おじたん。的ぶろぐ生活。

おじたん。である。語るんである。

痛ましいなぁ…。

2006-05-23 22:58:12 | 我思う、故に書くなりよ。
首の絞めあとに網目 秋田の小1男児殺害事件 (共同通信) - goo ニュース

もう、犯人の目星が付いているらしい…。

ちょっとした、その筋に強い事情通から聞いたのだけれど、逮捕も近いとのコト。まぁ、そうであって欲しい。とりあえず、最初の水難事故…となっている女の子の件との関係は不明だが。判ってるのにすぐ逮捕しないのは状況証拠だけ…ってコトなのかな…?

多かれ少なかれ、事件は起きるもんだし、命を奪われる人も毎日幾人かはいるんだけれどね、幼い子供が殺される理由はどこにも無いんだよね…。ヒドク恨みを買うとか、大人じゃあ何となく殺される理由があったりする場合もあるんだけどね…。

薬チュウのオヤジの幼い兄弟が、親父の薬チュウ仲間に殺されてから、まだそんなに経っていないのに、ポンポンとまぁ…。マンションから投げ殺されたり、下校途中にさらわれてとんでもない場所に捨てられたり、車で轢いといて、さらって捨てるなんてのも起きちゃって、子供を守る姿勢が後手に回っちゃってなぁ…。

自分には子供はいないが、甥や姪はいる。どちらもそう言う目に遭ってもらっては困るのだけれど、成長に伴って広がる行動範囲を考えると、危険を避けてあげるとか、避ける方向に努力する…ってのは、暇なおじたん。でも難しい。どこの親でもそうした努力は少なからずしているのだろうけれど、限界超えちゃってるしなぁ…。

何とか、社会の仕組みとしてどーにかならんものかねぇ? こうした問題に税金使うなら誰も文句言わないと思うんだが、得てしてあまり使われていないんだよなぁ。また使われていたとしても、地域格差があっちゃ困るものだしねぇ…。

痛ましいなぁ…。実に…。少なからず、何とかしようと言う動きは出始めているのだけれど、どーでも良い法案通すよりも、早急に真剣に考えて動かないと、ますますヤバくなりそうだからねぇ…。そうした動きに近い人は動いてもらいたいよなぁ…。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨の日のブリロ。

2006-05-23 18:51:54 | おじたん的自転車生活。
(左がブリロで、右がk898ね…。よく見てもあまり差は無いよ…。右はホイールから外れているので、ちょっと太めに写ってるけれど、履かせてみると大差無いし。)

まだ降らないと思ったんだけどなぁ…。降られちゃった。

ずぶ濡れになるのも久々だし、もう、そうなっちゃったらそうなっちゃったで、諦める他に無いので、せっかくだからあれこれ試しながら帰ってきた…。

普通に濡れた舗装路じゃあ、あまり変わらないねぇ。ゴリゴリ…言わなくなったのも変わらない。マンホールの上も同じ。無理すれば「ズルッ…」ってコトにはなるけれど、相当無理しないと、そうもならない。

舗装しておらず、採石が撒いてあって、それもほとんど埋まっちゃって、ヒドク雨が降ると水が貯まる感じのトコロにちょっと貯まったかな…な感じだと…普通に走れるな…。

あんまりそんなトコロ走る必要も無いが、赤土が固まったトコロで、それなりに起伏があって、うっすら緑色にコケなんか生えちゃったりして、歩いても滑りそうな感じのトコロだと…滑るな、やっぱり。ここは面白いので、何度か走ってみたが、意識してタイヤがグリップする様な感じだと、滑らずに走れる。でも気を抜くと「ズルッ…」。

もう、思いっきり雨降っちゃって、にゅるにゅる…な感じ…なトコロだと、なかなかしっかりとグリップしているのが判る感じ。さすがに、結構な泥がタイヤに付くねぇ。あんまりスピード出すと、でろでろになっちゃうのでいい加減にしておいたが、舗装路に出るまではあまり落ちてくれなかった。当たり前かぁ。

そもそも、それなりのスピードで走らないと、こうした場所じゃ大差は無いだろう。

完璧に雨が溢れちゃって、全面水たまりみたいなエクストラに濡れた舗装路の上をしばらく走って帰ってきたが、バシャバシャが気持ち良いくらいで、何の不安も無かったなぁ。急ブレーキ掛けても、あまり差が感じられないしねぇ…。k898と大きな差も無いな。段差を越えるにしても、無下にリムを打ち付ける必要も無いので一応気を配るけれど、太さによる感触も変わらないや。

背中への泥はねも変わらないや。それなりに浴びるって感じ。まぁ、ずぶ濡れだからいいんだけど、こうなると自転車も洗わないとイケナイので、バシャバシャじゃぶじゃぶしておかないとねぇ。

