郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

桐野利秋in宝塚『桜華に舞え』観劇録 後編上

2016年11月25日 | 宝塚
 桐野利秋in宝塚『桜華に舞え』観劇録 中編の続きです。

 なぜ大給恒が劇に出てきたのか、中村さまのお話では、熊本県田原坂西南戦争資料館では、「西南戦争時に日本赤十字の前身・博愛社が結成されたことを大きく売り出そうとしている」ということでして、しかも北翔海莉さんが、役作りのために訪れておられたのだそうなんです。それで、「作・演出の斎藤吉正氏もシナリオハンティングに訪れて、取り入れられたのかもしれませんよ」と、劇場でパンフを見つつおっしゃっておられたのですが、しかし。
 なんで大給なんでしょ。博愛社創立のもう一人の立役者、元佐賀藩士の佐野常民だったら、まだしも、なんですけれども。佐野は明治6年のウィーン万博の事務副総裁だったんですが、このとき通訳を務めましたのが、シーボルトの長男・アレクサンダー・フォン・シーボルトで、彼は、ウィリアム・ウィリスととても親しいんですね。イギリスに留学した高木も見知っていたはずでして、佐野が直接二人を知っていたかどうかは謎ですが、そもそも佐野は、オランダ海軍伝習を受けて、佐賀海軍の中心にいた人ですし、明治初年には、海軍に関係していましたので、可能性はあると思います。

 後は細かなことになりますすが、桐野の指の欠損は、上野戦争当日の関寛斎の日記に「「刀傷右掌右指で中村半十(次)郎」」とあり、黒門口の戦いで刀傷を受けた、という推測が成り立つんですね。西南戦争時の屍体検査書には「左中指旧切痕」とありますので、日記の方は「医者から向かって右」だったんだろうと、私は勝手に思っています。
 会津戦争の砲撃による負傷、という変更は、はっきりとした証拠が残っていますだけに、ちょっとなじめない気がしたのですが、中村さまのコメントを受け、つらつら考えてみますに、私、司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」の方が、上手く料理しているという印象が強かったみたいです。

翔ぶが如く〈2〉 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋


 明治32年発行の「少年読本桐野利秋」によりますと、上野戦争のしばらく後に江戸で、「湯屋からの帰りに神田三河町で鈴木隼人ら3人の剣客に襲われ、指一本を失った」となっているのですが、司馬氏は「上野戦争の前に彰義隊の一団に襲われて斬り合った」ということにして、そのうちの一人が重傷をおって死に、それが、維新後に桐野が出会った旗本の娘・千絵の兄であり、え−、最初はどうも、この千絵と桐野がこれから惹かれ合うのか、といった感じだったんですね。
 これとくらべますと、「会津で砲撃で指がぶっとんで」は、あまりにも、不自然な気がした次第です。

 またupできませんので、分けます。

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4 コメント

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名前入れ忘れました。 (中村太郎)
2016-11-26 16:38:18
上のコメント、名無しですみませんでした。こう言うときは、エラーにならず、すんなりでした。(苦笑)
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遅くなりましたが、 (Unknown)
2016-11-26 16:35:00
娘のベビーにスタイを有難うございました。主人が娘宅に持ってきました。
娘は今治タオルのスタイでとても喜んでいました。昨今はベビー服も日本製を探すのがちょっと難しいです。見つけても予算以上で。

アップの文字数が減ったのは何故なんでしょう。
私もコメントを投稿するときに入力する数字で、必ずエラーが出まして、2回めでOKになりました。
チンタラ書き込みをしているせいかとも思ったのですが、関係あるのでしょうか。
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upできる文字数が (郎女)
2016-11-26 13:34:46
減り続けていまして、1000字程度しか、upできません。1000字って多そうですが、アマゾンにリンクはったりにものすごい文字数使いますから、もう、ほんのちょっぴりなんです。
ブログ運営の方からは、待てどくらせど回答が帰ってきませんし、もしや、と思って、有料の写真容量アップを申し込んでみました。今晩、もう一度、がんばってみます。

私も、おかげさまでここで愚痴が言えて、よかったです。
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早とちりでした。 (中村太郎)
2016-11-26 00:14:51
田原坂資料館に北翔さんはいらしてなかったかも(汗)田原坂資料館にサイン入り「桜華に舞え」のチラシがあったので、北翔さんがいらしたのですか、と聞きました。係りの方が「はい」とおっしゃったものですから、私、余りよく見ずに写真だけ撮りました。
熊本のあと鹿児島へ行ったら、北翔さんがいらしたと聞いたので、田原坂にいらしたのは間違いないと思い込んでしまいました。
今回いらした日付が書かれてないかと写真を見直したら、サインは西郷小兵衛役の天路そらさんのもので、日付はありませんでした。天路さんは天草市出身で、帰省の折りに寄られたのかもしれません。
だから、斎藤吉正氏が田原坂にいらしたかどうか、怪しくなってきました。でも、西南戦争が題材の脚本を書くのに田原坂に行かないということはないと考えたいです。

赤十字の前身の博愛社が西南戦争で誕生したというのは、ニュースインパクトがあるかもしれませんが、佐賀の佐野常民や三河の大給恒より、地元の鳩野宗巴たちを田原坂資料館はもっとアピールしてもらいたいと思います。勿論、鳩野たちが薩軍、官軍の隔てなく傷病兵を治療したという展示はあります。
でも、博愛社は10分ぐらいの映像を流していますから。ちょっと違和感がありました。

郎女さまのおっしゃる通り、佐野常民でなくなぜ大給恒なのかが不思議です。
どう考えても一般的には佐野常民の方が有名です。教科書にも出てくる名前ですし。
ただ、ヒロインの居場所は普通の藩士の家より元大名家なんですよ。(笑)
その点会津の姫様が遊女というのは酷いですが。

後編下を楽しみにしています。また、愚痴を言わせて下さいね。(笑)
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