日本語の「は」と「が」について。

象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
とりあえず「三上文法」を「批判」します。

(83)「私が」は「私は」よりも「私」が強調されている。

2018-09-06 17:10:17 | 訓読
(01)
もし音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2115年、13頁)。
従って、
(01)により、
(02)
① 私主役です。
② 私は主役です。
に於いて、
① _音) の方が、
② _は(清音) よりも、「心理的な音量」が「大きい」。
従って、
(02)により、
(03)
Q:「私」は「私は」よりも「私」が強調されているように感じるのはなぜか(橋本陽介、日本語の謎を解く、2016年、146頁)。
と言へば、実際に
A:「私音)」の方が、「私は(清音)」よりも、「心理的な音量」が「大きい」からである。
然るに、
(04)
ネイティブの英語の話し方 ― 特に伝えたい部分の単語を強調して話してみよう。ネイティブは、英語を話すときにどこの部分を相手に強調したいかによって、その単語の発音を強めることがあるのをご存知ですか? 例えば、I 強調することで、「他の人ではなく私が」という意味合いが強くなります(cf.https://www.eigowithluke.com)。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 私音) の方が、
② 私は(清音) よりも、「心理的な音量」が「大きい」が故に、
① 私主役です。
といふ「日本語」は、
①(他の人ではなく)私が主役です。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(06)
①(他の人ではなく)私主役です。
といふことは、
① 私は主役であって(、私以外は主役ではない)。
といふ、ことである。
然るに、
(07)
① 私は主役であって(、私以外は主役ではない)。
といふことは、
① ∃x{私x&主役x&∃y[主役y&(x≠y)]}。
といふこと、すなはち、
① あるxは私であって、xは主役であって、主役であるyが、x以外である。といふことはない。
といふ、ことである。
然るに、
(08)
1  (1)∃x{私x&主役x&∃y[主役y&(x≠y)]} A
1  (〃)あるxは私であって、xは主役であって、主役であるyが、x以外である。といふことはない。
 2 (2)   私a&主役a&~∃y[主役y&(a≠y)]} A
 2 (3)   私a                     2&E
 2 (4)      主役a                 2&E
 2 (5)          ~∃y[主役y&(a≠y)]  2&E
 2 (6)          ∀y~[主役y&(a≠y)]  5量化子の関係
 2 (7)            ~[主役b&(a≠b)]  6UE
 2 (8)            ~主役b∨~(a≠b)   7ド・モルガンの法則
 2 (9)            ~主役b∨ (a=b)   8DN
 2 (ア)              主役b→(a=b)   9含意の定義   
  イ(イ)              主役b         A
 2イ(ウ)                  (a=b)   アイMPP
   (エ)                  (a=a)   =I
 2イ(オ)                  (b=a)   ウエ=E
 2 (カ)              主役b→(b=a)   イオCP
 2 (キ)           ∀y[主役y→(y=a)]  カUI
 2 (ク)    主役a&私a                 34&I
 2 (ケ)   主役a&私a& ∀y[主役y→(y=a)]  キク&I
 2 (コ)∃x{主役x&私x& ∀y[主役y→(y=x)]} ケEI
1  (サ)∃x{主役x&私x& ∀y[主役y→(y=x)]} 12コEE
1  (〃)あるxは主役であって、xは私であって、すべてのyについて、yが主役であるならば、yはxである。
従って、
(05)~(08)により、
(09)
① 私主役です=∃x{私x&主役x&~∃y[主役y&(x≠y)]}。
② 主役は私です=∃x{主役x&私x& ∀y[主役y→(y=x)]}。
に於いて、すなはち、
① 私主役です=ある xは私であって、xは主役であって、主役であるyが、x以外である。といふことはない
② 主役は私です=あるxは主役であって、xは私であって、すべてのyについて、yが主役であるならば、yはxである。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(10)
