おじたん。的ぶろぐ生活。

おじたん。である。語るんである。

窒息マニア。~マニア考~。

2005-08-12 16:46:24 | 我思う、故に書くなりよ。
世の中いろんな「マニア」がいるからなぁ…。

私には殺人だの傷害だのして性的快感を得る趣味は無いので、こうした連中の気持ちだの気分だのはサッパリ判らん。判るとしたら、成人女性の裸の映像だの画像だの、視覚、聴覚から得られるコトで…ってコトにはなるが、それだって「相手」によりけりだし、

「こんなんじゃイヤだ…」

ってのも当然ある。若くて巨乳がイイ! とは言っても、若くて巨乳ならなんでもイイ…ってワケでは無いところが「マニア」的なコトなのかも知れない。が、大方の人も大体は同じだろうと思う。

窒息マニアに限らず、こうした「マニア」が時として事件の主役として世間を騒がす事は今時珍しくも無くなった。「連続幼女誘拐殺人事件」なんてのもあったし、最近でも似た様な事件は起きている。

人の数だけ「マニア」がいてもおかしく無いが、性的な快楽を得る…となれば、ぐっと範疇は狭まるし、事件にまでエスカレートするとなると、それもかなり限られるだろうし、得てしてメジャーな分野のマニアでも無さそうだし。

ただ、これを「趣味」として継続させるならば「限度」ってモンの手前で止めておくのがベストだと思うのだが、何故か「限度」を越えて事件として露見する様な事まで行っちゃうんだよねぇ…。

そうした意味で「限度」とそれを越えた「点」と「理由」は興味深い。単に「自制心」が無くなったと思えばそれまでなんだけれど、妄想と現実の境界を越える時に、損得勘定の天秤が出て来ても悪くないし、普通なら出て来そうなもんだと思うんだがなぁ…。

さて、自分にも「マニア」的なところは多々ある。「マニア」なんだか「おたく」なんだか、ハッキリとはしないが、例えば「軍事マニア」。

一般の人よりは詳しいけれど、戦闘機や爆撃機にぶら下がっている爆弾だのミサイルだのの型番までそらんじて言えるレベルでは無いが、ECMポッドとの違いは判ったりする。「ガンマニア」でもあるが、細かな部分の改修の違いで形式や改修点がそらんじて出て来るワケでは無いし、おもちゃのカスタマイズはしても、法外なパワーを求めたりはしない程度の「マニア」であり「おたく」。

カメラや写真についても、これは仕事の道具だったワケだから、マニアとは違うかもしれないけれど、あるもので遊んでいるってだけだが一般よりはずっと詳しい。PCもそう。あれこれいじったりはするが、特殊なところに情熱を注ぐって事では無い。

「少し深いが、幅広く…」

ってのが言い得て妙な感じもするが、その通りなんだと思う。だが「マニア」と呼ばれたり「おたく」と呼ばれたりするワケだから、そうでない人との違いがハッキリはしているんだろねぇ…。「博学マニア」って事でもあるみたいで、クイズ番組なんか見ていても、かなり高額賞金が貰えた事になっていたりする。だけれど、

「V6とSMAPを足したら何人?」
「モーニング娘。今何人?」

なんてのは「感」で答えざるをえない。従って、実際に参加してもよほど「運」が無ければ賞金は頂けないだろう。

一昨日、おいら氏がやって来た事は長々と書いたが、日本のマニアについても語り合った。

3本の指に入れるとしたら…

「アニメ」
「アイドル」
「ゲーム」

なんじゃなかろーかって事だった。もちろんこれらは「大枠」なワケで、それぞれから派生したり、兼ね合いを持つ「ガンプラ」だとか「フィギュア」なんかもメジャーな部類に入るが、それぞれに「派生」するものは数知れず、カウントし切れない。

んで、これらはまた誰もが普通に楽しんだりもするワケで、その度合いの深さの違いで「マニア」だか「おたく」なんてレベルの判定が行われるが、どれも明確な基準は無いもので、最近じゃ「検定試験」なんてのも出たりしているらしいけれど、線引きは極めて難しい…。

ちなみに、おいら氏は「PCマニア」と自称している。が、私と比較すると深さの度合いはずっと浅いものだし、私は自身を特別「PCマニア」だとは思っていなかったりもする…。興味が無いわけでも無く、詳しく無いわけでも無いが、「普通…」って感じだと思ってる。その辺の「温度差」は枚挙に暇が無いくらいに広がるんだろうけれど、この2人に限った事じゃない。

