いろは丸と大洲と龍馬 上の続きです。
前回ご紹介しました諸史料を踏まえまして、「いろは丸終始顛末」を読み返しますと、かなり話が見えてまいります。
こういうことでは、なかったでしょうか。
慶応2年の7月、新式銃購入のため、長崎へ行った国島六左衛門と井上将策は、以前から藩内で、武田敬孝を中心に主張されていました蒸気船購入に、意欲を持っていました。問題は代金なのですが、往路で幕長戦争を目の当たりにし、ぜひともこの機会に蒸気船も、とあたってみると、薩摩藩の五代友厚が、耳よりな話を持ってきました。
元薩摩藩の船で、現在ロウレイロ名義になり、アデリアン商会もからんでいるアビソ号ならば、オランダ領事のボードウィンが、全額融資をしてくれる、というのです。
「いろは丸」は、もともとは薩摩藩が所有していた安行丸です。安行丸については、海軍省発行の「海軍歴史」(近代デジにあります)に載っていますが、それによれば、以下です。
原名 サーラ(Sarah)
舟形 蒸気内車
船質 鉄
幅長 長卅(30)間 巾3間
馬力 45
頓数 160
製造国名 英
造年 1862(文久2年)
造地 ギリーノック(スコットランド クライド湾 グリーノックGreenock造船所)
受取年月 同年9月3日
受取地名 長崎
償 75000弗(ドル)
原主 エアルテルバイ組合
慶応元年丑年11月賞於和蘭ボウドウィン
ちなみに同書には、大洲藩の所有船として、伊呂波(いろは)丸も載っているのですが、当然のことながら、ちがっているのは受け取り年月日以下、のみです。
受取年月 慶応2年寅年(1862)
受取地名 長崎
償 70000弗(ドル)
原主 和蘭ボードウィン
慶応3卯年5月於中国内海與明光丸相○沈没
一方、長崎運上所への届けには、「薩摩藩は慶応2年(1866)正月5日、ポルトガル領事ロウレイロに安行丸を売却した」旨、あるそうです。
「慶応元年丑年11月賞於和蘭ボウドウィン」といいますことは、あるいはこのとき、ボードウィンが薩摩藩の借金の形に押さえたのかもしれません。
船名につきましては、サーラの船名が安行丸に変わり、おそらくはロウレイロの名義になりました時点で、アビソ号となったわけです。
えー、「モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編」をご覧ください。
「オランダとの取り引きは米中心であったとされていまして、これが米を運搬して有利な相場で売り払う、投機的なものであったとは、目から鱗、でした。
なるほど。それで、オランダ商人(アルフォンス・ボードウィン)との取り引きのみはうまくいき、結局、押し詰まった時点での薩摩への出資者は、オランダのみになったわけなのですね」
と書いておりますが、あるいは安行丸は、ボードウィンが一度押さえて、イギリス系商社に所有が移ったのかもしれませんし、薩摩との取り引きが上手くいっていたボードウィンは、薩摩藩の保証さえあれば金を貸した、ということなのではないしょうか。
これを証明するには、玉里史料でもあさってみるといいのかもしれませんが、いや、そこまでする気はないのですけれども。
また、契約書の立会人になっていますアデリアン商会はいったいなになのか、という問題もあります。アデリアン商会はベルギー系ともいわれ、だとすればモンブランもからんでいたりするのでしょうか。大洲藩が買った時点での、安行丸=アビソ号の実の船主は、結局、わけがわかりません。岡美穂子氏が論文を書かれるそうでして、楽しみなんですが、どこに発表されるのでしょう。読めなかったりしたら、とても残念なんですが。
ともかく、です。
海千山千の五代友厚の話に、国島と井上は飛びついたわけですね。
いや、大洲藩が長州よりだとはわかっていることですし、五代にしてみれば味方にしておきたい小藩へのサービスかもしれませんし、薩摩藩の保証で蒸気船が買えるのは、小藩にとって、ありがたいことだったのかもしれないんですけれども。
しかし、借りた金は返さなければならないんですし、大金の支出を、藩庁が認めるかどうかが、問題です。
そこで思いついたのが、藩主・加藤泰秋への直訴、ではなかったでしょうか。
泰秋は、弘化3年(1846)生まれ。このとき21歳という若い藩主です。元治元年(1867)、国許で藩主の兄が急逝し、江戸へ出て幕府に家督相続を認められますが、慶応2年の9月まで、お国入りが許されなかったのです。
「大洲市誌」によれば、同年6月の武田敬孝の建白書には、まっさきに「一刻も早く藩主の帰国を願うべきこと」とあったそうです。
広瀬常と森有礼 美女ありき10で書いたのですが、函館にいた武田斐三郎は、元治元年(1864)4月、江戸出張を命じられ、7月23日付けで開成所教授、次いで大砲製造頭取になり、江戸にいたんです。
敬孝は、若い藩主の師であったようですし、大洲藩のために、洋式兵術の取り組みにおいて最先端にいる弟を、頼りにしないということがあるでしょうか。兄の頼みで、斐三郎が若い藩主の元を訪れ、新式兵器や蒸気船の必要性を訴えた可能性は、十分にあると思います。
