つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

今夜の夢の組み立て

2015-10-07 17:52:22 | 日記
Oasisをシャッフルして聞きながら掃除やら諸々片づけをしていた。
多くの曲をリアムが歌っていて、あーカッコイイ、いう感じなのだけれど、時々ノエルが歌う曲が回ってきて何とも言えず心を持っていかれる。

ノエルの世界観はどこか霧がかかっている感じがする。
くるりの岸田さんが“さよなら”の概念を歌い続けているとしたら、ノエルは“It's all right”ということを言い続けている感じがする。

「Sunday Morning Call」が回ってきて、不意に泣きそうになる。
なぜだか私はこの曲が大好きで、何百回聴いたことだろう。

「Whatever」は歌詞についても取りつかれた感じがあったけれど、私はこの曲について歌詞はよく分かっていない。
あと「Sunday Morning Call」のアルバムの次の曲「I Can See A Liar」や、「Master Plan」や「roll it over」も好きだ。
アルバムで言うと、「Be Here Now」が最も好きなのだけれど、「Standing on the Shoulder of Giants」もいい。
たまらなくノエルギャラガーが好きなのである。

そういえば昔、このように洋楽の名前をどんどんと挙げて話をする人のことを、言ってみれば蔑視していたかもしれない。
しゃらくさいし、そもそもそんな英語の曲名よく憶えられるものだ、と思っていた。
今の私がスノッブであるという確証も何もないし、未だに私は曲名などをあまり覚えることをしないけれど、あのときの私を今の私は蔑視したい。


やりたいことと、やらなければいけないことがほぼ合致しているのは非常に望ましいことだけれど、面倒の方が勝ってしまうことが多々あって困る。
生来の無精に鞭打って、たとえばそれで出来上がったものなどは果たして“良いもの”だろうか。

あまりに秋の空気が押し寄せるので、得体の知れない何かに焦っている。
私と一緒で冬が嫌いなあの子に、連絡でも取ってみようか。


子を母に返し一服朝霧の中




ダイヤルする

2015-10-05 14:25:19 | 日記
2回目のプールに行けた。
道中の自転車でのアップダウンが辛くてそれが原因で続かないかもしれないとぼやいていたら、それだとプール後のぼーっと感がもったいないから歩いて行くと良いよ、と友人に言われた。
歩くと20分強といったところだろうか、でも、確かにプール後のぼーっと感はゆっくりふらふら散歩するのに適しているのかもしれない。

プール後のぼーっと感は、同じ水の中でも温泉やサウナでは得られない。
またサイクリングやランニングマシン後の疲労感とも異なる独特さがある。
また、血液がどーーっと動いている感じがする。

ついでに友人は、泳ぐことで日常の空気中にいるときでは使わないところを動かすので、リンパなどに溜まって滞っていた毒素が動き出し、毒素でぼーっとするのではないか、と言っていた。
このことについて軽く検索してみたけれど、全然まともに引っかからなかった。
検索する人も、それについて論じている人もほとんどいないのだろう。


「孤独のグルメ シーズン5」が始まった。
食べ物についての番組は何でも好きだし、それ以上にとても「孤独のグルメ」ファンである。

が、脚本家でも変わったのだろうか、全体的に作りが軽々しくなっているように思えた。
特にナレーションやメニューのキャプションが薄っぺらい。
もう少し文学的な、というか奥行きがあって味わい深いものだったような気がする。
「うおォン 俺はまるで人間火力発電所だ」とか、「まるで俺の体は製鉄所 胃はその溶鉱炉のようだ」とか。

焼肉ネタは出し尽くしたからだろうか。
ついでに、映像の明るさも変わっている感じがしたのは気のせいなのだろうか。

まあ、観るけれども。


随分、涼しい、というか、寒い。

白菜の煮物の出番だ。



三歳の隣り寝言は笑い茸




ニヒルなアイスコーヒー

2015-10-03 02:06:25 | 日記
軍艦島から帰って食べて寝たら10月になった。
と思ったら、レッスン漬けで喋りっぱなしで10月も3日になった。

私は時折旅行に行くけれど、旅行が趣味というわけでは全然ない。
ひとりでどこか見知らぬ場所に出向くこともなければ、自分から人を旅行に誘うこともほぼない。

軍艦島、というのも何となく、世界遺産、流行り、ということしか知らなかった。
火山の噴火で失われたイタリアの街ポンペイのように、今はなき街が好きだという友人に誘われ、どこか行きたいし何か突飛なものは見たいという欲求から、ありがたく行くことにした。
ちなみに、友人は過去にポンペイにも出向いている。