強いて、自身何のマニアかとカミングアウトすれば…

『変なニックネーム付けられるマニア』

だろう。なんせ…

「奇妙さん」
「珍ちゃん」
「おじたん。」
「裏おじさま。」

なんて呼ばれている。電話やネットだけならまだ良いが、至極一般的な生活にかかるシーンでさえもこう呼ばれるワケだから、普通ならたまったもんじゃない呼ばれ方もある。

が、それも慣れれば「涼しい顔…」でいられるワケで、前2つはかなり昔から呼ばれているし、今じゃ別にどーにでも…って感じ。

例えば、客の少ない大き目のスーパーやショッピング・モールなんかで、かなり距離はあっても声は届く場合がある。そこで…

「珍ちゃーーーん! こっちこっちーーー!」

なんて呼ばれたらヒドク恥ずかしい。恥ずかしいのだが、周囲にいる人の反応を見て楽しむ余裕が出来ると、これは立派に「マニア」だと思う。

「えっ? 何?」
「ち、ちんちゃん?」
「まぁやだ!」

と、驚いた顔で周囲を見回し、呼ばれたであろう「私」を探したり、関わってはイケナイものだと伏目がちにそそくさとその場から離れたり、そうであっても目でその人をさがしてたりする人もいるワケで、反応は様々だが、当事者でありながらも見ていて楽しかったりする。

まぁ、あからさまに放送禁止用語の類で呼ばれれば私だって怒るし、発音だけではヒドク誤解を受ける呼ばれ方やそれに類似したモノで呼ばれたりする事があったりもするが、ヒドクない限りはそれもまたニックネームじゃ「アリ」だと思うし。

ここ最近では「おじさま。」と「裏おじさま。」と呼ばれるのが一部で流行している。自分の歳の半分位の年齢の若い女性がそう呼ぶのだから、悪い気はしないが、どちらかと言えば「裏おじさま。」が特に気に入っている。

このブログとは別に「裏おじたん。的ぶろぐ生活。」を始めて、そこにコメントをくれた方がそう呼んだのが始まりだが、それを読んだ仲間内で呼ぶ方も呼ばれる方も「大ウケ」。何となくブラックでダーティーな感じだし、アンダーグラウンドな所が面白い。また…

「裏おじさまーーーっ! メンマ見つかったよぉぉ…!」

なんて大声で呼ばれる人もまずいないだろうしね。単に「裏おじ。」って略されがちな傾向の強いものでもあるが、彼女らはそうしない。そうする事で、面白さが半減してしまう事を知っているんである。まぁ、こっちも「帰国子女A改」だの「コンパニ子」だの「エロい人」(初登場!)だのと呼んでいるのだから、お互い様だけれど…。

振り向けばそこにマニア…ってくらいな世の中が出来ている。そこで様々な事が起きるのは必然でもあるのだけれど、得てしてコアな方向に進むと悪性のモノが現れる事が多い。人間の心まで壊れてしまう「圧壊深度」まで深く潜らないために、世の中をどうしたらいいのか? 答えは見つかっていないが、見つける努力を惜しまない世の中であって欲しいし、その中で楽しみたいと思っている。

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癌という病気とどう向かい合う? その9。

2005-08-12 05:36:14 | 我思う、故に書くなりよ。
逆転ホームランは難しいみたいだなぁ。

スタートが末期の肺ガンだから、難しい状況にある事は理解しているんだけれど、現状維持すらも難しく、相変わらずガンの侵攻は衰えを知らない…って感じだそうだ。

クスリの効果がどれだけあるのか、定かじゃないけれど、現状を維持出来ていないのは間違いない。じゃあ、効き目無いんだから止めちゃえば…となると、ガンの侵攻はそのスピードに加速が付いたりもするので、止めるワケにも行かない。

最近の父は通いで治療を受けているので、私が特に付き添ったりはしていない。
んで、これらの「近況」的な様子は主として付き添う母から得られる情報なんだけれど、要領よく話す事が無理みたいな典型的な話し方する人だもんだから、聞いてる方も「要領を得ない」。

