郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

バロックの豪奢と明治維新

2008年02月07日 | 明治音楽
王は踊る

アミューズ・ビデオ

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鹿鳴館と軍楽隊の続き、といいますか、補足かな、という感じです。


この「王は踊る」、評判だけは昔から聞いていたのですが、見たのは去年、DVDです。
太陽王ルイ14世、側近の宮廷音楽家ジャン=バティスト・リュリが主人公です。
踊るルイ14世は、ともかくセクシーです。リュリが惚れるのも無理はない、と思うほど。

王の三つのダンス(YouTube)

 この2番目の青年王のダンスとリュリの指揮、これを見たとたんに、なにかに似てる! と思ったんですが、はっと気づきました。「レッド・ツェッペリン 狂熱のライヴ 」のロバート・プラントとジミー・ペイジです!

天国への階段ー「狂熱のライヴ」より(YouTube)

 もちろんルイ14世がロバート・プラントで、ジミー・ペイジがリュリ。似てませんか? この色っぽさ!(笑)
 王としての誇りに裏打ちされた少年の優美な手の動きと、一身に集まる観衆の視線を当然と心得たロバート・プラントのしぐさ。
 王の踊りを輝かせる自作の調べを熱を入れて指揮するリュリと、歌うロバートにねっとりとダブル・ネック・ギターの調べをからませるジミー・ペイジ。

 いえ、先週の金曜日にまた週刊新潮を買いまして、美容院でぺらぺらとめくっていましたら、年老いたジミー・ペイジの写真が出てまいりまして、今度は映画の冒頭の年老いたリュリを思い出しましたわ。そういえば去年、ツェッペリン臨時再結成したんだよね、と、YouTubeでさがしたら、ロンドン公演のビデオがあがってました。
 ‥‥‥‥‥見なければよかった! じいさんになったロバート・プラント。

 と、すっかり話がそれてしまいましたが、この映画のルイ14世の踊りは、ほぼ史実です。
 舞踏譜が残っているのだそうです。細かな手の動きなどは、たしかじゃないんですけれど、まちがいなく、こういうダンスをルイ14世は踊ったんです。リュリの音楽で。
 
 バロックのジミー・ペイジ(ちがう?)、ジャン=バティスト・リュリ。
 しかしバロックの巨匠といえば、バッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディなどの名前が浮かんできて、クラシックに詳しいわけでもない、私のような普通の日本人が、とっさにリュリの名を思い浮かべられないのは、なぜなんでしょう。
 少なくとも私、小学校から高校までの音楽の授業で、リュリの名前を聞いた覚えがないんです。

 一つには、私たちがよく名前を聞くバロックの巨匠たちは、みな、バロック後期、末期の人々なんです。
 一方リュリはバロック中期の音楽家で、彼らの先輩です。
 と同時に、リュリはまったく、ドイツ語圏に関係しないですごした人です。
 バッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディ。
 巨匠たちはみな、ドイツ語圏の出身だったり、あるいはドイツ語圏に移住したりと、ドイツ語圏に関係しています。
 ここらへんのクラシック音楽の流れを、わかりやすく解説してくれているのが、岡田暁生氏著「西洋音楽史―クラシックの黄昏」 (中公新書)です。

 日本がクラシック音楽に出会った明治維新当時、つまり19世紀半ば、なんですが、すでに近代市民音楽としてのクラシックが確立し、欧米諸国では、中産階級の家庭で教養としてピアノが奏でられていた時代です。
 アメリカでのそういった状況は、ちょうど明治維新の年にかかれたオルコット「若草物語」 (福音館文庫)など、児童小説を読めばよくわかります。

 が、そもそも、です。音楽を娯楽としてよりも教養として尊重する‥‥‥、それは言い換えれば、クラシック音楽を深遠な「芸術」として位置づけることと同義なんですが、そういった近代市民音楽としてのクラシックのあり方は、ドイツ語圏で生まれてきたものなんです。
 ごく簡単に、枝葉をはぶいて19世紀クラシック音楽確立の歴史を述べますと、ルネサンスイタリアで盛んだった宮廷を中心とする音楽がフランスに移植され(リュリもイタリア人です)、ルイ14世の宮廷で宮廷音楽が確立し、そのあり方を各国宮廷が模倣し、やがて18世紀の産業の興隆と中産市民階級の勃興、啓蒙主義への流れの中で、フランスでは豪奢な宮廷音楽(いわば外交をも含めた社交のバックグラウンドミュージックなんですが)が、私的娯楽、ステイタスとして市民の側にとりこまれていくんですが、ドイツ語圏(主にプロテスタント圏)では、宮廷音楽と哲学が結びつき、やがて本来宮廷音楽がそうであったところの、環境音楽としての役割が軽視され、まじめな市民が目を閉じて交響楽に聴き入り感動する、といった、現在のクラシック音楽のイメージに重なる状況が生まれるんですね。
 バロックに続く古典音楽の三代巨匠、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンは、みなドイツ語圏の出身です。