とすれば、泰秋は蒸気船購入に大乗り気だったかもしれませんし、加藤家関係者の手で編纂されたと思われる「大洲藩史料」が、いろは丸購入を「庁議を経たもの」であった、としたのは、あるいは、泰秋にとってはそうだったから、なのかもしれません。
国島と井上は、ロウレイロと契約をかわし、ボードウィンから借りて、4万メキシコドル全額を払い、いろは丸と名付けましたが、ボードウィンと大洲藩の契約は、正式なものになっていなかったのでしょう。
9月、いろは丸は薩摩藩の船印をかかげ、亀山社中の手を借りて、ちょうど泰秋の初のお国入りにあわせて、長浜港に回航されます。このときのいろは丸の船籍は、薩摩藩です。
「いろは丸終始顛末」によりますと、「御召艦を曳き、運転の自在と速力とを親しく君侯の御覧に入れると云ふ計画てあった」ということなのですが、従来の和船の曳き船の舟子が失望する、というので、それは取りやめになったそうです。藩主のお召艦を曳くというのは、名誉なことだったんでしょうね。
ともかく、です。泰秋の鶴の一声で、藩内の反対の声は抑えられ、ボードウィンとの借金契約も事後承諾され、家老たちも購入契約書に判を押さざるをえなかったのではないかと、私は思います。
慶応3年末のことになりますが、西宮警備を受け持っていました大洲藩は、薩長芸出兵計画に同調し、まだ公式には復権していませんで(討幕の密勅は出ていますので、秘密裏には復権していますが)、朝敵のままの長州藩兵の西宮上陸に、全面的に協力しました。いくら長州と親密だったとはいえ、小藩にとって、これは大胆な賭けでしたが、藩主・泰秋の決断であった、といわれます。
ただ、最初の頭金が、全額そろわなかったのではないでしょうか。
いろは丸の代金と大洲藩の借金額につきましては、下の本に収録されました織田毅氏の「再考・いろは丸事件 ー賠償金はなぜ減額されたのか」が、紀州藩の史料を駆使して、詳しく述べてくれています。
いろは丸の代金は、契約書とぴったり一致しまして、40000メキシコドル、邦貨にして31000両です。
豊川渉の「いろは丸終始顛末」が「価約三万円で買受の契約が成立した」といっていますのは、この船のもともとの価を邦貨で述べたものなのでしょう。
しかし、ボードウィンからの借金には、一割の利子がつきます。最初の頭金を含めて4回払いで、総額46600メキシコドル、邦貨にして36115両になります。
「大井上家系譜」の「価メキシコドルテル銀四万五千枚」は、この借金総額、おおよそのところをメキシコドルで述べていると思われます。
問題は、「大洲藩史料」です。「代金四万貳千両五度の拂込約定にて購求するを得たり」ということは、「邦貨42000両を5度にわけて払い込み」ということになるのですけれども、この謎をとく鍵も、織田論文にありました。
一航海のみの約束で海援隊に貸し出されましたいろは丸は、慶応3年(1867)4月23日、紀州藩船・明光丸とぶつかって、沈みます。それにいたしましても海援隊は、船をおしゃかにする名人ですね。
倍書金問題が持ち上がり、最終的には五代友厚が担ぎ出されるのですけれども、ボードウィンと大洲藩との借金契約をよく知ります五代が、書面上の借金総額につけくわえまして、大洲藩が支払った金額を、次のように述べているんです。
このときまでに大洲藩がボードウィンに支払っておりました金額は、初回、慶応2年払い込みの6200両(80000メキシコドル)のみです。
これに、10ヶ月分の利子一割、510両1歩3朱が上乗せされていた、というんですね。
といいますことは、慶応2年中に、大洲藩は初回金を払いこめなかったことになります。
いつ払ったのかはわかりませんが、海援隊に一航海500両でいろは丸を貸し出したことについても、この利子上乗せ分の500両をかせぐためだったのではないか、と思えます。
五代はさらに、「金5250両 船買入につき通弁その外謝礼ならび道具代とも」としておりまして、これは借金契約に含まれませんから、初回、ロウレイロとの購入契約時に邦貨で払ったものと受け取れます。
ボードウィンへの借金総額邦貨36115両に、初回支払い遅れで生じました余分の利子邦貨510両、借金とは別に、最初に払い込みました邦貨5250両をあわせますと、41875両となり、「大洲藩史料」が「邦貨42000両を5度にわけて払い込み」としていることの意味がわかります。
大洲市立博物館学芸員の山田さま、ヒントをありがとうございました。
「いろは丸終始顛末」によれば、慶応2年9月、丸に十字の薩摩藩の船印をつけ、亀山社中の手で長浜に回航されたいろは丸は、ちょうど初のお国入りで長浜に入港しました藩主・泰秋のお目にかけたのち、同月、再び慌ただしく長崎へ向かいました。最初の諸経費、5250両には、この往復航海の亀山社中への支払いも、含まれていたんでしょうね。
そして11月、大洲藩の船印・赤字に白の蛇の目紋をかかげて長浜港に帰ってきましたいろは丸は、同月14日、新たな乗組員のもと、晒蝋、木附子(黒の染料)、松板といった大洲の産物を積んで、19日に出港します。豊川渉とその父が乗り組みましたのも、このときです。