ひとりで行ったとしたら旅先でまず、歩き回る、ということが半減どころかそれ以下になってしまうだろうと思う。
第一、地図に弱い私は新しい場所に弱いから、歩くととんでもないことになるし、迷うということは帰れなくなるかもという不安に付きまとわれているので、私にとって見知らぬ街の散策は楽しいことではない。
それに旅先で同じ場所に宿泊していれば、思慮を巡らせ歩くには長すぎる時間を、何度も歩くことになるのも疲れると思ってしまう。
見知らぬ土地を歩くには、たわいもない話をする相手が欲しいのである。

というより、相手でもいないと外に出るということが、見知らぬ土地のわくわく感があれど、他の日常の行動に負けてしまうという理由の方が大きい気がする。
それくらい、私はひとりでいるとものすごい出不精だ。
うだうだと何もせずに時を過ごしてしまうか、今だったらスマートフォンで漫画を読んでしまうか。
今回もああ疲れたとベッドに寝っころがっては、半端な時間にも漫画を開き続けていたけれど。
「人間失格」と「ブラックジャックによろしく」

すでに旅の記憶がリアルタイムから遠のいてしまっているが、できる分を今記録しておこう。

長崎はこじんまりした小さな街だった。
市内の足であるチンチン電車は一駅が150mほどで、終点の駅まで1時間ほどで歩けるのではないかと思うほどだった。

グラバー園や出島、軍艦島などの観光名所にも行ったけれど、一番驚いたのは、坂の中腹に家々が密集して立ち並んでいることだった。
お金持ちは高台に住みたがる、ということがあったとしても、それは車や何か移動手段があれば、というものだ。
しかし坂だらけの長崎の山は、人2人くらいが通れる小道ばかりで、階段が多く、車どころか自転車だって無理だ。

駅までの距離は、場所にもよるが、歩いて20~30分ほどだろうけれど、仕事や学校で疲れて帰って急な坂を上るとなるともう帰れないと、私なら思ってしまうだろうと思う。
中学で家を出る、そんな理由に十分なりそうだ。

amazonは届くのか、郵便屋さんは諦めてしまうことがないのか、坂を転げ落ちて死人が出てはいまいか、引っ越しはどうやっているのだろう、救急車は消防車は・・・考えるほどにどう住まっているのかが不思議でならない。
しかし廃墟という感じもしないので、人々の生活はここに根付いている。
きっとそこには何か想像もつかない生活の知恵があるのだろう。
坂の上の自販機がコンビニほどの良心的な値段であることがそれを示している。

坂の街並みと墓群と、坂の中腹にある亀山社中記念館を見て、坂本竜馬像まで行く予定だったけれど、そこから20分程度の坂道と聞いてあっさり断念した。
もう、登れない。

軍艦島には、波の状態が悪く上陸できなかった。
しかしガイド付きの船は島の周りをぐるぐると回ってくれ、その様子を遠目にうかがい知ることはできた。

軍艦島、正式名称「端島」
島の形が軍艦のようであることからいつしか人々はそう呼ぶようになったらしい。

1810年、端島に良質な石炭が発見され、世界でエネルギー革命が起こっていたこと目を付けた三菱が当時のお金10万円で買い取った。
19世紀末ごろから20世紀にかけて、日本初の鉄筋コンクリート造の集合住宅が建てられ、水道が引かれ、住めるようになっていった。
島の周りを埋め立て、端島は少しずつ大きくなっていった。
港には三菱の造船所など巨大な設備がたくさんあったが、巨万の富というのはこのような歴史に残る産業を牛耳った会社が得ていたのは納得がいく。

戦時中には、アメリカ軍に本物の軍艦と間違えられて、魚雷を撃ち込まれたこともあるが、無事だったらしい。
空襲も受けたものの、奇跡的に一発も当たらなかったのだとか。

戦後、労働者は増え続け、1960年代には人口は5000人を超え、日本一の人口密度となり、これは当時の東京の9倍以上、未だ破られていない。
小学校、映画館、病院、美容院、パチンコなど、普通の街にあるようなものが普通にあって非常に栄えていた。