 ルイ14世の宮廷音楽は、なにしろ「朕は国家なり」なのですから、環境音楽ではありましたが、私的娯楽ではなく、公的な国の音楽といえるものです。
 環境音楽、つまりはバックブラウンドミュージックであったことの意味なのですが、音楽もまた、料理と同じように、宮廷の、そして国家の、祝宴を盛り上げる要素だったのです。

 西洋音楽の歴史を、そういった社会的側面からわかりやすく説明してくれているのは、上尾信也氏の「音楽のヨーロッパ史」 (講談社現代新書)です。

 クラシック音楽の歴史は、通常、カトリックの教会音楽にはじまるといわれます。
 宮廷音楽も、もちろんそうなのです。
 戴冠式にも結婚式にも教会はからみますし、教会音楽もそういった儀式を盛り上げます。やがて祝宴の場をも、宗教行事で育まれた音楽が彩るようになっていくのです。
 戴冠式、支配都市への入城式、君主間の外交である結婚式。
 それらの儀礼にともなうパレードと祝宴は、中世からあったわけなのですが、ルネサンスに至って、何日にも渡る大スペクタクルとなります。
 ショー化された騎士たちの馬上武芸試合や、テーマを定めたきらびやかな飾り付けに仮装、歌やダンスの入った芝居、夜空を彩る花火。そしてもちろん、豪華な食事。

 この祝宴スペクタクルが、もっとも洗練されていたのはイタリアで、それはおそらく、イスラム圏との交易による富の蓄積と文化の流入、カトリックの総本山ローマの存在、小国に別れて活発に行われた外交、といったさまざまな要素によるものでしょう。
 ともかく、ルネサンス美術の中心がイタリアであったように、祝宴スペクタクルの本場もイタリアであり、そこから、オペラ、バレー、ダンスが生まれましたし、また料理、ファッションにおいても、最先端の流行を作り出していたのです。
 そのイタリアの最先端の流行を、フランスにもたらしたのは、フィレンツェからフランス王家に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスであり、マリー・ド・メディシスでした。
 そして、ルイ14世にいたり、ついにフランス宮廷は、はるかにイタリアを凌駕し、ルイ14世の宮廷は、ヨーロッパのすべての宮廷の規範になったのです。

 映画「王は踊る」に、いまひとつ欠けているのは、豪華さでしょうか。
 この点では、以前に宮廷料理と装飾菓子でご紹介しました宮廷料理人ヴァテールの方が、近いでしょうか。
 ただ、かなり豪華さが出てはいるんですが、ヴァテールの人物像については、この映画は史実に近いとはいえないようでして、ヴァテールは料理人ではなく、祝宴全体を取り仕切る執事であった、という方が、現在では定説になっているそうです。
 料理人という設定で、舞台裏を描いていることと、やはり予算不足でしょうか。史実の祝宴にくらべるならば、かなり安っぽいはずです。

太陽王を歓待するコンデ公の宴会1 「宮廷料理人ヴァテール」より(YouTube)

太陽王を歓待するコンデ公の宴会2 「宮廷料理人ヴァテール」より (YouTube)

 ルイ14世がヴェルサイユで催した祝宴の中で、詳細な記録が残っていて、有名なのは、1664年に行われた「魔法の島の悦楽」。イタリアルネサンス文学「狂乱のオルランド」の中からテーマがとられ、3日間にわたり、600人を集めて行われた大スペクタクルです。
 王自身も物語の登場人物であり、貴族たちもまた、さまざまに役を演じます。
 その中に幕間劇として、専門の役者によるオペラといいますかバレーといいますか劇といいますか、そんなものが入るのです。
 実のところ、ヴェルサイユ宮殿は、そういった祝宴の豪奢な背景として、建てられたものなのです。ルイ14世は、日々、莫大な金額を投じて、太陽王を演じていた、といっても、過言ではないでしょう。