つい先日聞いた話では、とても「憤慨」しており、全く要領を得ない。
何に憤慨してんのかさえ、掴みづらい…話だったが、要約すると…

「医者が言う事がとても患者を勇気付けるモノでは無い」

と、言うことらしい。現状でどういう状態か、担当医から説明を父と一緒に受けたそうだが、母の受けた印象では…

「病気と闘うのに頑張っている人を奈落の底に突き落とす様な事を言われた…」

のだそうだ。元々が要領を得ない話だから、どうなんだか定かじゃないが…

「今頃はとっくに『新盆』だろう…」
「治療はやめてもらっても結構…」

なんて事を言われたらしい。こうした言葉に、母が憤慨している…と言うトコロは掴めたが、これが初めてでは無いらしく、「そういう先生なんだ…」とも言っており、最後の決まり文句は「では頑張りましょう…」でいつも終わるんだとも言っていた。

理路整然に話が聞ければ、

「そりゃひでえ!」「なんだその医者は!」「う、訴えてやる!」

なんて事もあるかもしれないが、理路整然に聞けないので、本当がどーなんだかサッパリなんである。ただ、そう言われた悔しさはとても大きかったらしく、良い方向に

「少しでも長く生きて見返してやろう!」

って事になっている。

ま、医者もいろいろいるんで、優秀な医者だとしてもこうした「突き放した」言い方をする人もいれば、さほど優秀でなくても「優しい」言い方をする人もいる。どちらがどうって事は難しい。

患者の家族として、贔屓目に見れば「ひでぇ医者だ!!」とも言えるかもしれないが、現実をリアルに伝えるとなれば、多少はシビアにならざるを得ない。その点でどう患者と接するのか、どう医者と接するのか、どっちも「難しい」。

ま、「死」と言う結果が非常に近い病気の、非常に近い状況だから、難しいながらも「思いやり」が欠けるとこうしたトラブルも出て来るんだろうし、起き易くもなる。
希望を持たせるためにはいろいろと言う事は簡単だけれど、それが結果的に「ウソ」であっては医者としてやはりマズイ。死期迫る患者の方としては「もうダメ…」とか「長くもたない…」とか「手立てが無い…」とかは聞きたくは無い。

その狭間ではこうした感情の行き違いは起き易いし、医者と患者と言うよりは「人間と人間」の問題なんじゃないだろうか。

「全ては患者のために…」

と、スローガンだか標語だか目標だかを掲げた病院の中で働いた事がある。まず先にこれが無ければ良好な医療を提供する事も出来ないし、これは医者だろうが看護士だろうがコメディカルだろうが一緒だと、教え込まれた。患者さんと直接触れ合う事の無い業務に携わる人も病院の中にはいるんだけれど、もちろんその人も含めての話が前提となっていて、そこに従事する者は決して忘れちゃいけない言葉として、日々従事するんである。

それでも、こうしたトラブルってのは起きる。皆無にするべく努力はしても、起きるんである。得てしてそうしたトラブルが起き易い現場に近かった所で働いていたからって事もあるが、医者の要請で患者さんの病変部の写真を撮ったりする時に、医者が患者さんにちゃんと説明しておかないと、そりゃトラブルになる。

トラブルだけ避けるための努力ってのもある。意外に簡単だが、得てして機械的、事務的にコトを進めれば、あたらずさわらず…って感じでトラブルも少ないが、それが「医療」かと言えば違うだろう。だからこそ「全ては…」が生まれたんじゃないかと思っている。

どこもかしこもの病院がそうだったら、こうしたコトも書かなくて済むが「医は算術…」と昔から言うように、算術と関係ない面まで算術の影響があったりで、算術=お金…ってもんでもないからやっかいだ。

まぁ、父に関して言えば、あまりヒドイ事言われるようなら、私が直接対峙しなきゃならんかな…とは思ってる。

「院長を出せコノヤロー!」

って騒ぐのは素人。医事課の偉そうなのか、総務の偉そうなのを最初に相手にしないと出て来る者も出て来ない。県立の医療組織だから話の持って行き所はいろいろとあるだろうしね。

「じゃあ来るんじゃねぇ! この死にぞこないめがっ!」

って病院だったらそれはそれで面白いが、そんな病院も珍しいし、大方の従事者は患者さんのために…働いているのがほとんど。そう言う人にまで迷惑かけちゃいけないし、迷惑をかけられるようなコトもしちゃいけないんである。

癌と闘うには、他にもいろいろと闘う必要が出て来るんだよねぇ。
出て来なくていいものなんだけど、やれやれ…である。

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