そして緊張の合格発表。2018年のアニー役に選ばれたのは、ともに劇中のアニーと同じく11歳の、新井 夢乃(アライ ユメノ)・宮城 弥榮(ミヤギ ヤエ)! 新井は2回目、宮城も2回目(1回目はダンスキッズへの応募)の挑戦でアニー役を獲得した。
従って、
(11)
例へば、「演劇・アニー」の場合は、主役が、二人ゐる。
然るに、
(12)
1  (1)∃x{新井x&主役x& ∃y[主役y&(x≠y)]} A
1  (〃)あるxは新井であって、xは主役であって、主役であるyが、x以外にもゐる。
1  (〃)          新井は主役であって、主役であるyが、新井以外にもゐる。
 2 (2)   新井a&主役a& ∃y[主役y&(a≠y)]} A
 2 (3)   新井a&主役a                2&E
 2 (4)            ∃y[主役y&(a≠y)]  2&E
  5(5)              [主役b&(a≠b)]  A
  5(6)            ~~[主役b&(a≠b)]  6DN
  5(7)           ~[~主役b∨~(a≠b)]  6ド・モルガンの法則
  5(8)            ~[~主役b∨(a=b)]  7DN
  5(9)             ~[主役b→(a=b)]  8含意の定義
  5(ア)           ∃y~[主役y→(a=y)]  9EI
 2 (イ)           ∃y~[主役y→(a=y)]  25アEE
 2 (ウ)           ~∀y[主役y→(a=y)]  イ量化子の関係
 2 (エ)   新井a&主役a&~∀y[主役y→(a=y)]  3ウ&I
 2 (オ)∃x{新井x&主役x&~∀y[主役y→(x=y)]} エEI
1  (カ)∃x{新井x&主役x&~∀y[主役y→(x=y)]} 12オEE
1  (〃)あるxは新井であって、xは主役であるが、すべてのyについて、yが主役ならば、xとyが同じ人物である。といふわけではない。
1  (〃)          新井は主役であるが、yが主役であれば、yは新井である。といふわけではない。
従って、
(12)により、
(13)
③ 新井_主役です=∃x{新井x&主役x& ∃y[主役y&(x≠y)]}。
④ 新井_主役です=∃x{新井x&主役x&~∀y[主役y→(x=y)]}。
に於いて、すなはち、
③ 新井_主役です=新井は主役であるが、主役であるyが、新井以外にもゐる。
④ 新井_主役です=新井は主役であるが、yが主役であれば、yは新井である。といふわけではない。
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(14)
③ 新井_主役です=新井は主役であるが、主役であるyが、新井以外にもゐる
④ 新井_主役です=新井は主役であるが、yが主役であれば、yは新井である。といふわけではない
といふのであれば、
③ 新井主役です=新井は主役であるが、主役であるyが、新井以外にもゐる
④ 新井主役です=新井は主役であるが、yが主役であれば、yは新井である。といふわけではない
といふことは、有り得ない。
従って、
(13)(14)により、
(15)
③ 新井は主役です=∃x{新井x&主役x& ∃y[主役y&(x≠y)]}。
④ 新井は主役です=∃x{新井x&主役x&~∀y[主役y→(x=y)]}。
従って、
(09)(15)により、
(16)
① 私が主役です =∃x{ 私x&主役x&~∃y[主役y&(x≠y)]}。
② 主役は私です =∃x{主役x& 私x& ∀y[主役y→(y=x)]}。
③ 新井は主役です=∃x{新井x&主役x& ∃y[主役y&(x≠y)]}。
④ 新井は主役です=∃x{新井x&主役x&~∀y[主役y→(x=y)]}。
従って、
(16)により、
(17)
① 私主役です=∃x{私x&主役x&~∃y[主役y&(x≠y)]}。
③ 私は主役です=∃x{私x&主役x& ∃y[主役y&(x≠y)]}。
といふ、ことになる。
従って、
(17)により、
(18)
① 私が主役です。
③ 私は主役です。
に於ける、
① _  と、
③ _は  の、「違ひ」は、
∃y と、
③  ∃y の、「違ひ」である。
従って、
(18)により、
(19)
① 私が主役です。
③ 私は主役です。
に於ける、
① _  と、
③ _は  の、「違ひ」は、
情報 と、
③ 旧情報 の、「違ひ」である。
といふことには、ならない。
然るに、
(20)
Q:「私」は「私は」よりも「私」が強調されているように感じるのはなぜか。
「主役は私だ」と「私が主役だ」と比べると「私」の方が強調されているように思われます。先ほど明らかにしたように、「」は情報を表すので、「新しいこととして提示する→強調」につながるためでしょう。このように、「他の人ではなく私が」という意味がでるものを、「が」の排他的意味と呼びます(橋本陽介、日本語の謎を解く、2016年、146頁)。
との、ことである。