郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上

2010年08月25日 | 森有礼夫人・広瀬常
 森有礼夫人・広瀬常の謎 中編の続きです。
 
 このシリーズは、森本貞子氏の小説「秋霖譜―森有礼とその妻」が、どこまで常夫人の実像を反映しているのか、というお話です。
 これも、鹿鳴館のハーレークインロマンスですでに書いていることなのですが、下の本ですでに、森本氏は「グラスゴウ大学医学部に留学していた日本人女性モリ・イガは、離婚後の常夫人ではないか?」という推測をされていまして、またこちらは常夫人が主人公ではないだけに、かなり事実に即した書き方をされています。
 前々回、「常夫人と森有礼の離婚は、記録の上で明治十九年十一月二十八日」と書いたのは、下の本によるのですが、基の資料は、木村匡著「森先生傳」であろうと思われます。
 
女の海溝―トネ・ミルンの青春 (1981年)
森本 貞子
文藝春秋


 常夫人に関しては、わずかな資料しかないのですが、その一つが、1972年発行、大久保利謙編、森有礼全集の伝記資料です。
 まず、森有礼と有礼の甥・横山安克の戸籍に、常、および「青い目」と噂された常の娘・安が出てきます。これらの戸籍の実物を、森本氏が森家のご子孫のご協力を得てさがされたそうなのですが、見つからなかったといいます。

(森有礼戸籍)
 妻 常 安政二年七月生 東京府士族廣瀬秀雄長女
 長女 安 明治十七年十二月八日生 明治二十年五月七日仝町士族横山安克養女トナル

(横山安克戸籍)
 養女 安 明治一七年十二月八日生 當県士族森有禮長女
 明治二十年五月七日仝町百十一番仝居ヨリ入籍
 明治二十年九月十九日東京府南豊島郡原宿村貳百九拾六番戸
 平民高橋尊太郎江線女(ママ)



 森有礼全集の伝記資料には、明治8年2月6日に行われた、有礼と常の結婚式の資料もあります。
 二人の結婚式は、もちろん有礼の発案なんでしょうが、東京府知事・大久保一翁を立会人としたシビルウェディングです。
 福沢諭吉を証人とする婚姻契約書をはじめ、招待状、新聞記事などが集められています。そのうち、二人の年齢がわかります契約書冒頭部分が、以下です。

 現今十九年八ヶ月ノ齢ニ達シタル静岡縣士族廣瀬於常同二十七年八ヶ月鹿児島縣士族森有禮各其親ノ喜許ヲ得テ互ニ夫婦ノ約ヲ為シ今日即チ紀元二千五百三十五年二月六日即今東京府知事職ニ在ル大久保一翁ノ面前ニ於テ婚式ヲ行ヒ約ヲ為シ双方ノ親戚明友モ共ニ之ヲ公認シテ茲ニ婚姻ノ約定ヲ定ムル■ 左ノ如シ

 
 結婚から間もないと思われる、有礼から常に宛てられた手紙で、有礼は常を「春江」と呼んでいますが、戸籍も結婚契約書も「常」ですから、あるいは愛称のようなものであったかもしれません。
 また常は、安政2年(1855)7月生まれで、明治8年(1875)2月に19歳8ヶ月というのは、ほぼあっていますから、戸籍の生年は正しく届けられたものと思われます。厳密にいえば、常の実際の生まれ月は7月ではなく、5月ではないか、ということになりますが。
 ところが、開拓使女学校の記録は、少々ちがうんですね。
 
 えーと、ですね。常の実像について述べるならば、開拓使女学校時代の資料を調べるべきなんですが、適当な論文がありませんで、実物は北海道ですし、さっぱり見てません。で、一応、小説ではなくノンフィクションということで、近藤富枝氏の「鹿鳴館貴婦人考 」からの引用です。

 宿所    第五大區小三ノ區下谷泉橋通青石横丁大洲加藤門
 拝命入校  壬申(明治五年)九月十八日同十月十九日
 本貫生國  静岡県武蔵
 年齢    明治六年九月、十六年四ヶ月


 戸籍からいけば、明治6年9月には18歳になっているはずで、二つほど年を若くしていますが、これは、開拓使女学校の入学条件が、13歳から16歳までだったからだと思われます。

 (追記)通史. 第一章 開拓使の設置と仮学校(一八六九~一八七六)に開拓使女学校の記述がありましたので、以下、少々書き直します。
 開拓使女学校の生徒募集は、東京と北海道でしか行われていません。明治6年、開拓使女学校在籍者55人のうち、27人までが開拓使官員の縁故。当時、北海道開拓使5等出仕だった大鳥圭介の娘もいます。
 で、どうも、開拓使官員の娘以外では、北海道出身者がほとんどだったみたいです。なにしろ、北海道洋式開拓のための女学校だったんですから。
 しかし、広瀬常の父親は開拓使官員名簿には名前が無いそうで、常の場合は、そのどちらにもあてはまりません。

 開拓使については、鹿鳴館のハーレークインロマンス薩摩スチューデント、路傍に死すで、ちょっと触れた程度だったと思うのですが、簡単に言ってしまいますと、「ロシアに備えて、北海道をアメリカ風に開拓しよう!」と薩摩閥がはじめたことでして、しかし、薩摩の洋務官僚は外務畑などに多くがとられていましたので、大鳥など、抗戦した旧幕府系の者を多数かかえたんですね。元新撰組もいたりしますから、かならずしも西洋知識に明るい者ばかりではなかったんですが、主には、そうです。
 
