郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

広瀬常と森有礼 美女ありき6

2010年09月11日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき5の続きです。

 明治5年(1872)9月、17歳の常は、15歳4ヶ月だとさばをよんで、開拓使女学校に入学したわけなんですけれども、通史. 第一章 開拓使の設置と仮学校(一八六九~一八七六)を見ますと、最初の入学条件に、「卒業後、北海道に永住すること」とあったそうです。となれば、広瀬常と森有礼 美女ありき1で妄想してみましたように、広瀬寅五郎=秀雄で、常は函館で少女時代を過ごした可能性が、非常に高いと思います。
 一家の静岡移住がうまくいかず、じゃあ慣れ親しんだ函館へ行こうか、函館には昔の同心仲間もいることだし、となったところへ、開拓使女学校の生徒募集があり、おそらく、なんですが、広瀬一家には男子の跡取りがいませんで、長女の常は、「手習いの先生か産婆さんか手に職を」と思った、という妄想は、それほど突飛なものではないでしょう。

 ところが翌明治6年(1873)4月、突然、校則が変わります。「5年間開拓使に従事すること、北海道に在籍する者と結婚すること、退学の場合は学費を弁済すること」となったんです。
 5年間の開拓使従事は、給料をもらえるのならば、まあいいでしょう。しかし北海道在籍者と結婚することって、どうなんでしょ。ただ、まあ、この時点では、あれです。5年間、なにをするのかわかりませんが、まあ例えば学校の先生とか、開拓使に奉職してしまえば、結婚云々はうやむやになってしまうかもしれませんし、常の場合、函館移住の後、かつての秀雄の同僚の家から養子をもらう、という線も考えられて、抵抗がなかったかも、しれません。

 ところが翌明治7年の4月、ベンジャミン・スミス・ライマンという開拓使お雇いアメリカ人地質学者が、常を見初めて、「あの娘が欲しい~♪」とわめきだしたんですね。
 ライマンの人間像については、藤田文子氏の下の本が、公平に見たところを、描いてくれていると思います。

北海道を開拓したアメリカ人 (新潮選書)
藤田 文子
新潮社


 黒田清隆が開拓使に招くアメリカ人を選ぶにあたって、森有礼にすべて頼ったことは、前回、紹介しました。
 実のところ、有礼がきっちり学問を修めたのは、ロンドン大学でのほぼ2年間だけでして、アメリカでは、ハリス教団にいた経験しかありません。しかしこのハリス教団、当時、世界を牛耳っておりました欧州の既成の価値観を否定していましたから、世界を救うのは新大陸のアメリカと東洋、ということで、日本人留学生勧誘に乗り出したんですね。
 したがいまして有礼は、実情を知らないままに、アメリカには非常に好感を抱いていたはずなのです。
 有礼のすごいところは、です。自分が正しいと思い込みますと、まわりの雑音など気にもとめず、もうしゃにむに押していきます、その実行力です。そのときに、さっぱり、まったく気配りがないですから、大きな反発をくらって、うまくいかなかったりするのですが、その信念には私情がないですから、人を使うのが上手い大久保利通と伊藤博文には能力を買われて、バックアップしてもらえたんでしょうね。

 岩倉使節団の宗教問題 木戸vs大久保をいま読み返してみまして、大筋をまちがえていたとは思わないのですが、「天皇陛下の大権を軽重するや、曰く否」という大久保利通の最初の憲法観のブレーンは、維新直後の京都から、大久保のそばにいた森有礼だったのだと思います。
 で、あきらかに木戸も佐々木も、有礼が考える平田国学とスウェーデンボルグが一体となった「神」が、理解できなかったんでしょう。大久保は平田国学をかじった薩摩人ですから理解し、伊藤博文はおそらく、下関で白石正一郎などの国学を修めた商人層とのつきあいが深く、また、ものごとの本質を大づかみに理解する術に長けていますから、理解しえたのでしょうけれども、この時点では表現がまずく、「キリスト教を国教にしようとしている」という誤解を受けたのではないでしょうか。

 またも話が脱線してしまいましたが、ともかく、です。有礼は北海道開拓の構想をまかせられるアメリカ人を獲得すべく、アメリカ農務局長のケプロンに相談をもちかけますが、要職にあるそのケプロン本人が、来日してもいいという意向で、有礼も黒田も大感激し、長はケプロン、そして他の人材の人選を、すべてケプロンに任せます。
 というわけでして、「北海道開拓はアメリカを見習う」という方針は現実になったのですが、藤田文子氏がおっしゃるように、当時の北海道の現実と、アメリカ式開拓には多大なギャップがありまして、資金不足も手伝い、お雇いアメリカ人と開拓使は、摩擦を起こしつつ、紆余曲折をくりひろげます。
 