 ルイ14世の宮廷音楽隊には、宮廷礼拝堂に属するシャペル、そして祝宴楽や儀礼楽、軍楽などを演奏するエキュリ、王のそばで室内楽を奏で、音楽教育をも担当するシャンブルがありました。
 バロックのジミー・ペイジ、リュリは、シャンブルの長でしたが、エキュリやシャペルの上にも立ち、祝宴や儀礼の音楽、オペラやダンス、バレーの音楽も作曲すれば、軍楽も作曲したのです。
 祝宴にはそもそもパレードがつきものでしたし、馬上武芸模擬試合でも、行進曲を中心とした軍楽は使われます。
 ルイ14世にいたっては、現実の戦場でも、祝宴用の派手な音楽を演奏させたのです。
 勝利の祝宴では、そのままエキュリがダンス曲をも演奏しますし、鹿鳴館と軍楽隊で書きましたように、つまりは、ダンス音楽と軍楽隊は兄弟なのです。
 なお、バロックの舞踏は、王侯貴族たちが集団で踊ったものが社交ダンスに発展し、舞踏の専門家が幕間劇で踊ったものがバレーとなっていきました。

 このようなバロックの王の豪奢は、一方で私的な贅沢、あるいは教養となっていき、一方で、公的な国家儀礼、外交を飾る豪奢へと、分離することとなりました。
 音楽もまたそうで、王制から共和制に移行したにしても、いえ、革命でさえも華々しく音楽に彩られ、それは、ナショナリズムを盛り上げる要素となっていったのです。
 以前に、美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子で、「正名がパリで絶望を感じたのは、第二帝政最末期の豪奢な都市のさまざまな様相、産業にしろ軍事にしろ学問にしろ、なんでしょうけれども、その西洋近代文明のりっぱさが、とても日本人が追いつくことはできないものに見えたから、だったんですね」と書いたんですが、正名がなによりも圧倒されたのは、ヴェルサイユ宮殿でした。
 過去の豪奢が、国の富の際限のなさ、奥の深さとして彼にのしかかり、日本がどのように背伸びをしたところで、到底追いつけないもののように思えたようです。

 正名はもちろん、かつてヴェルサイユ宮殿で繰り広げられた祝宴の徹底した浪費、豪奢を知らなかったわけなのですが、バロックの王の祝宴は、19世紀の万国博覧会と似ています。これも以前、『オペラ座の怪人』と第二帝政で、私は、こう書きました。

 万博といえば、近代化と進歩の祭典、であるはずです。
 しかし、第二帝政下のこの万博には、反近代の夢がただよっていたのではないでしょうか。ちょうど、オペラ・ガルニエを代表とするこの時代の建築が、書き割りのように、過去への豪奢な夢をつめこんでいたように。
 パリの万博会場のまわりには、広大な庭園がしつらえられ、その庭園には、エキゾチックなオリエントのパヴィリオンが立ち並んでいました。江戸の水茶屋も、その中にあったのですが、それは、夢のように不思議な空間でした。
また、この万博には、世界各国から王族が集い、華麗な社交をくりひろげ、パリの歓楽に身をひたしました。

 そもそも、ヴェルサイユ宮殿が、壮大な書き割りだったのです。
 時代は下って、選挙で選ばれた皇帝のもと、庶民も自由に参加できる祝宴とはなっていても、祝宴、娯楽の空間は、壮大なまでの贅沢に満ちていました。
 それほどの西洋の富は、軍事にもつぎこまれていたわけでして、それなりに洗練されながらも、つつましく自足していた日本は、黒船来航により、このすさまじい消費と生産の渦に、身を投じざるをえなくなったといえるのではないでしょうか。

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2 コメント

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ゆえにパリは美しいのかも? (乱読おばさん)
2008-02-07 12:27:13
こんにちわ~♪
最後に豪華なフランスの夢の時代にまにあったんでしょうね。日本の開国は・・。
垣間見た、「豪華な宮廷」が、多分、質実剛健風のドイツに傾斜したとしても、禁欲的なイギリス色になったとしても、どこかにひっかかっていたんじゃないですかね?
 ナポレオンがルーブルに壮大な絵画歴史館を建設して・・それらを見た日本人は、小規模ながら、明治末年になって赤坂離宮やら、絵画館にちょっと、その「夢」のあとが、みえませんでしょうか?
 けっきょく、パリは憧れで、ベルサイユは、未だに「夢」ですから。
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赤坂離宮! (郎女)
2008-02-08 03:34:20

たしかにネオバロックですよね。
学生のころ、一度でいいから中に入ってみたい、
と思ったものでした。
現在では、申し込めば見学もできるようになったみたいで
一度、申し込んでみたいなあ、と。

小林永濯、知らなかったもので、ご紹介、ありがたかったです。
ちりめん本も、初めて知りました。
これからも楽しみに読ませていただきます。
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