三つの君が代―日本人の音と心の深層内藤 孝敏中央公論新社このアイテムの詳細を見る |
本日はまた、前回の鹿鳴館と軍楽隊の続きです。
実はこの「三つの君が代」、著者ご自身の内容紹介ページがありました。三つの君が代
上のページでありがたいのは、ウイリアム・フェントン作曲の最初の君が代の曲が、聞けることです。
著者は音楽がご専門で、本の方は音楽的な分析に詳しく、この最初の君が代のメロディー、よく作曲といわれるんですが、採譜であったと断言しておられることが、私にとっては意を得た感じでした。
「君が代」の歌詞を国歌として選択した経緯については、さまざまな説がありますが、明治3年(あるいは2年)、大山巌説が、いまのところ定説といいますか、一番信じられているようです。
前回、「日本の本格的な洋楽導入は、明治2年、薩摩藩が、駐日イギリス軍の軍楽隊に協力を求め、島津久光公の肝いりで、高価な楽器を注文して、軍楽隊を結成したことにはじまります」と書いたんですが、その駐日イギリス軍(第10連隊第一大隊)所属の軍楽隊長は、ジョン・ウィリアム・フェントンでした。
つまり、薩摩バンドはフェントンの教えを受けることになったわけでして、そのフェントンが、教え子たちに、日本も国歌を作るべきだ、と言ったことに、定説の話ははじまります。
そこで、教え子たちが、薩摩藩軍の大隊長たちに相談し、その中の一人(大山巌説が有力です)が、「君が代を歌詞にしてはどうだろうか」と提案し、フェントンが作曲したのだというのです。
薩摩バンド、海軍軍楽隊、そして海軍軍楽隊と同じくフェントンから教えを受けた式部寮伶人(前回出てきた雅楽の人達です)が、みなフェントン作曲の「君が代」を演奏していますので、国歌誕生に、薩摩バンドがからむのは、ほぼまちがいのないことでしょう。となれば、大山巌のほかに、野津鎮雄、川村純義など、薩摩の陸海軍隊長の名が出てくるのも、当然なのかもしれません。
こういった話は、後世、薩摩バンドのメンバーだった人達から聞き取ったり、書面で事情をよせてもらったり、といったもので、フェントンが「国歌が必要」と言い、薩摩バンドのメンバーの一人がそれを薩摩軍関係者に相談し、君が代の歌詞が提示された、という大筋以外は、あまり確実性のないものなのですが、雑誌「日本及日本人」に載った大山巌の談話にいたっては、こういうことになっています。
「其時、英国の楽長某(姓名を記憶せず)が『欧米各国には皆国々に国歌と云うものがあって、総ての儀式の時に其の楽を奏するが、貴国にも有るか』と一青年に問ふた。青年が是に答えて『無い』と云ふたれば楽長の曰く『其は貴国にとりて甚だ欠点である。足下よろしく先輩に就いて作製すべし』」
それで、大山が君が代の歌詞を提示した、というのですが。
いえ、後世、聞く方はみな、「国歌とは歌うものだ」という認識のもと、君が代の歌詞がどうして国歌となったか、それを知りたがって聞いているわけなんですから、仕方がないのですが、フェントンは「儀式の時に其の楽を奏する」として、曲を欲しがっているのです。
軍楽隊は通常歌うものではないですし、儀式で演奏するために「国歌」のメロディが欲しかったのであって、とりあえず歌詞は欲していません。
で、フェントンが「作曲するから歌詞を」と言ったという話になるのですが、これは、ありえないんじゃないでしょうか。
フェントンは、少年鼓手からのたたき上げで、後のエッケルトやルルーのように、専門の音楽教育を受けた人ではなかったんです。
ちなみに、陸軍分列行進曲の作曲者シャルル・ルルーは、パリのコンセルヴァトワールで学んでいます。現行の君が代の編曲者であるエッケルトもまた、ヴロツワフ(現在はポーランド領)とドレスデンの音楽学校で勉強しています。
フェントンが、他国の国歌を作曲してあげるから、と言い出したとは、ちょっと思えません。
それで、フェントンがもっともなじんでいた自国、イギリスの国歌「God Save the Queen (King)」なんですが、作曲者不明の古いメロディですし、「God Save the Queen (King)」という歌詞も、王令発布や議会の開会、閉会や、艦隊命令などで、繰り返されてきた慣用句なのだそうです。