炭鉱発掘の労働は、8時間3交代でフル稼働。
労働は地下奥深くに棺のようなエレベーターで下り、光の届かない埃まみれ油まみれの過酷なものだった。
地底にはレールが引かれていたり、電気のケーブルが通っていたりするわけだけれど、そもそも石炭発掘の前のインフラ整備がどれほど大変だったことだろう。
労働者の賃金は高く、日本でテレビの普及率が10%だった頃、端島の家庭のテレビ普及率はほぼ100%だったらしい。

端島は、元々草木も生えぬ、大きな岩礁だったらしい。
本来であれば、人間が住むような場所ではないところに、一生懸命堤防を作り、建物を建て、水道を引き、住めるようにした。
台風が来れば、沖の孤島は暴風雨をもろに受けた。
島の西側に多くの住宅が建っていたが、炭鉱関連の設備は風雨の影響が少ない東側にあった。
それだけ労働者の安全は重要視されていなかったとも言える。
水事情は良くなかったので、腸チフスなどの感染症が流行ったそうだ。

1960年代後半、再びエネルギー革命が起こり、石油に取って変わられた石炭は需要が極端に減り、1974年閉山。
閉山になった後は人口の流出が止まらず、ついには無人化、建物は徐々に風化していった。

日本の高度成長期を支えた発端のひとつが間違いなくここにあり、現代の便利な生活の土台を作った偉大な場所である。
時を経て、廃墟になって尚、貴重な歴史的遺産として注目を集め、世界遺産に認定された。

建物倒壊の危険により、立ち入り禁止区域も多い中、ドローンなどを用いて現状の記録が今も進められている。

と、これらは記憶の限りのガイドさんの説明の備忘録。

崩れたコンクリートやバリバリになった窓ガラスは、まさに廃墟の様相だった。
自然に対する年月の経過と、人の手の入れ様、というのは半端ではない。
それもまた、自然、の範疇か。

時代の煽りを受ける、とか、時代に翻弄される、ということを生活が一変するほどのものは肌身で感じたことがないけれど、端島に関わった人々は良くも悪くもそんな感じだったのだろう。
廃墟ブームだの、世界遺産だの、誇らしくもあり、また反対に何らか表沙汰になっていない事情によって気分が悪い人だっているだろうと思う。

ただ、この軍艦島によってもたらされた雇用数や経済効果というのはものすごいものだろうと思う。
ツアーは非常に日本的で、よく先回りしてできている感じがした。

長崎の街を大方見尽くして時間を持て余した私たちは、地元のスーパーで100円の多肉植物を3つ、東京にある靴下屋で3足1000円の靴下を買ったりした。
なんなら、あまりに新鮮な緑のつるむらさきなどを買ってしまいそうだったけれど、つぶれてしまいそうだったのでやめた。

ちゃんぽんやら、タピオカココナッツミルクやら、茶碗蒸しやら、イカのお刺身やげそ天ぷらやら、紫芋のコロッケやら、長崎牛やら、ハンバーグやら、ビワ最中やら、よく食べた。
良い牛肉は体に合わない、ということがまた証明された。
しかし、お店のチョイス的に旅行全体を通してとても当たりだったなと思う。

羽田空港に着くと、早回しになったかのように世界のスピード感が変わった。
全ての人が協力して、自分の動作とエスカレーターの速度などを計算して、動いているかのようだった。
テキパキ、ちゃきちゃき、世界は早足で回り始めた。

都会の人は急いでいる、歩くのが早い、なんてことを言われるけれど、私は実感したことがなかった。

旅行もいいけれど、東京は安心する。


格子窓に街灯ひとつ月ひとつ




急ぐ

2015-09-27 10:26:19 | 日記
句会仲間から借りた「あかぼし俳句帖」

俳句には少し慣れた感もあるけれど、当たり前だけれど、全然何にも分かってなかったのだ、ということがよく分かった。
書道でも音楽でもなんでもそうだけれど、やはりそれにどれだけの敬意を払えるかによって、創り方も味わい方も歴然の差が生じてくる。

