学で非常勤講師をなさったご経験からでしょうか、非常に簡潔で、読みやすい文章を書かれます。
おどろきましたことに、現在、松山ご在住です。
もしかして……、伊予の人間はけっこう「歯に衣着せず批判する」性癖があるんでしょうか。いえ、私も含めてのことなんですが(笑) そういえば、正岡子規の歌論や俳句論って、ずけずけと、既成の歌壇、俳壇批判をしておりましたっけ。
司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」は、司馬氏の幕末ものの中では初期の作品でして、先に書きましたが娯楽に撤した結果、ほとんど史実にはかまっておられないんですね。
私は本来、これを史実だと受け取るのは、受け取る方がまちがっているのだ、という見解です。
また、史実にそったものではなく、伝説の集成であったにしましても、「時代の雰囲気を映している」という意味でのリアリティにおいて、司馬作品には、他と隔絶した、といえるほどのすばらしさがあり、これはもう、脱帽するしかありません。
しかし、ですね。
とはいうもの、世間一般で司馬作品がそのまま史実のように受け入れられていますことには、腹立たしくなることもあり、私の場合、それは「翔ぶが如く」である場合が多かったんです。
「竜馬がゆく」はまだしも、一読して伝説の集成、なんですが、「翔ぶが如く」になってきますと、史伝風の書き方をなさっていて、「だ・か・ら、あれはフィクションですっ!!!!!」と叫んだことが、過去、数えきれず、です(笑)
大昔の話です。
おそらく、大河ドラマで「翔ぶが如く」をやった直後くらい、だったと思うんですが、漫画家の卵だとおっしゃる男性の方からお手紙をいただき(当時はまだネットはありません)、「『翔ぶが如く』を読んで、中村半次郎に興味を持ちました。差別された郷士が、人斬りを重ねてのしあがっていく、そんな姿を作品にしたいんです」とまあ、おおよそ、そんな内容だったと思うのですが、「まず、桐野(中村半次郎)は郷士じゃありません。城下士です」とお返事を書いてもなかなか信じてもらえませんで、「えーと、ですね。『翔ぶが如く』に木戸孝允が欧州から帰ってきて、山内容堂と話す場面がありますよね。でも、ありえないんです。容堂は明治5年に死去していますから。『翔ぶが如く』は、史伝風に書かれている部分も、都合によっては死人が蘇っているフィクションです」と説明して、ようやくわかってもらえたんですが、当時、司馬さんの戦国ものを参考に、ある漫画家さんが作品を描きましたところ、たまたまそれが司馬さんの創作部分で、盗作問題に発展した、というような噂話もありまして、「他人の創作物を資料にすること」の危険性をご説明したような次第でした。
しかし私、昔から坂本龍馬には、それほど関心がありませんで、「過大評価されすぎだよなあ。しかし、桐野のお友達だから、性格が悪い人じゃなさげ」(笑)くらいのところで、まじめに「竜馬がゆく」と史実の関係を追求しようと思ったことはなく、またまたしかし、昨今の「あれもこれも、なにもかもが龍馬のしたこと」みたいな風潮に、うんざりしていたことも事実です。
(えー、桐野が龍馬とお友達だった、ことについては、「桐野利秋と龍馬暗殺 前編」、「桐野利秋と龍馬暗殺 後編」、「中井桜洲と桐野利秋」を御覧下さい。海援隊の客分で、大政奉還の建白書に手を入れた中井桜洲と桐野はお友達で、龍馬の野辺送りでは、高松太郎(龍馬の甥・海援隊)、坂元清次郎(龍馬の姪の夫)といっしょにいたんです。さらに大正年間の回想ですが、桐野の正妻の久さんは、寺田屋事件の後、薩摩に滞在した龍馬を歓待した、と語り残しています。小松帯刀書簡により、桐野が神戸海軍操練所で学ぶことを希望していたことはわかりますし、薩長同盟は桐野の悲願でしたから、信憑性のある回想です)