God Save the Queen(You Tube)
だとすれば、です。フェントンはもともと歌詞を求めたのではなく、イギリスと同じく日本も君主国ですし、儀礼上からいっても、なんですが、「国歌として使えるような、帝を称える古い歌はないのか。あれば急いで吹奏楽用に編曲するから」と、言ったのではないでしょうか。
なぜかあまり顧みられてないようなのですが、そうであったのではないか、と思わせる説があります。
国書刊行会昭和59年発行「海軍軍楽隊 日本洋楽史の原点」に載っているのですが、もとは昭和17年に刊行された、澤鑑之丞技術中将著「海軍七十年史談」に出てくる話なのだそうです。以下、引用です。
明治二年英国貴賓を現在の浜離宮で饗応するに当り、日英両国国歌を演奏する必要から、日本の国歌はどうしたらよいかを軍楽長が接伴掛に問い合わせた。接伴掛は英語に堪能な原田宗助(薩摩藩士・後の海軍造船総監)、乙骨太郎乙(静岡藩士・沼津兵学校教授)が選ばれた。接伴掛の両名は、さっそく軍務局に問い合わせたところ、よきに計らえということではたと当惑した。そこで協議した結果、乙骨が思いついたのは、旧幕時代、徳川将軍家大奥で毎年元旦に施行されてきた「おさざれ石」の儀式に唱う「君が代」であった。
この歌なら天皇陛下に失礼ではないと評議一決した。これに歌詞をつけることになったが、原田が鹿児島で演奏される琵琶曲に「蓬莱山」という古歌があり、それにも「君が代」の歌詞がある。そこで時間もないことだから原田が軍楽長を招き、数回繰り返してフェントンに聴かせた。フェントンはその場で採譜し、大至急で吹奏楽に編曲し、隊員を集めて練習を重ね、浜御殿の饗応の宴でこの「君が代」を英国国歌とともに演奏し、面目を全うしたという。
まず、この話にも少々錯誤があります。
「明治二年英国貴賓を現在の浜離宮で饗応するに当り」といえば、明治2年9月、エジンバラ公(ビクトリア女王の次男)の来日時のことです。
薩摩バンド(鼓笛隊)が、横浜に駐留するイギリス駐日陸軍付属軍楽隊長であったフェントンのもとへ弟子入りに出向いたのは、明治2年陰暦の9月からなんです。仮に、明治2年のもっと早い段階から弟子入りしていたにしましても、楽器がありませんでした。和楽器などで間に合わせて、これは私の推測ですが、イギリス軍の古い楽器とかを譲り受けたかもしれませんし、そこそこの練習はしたようなんですが、やはり、翌明治3年7月に、イギリスへ注文していた楽器が届いてから、本格的な吹奏楽の練習がはじまったんです。
とすれば、です。海軍造船総監だった原田宗助の談話を聞き取ったのだろうこの話の筆記者が、どうも勘違いしているようなんですが、この話の軍楽長とは、駐日イギリス軍軍楽隊長フェントンのことであり、「浜御殿の饗応の宴でこの君が代を英国国歌とともに演奏し」たのは、イギリスの軍楽隊でしょう。
浜御殿という場所もどうなのでしょう。
以前にモンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol1でご紹介しました「英国外交官の見た幕末維新―リーズデイル卿回想録 」によりますと、確かにエジンバラ公は浜御殿に滞在しています。
しかし、イギリス陸軍軍楽隊が演奏した場といえば、リーズデイル卿が「横浜港に8月31日に入港し、通例のことだが、挨拶や接見や歓迎の辞など、きまりきった退屈な行事が終わると」と簡略に書いているこの部分でしょう。
なにしろリーズデイル卿にとって「きまりきった退屈な行事」なのですから、この場はすべてイギリス側が取り仕切ったものと推測できます。
で、「接伴掛は英語に堪能な原田宗助、乙骨太郎乙」という「接伴掛」なのですが、リーズデイル卿は「その当時は、現在のように日本人は、西洋の週間に慣れていなかったので、パークス公使に対して準備不足のないように私に手伝って欲しいとの依頼があった。それで現地に駐在するため、浜御殿の部屋の一部が私のために準備され、そこに私は一ヶ月の間滞在したのである」と述べていまして、この接待準備、横浜での行事も含めて、イギリス側との連絡係だったのが、接伴掛の二人じゃなかったでしょうか。