昼間、晴れていてにコンビニに出掛けた時は、やはり「軽さ」「軽快さ」ってのが感じられた。あのゴリゴリ…ってのがマイルドになるだけで、こうも変わるものか…と。路面の状態によってはそれすらも無くなるし、どっちもどっちだろう…って感じはしていたのだけれどねぇ…。これも「使用者による感想であり、違いを保証するものではありません…」って範疇なんだけれどね。

買っちまった以上、無理矢理にでも「差」を見付けたくなるのも人間ってもんよ…。

とは言え「誇張」はよろしく無い。ダメな点があればしっかりとダメを出しておかないとね。でも、今の所、ダメ…が無い。おまけに、1本¥1500しないんだから、お買い得なんであるね。今の所は当初の目的に適っているので◎。

こうなってくると、色々なタイヤも試したくなるが、レースに出るワケでも無いので、試してみても、実用本位なタイヤ…って感じになると思う。そりゃあ、そう言ったタイヤを履いてみるってのは、カッコイイのでやってはみたいのだけれど、実用本位で使うには摩耗が早かったり、明らかに過剰装備だったりするんで、見合うワケも無いんだよね。ちょいちょいと履き替える手間は掛かるけれど、2~3種類は用途別に揃えておきたいって考えはあるんだが、ある意味タイヤも「生もの」だったりするから、寝かせっぱなし…は良くないし。それでも、試したい候補も決まってきたので、いずれまた。

自動車のタイヤはいろいろと進化してたりするのは知っていたが、自転車のタイヤは単なるゴムの塊で、太いか細いか、イボイボかつるっぺたか、ぐらいだと思ってたのだけれど、結構進化してたりするもんだったんだよなぁ…。自転車買う前に、雑誌の1つでも読んでおけば良かった気がする…。

ずぶ濡れは良いとして、これらはいつ乾くんだろうか…。着るモノ無くなってきたんじゃないか…おれ…。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金魚はその後、どーなったか。

2006-05-23 15:56:55 | 我思う、故に書くなりよ。
3匹中、2匹が虹の橋を渡った。

まぁ、当初からよれよれ感が漂っていたので、覚悟はしていたのだが…。すくってきた当人の弁によれば、だからこそ3匹もすくえた…と言うコトだし。

残る1匹も白点病に冒されて、危うい感じだったのだけれど、食塩の投入で回復しつつある。水も徐々に出来上がりつつある感じなので、なかなか良い方向。

バクテリアを買って入れようかとも思ったのだが、金魚の容態が思わしくなかったので、主のいない水槽に高価なバクテリアを入れてもナァ…と、見送った。そもそも、放っておいても居着くものだしねぇ。

人間にとっての空気がそうであるように、金魚にとっての「水」なのである。食い物も出すモノも同じ水に…だから、放っておけばそれらはやがて「毒」になる。それではたまらないので、濾過装置やらぶくぶくやらを取り付けて、良い状態の水を維持するのだが、微生物とかバクテリアがそこにいないままでは、大した意味も無い。人間にしてみれば、濁りのないキレイな水に見えても、中の金魚にしてみたら、毒を浄化してくれるバクテリアだの微生物がいない水は毒のまま…なのである。

程よくバクテリアが繁殖してくれて、浄化するサイクルが完成すれば、ある程度は魚にとって住みやすい場所になるが、そのサイクルを維持し続ける為の補助的な道具ってのが濾過器であり、ブクブク…だったりするワケ。

まぁ、一度水が出来てしまえば後はそれを維持すれば良いと、判っていても難しい。塩素たっぷりな水道水でバクテリアは死んでしまうし、かと言って全く掃除しないのも問題が出て来る。無害化された毒でも、貯まればやはり良くないからねぇ。何気なく簡単にバランスが崩れる事で、このサイクルが保てない。

そうした自然のサイクルを考えて手間暇掛けるポイントさえ掴んでしまえば、何とかなるものなのだけれど、そこを掴むまでが大変だったりする。また、さらに人間の都合でキレイに観賞しようとするとなれば、かなりな労力が必要なのは言うまでもない。

逆に、金魚は本来かなり頑強な観賞魚でもあるので、ほったらかし…でも結構イキイキしてたりする。写真の様な鉢に浮き草を入れて、直射日光が当たらないとか、近所の野良猫に喰われない様にするとかだけで、結構がさつであっても長生きしたりするから不思議。