それは初心者やそれをやらない人には分かりようもない、愉しみ、と言えるもの。
やっている人にしかわからない、突っ込んでいる人にしかわからない、そんな領域が間違いなく存在することを教えてくれた。

もちろん、初心者が何か文化的なことをやってはいけないなんてこともなければ、敷居が高いからそれなりの覚悟で踏み入るべきだなどと言うつもりはない。
そもそも、全員が初心者から始まる。
当然、小難しいことは抜きにして「創りたいように創ればいい」「感じたように味わえばいい」、それも分かるしそれも本当だ。
しかしその道を志す者は、ただ楽しむということに終わらず、道が果てしないことに打ちのめされ、何度も自分はダメだと思い知ることになる。
それでも、飽くなき探求心と愛情をもって進んでいく。
その上で、「創りたいものを創る」「感じたように味わう」。

俳句そのものの成り立ち、歴史、季語の意味、季語があるということ、俳句的技法、語彙の量、言葉の選択と組み合わせ、それらの圧倒的な土台があってこそ格調高い良い句を創れる可能性を高めることができる。
知り過ぎて囚われ狭まる、という領域もあるだろうが、そうなれたらかなり俳句道を行っていることを誇ってもいいように思う。

俳句は、五七五の極めて少ない言葉の世界だから、多くを知っていることは真っ当な読み手になり得るということでもある。
句会に出ていても知らない言葉がたくさんあって、家に帰って意味を調べて読み返すと、なんて良い句だ、なんてこともあるわけであって。
そんなときには俳句に謝りたい気分にもなるものである。

その道にいるとその道にいない大勢に理解は得難い。
その奥に秘められた“良さ”は、大勢の軟弱な土台ゆえに置き去りにされたまま葬られてしまうのである。

しかし一方で、本当に“良いもの”というのは何が何でも伝わるのかもしれない、とも思う。
これはおそらく、そうである、そう信じたい。
となれば、作り手の技量及ばず、ということも言える。

いやしかし、やはりその道にいることというのは尊く、そんな創作物にはいつだって頭が下がると、この漫画を読んで思い知った。

ほとんどの人は、「あの線のかすれが泣かせる」とか「あそこであの音とは何て示唆に富んでいるのだ」などとは思わない。
別に全然思う必要もない。
でも少し、その奥行きのような何かだけでも感じて、作り手本人というよりかは、その文化に少しでも敬意を払う心が芽生えたのならそれでも十分だと思う。

「ニッチな文化の展示会には“チャーハン”を置け」ということをいつかどこかで見たけれど、確かに多くの人に理解を求めたかったり、一緒にそれをする仲間が欲しかったりする場合には“チャーハン”的何かが必要なのだと思う。

これは私がもっと俳句に突っ込みたいという話ではなくて、多くのことに通ずるなという話である。
あと俳句に対して、ごめんなさい、という気分になったという話でもある。
ついでに書道についても、ごめんなさい、という気分でもある。

そして終わりなく、まだまだ、なのである。

天窓にすき間ちょうどの望月かな




銀の太陽

2015-09-24 01:24:37 | 日記
プールに行く。
まともに泳ぐのは何年ぶりだろう。
海水浴というか海が嫌いだし、水泳は着替えが面倒とか髪が傷むとか濡れるとかでそもそも好きではない。
まあでも、溺れない程度に普通には泳げる。

しかし、友人がホテルのプールで泳ぐために旅行に行きたいと言っていた話をきっかけに、何となく久しぶりに水の中に潜りたいという衝動が生まれ、その勢いでフィットネス用の水着とゴーグルを購入。
10年間で1度しか使っていないビキニも持ってはいるものの、Yahoo知恵袋などによるとスポーツジムなどではビキニを禁止しているところもあれば、禁止していなくとも場違いだというふうに書かれていた。

水着が届いて間もなく生理になって、水着は放置されていた。
潜りたい、泳ぎたいことを忘れないように、水着はしまわずに机の上に出しておいた。
ちなみに私は自分の家では年中シャワーのみなので水に潜るということは日常的に体験しづらい。

