海ゆかばのすべてオムニバス,日本合唱団,奥田良三,東京音楽学校,石川高,徳山レン,和田信賢,掛橋佑水,花崎薫,寺嶋陸也キングこのアイテムの詳細を見る |
このCD、だいぶん以前に買っていたのですが、まちがえて他県の友人に送ってしまったりしてまして、最近まで、よく聞いていなかったんです。
海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ かへりみはせじ
この「海ゆかば」の歌詞は、万葉集におさめられた大伴家持の長歌の一部でして、メロディーは賛美歌か聖歌のような、荘重な洋風です。
万葉歌が西洋音楽で歌われるということは、他にあまりありませんし、昔から、とても心ひかれる歌でした。
一昨日書きましたように、去年Apple iPod touch 16GBを買いまして、よく音楽を聴くようになりました。それで、このCDもじっくり聞いたんです。
戦前の古い録音から、現在のものまで、いろいろな「海ゆかば」がおさめられていまして、なかには、昭和17年、いわゆる9軍神の葬儀で、「海ゆかば」が流れる中、弔辞を述べる海軍大臣が感極まって言葉をつまらせた録音とか、戦後、戦没学生の手記「きけわだつみのこえ」の朗読LPが発売されたんだそうですが、その冒頭、渥美清が「海ゆかば」をバックに朗読し、最後に、後半の歌詞を歌ったものとか、どれも聞かせるんですが、私がもっとも感動したのは、昭和17年、戦時中の録音で、ピアノ伴奏によるチェロの独奏でした。
なにしろ戦中のSPですから、録音が悪い。にもかかわらず、そのチェロの音色が、歌うように美しく、せつないほどに心にしみるんです。
編曲とピアノ伴奏は高木東六。この編曲もよくって、高木東六氏、名前はなんとなく知っていたんですが、詳しい経歴とかは知らなかったので、調べてみましたら、戦前、昭和初期に、パリのコンセルヴァトワールへ留学していた方なんですね。
チェロ独奏の倉田高については、まったく知りませんでした。
CD付属のパンフレットによれば、「昭和11年(1936)、東京音楽学校を卒業後、日本青年館でデビュー、ちょうどフランスから来日中の巨匠モーリス・マレシャルに見出されてパリに留学した。翌年5月、フランス国内のコンクールで一位となり、2年後にコンセル・プレーのメンバーになって活躍した。またスペインに楽旅して、フランコ将軍夫妻の前で演奏している。昭和15年(1940)、パリのサール・ガルボーやサール・ショパン=プレイエルでのリサイタルや、ラジオの出演で、最も将来を嘱望される若手という高い評価を得て帰国した」となっていまして、「彼の活躍が戦時中に止まり、存命であれば、戦後の日本のチェロ界に新風を吹き込んだであろうことを思うと夭折が惜しまれる。なお彼は現役のチェリスト倉田澄子の父親である」と結ばれています。
このすばらしいチェロ奏者について、もう少し、詳しくわからないだろうかと、検索をかけてさがしていましたところが、もしかすると載っているのではないか、という本が見つかりました。
「長岡輝子の四姉妹―美しい年の重ね方」という本です。
女優長岡輝子の末の妹、陽子さんが、倉田高と結婚し、倉田澄子の母となった人だったんです。
安く古書が出ていましたから、期待をかけて、さっそく購入しました。載っていました。
倉田高の帰国は、昭和15年、第二次大戦の勃発によるものだったんだそうです。倉田高の師であったマレシャルは、第一次大戦では自動車隊の勇士だったので、「今度も志願したい」と言っていたと、高は帰国後に新聞で述べているのだとか。
高と陽子の結婚は昭和17年。恋愛結婚です。
高と高木東六とは、同じくフランス留学経験者だったこともあって、非常に息が合い、よくいっしょに演奏をしていたようです。戦争が激しくなってくると、音楽挺身隊として日本各地の部隊や軍需工場へ、慰問に駆け回る毎日。
そのうち高は病(肺結核)に倒れ、終戦の年の秋、一人娘を陽子の手に残し、疎開先の箱根で息を引き取りました。
終戦のとき、病に伏せっていた高は「何だか、おくれをとったような気がするな」とつぶやいたのだそうです。
倉田高が弾く「海ゆかば」は、親族や友人をも含めて、戦場に赴く男たちへの、心を込めたはなむけだったのです。
チェロを歌わせる天性の才能に加えて、その切迫した高の思いが、これほどまでに美しい「海ゆかば」を残したのだと、納得したような次第です。