フェントンが、横浜の儀式で両国国歌を演奏する必要から、困って、「接伴掛」であった二人に問い合わせた。しかし、「なにか国歌になりそうな歌はないか」と言われても、二人も困ったでしょう。軍務局に問い合わせてはみても、おそらく軍務局では「国歌」という概念がわからず、「よきにはからえ」となった。そこで、「おさざれ石」の「君が代」案が出て、おそらく原田宗助は、これからフェントンに弟子入りする予定の薩摩鼓笛隊のリーダー格に相談したと。
大奥の「おさざれ石」という行事、知らなかったものですから、ぐぐってみました。
江戸城大奥の正月行事で、元旦の朝、御台所が将軍を迎える前に、清めの儀式で、御台所と御中老が小石の三個入った盥をはさんで向かい合い、御中老が「君が代は千代に八千代にさざれ石の」と上の句を述べると、御台所が「いわほとなりて苔のむすまで」と応じ、御中老が御台所の手に水を注ぐ、というものなのだそうです。
たしかにこれは儀式歌といえますが、しかし、メロディというほどのものはないでしょう。
そこで、薩摩琵琶歌が出てきたのではないでしょうか。
私、君が代の歌詞があるという「蓬莱山」は聞いたことがありませんが、薩摩琵琶歌として、「川中島」と「敦盛」はCDで持っています。これを五線譜に直すってえ!? と絶句するんですが、フェントンも相当苦労したんじゃないでしょうか。
えーと、です。「君が代」の歌詞は、文字記録としては、冒頭の句が「我が君は」となったものが、詠み人知らずの句として、古今和歌集に出てくるのが最初です。
詠み人知らずの句というのは、歌謡の一種であった場合もあり、実際、次にこの句が記録されているのは、「和漢朗詠集」で、いろいろな写本が伝わる中、鎌倉初期だかには、すでに「君が代」になったものがあるのだそうです。
君が代は賀歌でして、その後もさまざまな歌謡に歌い継がれ、維新の時点で、大奥の祝歌にも、薩摩琵琶歌にも、君が代の歌詞があったんですね。薩摩では特に親しまれていたようで、島津重豪公は、ローマ字で君が代の歌詞を書き残していたりします。
しかし浄瑠璃や瞽女唄にもあるそうですから、日本人のあらゆる階層に親しまれていた賀歌で、たしかに、国歌の歌詞としてはふさわしかったでしょう。
問題は、メロディでした。
エジンバラ公の訪日行事も無事終わり、薩摩鼓笛隊はフェントンに弟子入りします。
しかし、前述の通り、楽器が届いて本格的に練習をはじめたのが、翌明治3年の7月です。
一ヶ月ほどで、なんとか形にはなったようでして、8月には横浜山手公園で、イギリス軍楽隊と競演。
それからまた一ヶ月、明治3年9月8日に、越中島で、天皇ご臨席の薩長土肥四藩軍事調練があり、そこで、薩摩バンドがデビューすることになったんですね。ここで君が代が演奏されていますので、通説である大山巌や薩摩の大隊長が出てくるのは、この時のさわぎなのじゃないでしょうか。
前年の譜面が、当然あったでしょう。
国歌といえば、歌詞が必要です。薩摩バンドのメンバーに、楽譜をくばるにあたって歌詞を入れようとし、フェントンは、前年、原田宗助が歌った歌詞を問い合わせ、国歌の歌詞がそれでいいのかどうか、念押ししたのではないでしょうか。
後年、この2年間にわたる出来事が、当事者、関係者の頭の中で混乱し、さまざな証言になったのだと、私は思うのです。
薩摩バンドが中心となり、引き続きフェントンが教師を務めた海軍軍楽隊は、薩摩琵琶歌をフェントンが採譜、編曲した第一の君が代を、国歌として演奏し続けました。
しかし、歌詞をつけて歌ったのは、前回に述べた雅楽の人達のみ、です。
天長節の宮廷儀式で歌ったのですが、「歌い辛かった」との回想があります。
一方、フランス式を採用し、フランス軍事顧問団のラッパ手だったシャルル・ダグロンから軍楽を教わることとなった陸軍軍楽隊(こちらの中核メンバーも薩摩バンドです)は、「国歌」演奏の必要が生じた場合、外国の国歌や、フランスのラッパ曲「オーシャン」を演奏していたといいます。
もっとも、薩摩バンドのメンバーが多数残り、軍楽長フェントンを教師としていた海軍の方が、陸軍より演奏技術がすぐれていたのは当然でして、公式行事では、海軍軍楽隊がメインとなっていたのですが。
その海軍軍楽隊も、薩摩琵琶歌にわか採譜のメロディを、気に入ってはいませんでした。