船の運用方に橋本久太夫、俗事方下役に和泉屋金兵衛、機関方に山本謙吉、柴田八兵衛と、亀山社中から4名を借り受け、協力を得ていましたが、船将、士官ほか、乗組員の多くは大洲藩士ですし、運用方、機関方には見習いを入れて、あきらかに、大洲藩の人員のみでの運用をめざしていました。もう少し後の話になりますが、長浜出身で、幕府軍艦に測量方として乗り組んでいた大塚明之助が呼び返され、乗り組んだりもしています。
しかし、このとき、購入責任者である国島六左衛門は長崎に留まったままでした。
借金の初回払い込み、邦貨6200両が用意がおぼつかなかった故ではないか、と推測されます。
晒蝋、木附子など、大洲から運んでくる産物を、売り込んでその足しにする手配なども、あったんでしょうね。
いろは丸が長崎へ着いたのは、22日の朝です。このとき長州は、下関を封鎖し、長州に敵対する松山藩の船などは通しませんでしたが、大洲藩は味方ですので、支障なく通ったそうです。
いろは丸は、積み荷を陸揚げし、石炭を積み込み、いつでも出航できる状態となりましたが、なかなか、出航の日取りが決まらず、長崎に停泊したままでした。
そして12月25日、ようやく出航がきまるのですが、その朝になって、国島六左衛門が突然、割腹自殺します。
遺書はなかったそうなのですが、その理由を、豊川渉の「いろは丸終始顛末」は、次のように記しています。
「国島氏の自裁に就ては遺言もなく、誰も知る者はなかったが、既に一ヶ月余りも徒しく碇泊したるも、実は金融上から出船の運ひにならず、幾回も出船の延引を重ねた末、年末の廿五日と発表にはなったものの、氏か数百円の責任を負うて居られたとのことである」
これではっきりするのですが、大洲藩は、慶応2年中に払い込むはずの6200両を用意できず、国島がボードウィンと交渉を重ねた結果、10ヶ月分の利子一割、510両1歩3朱を上乗せすることで、決着がついた、ということでしょう。その上のせされた510両1歩3朱の責任をとって、国島は割腹したというのです。なんとも……、悲しい話ですね。
大洲藩の金策の苦労を示すと思われる事実が、もう一つ、桜井論文に載せられています。
大洲藩江戸留守居役・友松弘蔵は、12月16日付けで幕府に、「大洲藩領の町人・対馬屋定兵衛が、ボードウィンからいろは丸を買いました。大洲藩士がこの船に乗り込み、運用しています。九州。四国、中国はもちろん、ご当地(江戸)、奥州、松前、箱館辺へも航行する予定でして、風や潮の状況によりまして、どこの港へ入港することになるかわかりません。外国船とまちがわれては困りますので、日の丸はもちろん、大洲藩の船印をもちいたいと思いますので、その筋筋へお達し願えたら幸いです」と、届け出ているんです。
頭金が間に合わず、大洲船籍にすることができないでいるいろは丸を、大洲藩の船として運用するための、苦肉の策だったんでしょう。
文中、「奥州、松前、箱館辺」とありますことは、将来のいろは丸運用に、武田斐三郎が噛んでいるものと推測できますし、この異例の届け出も、幕臣である斐三郎の知恵と斡旋があったものと、考えていいのではないでしょうか。
国島の自害は秘密にされていたのですが、どこから聞いたのか(おそらく井上将策が知らせたんでしょう)、五代友厚と坂本龍馬が訪れてきます。「いろは丸終始顛末」において、これが初めての龍馬の登場なのですが、実に印象的なのです。以下、引用です。
「坂本氏は、国島氏の死体を検し、胸下の刀痕を己が指頭を以て探りなどして、武士たるものが己の所存が成立ねば死するの外はない。嗚呼、一知己を失ったと、嘆息して辞し去った」
たったの510両1歩3朱です。しかし、小藩にとりましては、それさえ重荷だったのでしょうし、自分の責任でかならず大洲藩籍の船にしてみせる、という責任感を持って交渉に臨みました国島は、快く購入を認めてくれた藩主泰秋の手前もあり、交渉失敗の責任を思いつめたのでしょう。あるいは、なんですが、大洲藩の支払い能力を疑ったボードウィンが、いろは丸に大洲藩の旗印をかかげることさえ、拒否したかもしれませんし。
もし、そうだったとすれば、国島の死によって、改めて五代が介入し、薩摩が保証するから大洲藩の旗印を、と、ボードウィンを説得したのでしょう。
そして……、その薩摩藩のわずかな援助だけで、確実な後ろ楯なく、亀山社中を成り立たせようと苦労してきました龍馬にとっては、同じ交易商社の夢を追って活動しようとしている、わずか六万石の小藩の悲哀が、身に染みたのでしょう。
とすれば、慶応3年の4月、亀山社中が海援隊となり、土佐という大藩の確かな後ろ楯を得ましたとき、最初に、いろは丸を借りたいと申し出ましたのは、国島六左衛門への哀悼の意を、形にしてあらわしたかったから、ではなかったでしょうか。
一航海の借り賃500両は、ほぼ、国島がそのために死んだ利子の額にあたります。そしてそれは、なにがありましても、土佐藩から大洲藩に支払われることが確実なのです。
結果的に、いろは丸は沈み、龍馬の好意は裏目に出た、ともいえるのですが、なにもそれは龍馬のせいではないわけですし、おそらく龍馬は、国島の悲願に思いを馳せながら、大藩である紀州との賠償交渉にのぞんだのだと、そう思えます。
大洲藩は、長州藩と緊密な関係にあったことはすでに延べましたが、土佐藩ともそうでした。
