日本語の「は」と「が」について。

象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
とりあえず「三上文法」を「批判」します。

(62)「私は・私が長谷川です。」の「は・が」について。

2018-07-24 19:04:27 | 「は」と「が」
(01)
「ギリシャ語やラテン語」の場合は、「その語尾」が「主語(主格)の形」をしてゐる「名詞」が「主語」であって、「英語」の場合は、「文頭の名詞」が「主語」である。
然るに、
(02)
① 私は長谷川です。
② 古文は嫌いです。
であれば、
① I am 長谷川。
② I don't like 古文。
といふことになり、
(03)
③ 私長谷川です。
④ 古文嫌いです。
であっても、
③ I am 長谷川。
④ I don't like 古文。
といふことになる。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
「日本語」の場合、「~は・~が」といふ「形」をしてゐても、「文頭」にあっても、「主語」であるとは、限らない。
従って、
(01)(04)により、
(05)
「ギリシャ語やラテン語」や「英語」のやうな「主語」だけを、「主語」と呼ぶのであれば、「日本語」には「主語」が無い。
然るに、
(06)
そこで「長谷川」を題目にして、
「長谷川は私です。」
としたいところだ。この「長谷川」と「私」の位置を交換すると、「は」が「が」になって、
「私長谷川です。」
となる。だから、この場合の「が」は、普通の「雨が降ってきた」「牡丹の花が濡れている」の「が」とちょっとちがい、強く発音される「」だ。
(金田一春彦、日本語 新版(下)、1988年、93頁)
然るに、
(07)
清音と
日本語の子音で重要なことは、カ行・サ行・・・・・・のちがいよりも清音と音の違いで効果が違うことである。清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである。
(金田一春彦、日本語 新版(上)、1988年、131頁)
従って、
(06)(07)により、
(08)
」といふ「音」は、普通に「発音」したとしても、「は」といふ「清音」より、「(心理的な)音量」が「大きい」。
従って、
(08)により、
(09)
固より、「私」は、「私は」に対する、「強調形」である。
従って、
(02)(03)(09)により、
(10)
① I am 長谷川。
に於いて、
① I を、「強調」した「形」が、
① 私は長谷川です。
に対する、
② 私長谷川です。
である。といふことになる。
然るに、
(11)
② 私以外は、長谷川でない
といふ風に、すなはち、
② 私でないならば、長谷川でない
といふ風に、言ひたいのであれば、その場合は、
① I am 長谷川。
に於いて、
I が、「強調」されることは、「普通」である。
然るに、
(12)
(a)
1  (1)私でないならば長谷川でない。 仮定
 2 (2)私でない。          仮定
  3(3)       長谷川である。 仮定
12 (4)       長谷川でない。 12前件肯定
123(5)長谷川であるが長谷川でない。 34&導入
1 3(6)私でないでない。       25背理法
1 3(7)私である。          6二重否定
1  (8)長谷川であるならば私である。 37条件法
(b)
1  (1)長谷川であるならば私である。 仮定
 2 (2)長谷川である。        仮定
  3(3)         私でない。 仮定
12 (4)         私である。 12前件肯定
123(5)私でないのに私である。    34&導入
1 3(6)長谷川でない。        25背理法
1  (7)私でないならば長谷川でない。 36条件法
cf.
(a)
1  (1)~A→~B 仮定
 2 (2)~A    仮定
  3(3)    B 仮定
12 (4)   ~B 12前件肯定
123(5) B&~B 34&導入
1 3(6)~~A   25背理法
1 3(7)  A   6二重否定
1  (8) B→ A 37条件法
(b)
1  (1) B→ A 仮定
 2 (2) B    仮定 
  3(3)   ~A 仮定
12 (4)    A 12前件肯定
123(5) ~A&A 34導入
1 3(6)~B    25背理法
1  (7)~A→~B 36条件法
従って、
(12)により、
(13)
② 私でないならば、長谷川でない
といふことは、
② 長谷川であるならば、私である。
といふことに、等しい。
cf.
対偶(Contraposition)は等しい。
然るに、
(14)
② 私でないならば、長谷川でない
② 長谷川であるならば、私である。