薩摩バンドの若手メンバーで、初代海軍軍楽長であった中村裕庸は、「フェントンの作曲は当時英語の通訳たりし原田宗助の歌へる国訛りの曲節を聞き日本の曲風をとらんとしたるものの如く三十一文字ことごとく二分音符を配したる誠に威厳なきものなりしをもって、(薩摩バンドの)楽長鎌田新平は他に改作を期することとし採用したるものなるにより」と、語り残していまして、歌詞は君が代でいい、としたものの、吹奏楽用向けの編曲にはまったく向かず、しかも日本の音楽を代表するわけでもない薩摩琵琶歌では、国歌として威厳に欠けると、当初から、雅楽による作曲を考えていたようなのです。
海軍軍楽隊は、新たに君が代のメロディを作ろうと、和歌と音楽との関係を雅楽の人達に教わったりもしていたのですが、実現しないうちに、フェントンが去り、エッケルトが来日して、現行の君が代メロディが誕生したわけです。
海軍省から宮内省に雅楽での作曲が依頼され、いくつか候補曲が出て、その中から和声をつけて編曲しやすいものをエッケルトが選んだ、という順番であったとか。
「国歌」という概念は、ヨーロッパにおいて、近代国民国家とともに生まれたものです。
日本では、歌詞ばかりが注目される傾向が強いのですが、儀礼歌としては、演奏される場面の方が多く、独立国として、欧米諸国とつきあうにおいて、最初に必要とされるのはメロディの方です。
しかし、器楽演奏そのものが西洋のものですし、西洋諸国以外の国では、よく知られた賛美歌などのメロディを借りて国歌としていた国も多く、ごく最近までありました。
日本でもそうなのですが、民間歌謡はそもそも、一つの歌詞に一つのメロディということはなく、三千世界の鴉を殺しで述べました都々逸のように、歌詞も変われば、メロディも変わるものです。
国歌を、まずは歌うものとしてとらえると、メロディはある意味、どうでもよくなるのです。
日本は、薩摩藩のいち早い西洋音楽導入の試みによって、国歌におけるメロディの重要性を認識することとなり、日本における儀礼音楽といえば雅楽ですし、雅楽による作曲で、メロディにも国柄を盛り込むことができたのだといえるのではないでしょうか。
最後に、これは趣味です。YouTubeの君が代独唱の中では、Gacktが一番(笑)
君が代ーGackt(YouTube)
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興味深いお話ですね。曲ありきなのか、詩なのかというのも、いい視点ですね。
天皇をいただいた国家を立ち上げながら、国歌もつくるんだから、そうですよねえ、簡単じゃないんだな~
「三つの君が代」のサイトも、文字はともかくメロディ聞けて、こういう視聴覚的なところが本とは違うインターネットの世界の面白さですね。薩摩軍楽隊ヴァージョンはちゃんと終わってすっきり(今の君が代は、なんか曲が最後おわらないような感じ…)。そうだ、小学唱歌ヴァージョンもよかった。Coccoちゃんに歌わせるといいかなあ。
児島襄さんの受け売りで大山弥助どんも「巌となりて」と思ってたのですが、こうなると、さて...
このへんの部分、トラバさせていただきますね。
返させていただきましたので、よろしくお願いします。
大山巌説は、一応定説みたいになっていますから、仕方がないです。
「三つの君が代」の著者も、それをとっていますし。
Wikiに書いてやろうと思ったら、君が代の項目、どうやら左右編集合戦があったらしく、編集不可になっているんです。「日本の国歌」という別項があったので、そっちに書こうかな、とも思ったんですが、めんどうになって、自分のブログに書きました(笑)
外務省の情報に拠れば、新暦1869年8月29日、旧暦で明治2年7月22日ごろのようですね。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/j_uk/03.html
また、
岡義武 著「黎明期の明治日本―日英交渉史の視角において」未来社のなかで、一章をエジンバラ公来日時の騒動に割いておりまして、図書館で読んでみたのですが、国歌もしくは儀礼曲吹奏については書かれていませんでした。
優先順位が低かったのでしょうか?