新藩主・泰秋の正妻・福子は、徳大寺公純の娘でしたが、山内豊資の養女になって嫁いでいたんです。
武田敬孝は、いく度も、使者となって土佐へ赴いていて、慶応3年10月にも副使となって、正使・大橋采女とともに訪れていたのですが、4日に須崎に宿泊しましたところ、隣の宿に龍馬がいると知り、翌5日、会談しました。
いろは丸と国島の話が、出たでしょうね。
そのわずか40日後、龍馬は刺客に襲われ、維新を見ることなく世を去ります。
私、書きながら考えるものでして、この結末を、最初から想定していたわけではないのです。
事実は小説より奇なり。
坂本龍馬は、とても情が深く、義理堅い人柄だったんですね。
これまで、「流離譚」で安岡章太郎氏が描かれました龍馬が、一番好きだったのですが、今回、自分で書いていて、惚れました。
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前回ご紹介しました諸史料を踏まえまして、「いろは丸終始顛末」を読み返しますと、かなり話が見えてまいります。
こういうことでは、なかったでしょうか。
慶応2年の7月、新式銃購入のため、長崎へ行った国島六左衛門と井上将策は、以前から藩内で、武田敬孝を中心に主張されていました蒸気船購入に、意欲を持っていました。問題は代金なのですが、往路で幕長戦争を目の当たりにし、ぜひともこの機会に蒸気船も、とあたってみると、薩摩藩の五代友厚が、耳よりな話を持ってきました。
元薩摩藩の船で、現在ロウレイロ名義になり、アデリアン商会もからんでいるアビソ号ならば、オランダ領事のボードウィンが、全額融資をしてくれる、というのです。
「いろは丸」は、もともとは薩摩藩が所有していた安行丸です。安行丸については、海軍省発行の「海軍歴史」(近代デジにあります)に載っていますが、それによれば、以下です。
原名 サーラ(Sarah)
舟形 蒸気内車
船質 鉄
幅長 長卅(30)間 巾3間
馬力 45
頓数 160
製造国名 英
造年 1862(文久2年)
造地 ギリーノック(スコットランド クライド湾 グリーノックGreenock造船所)
受取年月 同年9月3日
受取地名 長崎
償 75000弗(ドル)
原主 エアルテルバイ組合
慶応元年丑年11月賞於和蘭ボウドウィン
ちなみに同書には、大洲藩の所有船として、伊呂波(いろは)丸も載っているのですが、当然のことながら、ちがっているのは受け取り年月日以下、のみです。
受取年月 慶応2年寅年(1862)
受取地名 長崎
償 70000弗(ドル)
原主 和蘭ボードウィン
慶応3卯年5月於中国内海與明光丸相○沈没
一方、長崎運上所への届けには、「薩摩藩は慶応2年(1866)正月5日、ポルトガル領事ロウレイロに安行丸を売却した」旨、あるそうです。
「慶応元年丑年11月賞於和蘭ボウドウィン」といいますことは、あるいはこのとき、ボードウィンが薩摩藩の借金の形に押さえたのかもしれません。
船名につきましては、サーラの船名が安行丸に変わり、おそらくはロウレイロの名義になりました時点で、アビソ号となったわけです。
えー、「モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編」をご覧ください。
「オランダとの取り引きは米中心であったとされていまして、これが米を運搬して有利な相場で売り払う、投機的なものであったとは、目から鱗、でした。
なるほど。それで、オランダ商人(アルフォンス・ボードウィン)との取り引きのみはうまくいき、結局、押し詰まった時点での薩摩への出資者は、オランダのみになったわけなのですね」
と書いておりますが、あるいは安行丸は、ボードウィンが一度押さえて、イギリス系商社に所有が移ったのかもしれませんし、薩摩との取り引きが上手くいっていたボードウィンは、薩摩藩の保証さえあれば金を貸した、ということなのではないしょうか。
これを証明するには、玉里史料でもあさってみるといいのかもしれませんが、いや、そこまでする気はないのですけれども。
また、契約書の立会人になっていますアデリアン商会はいったいなになのか、という問題もあります。アデリアン商会はベルギー系ともいわれ、だとすればモンブランもからんでいたりするのでしょうか。大洲藩が買った時点での、安行丸=アビソ号の実の船主は、結局、わけがわかりません。岡美穂子氏が論文を書かれるそうでして、楽しみなんですが、どこに発表されるのでしょう。読めなかったりしたら、とても残念なんですが。
ともかく、です。
海千山千の五代友厚の話に、国島と井上は飛びついたわけですね。
いや、大洲藩が長州よりだとはわかっていることですし、五代にしてみれば味方にしておきたい小藩へのサービスかもしれませんし、薩摩藩の保証で蒸気船が買えるのは、小藩にとって、ありがたいことだったのかもしれないんですけれども。
しかし、借りた金は返さなければならないんですし、大金の支出を、藩庁が認めるかどうかが、問題です。
そこで思いついたのが、藩主・加藤泰秋への直訴、ではなかったでしょうか。