あまりに不思議なので、器と浮き草を買ってきた。

まぁ、魚をぶち込んで…ってのは当分先にはなるが、そうして飼われている金魚も多かったりする。それはそれで、自然のサイクルが完成しているワケでもあるのだね。そうなるには当然、時間も掛かる。買って来てスグ…ってワケでは無い。それがいつになるのか定かじゃ無いが、ボウフラでも湧き出したら考えてみようかと思う。ブクブク…くらいは必要かもしれないな…。なんせ、物理的な濾過なんてのも無いし、水の循環すら風任せ…だしねぇ。無茶って言えば無茶なんだけど…。

なんでも、諸外国じゃ古式ゆかしいガラスの金魚鉢に金魚入れると「虐待」になったりするらしい…。あの中にいる金魚は世界がぐわぁぁ~ん…と、ゆがんで見えちゃうからだと聞いたが、生類哀れみの令…なんてのと一緒かもしれないな。

おっと…エサの時間だ…。




Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プリン分の欠如。海老天重で補う。

2006-05-23 12:15:44 | 我思う、故に書くなりよ。
プリン分が足らなくなったので、コンビニへ。

ところが、あろう事か、プリン無いじゃん…。ローソンともあろうものが!

致し方なく、公共料金を払うついでに「フルーチェ ブルーベリー味」と牛乳を。牛乳をしっかりと冷やさなければならないので、しばしの我慢である。プリンじゃ無いし。

ついでに、お昼ご飯に「スーパー海老天重 B」を買ってみた。2002年の人気お弁当の「復刻」と言う。

「海老が3尾ものってます。」

に偽り無く、しっかりと乗っていて、500円。海老だけかと思いきや、その下には野菜もしっかり隠れており、しっかりとチンしたところ、美味しい。うむ。ローソンやるではないか…。

コンビニ弁当は青春の思い出でもある。セブンイレブンの「イカフライおかか弁当」は欠かせないアイテムだった。あれに勝るコンビニ弁当は無い。それくらいに、ボリュームと味が素晴らしかったのだが、消えてしまい、昨年だか「復刻」したらしいのだが、出会えなかった。それもこれも、近所のセブンイレブンは尽く撤収を余儀なくされたからである。

確か、¥480円だったかな。タバコと飲み物をチョイスしても¥1000で収まるし、お釣りも来るんだから、それでも足りない場合はカップ麺を加えれば十二分に満足してしまう。それが幸せであり、夢でもあり、希望でもあった。私の青春時代を立派に支えた重要なアイテムなのである。

そうしたお弁当に出会えなくなって久しい。世相を反映してサイクルは短くなり、定番とされるメニューでも移り変わりが激しい。何を求めているのか、どこに向かっているのか…定かでは無いにしろ、それを迫られる事情がそうさせているとしたら、何か不毛なスパイラルにハマり切ってしまっている様で、瞬時を切り取れば華やかだろうけれども、大局をを見た場合に「虚しさ…」を感じざるをえない。

さて、海老天重だが…。天麩羅を生業としているお店のモノとは全く違う。似てはいるが非なるモノ。そうであってもこれはこれで「美味しい」。スーパーの総菜コーナーに並んでいる弁当でも、3尾乗っている事は少ないし、アンド、野菜なのだから、それでいて「美味しい」と来たら、ウレシイ。似て非なるモノであるがための評価はそれなりではあるが、立派に美味しいと言う評価を与えて悪くない。プリンもそうなのだ。どこぞのパティシエが精魂込めて作るモノとは全く違う。そう判っている上で、我が身が欲して止まないのは「コンビニのプリン」なのである。¥150そこそこの、あの大き目のプリン。あれを欲してしまうのだ。

つくづく、安上がりでよろしい…。ちなみに、天重では無いが、4人で十数万円と言う天麩羅を食したコトがある。全てが「お任せ」であり、お品書きも無ければ、料金表もない。一見さんは当然お断りなワケで、座ってナンボ…と言う場所でも無いので支払う身としてはすんげえ不安なのだけれど、任せるままに出される天麩羅を味わう毎に、それらが適正なモノであると判ると言うお店。ある意味、究極の天麩羅でもあるが、まさにそうなのだから、その対価に不満も出ない。単に高価というだけじゃなく、素材を選んだ理由から、揚げて天麩羅として完成させる技術の1つ1つが「プロ」だと解りながら食べられるコトの楽しさや驚き…。そんなレベルと比較してしまうのは酷なのだが、入る口は一緒なので、同列に扱ってしまったりしちゃう。

そうした食文化の入り口がコンビニだと思うので、やはりもっと語られても良いんじゃないかと思う。小さい頃、100円玉、50円玉、10円玉を握りしめて、あれこれ思案を続けた挙げ句にやっと選んで美味しさを確かめる駄菓子やジュース。そうした場が無くなり、変わりに増えたコンビニで同じ思いをしている子供を見ると、大人だけでなく子供も考えながら楽しめるコンビニ…って言うのもあって欲しい。