といふことは、
② 私以外は長谷川でない
② 長谷川は私です。
といふことに、他ならない。
従って、
(06)(14)により、
(15)
「長谷川は私です。」
としたいところだ。この「長谷川」と「私」の位置を交換すると、「は」が「」になって、
「私長谷川です。」
となる。といふことは、
① 私長谷川です。
② 長谷川は私です。
③ 私以外は長谷川でない
に於いて、
①=②=③ である。
といふことを、示してゐる。
然るに、
(16)
【名字】長谷川
【読み】はせがわ,はせかわ,はぜがわ,はやがわ,ながたにがわ
【全国順位】 33位
【全国人数】 およそ379,000人
(苗字由来ネット)
従って、
(16)により、
(17)
「長谷川さんは、全国におよそ379,000人」である以上、
① 私長谷川です。
② 長谷川は私です。
③ 私以外は長谷川でない
といふのであれば、この場合の「長谷川」は、「不特定の、a 長谷川」ではなく、「ある特定の、the 長谷川」で、なければならない。
従って、
(15)(17)により、
(18)
① 私が a 長谷川 です。
② A 長谷川は 私です。
③ 私以外は a 長谷川でない。
ではなく、
① 私 the 長谷川 です。
② The 長谷川は 私です。
③ 私以外は the 長谷川でない
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(19)
「私は西山・・・・・・」
と切り出した。一方、長谷川先生は思った。相手は自分の名前を知っていて、それをたよりにやってきた。
(金田一春彦、日本語 新版(下)、1988年、93頁)
然るに、
(20)
「相手は自分の名前を知っていて、それをたよりにやってきた。」といふのであれば、
① 私が a 長谷川 です。
② A 長谷川は 私です。
③ 私以外は a 長谷川でない。
ではなく、
① 私が the 長谷川 です。
The 長谷川は 私です。
③ 私以外は the 長谷川でない。
でなければ、ならない。
従って、
(07)~(20)により、
(21)
① 私が長谷川です。
② 長谷川は私です。
に於いて、
①=② である。
といふことは、
① 私長谷川です。
② 長谷川は私です。
③ 私以外は長谷川でない
に於いて、
①=②=③ である。
といふことに、他ならない。
然るに、
(22)
「私は」と「私
芥川龍之介の『手巾』の中で、長谷川先生の家を西山という生徒の母親が訪問して、初対面の挨拶をするくだりで。二人はこう言う。
「私が長谷川です」
「私は、西山憲一郎の母でございます」
グレン・ショウの英訳では両方とも、
"I am Hasegawa."
"I am Nishiyama Kenichiro's mother."
で、同じ形になっているが、日本語ではちがっている。
なぜ日本語では、こういうちがいが起こるのか。相手との会話では、題目には、相手の知っているものを選び、相手にとって未知なものは、あとの説明の部分におくのが望ましい。西山夫人は思った。長谷川先生は自分が何者であるかをご存じないだろう。長谷川先生は今私の顔をご覧になっている。そこでそれを題目にして、
「私は西山・・・・・・」
と切り出した。一方、長谷川先生は思った。相手は自分の名前を知っていて、それをたよりにやってきた。長谷川先生はどの人だろうと思っているはずだ。そこで「長谷川」を題目にして、
「長谷川は私です。」
としたいところだ。この「長谷川」と「私」の位置を交換すると、「は」が「」になって、
「私長谷川です。」
となる。
(金田一春彦、日本語 新版(下)、1988年、93頁)
従って、
(22)により、
(23)
金田一春彦先生は、
① 私長谷川です。
② 長谷川は私です。
といふ「日本語」を、「題目」といふ「用語」を用ゐて、「説明」されてゐる。
然るに、
(24)
② 長谷川は私です(H→W)。
③ 私以外は長谷川でない(~W→~H)。
に於いて、
②=③ である。
といふことは、すなはち、「対偶は等しい」といふことは、「論理学を否定」しない限り、認めざるを得ない。
従って、
(23)(24)により、
(25)
金田一春彦先生が、「対偶は等しい」といふことを「否定」しないのであれば、
③ 私以外は長谷川でない
に於ける、
③ 私以外
も、「題目」である。といふことになる。
然るに、
(26)
相手は自分の名前を知っていて、それをたよりにやってきた。長谷川先生はどの人だろうと思っているはずだ。そこで「私以外」を題目にして、
③ 私以外は長谷川でない
とする。といふ「説明」は、「無理」である。
従って、
(27)
① 私長谷川です。
② 長谷川は私です。
③ 私以外は長谷川でない
に於いて、
①=②=③ である。
といふ「事実」を、「題目」といふ「用語」を用ゐて、「説明」することは、出来ない。