一昨日の日曜日、家族旅行で、江田島へ行ってまいりました。
戦前の海軍兵学校がありました江田島には、現在は海上自衛隊第一術科学校、幹部候補生学校があり、通常は決められた時間に自衛官の案内つきで、一般見学をすることができます。
今回、事前に問い合わせたところでは、当日はお花見一般公開で、自由に見てまわれるかわりに案内はつかない、というお話だったのですが、希望者が多かったのでしょうか、ちゃんと案内してくださいましたが、春休みのお花見期間、見学者は多数でした。
えー、案内に立たれたのは、かなり年配の自衛官の方だったのですが、国旗掲揚ポールのところで、日の丸のお話になりました。「日の丸が国旗と決められたのは、いつのことで、だれが決めたのでしょう? わかる人いませんか」と、問われて、この私が、黙っているはずがありません。「はーい。幕末に江戸幕府が、島津斉彬の建言によって」とはりきって答えたのですが、はずれ。もしかすると、と思ってはいましたが、正解は「平成11年の国旗国歌法の成立によって」だったんですね。まあ、国内法のことをいうなら、そうなんですけれども。
それはいいんですけど、続けて自衛官が次のようにいわれたもので、目が点になりました。
「日の丸は、実にすばらしいデザインで、明治3年にフランスが、ぜひゆずってくれと言ったほど。時の外務卿、寺島宗則がガンとして断った」
え、えーと、明治3年にはまだ、寺島は外務卿ではなかったはずですが、まあ、それもどうでもいいんですが、フランスが日の丸をゆずってくれって、普仏戦争の最中にいいい??? え、ええええっ??? 伝説にしても、ウートレー公使じゃありえなさげで、もしかしてモンブラン伯爵??? これも、モンブラン伝説なんですかねえ。
その後、今度は君が代についてお話しをうかがったところ、案内の自衛官の方は、佐々木信綱が書いた「フランスの軍艦から国歌を教えてくれという要請があって、海軍卿・川村純義が君が代を歌詞に選んだ」という説をそのままに、確信をもっておっしゃるので、私は「あー、その説はありえないわ」と声にださずに頭の中でつぶやきつつ、ありえない理由を説明するのがめんどうですし、「あー、まあ、歌詞の制定にはいろいろな説がありますよねえ」とごまかしておきましたが、いやあ、海上自衛隊では、君が代、日の丸双方、おもしろい説が信じられているものだと、感心いたしました。
佐々木信綱の説がありえない理由を、簡単に述べると、まあ、こういうことなんです。
国旗、国歌というのは、双方、西洋近代において、外交儀礼上必要とされたものなんですね。当時、独立国として、欧米外交の仲間入りをするためには、西洋式のつきあい方に従う必要があり、まずはそういう必要性から制定された西洋式のものですから、明治初期には、そんなものに慣れない一般国民はもちろん、外国とのつきあいが頻繁な海軍と外務省、宮内省をのぞけば、明治政府にとっても、あまり意味のないものだったんです。
しかし、日清戦争を経て、次第に国旗、国歌に対する認識も深まり、日露戦争時には、国の象徴として大切なものなのだ、という意識が、ようやく根付いていました。しかし、制定した当初は、国民はもちろん、幕府にしても明治新政府にしても、ほとんど意義を理解せず、必要とした人々が適当に決めたことだったわけでして、制定の経緯など、忘れ去られていたんです。
わけても国歌は、まずは外交儀礼上、軍楽隊が演奏するものとして必要とされ、吹奏楽などというものは、もちろん当時の日本人にはまったく縁のないものでした。明治初年、廃藩置県の前に、唯一、軍楽隊を自前で作った薩摩藩が、君が代を歌詞に選び、それを海軍軍楽隊が引き継いで、曲を変更した、という経緯ですから、当の薩摩バンドのメンバーでさえ、はっきりとだれが君が代を歌詞に選んだのかは、わからなくなっていたのです。
明治37年、日露戦争の最中に、元薩摩藩士で、海軍卿を勤めた川村純義が死去し、その追悼の一環として、歌人の佐々木信綱が、雑誌「心の花」に、「君が代を歌詞に制定したのは川村純義」説を発表したんですね。
しかし、以降、この説にはさまざまな反論がよせられまして、わけても、元薩摩バンドのメンバーで、初代海軍軍楽長となり、雅楽調で、エッケルト編曲の現行君が代メロディー制定の中心となった中村祐輔をはじめ、生存していた薩摩バンド関係者がそろって、佐々木信綱の川村純義説を全面否定していますから、ちょっとありえない話なんです。
もっとも、自衛官の方と私とは、「日の丸も君が代も外国交際における必要から制定され、それぞれに伝統をもったりっぱなものであるのに、歴史を知らないで、妙な理由で反対をしたり、敬意をはらわない変な人たちがいる」という見解においては、一致していたのですが。
はるばるイギリスから運んだ煉瓦で建てられた兵学校の赤煉瓦校舎の中庭では、同期の桜が満開でした。