泰秋は、弘化3年(1846)生まれ。このとき21歳という若い藩主です。元治元年(1867)、国許で藩主の兄が急逝し、江戸へ出て幕府に家督相続を認められますが、慶応2年の9月まで、お国入りが許されなかったのです。
「大洲市誌」によれば、同年6月の武田敬孝の建白書には、まっさきに「一刻も早く藩主の帰国を願うべきこと」とあったそうです。
広瀬常と森有礼 美女ありき10で書いたのですが、函館にいた武田斐三郎は、元治元年(1864)4月、江戸出張を命じられ、7月23日付けで開成所教授、次いで大砲製造頭取になり、江戸にいたんです。
敬孝は、若い藩主の師であったようですし、大洲藩のために、洋式兵術の取り組みにおいて最先端にいる弟を、頼りにしないということがあるでしょうか。兄の頼みで、斐三郎が若い藩主の元を訪れ、新式兵器や蒸気船の必要性を訴えた可能性は、十分にあると思います。
とすれば、泰秋は蒸気船購入に大乗り気だったかもしれませんし、加藤家関係者の手で編纂されたと思われる「大洲藩史料」が、いろは丸購入を「庁議を経たもの」であった、としたのは、あるいは、泰秋にとってはそうだったから、なのかもしれません。
国島と井上は、ロウレイロと契約をかわし、ボードウィンから借りて、4万メキシコドル全額を払い、いろは丸と名付けましたが、ボードウィンと大洲藩の契約は、正式なものになっていなかったのでしょう。
9月、いろは丸は薩摩藩の船印をかかげ、亀山社中の手を借りて、ちょうど泰秋の初のお国入りにあわせて、長浜港に回航されます。このときのいろは丸の船籍は、薩摩藩です。
「いろは丸終始顛末」によりますと、「御召艦を曳き、運転の自在と速力とを親しく君侯の御覧に入れると云ふ計画てあった」ということなのですが、従来の和船の曳き船の舟子が失望する、というので、それは取りやめになったそうです。藩主のお召艦を曳くというのは、名誉なことだったんでしょうね。
ともかく、です。泰秋の鶴の一声で、藩内の反対の声は抑えられ、ボードウィンとの借金契約も事後承諾され、家老たちも購入契約書に判を押さざるをえなかったのではないかと、私は思います。
慶応3年末のことになりますが、西宮警備を受け持っていました大洲藩は、薩長芸出兵計画に同調し、まだ公式には復権していませんで(討幕の密勅は出ていますので、秘密裏には復権していますが)、朝敵のままの長州藩兵の西宮上陸に、全面的に協力しました。いくら長州と親密だったとはいえ、小藩にとって、これは大胆な賭けでしたが、藩主・泰秋の決断であった、といわれます。
ただ、最初の頭金が、全額そろわなかったのではないでしょうか。
いろは丸の代金と大洲藩の借金額につきましては、下の本に収録されました織田毅氏の「再考・いろは丸事件 ー賠償金はなぜ減額されたのか」が、紀州藩の史料を駆使して、詳しく述べてくれています。
共同研究・坂本龍馬 | |
クリエーター情報なし | |
新人物往来社 |
いろは丸の代金は、契約書とぴったり一致しまして、40000メキシコドル、邦貨にして31000両です。
豊川渉の「いろは丸終始顛末」が「価約三万円で買受の契約が成立した」といっていますのは、この船のもともとの価を邦貨で述べたものなのでしょう。
しかし、ボードウィンからの借金には、一割の利子がつきます。最初の頭金を含めて4回払いで、総額46600メキシコドル、邦貨にして36115両になります。
「大井上家系譜」の「価メキシコドルテル銀四万五千枚」は、この借金総額、おおよそのところをメキシコドルで述べていると思われます。
問題は、「大洲藩史料」です。「代金四万貳千両五度の拂込約定にて購求するを得たり」ということは、「邦貨42000両を5度にわけて払い込み」ということになるのですけれども、この謎をとく鍵も、織田論文にありました。
一航海のみの約束で海援隊に貸し出されましたいろは丸は、慶応3年(1867)4月23日、紀州藩船・明光丸とぶつかって、沈みます。それにいたしましても海援隊は、船をおしゃかにする名人ですね。
倍書金問題が持ち上がり、最終的には五代友厚が担ぎ出されるのですけれども、ボードウィンと大洲藩との借金契約をよく知ります五代が、書面上の借金総額につけくわえまして、大洲藩が支払った金額を、次のように述べているんです。
このときまでに大洲藩がボードウィンに支払っておりました金額は、初回、慶応2年払い込みの6200両(80000メキシコドル)のみです。
これに、10ヶ月分の利子一割、510両1歩3朱が上乗せされていた、というんですね。
といいますことは、慶応2年中に、大洲藩は初回金を払いこめなかったことになります。
いつ払ったのかはわかりませんが、海援隊に一航海500両でいろは丸を貸し出したことについても、この利子上乗せ分の500両をかせぐためだったのではないか、と思えます。
五代はさらに、「金5250両 船買入につき通弁その外謝礼ならび道具代とも」としておりまして、これは借金契約に含まれませんから、初回、ロウレイロとの購入契約時に邦貨で払ったものと受け取れます。
ボードウィンへの借金総額邦貨36115両に、初回支払い遅れで生じました余分の利子邦貨510両、借金とは別に、最初に払い込みました邦貨5250両をあわせますと、41875両となり、「大洲藩史料」が「邦貨42000両を5度にわけて払い込み」としていることの意味がわかります。