あとはもうここ何年も、自転車以外の運動、これも運動に入るかわからないが1日合計30分以上乗っていることは多いが、をさっぱりしない慢性的運動不足で、4kgの赤ちゃんを抱っこして筋肉痛だの、遠出して筋肉痛だの、10数分のバランスボールで筋肉痛だの、階段や坂道が辛いだの、身体のなまりが甚だしいことを食い止めたいという思いもある。
もう一つ、肩こりが酷いので、水泳は肩こりに効くと聞いたということもある。
身体は丈夫な方だけれど、健康維持はそろそろしておいた方が良い。

本当はスポーツをするなら単純な運動よりもバレーボールがやりたいけれど、如何せん大人数が必要であることや、爪を切らなくてはいけないことやケガをしてしまいそうなことを考えると続きそうにない。
何年か前、スポーツジムのランニングマシンもやったことはあるけれど、走っている最中に息切れで考え事と体がめちゃくちゃになってしまうし、単純に辛く、性に合わなかった。
ボールを追いかけるなどの目的なく、自分の体重を自分だけで支えて動くのがダメなのだと思う。
重力が辛い。

私の運動への意志が日常に組み込めるくらい、継続できるものが良い。

水は冷たいのか、私は今泳げるのか、足を攣らないか、どのくらい疲れるのか、プールはきれいなのか、人はどのくらいいるのか、どんな人がいるのか、とにかくいろんなことが気になったけれど、とにかく出かけてみる。

近くにあるプールで最も近いのが区民スポーツセンターだった。
このあたりは起伏が激しく、運動せねばという思いと裏腹に自転車で上り坂を上るのは嫌いなのと、またとても道に弱いのであまり出歩くことがなく、界隈の詳細を未だ全然知らない。

小石川植物園の素晴らしさもさることながら、こんなにも近くにこんなにも広く緑いっぱいの立派な施設があるのか。
私は東京が大好きだけれど、特にこのあたりが好きで、何があるとかないとかそういうことでもなくて、街並みや雰囲気やいる人たちが好きなのである。
近所の生徒さんもみな口を揃えてそう言う。

水着は予め着て行ったのでさささと着替えて、表示に従ってシャワーを浴びて腰湯に浸かり、塩素の匂い漂うプールサイドを歩く。
勝手が分からず、監視員に「ここから入ってもいいですか?」と聞くと「今は休憩中です」と言われた。
見渡すも何も、プールには誰も入っていなかった。
こういうとき、私は自分で思う以上に周りが見えていない。

休憩時間が終わり、ゴーグルをはめて、プールのはしごをゆっくりと降りる。
水は冷たくもなく温かくもなく、適温。

思ったよりも深いので、瞬間的に水の中に潜った。

水の中に潜っている音がした。

子どもたちが遊んでいるレーンで泳げることを確認して、25mを1往復、50m止まれない「完泳レーン」で泳ぐ。
クロールは少しやって疲れたので、あとは平泳ぎで。

2時間制500円なのだが、2時間で足りるかなと思っていたことは即打ち砕かれた。
3往復くらいして、ふぅ、結構泳げるな、と思って時計を見ると、プールに入って15分しか立っていなかった。
2時間なんてとても泳いでいられるわけがない。

しかし、浮力を借りていることと、頑張り過ぎないスピードで泳いでいることで、息が上がってもうダメだということもなかった。
泳ぐことは気持ちが良かった。

結局休みやすみ、合計1kmくらい泳いだ。

プールの後の心地よい疲労感は、いつになっても変わらない。
プール上がりの自転車に乗って吹かれる秋風は、遠回りして帰りたいくらいに爽やかだった。

しかし、顔が引きつって、そうも言ってられなかった。
全く頭になかったけれど、化粧水を持っていくべきだった。
顔を動かすとひび割れてしまいそうだったので、顔を微動だにさせずに自転車をこぐ。
帰宅して、乾いた鉢植えに水をやるように、化粧水を浴びる。

水着を洗濯機に入れて、使ったゴーグルを不意に見ると、「Remove protective film before use」のようなことが書いてあった。
視界が曇っているなと思ってはいたけれど、これを付けたまま泳いでいたからなのか。

また近々泳ぎに行きたい。
そう思えていることは嬉しいことだ。
これから迎える寒い冬にも勝てるくらい、私の泳ぎたい意志が沸き続いてくれるといい。



色もなき風の仕業の白髪かな