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戦前の海軍兵学校がありました江田島には、現在は海上自衛隊第一術科学校、幹部候補生学校があり、通常は決められた時間に自衛官の案内つきで、一般見学をすることができます。
今回、事前に問い合わせたところでは、当日はお花見一般公開で、自由に見てまわれるかわりに案内はつかない、というお話だったのですが、希望者が多かったのでしょうか、ちゃんと案内してくださいましたが、春休みのお花見期間、見学者は多数でした。
えー、案内に立たれたのは、かなり年配の自衛官の方だったのですが、国旗掲揚ポールのところで、日の丸のお話になりました。「日の丸が国旗と決められたのは、いつのことで、だれが決めたのでしょう? わかる人いませんか」と、問われて、この私が、黙っているはずがありません。「はーい。幕末に江戸幕府が、島津斉彬の建言によって」とはりきって答えたのですが、はずれ。もしかすると、と思ってはいましたが、正解は「平成11年の国旗国歌法の成立によって」だったんですね。まあ、国内法のことをいうなら、そうなんですけれども。
それはいいんですけど、続けて自衛官が次のようにいわれたもので、目が点になりました。
「日の丸は、実にすばらしいデザインで、明治3年にフランスが、ぜひゆずってくれと言ったほど。時の外務卿、寺島宗則がガンとして断った」
え、えーと、明治3年にはまだ、寺島は外務卿ではなかったはずですが、まあ、それもどうでもいいんですが、フランスが日の丸をゆずってくれって、普仏戦争の最中にいいい??? え、ええええっ??? 伝説にしても、ウートレー公使じゃありえなさげで、もしかしてモンブラン伯爵??? これも、モンブラン伝説なんですかねえ。
その後、今度は君が代についてお話しをうかがったところ、案内の自衛官の方は、佐々木信綱が書いた「フランスの軍艦から国歌を教えてくれという要請があって、海軍卿・川村純義が君が代を歌詞に選んだ」という説をそのままに、確信をもっておっしゃるので、私は「あー、その説はありえないわ」と声にださずに頭の中でつぶやきつつ、ありえない理由を説明するのがめんどうですし、「あー、まあ、歌詞の制定にはいろいろな説がありますよねえ」とごまかしておきましたが、いやあ、海上自衛隊では、君が代、日の丸双方、おもしろい説が信じられているものだと、感心いたしました。
佐々木信綱の説がありえない理由を、簡単に述べると、まあ、こういうことなんです。
国旗、国歌というのは、双方、西洋近代において、外交儀礼上必要とされたものなんですね。当時、独立国として、欧米外交の仲間入りをするためには、西洋式のつきあい方に従う必要があり、まずはそういう必要性から制定された西洋式のものですから、明治初期には、そんなものに慣れない一般国民はもちろん、外国とのつきあいが頻繁な海軍と外務省、宮内省をのぞけば、明治政府にとっても、あまり意味のないものだったんです。
しかし、日清戦争を経て、次第に国旗、国歌に対する認識も深まり、日露戦争時には、国の象徴として大切なものなのだ、という意識が、ようやく根付いていました。しかし、制定した当初は、国民はもちろん、幕府にしても明治新政府にしても、ほとんど意義を理解せず、必要とした人々が適当に決めたことだったわけでして、制定の経緯など、忘れ去られていたんです。
わけても国歌は、まずは外交儀礼上、軍楽隊が演奏するものとして必要とされ、吹奏楽などというものは、もちろん当時の日本人にはまったく縁のないものでした。明治初年、廃藩置県の前に、唯一、軍楽隊を自前で作った薩摩藩が、君が代を歌詞に選び、それを海軍軍楽隊が引き継いで、曲を変更した、という経緯ですから、当の薩摩バンドのメンバーでさえ、はっきりとだれが君が代を歌詞に選んだのかは、わからなくなっていたのです。
明治37年、日露戦争の最中に、元薩摩藩士で、海軍卿を勤めた川村純義が死去し、その追悼の一環として、歌人の佐々木信綱が、雑誌「心の花」に、「君が代を歌詞に制定したのは川村純義」説を発表したんですね。
しかし、以降、この説にはさまざまな反論がよせられまして、わけても、元薩摩バンドのメンバーで、初代海軍軍楽長となり、雅楽調で、エッケルト編曲の現行君が代メロディー制定の中心となった中村祐輔をはじめ、生存していた薩摩バンド関係者がそろって、佐々木信綱の川村純義説を全面否定していますから、ちょっとありえない話なんです。
もっとも、自衛官の方と私とは、「日の丸も君が代も外国交際における必要から制定され、それぞれに伝統をもったりっぱなものであるのに、歴史を知らないで、妙な理由で反対をしたり、敬意をはらわない変な人たちがいる」という見解においては、一致していたのですが。
はるばるイギリスから運んだ煉瓦で建てられた兵学校の赤煉瓦校舎の中庭では、同期の桜が満開でした。
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江田島の海上自衛隊術科学校に行かれて良かったですね!