「龍馬史」が描く坂本龍馬で書きましたように、特に海軍と交易に関して、なんですが、昨今の龍馬と海援隊への過大評価は著しく、鈴木邦裕氏がばっさりと斬って捨てておられますのには、胸がすきます。
いやほんと、素人が見ましても、ワイルウェフ号といろは丸と、砲撃されたわけでもなんでもなく、通常の運行で、短期間に二隻も船をおしゃかにしています龍馬と亀山社中(海援隊)は、ろくに航海の技量を持っていなかったのではないか、としか思えなかったのですが、海事の専門家でおられます鈴木邦裕氏が、それを裏付けてくださったわけです。
私、いろは丸と紀州藩船・明光丸の衝突事件そのものにつきましては、「竜馬がゆく」の著述内容でさえ、忘れこけておりました。
鈴木氏によって思い出させていただいたのですが、司馬氏は、明光丸船長・高柳楠之助について、以下のように書いておられます。
若いころ蘭学を志し、有名な伊東玄朴を師として蘭学と医学を学び、その後箱館(函館)へゆき、そこで西洋人からすこし航海術を学んだという。医術はさておき、航海術となると心細い経歴である。
しかしこの程度の者が、「西洋機械熟練之者」ということで十分に通用した時代であった。
鈴木氏によりますと、高柳は函館で武田斐三郎に航海術を学んでいるんだそうなんです。
ひいーっ!!! なんで司馬さんは、武田斐三郎がお嫌いなんでしょ。
たしか、「燃えよ剣」だったと思うんですが、五稜郭の設計者として、ぼろくそけなしておられた記憶が、鮮明にあります。
しかし、広瀬常と森有礼 美女ありき10に書いておりますが、五稜郭が中途半端なものだったのは、まったくもって斐三郎の責任ではないですし、鈴木氏も指摘され、いろは丸と大洲と龍馬 上で私も書いておりますが、斐三郎は船長としてニコラエフスクまで出かけたほどの航海者でして、実践的な教え方をしたようなのですね。
鈴木氏は、高柳はその後、明光丸の船長として、上海や香港にまで、無事航海を重ねていると述べておられまして、おっしゃるように、龍馬やその他海援隊の面々よりは、はるかに航海術に長けていたわけです。
いや、ですね。
武田斐三郎にしろ、高柳楠之助にしろ、勝海舟や坂本龍馬のような、政治的な周旋(取り持ち)の才はありませんわね。
しかし、実践的な技術者としての才能は、彼らよりはるかに上ですのに、なぜ司馬さんは、そこをけなしてしまわれるんでしょうか。
作家にとっての龍馬が、非常に魅力のある素材であったことはわかりますし、娯楽のためには万能の英雄に仕立てることもあり、なんでしょうけれども、そのために他を貶めるのはいかがなものかと、私も思います。
鈴木氏は、龍馬暗殺の黒幕話にも触れられ、これもばっさり、斬って捨てられています。
これ、私、昔から思っていたんですけど、龍馬は寺田屋で伏見奉行所の同心を撃ち殺しているんです。現在で言えば、警官殺しです。
同じことを鈴木氏が書いておられて、なぜ龍馬暗殺において、それが語られないことが多いのか、不思議です。
鈴木氏に教えていただいたことが、もう一つ。龍馬英雄伝説の素地が「維新土佐勤王史」に、すでにあった、ということです。
いえ、私、まったく読んだことがないわけじゃあないんですが、ごく一部を読んだだけでして。
考えてみれば、「汗血千里駒」の著者、坂崎紫瀾が著者なんですものねえ、ふう。
話は変わりますが、この「いろは丸事件と竜馬―史実と伝説のはざま」には、新資料、ポルトガル語のいろは丸購入契約書の写真が載せられていて、岡美穂子氏の翻訳文も全文収録されております。
私、大洲へ出かけましたときに、Mr.K氏にお聞きしたのですが、この資料の出所は確かで、一級の一次資料なんです。
ただ、ですね。
鈴木氏は愛媛新聞・平成22年4月23日の記事を典拠に、40000メキシコパタカ(ドル)=一万両とされていまして、これって、非常に、この契約書の信憑性を疑わせる記述なんですね。
慶應義塾大学学術情報リポジトリ: KOARAに、西川俊作氏の幕末期貨幣流出高の藤野推計について : 批判的覚書があります。
修好通商条約(第5条)において同種同量の原則により定められた協定レートは、メキシコ・ドルまたは洋銀1枚(1ドル)=一分銀3個(3分(ぶ))であった。一分銀4個.(4分)・小判1枚(1両)であったから、メキシコ・ドル4枚で小判3枚(3両)と交換できることになる。
ということですから、40000メキシコドルは、この公定レートで3万両なんです。
いろは丸と大洲と龍馬 下でご紹介しました紀州藩の資料「南紀徳川史」によりますと、ボードウィンとの借金契約におけるレートは、100メキシコドル(銀貨)=77両2歩で、=75両の公定レートと少々ちがうものですから、3万1千両になるわけです。
鈴木氏は一方で、これまで基本資料の一つ、とされてきました豊川沙の「いろは丸終始始末」も「信用ができない」と全面的に斬って捨てておられまして、後世にまとめたもので、伝聞が相当にまじっていますし、正確とはいえないのは確かなんですが、唯一の一次資料といえます購入契約書と、照らし合わせてみる価値は、あるでしょう。
それを全部斬って捨てられた上で、「新聞を典拠に一万両」は玉に傷だよなあ、と思いまして、私、鈴木氏にお電話してみました。
快く応じてくださいました鈴木氏がおっしゃるには、「岡美穂子先生のチェックを受けている」ということなんです。
私、もう、どびっくりしまして、いったい愛媛新聞の記事の「40000メキシコドル=一万両」がどこから出た話なのか、今度は、愛媛新聞社に電話をかけました。
ちょっと存じ上げている記者の方が電話に出られまして、おっしゃるには「大洲で書かれた記事なので、大洲の駐在記者に聞かないとわかりません」ということなんですが、「大洲市側から出た話なんでしょうか?」という私の問いには、「大洲側から出なければ書きません、普通」ということでしたので、Mr.K氏にお聞きするべきなのか、と迷ったのですが、同じく関係者でおられます大洲市立博物館学芸員の山田さまにお電話しました。
その結果が、これまた驚くべき、でして、「あれは、契約書発見発表の記者会見で質問が出て、岡先生が回答されことです」とのこと。
ひいーっ!!!!! 先生………
(追記)愛媛新聞社大洲支局の記者さんと連絡がつき、確認がとれました。山田さまのおっしゃった通りの経緯で、記者会見の内容をそのまま記事にし、独自の検証はなさらなかったそうです。
えー、「教えてgoo」にある話なんですが、通商条約以前の長崎で、オランダ商人との取り引きは、メキシコドル銀貨が一分銀と等価だったそうですから、南蛮がご専門の先生は、とっさに古いレートでお答えになられたんでしょうか。
それがそのまま新聞記事になって、ひろまってしまったわけなんですかね、ふう。
山田さまから、もう一つ、「いろは丸終始始末」の記事中、「国島六左衛門が自刃したときに龍馬が訪れた」といいます、もっとも印象的な場面は、「龍馬はそのとき長崎にいないので、ありえない」という話をお聞きしました。
鈴木氏もその旨を書いておられまして、私、とりあえず龍馬の書簡を見てみたのですが、その限りにおいては、長崎にいないことの裏付けはとれませんでした。
山田さまがおっしゃるには、長府博物館が、証拠を持っているとかでして、今度は長府に電話してみるべきなんでしょうかしらん。
この点以外、「いろは丸と大洲と龍馬 上下」で書いたことにつきましては、私、いまのところ、それほど訂正の必要はないと思っているんですが、大洲でMr.K氏にいただきました「大洲歴史懐古帖 第三版」や、契約書翻訳全文を見まして、一つ、もしかして、と思いましたのは、あるいは、「大洲藩はボードウィンから金を借りていろは丸を買った」のではなく、「もともと薩摩藩がボードウィンに全額立て替え払いしてもらっていて、その借金が残っていた」のかも、と思います。
これにつきましては、fhさまが寺島宗則について調べておられましたとき、『鹿児島県史料 玉里島津家史料1』を見ておられて、幕府の文久の遣欧使節団に参加していました寺島が、なぜか欧州で薩摩藩の船を買うのに奔走していまして、ボードウィンの周旋でスコットランドに船を発注した旨の資料を発見されたそうなんです。ただ、その船は、いろは丸よりは大きなものだったそうなんですが。
しかし、契約書におきます船主・ロウレイロの属するデント商会と、立会人のアデリアン商会が、安行丸=いろは丸にどうからむのかは、あいかわらず謎でして、とりあえず、来年の岡先生の論文を楽しみに待たせていただきます。
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本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
ろくにごちそうも食べられない、悲惨な正月を迎えております。
今治で開業しています医者の友人が、薬を送ってくれまして、飲んでいますので、今度こそ、直りますことを期待しております。
11日から、3日間ほど母を連れて広島へ行きますので、それまでに直らなければ、ホテルで食べるものがない、という悲惨なことになりますし。
またやせまして、若向きの9号サイズがゆうゆう着られるようになりましたことが、唯一の慰めでしょうか(笑)
ことしも、読ませていただきます。
体調は回復されましたでしょうか。
お目にかかりますことを、楽しみに。
なだか、腋の下をくすぐられるような気持ちですが、内容をコピーして出版社の編集者に送ったら松山にもこんなユニークな女性もいるのかと仰天していました・・・・・
こうなったら、肉声でお話を聞きたいですな。
officeskmone@lagoon.ocn.ne.jp
時効になっていない時代の真っ赤な嘘を書く小説家をぶっ叩く会(但し、会員は一人)鈴木 邦裕
実は私、てっきりMr.K氏のご主張だったのだと思い込んでいたんです。私が大洲へ行きましたとき、Mr.K氏がいろは丸契約書を紹介しておられました公式ブログに「1万両」と明記されていましたし(今は消えてます)、お会いして「一万両は問題」と直に申し上げたのですが、Mr.K氏は「いや幕末のレートはいいかげんなもので、一万両だったのに大洲藩はふっかけられた」というようなお話をなさっておられまして。
私、お常さんの件で武田斐三郎を調べるまで、いろは丸に興味がなかったですから、四月の新聞も読んでいませんで。
で、先生のブログも拝読していなかったんですの。
しかし岡先生、伊予の「郡中」は「こおり」ではなく、「ぐんちゅう」と読むんですわよ(笑)
いや、ご専門外でご苦労さまです。
御論文が活字になるのは来年とのことですが、貨幣換算の部分についてだけは、ブログに先行掲載なさっているようです。
11月5日付↓
http://mdesousa.exblog.jp/13575349/
ですね♪
ブログ記事、さげました。
平運丸ですわ、おそらく。
あー、でも薩藩海軍史を見たら、またちがうのかもしれませんが。
それ、読ませていただいた覚えがあります。
玉里史料なんですねえ。
県立図書館にあるんですが、貸し出し不可なんですのよ。
あそこで史料を読んでいると、晩ご飯の準備ができません(笑) とはいうものの、玉里史料は読みふけってみる価値がありそうですね。
昔は「忠義公史料」など、借り出せたんですけども、さんざん私が一人で借り出して、覚えはないんですが、もしかして、汚しでもしたんですかしらん、と。
「長さ六十四エル、二百五十馬力」って、海軍歴史の船譜で見つからないんですが、ちょっと小さくて、馬力も百五十ですが、平運丸ですかねえ。
平運丸だとすると、ロマンですわ。
ありがとうございました。
御参考までに、拙ブログ関連記事をURL欄に入れました。