大洲市立博物館学芸員の山田さま、ヒントをありがとうございました。
「いろは丸終始顛末」によれば、慶応2年9月、丸に十字の薩摩藩の船印をつけ、亀山社中の手で長浜に回航されたいろは丸は、ちょうど初のお国入りで長浜に入港しました藩主・泰秋のお目にかけたのち、同月、再び慌ただしく長崎へ向かいました。最初の諸経費、5250両には、この往復航海の亀山社中への支払いも、含まれていたんでしょうね。
そして11月、大洲藩の船印・赤字に白の蛇の目紋をかかげて長浜港に帰ってきましたいろは丸は、同月14日、新たな乗組員のもと、晒蝋、木附子(黒の染料)、松板といった大洲の産物を積んで、19日に出港します。豊川渉とその父が乗り組みましたのも、このときです。
船の運用方に橋本久太夫、俗事方下役に和泉屋金兵衛、機関方に山本謙吉、柴田八兵衛と、亀山社中から4名を借り受け、協力を得ていましたが、船将、士官ほか、乗組員の多くは大洲藩士ですし、運用方、機関方には見習いを入れて、あきらかに、大洲藩の人員のみでの運用をめざしていました。もう少し後の話になりますが、長浜出身で、幕府軍艦に測量方として乗り組んでいた大塚明之助が呼び返され、乗り組んだりもしています。
しかし、このとき、購入責任者である国島六左衛門は長崎に留まったままでした。
借金の初回払い込み、邦貨6200両が用意がおぼつかなかった故ではないか、と推測されます。
晒蝋、木附子など、大洲から運んでくる産物を、売り込んでその足しにする手配なども、あったんでしょうね。
いろは丸が長崎へ着いたのは、22日の朝です。このとき長州は、下関を封鎖し、長州に敵対する松山藩の船などは通しませんでしたが、大洲藩は味方ですので、支障なく通ったそうです。
いろは丸は、積み荷を陸揚げし、石炭を積み込み、いつでも出航できる状態となりましたが、なかなか、出航の日取りが決まらず、長崎に停泊したままでした。
そして12月25日、ようやく出航がきまるのですが、その朝になって、国島六左衛門が突然、割腹自殺します。
遺書はなかったそうなのですが、その理由を、豊川渉の「いろは丸終始顛末」は、次のように記しています。
「国島氏の自裁に就ては遺言もなく、誰も知る者はなかったが、既に一ヶ月余りも徒しく碇泊したるも、実は金融上から出船の運ひにならず、幾回も出船の延引を重ねた末、年末の廿五日と発表にはなったものの、氏か数百円の責任を負うて居られたとのことである」
これではっきりするのですが、大洲藩は、慶応2年中に払い込むはずの6200両を用意できず、国島がボードウィンと交渉を重ねた結果、10ヶ月分の利子一割、510両1歩3朱を上乗せすることで、決着がついた、ということでしょう。その上のせされた510両1歩3朱の責任をとって、国島は割腹したというのです。なんとも……、悲しい話ですね。
大洲藩の金策の苦労を示すと思われる事実が、もう一つ、桜井論文に載せられています。
大洲藩江戸留守居役・友松弘蔵は、12月16日付けで幕府に、「大洲藩領の町人・対馬屋定兵衛が、ボードウィンからいろは丸を買いました。大洲藩士がこの船に乗り込み、運用しています。九州。四国、中国はもちろん、ご当地(江戸)、奥州、松前、箱館辺へも航行する予定でして、風や潮の状況によりまして、どこの港へ入港することになるかわかりません。外国船とまちがわれては困りますので、日の丸はもちろん、大洲藩の船印をもちいたいと思いますので、その筋筋へお達し願えたら幸いです」と、届け出ているんです。
頭金が間に合わず、大洲船籍にすることができないでいるいろは丸を、大洲藩の船として運用するための、苦肉の策だったんでしょう。
文中、「奥州、松前、箱館辺」とありますことは、将来のいろは丸運用に、武田斐三郎が噛んでいるものと推測できますし、この異例の届け出も、幕臣である斐三郎の知恵と斡旋があったものと、考えていいのではないでしょうか。
国島の自害は秘密にされていたのですが、どこから聞いたのか(おそらく井上将策が知らせたんでしょう)、五代友厚と坂本龍馬が訪れてきます。「いろは丸終始顛末」において、これが初めての龍馬の登場なのですが、実に印象的なのです。以下、引用です。
「坂本氏は、国島氏の死体を検し、胸下の刀痕を己が指頭を以て探りなどして、武士たるものが己の所存が成立ねば死するの外はない。嗚呼、一知己を失ったと、嘆息して辞し去った」
たったの510両1歩3朱です。しかし、小藩にとりましては、それさえ重荷だったのでしょうし、自分の責任でかならず大洲藩籍の船にしてみせる、という責任感を持って交渉に臨みました国島は、快く購入を認めてくれた藩主泰秋の手前もあり、交渉失敗の責任を思いつめたのでしょう。あるいは、なんですが、大洲藩の支払い能力を疑ったボードウィンが、いろは丸に大洲藩の旗印をかかげることさえ、拒否したかもしれませんし。
もし、そうだったとすれば、国島の死によって、改めて五代が介入し、薩摩が保証するから大洲藩の旗印を、と、ボードウィンを説得したのでしょう。