 で、お雇いアメリカ人、と一口に言いましても、個性はさまざまなわけでして、一概にどーのこうの言えるものでもないのですが、開拓使との摩擦がもっとも大きかったのが、ライマンなのです。
 ライマン家は、17世紀にイギリスからボストンに渡った名門で、この当時、資産家ではありませんでしたが、教育レベルが高い、東部のインテリ一族だったようです。
 ベンジャミン・スミス・ライマンは、ニューイングランドの名門私立校からハーバード大学に進み、さらにヨーロッパに遊学して、当時、その方面で一流とされていましたパリの国立鉱山学校、フライブルグの王立鉱山学校でみっちり学び、地質鉱山技師となっていました。イギリス政府の委託を受けて、インドで石油鉱脈の調査をした経験もあり、すぐれた技能を持った学者であったことは、疑いのないところです。
 まあ、しかし、です。だからといって男として魅力的かといいますと、これはまた別の話でして、来日を決意した明治4年(1862)、36歳で独身でした。アメリカ人には珍しい無神論者で、菜食主義者。年ごろの娘を持つ父親からは、娘の夫としてあまりふさわしくないと敬遠されているらしいと、自分でも感じていたようです。
 いまでいうリベラルなインテリで、リンカーンが即時に奴隷制度を停止せず、黒人に差別的な意識を持っている、というので、南北戦争にも従軍しませんでした。そのくせ、です。アングロサクソン人種だけが統治能力を持ち、世界の秩序を保ちえると信じていましたので、帰国して後の話ですが、日清戦争、日露戦争と続く日本の勢力拡大を非難しつつ、アメリカのフィリピン併合は支持していたんだそうです。なぜならば、アメリカの支配は「共和制、自治、普通教育」を広め、住民の福祉を向上させるよい支配、だから、なのだとか。やれやれ。
 
 ライマンは、地質学調査の弟子となった日本人たちからは、後々までも慕われていまして、そういう立場にいるときには人格者であった、ともいえそうなのです。
 しかし、だからといって、男として魅力的かといいますと、まったくもって別の話なのです。
 なにより、「日本は、若い王子(アメリカ)が命を吹き込み、美しさを蘇らせる眠れる森の美女」だとみなしていたという、この気色の悪いあきれた上から目線がいけません。同じく開拓使お雇いアメリカ人のエドウィン・ダンや、イギリス外交官アーネスト・サトウのように、日本女性と添い遂げた外国人には、この啓蒙してやる!という、上から目線がありません。

 ライマンは口数が少なく、人づき合いが悪く、善意に解釈すればシャイだったんでしょうけれども、内心はこのあきれた上から目線です。
 自分で申し込めばいいものを、どうやら開拓使女学校に、「あの娘が欲しい~♪」と、申し出たらしいんですね。
 あんたっ、女学校は芸者の置屋じゃないんだから!!!
 しかしまた、受けた女学校側も女学校側でして、なにしろどうやら、校長の調所広丈さんはじめ、大名屋敷の行儀見習いと同じような気分です。
 学校当局は、「文明国の知識人で独身のお人が、正式に結婚を申し込んでおじゃったは、広瀬常にも学校にも名誉なことでごわはんか。わが校の教育がすぐれちょる証拠で、他の学生の励みにもなりもっそ」と、黒田に上申。
 だからねー、薩摩屋敷の行儀見習い奧女中じゃないんだから!!!

 常にしてみれば、驚愕、仰天でしょう。
 講談「天保六花撰」の河内山宗春が頭に浮かんだんじゃないですかしらん。
 「ライマンとやらって、いったい、どういう大名きどりよっ!!! 私は、あんたの奧女中じゃないわよっ。おとといきやがれっ!!!」
 開拓使役人だった松本十郎の回想によれば、学校当局からライマンの意向を知らされた常は、即座に、きっぱり断ったそうです。
 「広瀬家には男子がおりませんので、私は婿養子を迎えねばなりません。そうでなければ私、ご祖先さまに申し訳がたちませんのでございます」とかなんとか、上手な断り方は、いくらでもあったでしょう。
 また同じく松本によりますと、調所校長の下にいた福住三という幹事が、女生徒を個人的に女中のように使ったり、かなりうろんな人物であった、という話でして、ライマンが、「常には無理な事情があり、他の女生徒ではいかがで?」と福住に女衒のように言われて、「常がイエスと言わなかったなぞと、学校当局の陰謀だ!!!」と思ったのは、なんせ学校当局が女衒みたいなんですから、仕方がないといえばないんですが、それにいたしましても、「文明国の知識人が、未開国の女に正式に結婚を申し込んでやっているんだ」という態度で学校当局に迫ったんでしょうし、婚約者のいる奧女中を妾にしたいとわめく大名と、その姿勢に大差はないですわね。

