『流離譚』講談社このアイテムの詳細を見る |
再び、安岡章太郎氏の『流離譚』です。英国へ渡った土佐郷士の流離 で、少しだけ触れました、坂本龍馬と、そして中岡慎太郎のお話。
自由というものは、おそらく寂しいものなんです。藩の束縛から逃れ、自由に才能を発揮し、しかし、規格外れの組織を維持していくには、はったりも必要ですし、力のなさに、侘びしさを噛みしめることも多いでしょう。安岡氏の描く龍馬像は、龍馬が得た自由の代償を描いて、龍馬の息づかいを感じさせてくれるほどに、迫真です。
だからこそ、なぜ龍馬が、最後の最後に、倒幕から遠い位置に軸足を移したのか、その解説も説得力を持つのです。
ちなみに安岡氏は、龍馬暗殺薩摩藩説、後藤象二郎説は、筋が通らないこととされていますし、「大政奉還の建白案なるものは結局、徳川家の温存策」であるという、中岡慎太郎の認識の方を、基本的には、現実に即したものと見られているようです。
徳川家を温存する、ということは、けっして、新しい政体の創造にはつながりません。これまでの龍馬の信念からは遠いはずのその建白案に、なぜ龍馬は肩入れしたのか。望郷の念が‥‥‥、といいますか、なんの後ろ盾もなく、できることの限界を感じた龍馬が、山内容堂との折り合いをつけて土佐藩に尽くすためには、そうするしかなかったのではないかと、安岡氏はおっしゃるのです。
龍馬が死の直前のころに書きつけたのではないか、といわれている「新政府綱領8策」の後書きに、「○○○自ら盟主となり、此を以て朝廷に奉り、始て天下万民に公布云々」とあり、普通、この「○○○」に慶喜公を当てはめる論が多いのですが、三宅雪嶺のみが、これを容堂公としているんだそうです。安岡氏も、「なるほど○○○が慶喜公ならば、別に伏せ字にする必要はなさそうだ」と、この案に引かれる様子を、示しておられます。
一方で、安岡氏は、理論家としての中岡慎太郎を評価しつつ、しかし、陸援隊にどれだけのことができたのか、として、維新後にもし慎太郎が生き残っていたにしても、薩長から重要な役割を与えられることはなかっただろう、としているんです。
それは「たら」話で、私も、あるいはそうであった可能性もあるだろう、とは思うのですが、安岡氏が描く慎太郎像は、はつらつとして、けっして龍馬のようにくたびれてはいないのですね。
後ろ盾もなく苦労したといえば、この人もそうなのですが、慎太郎の場合は、龍馬とちがって、規格外の組織を背負ってその維持に苦労した、というのではなく、個人で動いているんですよね。
地味ながらも、その動きが的確で、理詰めで一人立ちしている。元が庄屋さんですから、末端ながら、行政慣れしているんでしょうか。
しかし、農村に密着しているとなりますと、町育ちの龍馬よりも、望郷の念は強くてもおかしくない気がするのですが、この人の場合、故郷で親族を殺されています。土佐勤王党の弾圧に憤慨して決起し、藩に斬殺された野根山二十三士の中に、親戚がいるんです。
藩の役人として、ですが、その自らの郷党を斬殺した小笠原唯八や、やはり勤王党には敵対的だった板垣退助。容堂側近の上士二人に、しかし慎太郎は恩讐を越えて近づき、その鋭い理論をもってして、なんでしょうか、説得して、自分の側に引き寄せ、倒幕派にしてしまうんですよね。
元が容堂側近の二人であるだけに、これは薩長にとっては、とてもありがたいことです。いざ、というときに、土佐が藩として倒幕派に加わる種は、しっかりと、慎太郎によって蒔かれたわけなのですから。
あるいは、慎太郎が生きていれば、維新後にも、薩長は無視はできなかったのではないでしょうか。いえ慎太郎ならば、結局反政府の側に立って、板垣といっしょに自由民権運動を繰り広げた可能性の方が、高そうな気もしますけど。そうであったとき、もう少し、地に足の着いた反政府運動になりえたのではないかと‥‥‥、これは私の夢想なのですが。
郷里で流された血は、むしろ慎太郎を強くして‥‥‥、つまり、郷里もまた激動の外にはない、帰る場所は自分で作るしかないのだという覚悟、あるいは諦念でしょうか、に慎太郎を至らしめ、流離の憂いから遠ざけたのではなかったでしょうか。
「夫れ攘夷というは皇国の私語にあらず。その止むを得ざるに至っては、宇内各国、皆これを行ふもの也。メリケンは嘗て英の属国なり。ときにイギリス王、利を貪ること日々に多く、米民ますます苦む。因ってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。爰においてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケン爰において英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」
翻訳ではない、血肉にくいいる理論を述べうる人だったのにと、早世が惜しまれるのです。
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