日本の洋楽導入は軍楽にはじまり、最初にパリのコンセルヴァトワールへ留学したのも、明治15年、陸軍軍楽隊員の二人です。明治期、洋楽といえば軍楽隊であり、鹿鳴館の舞踏会も、陸海軍の軍楽隊なくしては成り立たなかったのです。
このCDにはそれも入っているのですが、実のところ、明治の「海ゆかば」は、現在の曲ではなく、ちょっと君が代にも似た雅楽調の曲でした。君が代に似ているといいましても、言い方は変なのですが、もっとこう陽気なものでして、軍艦マーチのトリオ(中間部)は、この明治の「海ゆかば」を編曲したものです。
万葉研究の第一人者、中西進氏によりますと、「海ゆかば」の歌詞は、実は「勇壮な言挙げ」なのだそうでして、鎮魂の歌ではないのだそうなのです。
続日本紀の記事によれば、「海ゆかば」は大伴氏が代々伝えていた歌なんだそうです。天平の昔、東大寺の大仏に塗る金をさがしていた朝廷に、金が掘り当てられたという朗報が入りました。それを喜んだ聖武天皇が大伴、佐伯氏の忠誠を称えた詔を発し、その中で、この歌を引用しているのだと。
ちなみに続日本紀の方では、万葉集の「かへりみはせじ」という結句が、「のどには死なじ」になっています。雅楽調で使われているのは、こちらの方です。
これも変な言い方かもしれませんが、「こういう覚悟でがんばっている!」という宣伝歌だったんですね。明治の雅楽調が陽気に聞こえても、不思議はなかったんです。
現在知られている「海ゆかば」のメロディーは、昭和12年(1937)、倉田高がフランス留学したと同じ頃に、信時潔によって作曲されたものです。
このメロディーと、その直後の太平洋戦争で鎮魂歌のように歌われたこととで、この歌は悲しみの歌となったんです。
信時潔は明治20年(1887)に牧師の子として生まれ、賛美歌に親しんで育ち、東京音楽学校でドイツ人の音楽家に学びます。その後、ベルリン留学して、本格的に作曲を勉強した人で、すでにこの時代になってくると、軍楽隊とは関係なく、西洋音楽を学ぶ者が多くなっていたのです。
倉田高がチェロで奏でる「海ゆかば」を聞いていますと、軍楽にはじまった日本の洋楽が、軍楽を離れて親しまれるようになり、しかし、再び時代の要請で、美しい軍楽として結実したその数奇が、胸に迫ります。
幕末から明治にかけての洋楽の導入については、また改めて詳しく語りたいと思います。
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ただでさえせつないのに、戦時中の録音の演奏を聞くと余計せつなくなりますね。
昨夏、横須賀の三笠を見学した折に買ったCDの「軍艦マーチ」のトリオには明治の「海行かば」の合唱がはいっていて、嬉しくなってしまいました。
素敵なCDのご紹介有難うございました。
今度は、「軍艦マーチのすべて」も欲しいかな、とにらんでいるところです。
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/6c04778272c49a0f027347a7698a141cに書いているんですけど、ギャルド・レビュブリケーヌ吹奏楽団の軍艦マーチも、ほんとうにいいです! なにか音がこう、とても華やかです。海自の軍楽隊の演奏もいいんですが、やはりドイツ風みたいで地味な気がします。
ipodで、海ゆかばですか。
「海ゆかば」は、目を閉じて聞くレクイエムですね。
おじ達三人が海軍で戦没しています。
海軍で帰ってきたのは、予備学生からの大尉だった伯父だけ。
オヤジも陸軍で満州派遣寸前で終戦、遅れていれば、
おそらくボクの存在もなかったわけで...
さて、最近出たという真珠湾の攻撃隊総指揮官淵田美津雄さんの自叙伝、戦後のことはそれとして、
読みたいのは突撃の瞬間かなあ、信号弾と「ト」連送。
よくぞ男に生まれつる...
いえ、クラシックもロックもメタルも聞いているのですが、昨年は父が身罷りまして、なにやらやはり、レクイエムを聞く回数が多かったかもしれませんです。
真珠湾ですか!
戦後のアメリカ映画「トラトラトラ」が、けっこう戦中の日本海軍宣伝映画「ハワイ・マレー沖海戦」をパクっているんですよね。
私はやはり、空母から艦爆、艦攻、ゼロ戦が離陸していくシーンが好きでして、こう、緊迫感がみなぎっていますよね。
また、そのうちお邪魔いたしますです。