そして……、その薩摩藩のわずかな援助だけで、確実な後ろ楯なく、亀山社中を成り立たせようと苦労してきました龍馬にとっては、同じ交易商社の夢を追って活動しようとしている、わずか六万石の小藩の悲哀が、身に染みたのでしょう。
とすれば、慶応3年の4月、亀山社中が海援隊となり、土佐という大藩の確かな後ろ楯を得ましたとき、最初に、いろは丸を借りたいと申し出ましたのは、国島六左衛門への哀悼の意を、形にしてあらわしたかったから、ではなかったでしょうか。
一航海の借り賃500両は、ほぼ、国島がそのために死んだ利子の額にあたります。そしてそれは、なにがありましても、土佐藩から大洲藩に支払われることが確実なのです。
結果的に、いろは丸は沈み、龍馬の好意は裏目に出た、ともいえるのですが、なにもそれは龍馬のせいではないわけですし、おそらく龍馬は、国島の悲願に思いを馳せながら、大藩である紀州との賠償交渉にのぞんだのだと、そう思えます。
大洲藩は、長州藩と緊密な関係にあったことはすでに延べましたが、土佐藩ともそうでした。
新藩主・泰秋の正妻・福子は、徳大寺公純の娘でしたが、山内豊資の養女になって嫁いでいたんです。
武田敬孝は、いく度も、使者となって土佐へ赴いていて、慶応3年10月にも副使となって、正使・大橋采女とともに訪れていたのですが、4日に須崎に宿泊しましたところ、隣の宿に龍馬がいると知り、翌5日、会談しました。
いろは丸と国島の話が、出たでしょうね。
そのわずか40日後、龍馬は刺客に襲われ、維新を見ることなく世を去ります。
私、書きながら考えるものでして、この結末を、最初から想定していたわけではないのです。
事実は小説より奇なり。
坂本龍馬は、とても情が深く、義理堅い人柄だったんですね。
これまで、「流離譚」で安岡章太郎氏が描かれました龍馬が、一番好きだったのですが、今回、自分で書いていて、惚れました。
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確か、どなたかが指摘してくださったのですが、国島が自害したとき、龍馬は長崎にいなかったような話です。ですから、その部分は「いろは丸終始顛末」のまちがいだった、ということになるんですけれども、龍馬の言葉が実は五代の言葉だったかもしれませんし、龍馬は後から聞き知ったということになるんでしょうけれども、大筋で私は自分の推理がはずれているとは、とても思えないんですね。
朝ドラの五代はとてつもないやさ男でしたが、実際は、相当なやり手のくわせものです。密航していったパリで、娼館で遊びまくった(おそらく藩の金で)ことを日記に付けた武士は、当時、他にいないと思います。
どっちみち、借金付きの船を大洲藩に押しつけたのが五代であることはまちがいないですし、龍馬は、その借金の一助になればと借りたとしか思えないんです。
読んで頂いて、ありがとうございました。
最初にいろは丸事件をパパっと検索して見てみると、「なんだ国島は坂本に騙されたのか、坂本嫌な奴」などと安易に思っておりましたが、さらに事件を追ってこのサイトに辿り着き、「あれ、よくよく調べればまったく逆の情け深い人」と相成り、インターネットの怖さというか、自分の調べ方の浅はかさを知りました。
「いろは丸」=坂本龍馬ではなく、いろは丸は小藩の何であったのかとあらためて考えてみたいものです。
維新の大改革は近世日本の大改革、大成功で、それなりの無理難題も「心優しき日本人」の美徳で歴史はながれたのでしょうが、その生活を時間きざみで考えますと楽しませてくれるものがたりがあるように感じます。
史実ではなく「小説」になってしまいしょうです。
(信長の馬廻り 長兵衛長持)
肱川の河口「長浜港」は藩の重要なインフラの一翼だったのでしょう。祖母はそこから嫁いできたのですが、親族、縁者は大陸へ、外国航路へ、観世流の謡曲師、はたまた俳優、医者とまあ、大変
大正、昭和、今、平成になりました。
機会を楽しみにしております。
戸籍を見ますと、うちの高祖母のトキは、郡中に生まれて、幕末、子供の頃にわが家の養女になっております。それで、郡中の幕末については多少調べてみたのですが、すぐ隣が佐幕の松山藩ですし、多数の農兵を取り立て、必死の軍備増強だったみたいです。一方、トキにとっては嫁にあたります曾祖母は、4、5百石取りの中級松山藩士の家に生まれましたが、明治維新で落魄れ果てまして、曾祖母の兄の永太郎は、昭和3年に大連で死んでいます。私も、なにか書き残しておくべきなのかなあ、と思いつつ、なかなか、です。
ぜひ一度、お目にかかりたいものです。
いろは丸は山の中の外様にとりましてどのような意味を、展望を持っていたのか、まさに「ロマンと謎」です。墓参りを致すたびに文才があればなと思う次第です。
早速、たいへんご丁寧なお返事をくださり、まことにありがとうございました。
なるほど。大橋采女についての史料を探すのは、なかなか難しそうですね。
「大洲藩史料」がいちばん可能性がありそうですが、大洲の図書館に行かないと見られないのですね・・・。
愛媛県立図書館所蔵の「大洲市史」をいつか調べていただけるとのこと。お手数をお掛けしてしまい、恐縮ですが、たいへん嬉しいです。
いつでもかまいませんので、ご報告をお待ちしております。
どうぞよろしくお願いいたします。
映涼
ここで私が、「武田敬孝は、いく度も、使者となって土佐へ赴いていて、慶応3年10月にも副使となって、正使・大橋采女とともに訪れていた」と書いておりますのが、なにによったのかを、はっきりとは思い出せないのですが、「いろは丸と大洲と龍馬 上」に書いております桜井久次郎氏の論文『いろは丸と洪福丸 大洲藩商易活動の挫折』(昭和50年 伊予史談)ではなかったか、と思うのですが、伊予史談のバックナンバーは、愛媛県立図書館にそろっています。この論文には、武田敬孝の遺稿が多く引用されてまして、確か桜井久次郎氏によりますその遺稿の解読写し原稿が、大洲の図書館にあったと思うのですが、大橋采女のことが詳しく載っていたとは思えません。
桜井久次郎氏は、大洲の郷土史家だった方で、すでに亡くなられております。
あとは「大洲藩史料」かな、と思ったりしますが、これがまた確か、大洲の図書館まで行かなければ、見られなかったような気がします。
大洲藩は5万石の小藩でしたから、史料の保存もあまり、ちゃんとはされていないんです。おまけに、藩主だった加藤家が持っておられました史料は、東京にもっていっていて、大震災と戦災で、かなりやられたみたいです。
ただ、広瀬常と森有礼 美女ありき13に書いておりますが、「力石本加藤家譜」など、大洲藩の史料の写しは、かなり伊予史談会が持っています。しかし大方、コピーをさせてくれませんで、見るのが大変です。
「大洲市史」が、一部、そういった大洲藩の史料を使って書かれていますので、いつになるかわかりませんが、今度県立図書館へ行きましたときには、見てみますね。
それがまた、この「大洲市史」、特にいろは丸関係は、超いいかげんな記述です。専門家の手になるものじゃないそうでして。
松山は現在、県庁所在地ですので、まがりなりにも、松山藩史料集、みたいなものが刊行されているんですけれども、大洲はさっぱりです。
あんまりお役に立てませんで、申し訳のないことです。
はじめまして。
大橋采女について、ご教授いただければと思い、恐縮ながら、コメントを投稿させていただきました。
WEB上で検索をしてみますと、大洲藩の家老・大橋采女について、まったくと言って良いほど、情報がございません。
大洲藩関連の資料や、詳細な人名事典などにあたれば、何かわかるのかもしれませんが、まだ文献は調べておりません。
お手すきの際に、ご返信いただけますと幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
篠原友恵さま、購入して読ませていただきましたが、豊川渉氏は郡中出身でいらしたんですね。うちの高祖母は郡中の出だったと、最近、初めて知りまして、ちょうど幕末の話ですし、実に興味深く読ませていただきました。創風社さんは知り合いなんですが、面倒になってアマゾンで買わせていただきました(笑)
私は、ブログ記事の中に登場する大塚明之助の
子孫にあたるものです。
大塚明之助については、
維新後の大阪での活動については、
いくつかの文献に名前が登場したり、
本人が出版した書籍が残っていたりするので、ある程度足跡を追うことが出来ているのですが、
今まで大洲での記録を
一切見つけることが出来ずにおりました。
今回、貴ブログで先祖の名前を発見し、
慌ててコメントを書いております。
初めての投稿で大変不躾なお願いですが、
大塚明之助のことが書かれている資料などの
名称が分かれば、
教えていただけませんでしょうか?
いずれ家族で大洲を訪れて、
色々調べてみたいと考えております。
どうぞよろしくお願いいたします。
自伝を書かれておりましたんですね。
伊予市史史料の解説文は、もとになりました資料について、非常にわかり辛いものでして、ありがたいご教授でした。
ぜひ、出版していただきたいものです。
どうぞ、またお越しくださいませ。
篠原さま、お手持ちのコピー原稿とは、「いろは丸航海日記 」とも呼ばれます、豊川渉氏の明治のご著作、なのでしょうか。そのもとになりました幕末当時の日記そのものでは、やはりない、ということになりますか? お教え願えれば幸いです。
もとの原稿といっても、曾祖父が書いたものを戦後早い時期に和文タイプで起こしたものです。ところどころ判読不能の箇所もあります。歴史的資料となる第1部95Pあります。
今は貸し出し中です。
「いろは丸終始顛末」(いろは丸航海日記 )は、伊予市教育委員会発行「伊予市史資料 第5号」に収録されています。私は、図書館で借りて読みました。これの解説に、元の日記は行方不明とありました。解説文がちょっとわかり辛いものでして、「いろは丸終始顛末」と「いろは丸航海日記」と、どちらで呼べばいいのか、ちょっとわからないんですけれど。
いろは丸事件について、私が知りたかったことを、書いてくださっているみたいです。
ぜひ、購入したいと思います。
「いろは丸事件」については、近々海文堂出版からこういう本も出版されるようです。
ご参考までに。。
http://www.kaibundo.jp/syousai/ISBN978-4-303-63433-9.htm