攘夷派からの警護や明治天皇への謁見の仕方、随伴員の人数など頭が痛い案件ばかりだったそうだので、仕方がないかもしれません。
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/4e1c5fafd917312aa6942baaaef78580
こちらの方のコメント欄で書いているのですが、私、これを書いてから後、小山作之助の「国歌君が代の由来」を読んだんですね。中村理平著『洋楽導入者の軌跡-日本近代洋楽史序説-』でも、吹奏楽史の基本文献とされている本です。
それでわかりましたことは、明治の末に、小山作之助が歌詞選定の経緯を調べはじめまして、薩摩バンドの生みの親である肝付兼弘に連絡をとりましたところ、要するに兼弘は明治2年のことだった、ということは覚えていたのですが、エジンバラ公云々は、さっぱり覚えていなかったんです。原田宗助はすでに死去。初代海軍軍楽長、中村祐庸は、「肝付兼弘は、旧藩で藩主の君側にありたる人、つまり藩主の側近だった人だから信用できる」としていましたし、どうも、海軍軍楽隊の資料として、「明治2年」という書き付けがあったみたいなんですね。
ところが、小山作之助が調べています最中に、兼弘は死去し、元薩摩バンドのリーダー・西謙蔵は、「佃島で薩長土の調練天覧があったときに、4番大隊長野津から要望があって」と言い出します。
そうこうしているうちに、和田信二郎が、大山巌から「明治3、4年ころ自分が選んだ」という談話を引き出しまして、まあ、結局、生きている関係者の中で一番えらい人がいうことだから、ということで、定説になったんじゃないでしょうか。
小山作之助は結局、「だれということは言えない。しいていえば薩摩藩」という結論ですし、中村祐庸は、いまひとつ納得がいかなかったみたいで、明治2年にこだわっていたみたいです。
私の推測通り、エジンバラ公来日時に、フェントンが演奏したのが横浜であるならば、結局、すでにこのときフェントンが作曲したことを知っていたのは、日本側では、原田宗助はじめ、ごく一部の人のみ、だったんじゃないでしょうか。日本側が必要としたのではなく、イギリス陸軍軍楽隊が、慣例通りにするために、必要としたわけでして。
しかし、これはもう、証明のしようのないことです。
なんで読んだのか忘れましたが、日本の公使が欧米へ赴任しまして、その国の元首に挨拶をしますとき、軍楽隊が両国国歌を演奏するわけでして、「日本の国歌の譜面は?」と公使館に問い合わせてきます。ところが、公使館から日本本国の外務省へ問い合わせてもなんのえるところもないので、海軍に問い合わせる、という状態が、かなりの期間続いたのだそうです。
えー、それと、薩摩藩には、喇叭鼓隊はもちろん、薩摩バンド以前からありました。これも、なんで読んだか忘れたんですが、最初はオランダ式です。確か、高島秋帆のところへ、藩士が弟子入りしていたはずです。オランダの海軍伝習にもかなりな人数を出していますし、鳥羽伏見で喇叭鼓隊が活躍したことは、なにかに描写がありました。
薩摩バンドについては、中村理平著『洋楽導入者の軌跡-日本近代洋楽史序説-』に詳しいです。
小山作之助の「国歌君が代の由来」については、図書館でご覧になれないようでしたら、コピーいたしますので、お申し出ください。
Wikiの君が代を書き直そうと、途中まではやったのですが、結局、エジンバラ公来時説歌詞設定の証拠がないですし、どうしたものかと。どう書けばいいのか、長く迷って、中断中なんです。
「当時我が国の楽隊というものは、太鼓に笛でヒュー・ドンドンとやったものであるが、彼(イギリス)の楽隊に至っては、見も知らぬ楽器を沢山に用いて、賑やかに面白く勇ましく奏づるのであるから、歩調の整正は勿論、軍隊の士気を鼓舞するに非常の功ある事を感じた」
エイジンバラ公来日時の横浜で、
当然、フェントン指揮のイギリス陸軍軍楽隊は演奏したはずです。
そこでなにを演奏したところで、日本側はみんな気にも留めない状態ですが、イギリスの軍楽隊としましては、ここで両国国歌吹奏、というような定式があったと思うんですね。