とりあえず、プリン切らしている様じゃ困るんだがなぁ。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

癌と言う病気とどう向かい合う? 番外編2。

2006-05-23 09:37:52 | 我思う、故に書くなりよ。
歩いたらしい。

当初の予定よりは1日遅れとなったらしいが、やはり手術の翌日は無理だったみたいで、立ち上がった途端に顔面蒼白になっちゃったんで、中止に。その翌日は大丈夫で、既に歩いてトイレに行ったりしているそうだ。まぁ、70のばあさんだから、無理もないんだけど。

それでも、胃の3分の1を取ってしまう手術をした後だから、スゴイコトなのであるが、それもこれも手術の方法が大きく変わったコトによる。大きくお腹を切らなくても摘出手術が可能になったお陰で、患者の負担が随分と減ったワケ。

それだけに、とどまらず、診断技術ってのも格段に進歩している。お腹を切らずして、どこまでの範囲を切ればだいたい安全か、判る様になっているからこんなコトも出来るワケで、単に切って取れば良い…と言うワケじゃないからね。

そんなこんなが全ての癌に…ってコトなら良いのだけれど、そうでもない。部位によってまだまだ差があったりする。父なんか、毎年検診を受けていたにも関わらず、前回の検診から8ヶ月で末期の肺ガンになっていた。それほど進行の早い癌でも無さそうなので、謎なのだけれど、8ヶ月前の検査ではそうした予兆もクソも見受けられなかった。見付かった時点での「生存率」は年単位ではなく、月単位。それも半年以内だったので、当人を含めてショックは大きいし、事実、大きかった。

ほとんど絶望。

対して、母の患った胃癌は早期でもあるので、取り去った結果、5年生存率は98%くらいはある。これが進行度の極めて早いタイプならば、0%となるけれど、そうでないので、この目安はだいたい信じても良いモノとなる。まぁ、得てして高齢になれば癌の進行は鈍いものだから。若年や壮年の人が患うのとは違っても来るんだけれどねぇ。まぁ、タイプによっては早期に見付かれば「癌」と言っても、死に結びつくコトがなかなか簡単では無くなった。

多少、生活に支障は出るものの、なかなか明るい展望。

と、言っても、容姿が見違えてびっくりする位の変貌は余儀なくされるワケで、多少の支障がどの辺まで…ってのはまだ見えて来ない。それは恐らく、父がそうなった姿に近いモノがあるだろうと思うのだが、似て非なるモノ。当人にとってはかなりショックな姿にも映るんじゃないだろうか。

そんなこんなの理由が判っていれば、何となく無下に不安になったりもしないもんだけれど、自分の体とは言っても、なかなか知り得ない部分も多かったりするので、やはり不安はつきまとう。最新の知識ばかりじゃなく、基本的な知識の欠如…ってものがやはりそこにあったりするんじゃなかろうか。

滅多やたらに見なくても良いもんだが、出来れば見て置いて、知って置いた方が良かったりするのも、人間の構造だったりする。そうした基本的な教育が疎かにされていたり、グロいモノ、汚いモノとして追いやられてはいないだろうか。表面的なモノや、外観的な「健康」はどこでも多く語られてはいるんだけれど、基本的な中身がどうあるのか語られるコトは滅多に無い社会だったりする。まぁ、簡単に「絵」で教わるコトはあっても、そこまで見るためには切らなきゃならないし、切れば血も出るワケだし、現物はメチャクチャグロいんだが、それが人間なワケ。

まぁ、それでも謎な部分はプロの医者にしても多々あるので、全部を知れ…ってのは無理だけれど、知っておいて損じゃない部分を知らずに過ごすのももったいない話なのは、医学だけに限ったコトじゃあないな。

逆に、知ったからどーなる? って部分も多々ある。なんせ「癌」だからねぇ。知った所で手遅れな場合もあるんだし、治療を進めてもどーにもならずに「死」へ向かう場合もある。そんなこんなも含めて「医療」なんだから、大変だよなぁ…。

そうなんだよ。実は「大変」なんだよ。だが、今の時点じゃ専門家に任せる他にどーにもならん。大変だぁ! って騒いでも、なんともならん。家族とは言え、どーしてもこーしても…なんだよなぁ。まぁ、そんなこんなを見続ける中で、自分がそーなった時には、こーでありたい。あーでありたい。ってのが見極められれば、良いんじゃないかと思うが、なかなかなぁ…。そんなこんなが無くても、気分は鬱だし、体は重いし…。やれやれなんだし、見続けるだけのコトも放棄したくなるワケで、お先真っ暗なんだが、真っ暗にならないだけの「好奇心」があるのが幸いだと思っている。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする