近頃とみに視力が視力が衰えてきました。疲れる、霞む、ぼんやりする、注意力が続かない、老化現象とあきらめてはいるけれど。その退歩した目でも、よく目を通す新聞記事に、朝日新聞の「声」欄があります。それを集めたどう思いますか、コーナーも興味を持って読みます。自分の考えを述べた投書、それを読んだ人のさまざまの考えの投書。面白いし、こんな考え方もと、世界が広がる気がすることもあります。
17日には、「先生」という呼称についての様々な意見に興味を覚えました。
「先生」は敬称の一つで、自分のことを呼ぶのにはふさわしくない、教壇から生徒に話す時に使うべきではないという考えから、生徒の身分と先生という立場とでは、もちろん先生が敬われる立場です。それだけのものを身に付けていらっしゃるのです。それを教えるために、自分のことをあえて「先生」と呼んでいるのです。敬う気持ちが薄れる近頃、必要なこと。という考えもありました。
いろいろですね。
私の85年の航路の中で、「先生」という言葉で印象に残った方が二人いらっしゃいました。中学2年生の時の、理科の先生でした。まだお若い、独身でいらっしゃいました。
はじめての授業の、第一声が「僕は自分のことを先生とは呼びません。」でした。
「僕は大学を卒業して、君たちが初めての生徒です。自分を先生というだけの力も、技術も人間性もまだ持っていません。ほとんど君たちと同じ程度の若造です。先生とは口幅ったくて言えません。
でも、今から、君たちと一緒に努力して伸びていこうという気持ちは大きく持っています。皆さん、ぼくといっしょに坂道を登ってください。みんな仲間です」。
後にたったの三年間、プロ意識の欠如した学生気分の抜けていない勤め方でしたが、いわゆる先生になりました。。今でもその当時の生徒さん方には謝っている私なのです.だから当然と言えば当然ですが、自分のことを先生とは呼べませんでした。呼びませんでした。私、で通しました」。
あの理科の先生の真似をしたのです。
あとひとかたの「先生」は明日書きます。