で、まあ、明治2年当時の日本に国歌があるわけないですから、それこそ適当に蛍の光とか、やってもよかったのでしょうけれども、フェントンは薩摩バンドのめんどうをみることが決まっていたわけですし、軍楽隊が演奏するのはまず国歌、ということで、通訳の原田宗助たちにも話をもちかけたでしょうし、一方、肝付兼弘の方へは、「これから軍楽を習うのなら国歌を」という話し方をしたのではないのでしょうか。その後、「歌詞はこれでいいのか?」と問い合わせ、おそらく薩摩御親兵の複数の大隊長に話がいき、そのときはみんな、どーでもよかったのだと思うんです。「国歌」がなにやら、よくはわかってなかったわけですから。だれということもなく「よかよか」という話になり、国歌の意味が浸透した後年の思い込みから、いろいろな説が出た、ということではないのでしょうか。
このときは、まだご親兵ではなく、「徴兵」ということで、薩摩藩兵が上京していたんですが、交代制でして、下のページに書きました薩長兵制論争の時期と重なるんです。
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/02e89e40252f022ff4f0d35ae57f9d8f
それで、桐野の動きを調べていたんですが、フェントンが「歌詞は君が代でいいのか」と問い合わせた時期が、越中島より一ヶ月ほど以前だとしますと、大隊長の中でも桐野は薩摩に帰っていた、という証拠があって、野津鎮雄、大山巌と、あとだれでしたか、ともかく、君が代選定者として取りざたされている大隊長が東京にいたことは確かで、最初がエジンバラ公来日時、次いで明治3年、越中島の薩摩バンドデビュー前、という2回、フェントンが問い合わせたのだ、というこのページでの基本的な推測は、今でも、おそらくそうなんだろう、と、私は思っています。
「『君が代』はエジンバラ公来日から越中島の間に、一度演奏されていたのではないか?」という意見が見つかりましたので、大外れの可能性が高くても、一応調べてみるつもりです。
他力本願なところがありますが。(^^;)
私が(?_?)と思っているのが、従来の史書でも郎女さんの意見でも、
エジンバラ公来日での演奏が(とりあえず)明治2年の旧暦7月22日として、明治3年9月8日(この日って新暦なんでしょうか?旧暦なんでしょうか?私の周囲に知ってる人は誰もいません…)の間に、
フェントン作曲の楽譜を手にした人=“選定者は誰だ議論”の登場人物だけ
の印象を受けるんですよ。
当時の日本人全般に国歌という概念が稀薄だったのは「そうだ」と思いますが、一方で
“誰だ議論”の登場人物以外にも、注目していた人たちがいたんじゃないか、と思いまして。
接伴掛(外務省?)、薩摩バンド、 軍務官(兵部省)、式部寮伶人以外にも楽譜が出回っていた可能性は、ゼロでしょうかね?
私が疑問なのは、この日が暴風雨だったことで、調練の半ばで帝は還幸されていまして、薩摩バンドの演奏は、最初だったんでしょうかしら。
楽譜が出回っていた可能性。ゼロだと思います。後々の話になりますが、陸軍軍楽隊は、エッケルト編曲の君が代でさえ、長く演奏しなかったみたいですし、文部省も外務省も、ほとんど無視。薩摩が勝手にしたこと、続いては、海軍が勝手にやってること、だったんじゃないんでしょうか。
といいますか、実際、フェントンの君が代は、薩摩藩が決めた国歌ですから。薩摩バンドは、薩摩藩軍のバンドであって、明治新政府の軍楽隊じゃありません。
「『君が代』はエジンバラ公来日から越中島の間に、一度演奏されていたのではないか?」というお話の詳細、わかりましたら、どうぞ、お教えください。
区役所や県庁の観光課に「郷土史家を紹介していただけないでしょうか?」とメールを送ってみます。
違ったら恥ずかしいので、少々お待ちください(^^;)
文章が読みにくいとか、行間が妙だとかあると思いますが、まぁどうぞ。
なにしろ私、楽器演奏は小学生で習った程度で(オルガン教室は幼稚園のころ通っていたのですが、親がきびしく予習をさせるので、うんざりして、断固、上級のピアノクラスへ通うのを拒否しました)、さっぱり知識がないものですから、フェントンの曲なら喇叭鼓隊でもいける! というところに、思い至りませんでした。