 常識的に考えまして、黒田がこの事件を、有礼に語らないわけがないと思うんですのよ。
「ライマン先生、おなごを知りもはんな。常女はよかおなごじゃが芯がきつかで、うぶな先生の手におえるもんじゃなか。ワハハハハ」
 絶対に、黒田は、大笑いしながら話しましたわよ(笑)
 これ以前に、有礼が常を知っていたかどうかはわかりませんし、あるいは、なにしろ面食いですから、すでに目ざとく見初めていたかもしれないんですけれども、「常女こそ、神が定めたもうた魂の伴侶!」と舞い上がりましたのは、このときからでしょう。
 といいますのも、ライマン事件の直後、明治7年5月、明六雑誌に、有礼は「妻妾論ノ一」を発表しまして、自らの結婚観を語っているんです。従来、あまり注目されておりませんでしたけれども、この妻妾論の成り立ちと常の存在は、けっこうつながる話だと、私は思っております。
 まあ、そんなわけでして、ようやく次回、実際に二人が出会うことになります。


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5 コメント

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YUKAKO FUJII MASSOさま (郎女)
2015-11-16 14:24:20
タイトルをおつけいただくと、ありがたかったのですが、Unknwnがちょっと目障りですし、田の箇所のコメントは、失礼ながら、消させていただきますね。

広瀬常さんのご子孫、ご親戚がおありでしたら、どんな文句でもかまいませんので、つけに来てくだされば感涙です! どうぞ、お越しください!
ライマン氏に関します情報は、藤田文子氏の「北海道を開拓したアメリカ人」 (新潮選書)によるものでして、私が想像で書いた部分は、まったくありません。

海外にマークされるのでしたら、ネットで狙いをつけました強盗に、なにもありません自宅に勘違いして押し入られて、なにもなかった腹いせに刺されることも、なさそうですね。といいますか、最近アルソックのホームセキュリティをお願いしましたので、こちらも本名にして、よさげな気もいたしますけれども、まあ、このハンドルには強い愛着がございまして。

ライマン氏が日本のお弟子さんに慕われた学者さんだったことは、私も書いておりますが、おじいさまは、そういった関係者でおられるのでしょうか? だとすれば、りっぱなおじいさまをお持ちですね。うらやましいかぎりです。

どうぞ、お元気で。
返信する
Unknown (YUKAKO FUJII MASSO)
2015-11-16 11:07:44
このコメントを見るに、面白くも無い話、アメリカ人の男にモンクいって、面白かったみたいな、妄想の話でこれだけ気違った日本人が喜ぶって、だから日本は野蛮で気違ってるんです。
増して、アングロサクソンも何も、日本ですよ、中国やアジアを侵略したのは、反省がゼロ。
誰も上から目線じゃないし、啓蒙してないでしょう
多分、普通に女を探していたんでしょう。
それが何か?
バカなラインで、結婚の法を重んじてるこんな人達よりも、産んでもらって頭も良く、容姿もいいほうが好かれますからね。
さっきのコメントも私ですから。
多分、ライマンはなんらかの私の祖父の関係者だと思うんで、親戚なりなんなり、あんたたちみたいなのは、不愉快です。
また、私が来たからには、海外にもIDをマークされると思うので、覚悟はしてください。
呆れた。なんでも思った事を想像で書くにも、下品にして、バカすぎます。
実に愚劣ですね。
返信する
Unknown (ばかじゃないの?)
2015-11-16 11:04:31
あんたさ、その広瀬にもライマンにも先祖や100を超える親戚がいて、それでこれを見てどう思うか、考えたことあるわけ?
図に乗ってるんじゃないですか?
あんたのID調べがついても、私のせいじゃありませんので。
呆れた。図に乗って。
本人達が言ってもいない事を書き並べて。図に乗って。
それで、その独身ライマンってありますが、日本に来る前に結婚してたようですけれど。アムハーストによると奥さんの(アメリカ人の)研究所があったようで、そこから日本に行ったんです。2番目とか3番目とかそういう概念じゃないですか?だってそういう時代ですからね。
あんたが、怒る事でもないでしょう、屑。
返信する
Nezuさま (郎女)
2010-09-12 16:28:19
私は女学校に通ったことがありませず、しかし、言われてみましたら、昔、友達が女子大の寮にいまして、訪ねたときの雰囲気には、確かに、行儀見習いか! といった雰囲気が、ただよっておりましたです。とっても、怖かったのを思い出しました!

また、お会いできますことを。
返信する
女性観 (Nezu)
2010-09-11 09:46:24
昔から 場を得られれば おなごは強~うござんす!

当時 かく在りなんと思うような舞台場面が
目に浮かびます。

面白かった~♪

女学校のあり方~現在にも通じますね。
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