 常の本貫が静岡県で生まれが武蔵ならば、幕臣の娘だったことは確かです。
 宿所の住所は、ネットで調べてみましたところ、大洲藩(加藤)の江戸藩邸が現在の御徒町台東中学校にあり、上野広小路に面した現在の松坂屋本館と南館の間から中学校(大洲藩邸)へ向いて行く小道を、青石横丁と言ったらしいですね。御徒町と通称される地域で、小さな屋敷が並び、旗本というよりは、御家人が多く住んでいたようです。
 推測でしかないのですが、おそらく常の母方などの縁戚に、開拓使関係者、それも洋学に関係した新興幕臣がいたのではないのでしょうか。
 いずれにせよ、明治5年の段階で、父親が開拓使の役人でもなく、北海道在住でもありませんのに、常が年齢のさばをよんでまで、洋学を教える、授業料のいらない学校に入学した、ということは、です。広瀬家が女子教育に熱心で、常自身も向学心に旺盛で、しかし維新によって貧しくなっていた、ということはいえそうです。
 前回出てきました妹の福子なんですが、元治元年(1864)生まれ。常とは10近く年が離れています。そして福子が通った横浜海岸女学校といえば、青山学院の前身の一つで、宣教師が経営していた女学校なんですが、学費は必要で、常が森有礼夫人となり、経済的に余裕ができた結果だと思えます。

 開拓使女学校時代に、常は森有礼と知り合い、結婚に至るわけでして、その結婚の動機は、常の生き方にかかわってきますし、森有礼との関係は、ロンドン時代の不倫の有無にもつながっていくんですが、憶測、妄想をまじえずに語れる話ではなく、それについては稿を改めまして、もっとはじけて書きたいと思います。

 とりあえず、常が離婚後にグラスゴウ大学医学部で学んだ可能性です。
 その一つのきっかけになったかもしれない出会いが、明治8年2月に森有礼と結婚し、12月30日、長男の清を生んだときに、あったかもしれないのです。
 清をとりあげたのは、もしかすると、日本で初めての女医といわれるシーボルトの娘・楠本イネではなかったか、というのは、それほど突飛な推測ではないはずです。
 イネは文政10年(1827)の生まれですから、この年、48歳。4年ほど前から東京へ出てきて、異母弟アレキサンダー・シーボルトの援助もあり、産科医院を開業していたんです。評判が高く、宮内省の御用掛にもなって、明治天皇の第一皇子を取りあげたほどでした。
 森有礼の明六社仲間で、常との婚姻契約書の証人でもあった福沢諭吉は、西洋医学を学んだ女医であるイネに心をよせ、妻の姉で未亡人になっていた今泉とうをイネに紹介し、弟子入りさせて、産科医として身を立てる道を歩ませてもいました。
 イネのもとに、福沢諭吉の義姉がいたんです。
 もともと産婆さんは女性ですが、産科医の多くは男性でした。ただ、そのほとんどが医者の娘や妻にかぎられていましたが、女性が産科医になって父や夫を手伝う、というのは、江戸時代かあったことなのだそうです。
 しかしそれは、いってみれば家業の受け継ぎですし、一般の女性に開かれた職業とはいいがたかったわけですが、そういった背景があればこそ、当時、女性が身を立てる高級技術職として、西洋式産科医は有望な職業だったのではないでしょうか。

 清生誕当時、森有礼は特命全権公使として清国にいました。一時帰国した後、常夫人と清をともなって北京に赴任し、明治11年3月4日、常は北京で次男・英を出産します。北京での公使の生活は欧米式ですし、おそらく、なんですが、英を取りあげたのは欧米人ドクターだったのではないか、と思います。
 英誕生まもなく、森は帰国し、本国勤務となります。

 ところで、森有礼の屋敷について、全集の伝記資料解説から。
 有礼が常と結婚式をあげたのは、木挽町の自邸の豪壮な西洋館でした。
 ところが、ですね。築地精養軒(日本初の本格的な西洋料理屋です。仕出しもしました)を背にしたこの敷地、どうもかなりの部分が、東京商法講習所設立を目的として、東京会議所から借用していたものだったようなのですね。結局、有礼はこの件から手を引き、西洋館は東京会議所に寄付し、新しい屋敷が必要となりました。
 有礼の清国勤務の間、常の父・秀雄が、森家の執事のような役目をして、新しい屋敷を準備したのですが、これ、麹町区永田町1丁目14蕃地の5千坪にわたる大邸宅で、もちろん母屋は西洋館です。調べましたところ、現在の国会議事堂敷地の一部のようです。
 常夫人の日本における活躍は、実は、明治11年半ばから12年にかけて、有礼の短い本国勤務中が、もっとも華やかであったようです。12年の8月28日には、有礼が自宅で、アメリカの元大統領グラント将軍を迎えての晩餐会を催し、常はホステスを務め上げています。

 えーと、全文書き上げましたところが、文字数が多すぎるそうでして、急遽、後編を上下にわけることにしました。
 区切りがいいので、ここで切り上げ、森有礼夫人・広瀬常の謎 後編下に続きます。


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