「明治三年四月十七日の駒場野調練に、妙香寺の楽手たちが参加して、フェントン版「君が代」の楽譜をわたしてまわった」は可能性は、大きいと思います。
薩摩は、「陸軍も英国式」をアピールしている最中ですし、楽手の演奏は、派手に英国式を印象づけることができる上、「国歌が必要なんだよ」という啓蒙にもなります。
と、あと、加賀藩は金持ちなんです。最近、なにかで見たんですが、廃藩置県直後あたりの話で、加賀藩主前田家は、島津家より資産家で、日本一の裕福な藩主だったそうです。それと、加賀藩は幕末に、五代友厚の世話でも留学生を送り出していまして、そういう方面で、薩摩と交流がありました。
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/09e6616b9693ea6006fbefbf52749147
上に書きましたが、「長崎遊学中の加賀藩士関沢考三郎(明清)と岡田秀之助(元臣)」なんですけど。
また、「海軍軍楽隊沿革史料」は、このページに書いています、国書刊行会昭和59年発行「海軍軍楽隊 日本洋楽史の原点」に収録されています。
ただ、これは大正六年以降の編纂(大正6年までの記事がありますので)で、それほど古くはないんです。
おかげで思い出しましたが、しかし「明治二年云々」とあるところを見れば、そういう資料があったか、あるいはこれは、肝付兼弘の証言を中村祐庸が重視していた結果なのか、とも思えたんです。
私の立場からは、駒場野当時、薩摩藩軍の大隊長はだれが上京していたのか、を、調べてみる必要がありそうですね。
明治新政府の直属軍隊と中央統一軍の編成の3ページ目とか、
ttp://www.scribd.com/doc/80348/
全国各藩の明治初期の軍事力
ttp://blogs.dion.ne.jp/kakuhangunjishi
ではキーワード検索機能を使って探すと、何か解るかもしれません。
あと、古書検索サイトの日本の古本屋
ttps://www.kosho.or.jp/top.do
で“駒場野”と検索すると、
西郷従徳のそそらく私家本の、
「駒場野聯隊大練記 明治三年」昭12という本が見つかります。結構高価ですが。うちの近所の図書館に無いんですよね。
これ以上の発見は、直接郷土史家さんのところに行かないと出てこないかな、と思いますので、一旦締めますです。(_ _)
そのうち、忠義公史料を見てみます。いま、ちょっと本の山の下で出てきませんで。
ご紹介の論文で、薩摩は砲隊が出ていますので、大山巌がいたことは、おそらく確かですね。
あと、現在伝えられていますフェントンの楽譜は4拍子みたいですが、式典にはふさわしくとも、ちょっと調練にはあわないかなあ、という気がするんです。もしかすると、この駒場野の場合、行進曲風にアレンジして使った、とは、考えられないでしょうか?
http://www.ne.jp/asahi/keisar/bayern/0304.htm
これだけ、各地でヤッパンマルスが伝えられているわけですし、この手の行進曲風であれば、どの藩も演奏しやすかった、と思われます。
全くの想像なので信憑性激低ですが、
出発と帰還のときのどちらかで吹いたんじゃないかな、という気がします。
たしかに4拍子で、さらにスローテンポなので調練中にはあわなさそうです。
あと妄想度上げますと、伝習生達が一ひねり俗に、勝手な吹き方をしたかなぁとか。
普通の資料は中村祐庸や西謙蔵といった偉い人のインタビューや書いた物を軸に書かれていて、そこに駒場野のことが入っていないのですから、若い隊員達の自由行動だったのかな、と。
>>どの藩も演奏しやすかった
あ、なるほど、フェントン版「君が代」って、いち白オタマジャクシひとつ振りの、指揮とも言えない合図の振りでも、何か突発の合奏できそうですし。
例会が海の日7月16日であと一ヶ月ちょいになりましたが、
やはり新宿には来られそうもないですかね?
連休ですし、ちょっと考えてみます。
2、3日後にメールでご連絡します。
西欧の楽器(フォーマルでの正式演奏はブラスバンド)で西欧の作法を踏襲したのだから讃美歌や軍楽系行進曲が妥当。
歌詞にこだわるならば民主政治体制を讃えるような内容が良い。