私も昭和32年に、元統合幕僚長
であられた「杉江一三海将」さんの家の前に居住していた時期がありまして行ったことがあります。
私の同級生も一人海兵の77期に
進学しましたが、終戦で山口大学
工学部に転入、中国地方の元国鉄
研究所に勤めていました。今も元気です。
杉江海将は海兵56期で終戦時は
海軍大尉でした。戦後の海上自衛隊で武官として始めての統合幕僚長になられた方です。
お嬢様が4人おられて、術科学校の校長で赴任されたとき、番犬と一緒にお嬢様方の安全を見ていました。長女の方は海兵78期の方と次女は防大1期、三女の方は同
5期の方と4女の方は貿易会社の若手社員と結婚なされました。
どうでも良いことですが流石に一国の防衛の長となられた方は本当に思いやりのある方だと前の家に住んでいて思いました。
術科学校に入らないかと誘われましたが、敗残兵である私はその資格無しと丁重にお断りしました。
その後海兵52期ご出身の源田実
参議院議員にお会いしたことも
あって偉くお褒め頂いたことがあり恐縮しました。遠い思い出ですが、元海軍兵学校の建物は私の母校と同じようなレンガの建物で郷愁を感じます。
ちょっと母には、無理なスケジュールになりましたようで、この後、呉でころんで、両腕を骨折いたしました。現在、腕がギブス状態で使えませず、ほぼつきっきりで世話をしなければならないのですが、不幸中の幸い、一ヶ月で完治するだろうとのことで、希望をもってがんばっております。
中学生の甥は、母にいわせれば「へなへなオタク」でして、「マナーはいいけど規律は苦手」なんぞといいつつ、赤煉瓦には憧れを持ったようでして、「幹部候補生学校へ来たい」と申しておりましたが、はっきりいって無理だと思います(笑)
チンダラコッチさまのお若い頃、予科練におられた戦時中を想像いたしますと、うちの甥とちがって、ずいぶんしっかりなさって、ステキな大人でいらしたのではないでしょうか。
でも、男の子はやはり、いつの時代も憧れるものなんだろうなあ、と感慨深こうございました。昨今はもちろん、女性の幹部候補生もおられるのですが。
あの国は丁度私が予科練の頃の時代の日本とそっくりなお国柄です
勝つまでは欲しがりません!一致団結、小学校も、中高校もあの時代と同じ制服着て通学していました。軍事訓練も同じ方式のようです。ノスタルジアを感じました。
新義州の画像を送りたいのですが
どのようにしますか?
北朝鮮はなにしろ反米ですし、戦時中の日本とそっくり、とおっしゃるお気持ちはわかりますが、朝鮮戦争からすでに半世紀、同じくらい貧しく、それこそ戦時中の日本そのままだった韓国が変貌を遂げておりますのに、凍結したまま、というのは、やはり変です。本質的に大日本帝国に似ていたのは韓国であって、北は似ていなかったから、凍結してしまったのではないでしょうか。
昨夜、TBSで北朝鮮に関する座談会をやっておりましたが、やはり、日本が鍵を握っているのでしょうか。
なにはともあれ、おうらやましいです。ぜひ一度、北へお供したいと思いつつ。
ご厚意に甘えて、お写真をあげさせていただくとともに、北朝鮮のことを少し書こうとしておりますが、なかなか時間がとれませんで。母の回復は順調ですが、やはりまだギブスがとれませんで、つきっきり状態です。
戦前の日本とそっくり、とおっしゃる意味が「軍国主義」だということは、わかっております。しかし、日本の「軍国主義」は、日中戦争からずっと「国民総動員の戦時中」だったから、と理解しております。
朝鮮戦争から半世紀、一方の韓国がとっくの昔に戦時中をぬけだしましたのに、ずっと戦時中でいる北朝鮮は、やはり異常ではないかと存じます。
東ドイツ出身で、NPOのメンバーとして北朝鮮に長期滞在しましたマイク・ブラツケが、「かつての東ドイツに似ていて、よくわかる」と北朝鮮を評していまして、やはり、北朝鮮の「軍国主義」は、共産党独裁政権に特有の要素が強いのではないか、という思いもあります。
なにはともあれ、観光で十分ですので、一度訪れ、この目で確かめてみたい国です。ほんとうに、ありがとうございました。
薩摩の国には、このような神社があります。
http://www.pref.kagoshima.jp/pr/gaiyou/itiban/hatu/kimigayo.html
http://www.pref.kagoshima.jp/pr/gaiyou/itiban/hatu/hinomaru.html
薩摩川内市といえば、北賴さんの領地ですよね? ただ、「国歌君が代の由来」に、確か、2代目薩摩バンドの楽長だった方の書簡が収録されておりますが、鹿児島城下で「君が代」が知られるようになったのは、島津重豪だったか、江戸も後期の藩主が奨励して、というような話だったかと存じます。ローマ字で、君が代を書き残しているのが重豪ですし、私は、やはり、藩主が愛好した、というのが大きかったと思っております。