つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

目を閉じると

2015-09-22 14:57:35 | 日記
最近あまり音楽を積極的に聴くことがなかったのだけれど、SEKAI NO OWARIやRADIO HEADを借りて、すごく好みというわけではないけれどもとても“本物感”を感じたりする。
言っていることがどうかというよりは、作り手が作り手として立っている感じというか、立とうとしている感じというか、どうにもしようがない“それ”だったり、音楽的な世界観としての“それ”だったり。

ついでに久しぶりにギターを手に取って、かねてより気になっていて、しかし相当の期間放っていたトライアドを再度やってみる。
トライアドは、三音で成り立つ和音。

何だかよくわからないけれど、私は和音の世界が好きだし、コード理論が好きだ。
まあでも、好きだ、というほど私の頭は数学的にできていないので、半歩の理解を進むのに、うううううう、とじりじりしか進めないのだけれど。

ギターにおいて、何ひとつ、弦が6本あることも爪が長いと弾けないことさえも知らずに始めた私が、「同じ手の形でそのままずらしていくことができるのね!」「ここにもこのコードがあってここにもあるのね!」「ルート音ってそういうことなのね!」ということの理解にギターを持って至ったとき、私にとっては革命的な感じがした。
それを知ってキーを自分でずらすことができるようになったし、ベース音だけ鳴らすということもできるようになった。
もうそれで、マーシーのギターソロが弾けなくても、コードを弾いて歌ってしまえば、何とか曲になるので十分だった。
だから長らく、自分がやることにおいては音楽的にもギター的にもストップしてしまっていた。

私は自分が音楽に触ることについて、とても引け目を持っている。
全然分かりません、という大きなコンプレックスの下に始まっている。
それでも気になります、音楽さん、という思いは拭い去れないので、折に触れて熱量が上がったタイミングでまた考えたり触ってみたりするのである。

聴くことと弾くことは別物だし、理論と音の体現も別物である。
多角的にコードをギターにおいて考えていくと、あれとこれとそれが時をずらしてピタリとリンクしたりして、「おぉ!」とか「あぁ!」とかなったりする。
そしてまたそれが音として出るわけであって、それは嬉しいに決まっているではないか。

多角的に、と言ってみるものの、コード理論の全体像からすれば超一側面しか見ていないと思うけれど、コードの組み合わせはメジャースケールとかダイアトニックコードだけを基点として考えても恐ろしくたくさんのことが考え得る。
「音楽は思いなんだよね」とか言う前に、とりあえず、基礎的なスケールと各弦における基礎的なコードのポジションを丸覚えすることはとても重要であることが分かる。

コードの世界はきっとものすごく広くて豊かに広がっていて、でもきちんとした理解さえすればとても汎用性が高く、とても安定した音楽のひとつの土台になり得ることが少しの深度と体感を持って分かって、私はギターに再びポッとした。
その世界の広さや無限さについて、私はまだ正しく認識できないので下手に肝を冷やすこともない。

何事も、物事を体得するのに「思い」だけでできるはずがない。
理解と練習しかない。
いきなりできるようになる魔法なんてない。

そしてまた、スケールを知って、コードを知って、練習して、しかし、当然ながらそれだけで何になるということもない。

ギターという楽器は、面倒くさくて愛おしい。

私は書のレッスンにおいても「汎用性」という言葉を多用するけれど、どんな物事であれ「汎用性」の高いことを知ることは、世界が広がったり、バラバラに見えていたものが統合されるということでもある。
物事を体得するのに、それとは別のことが役に立つことも大いにある。


結局出品しなかった「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」

花や写真に以前ほどの興味がなくなってきた。
好きは好きだけれど。



床磨き終えて艶増す栗羊羹




春、ある、ヤンキイズム

2015-09-20 09:50:49 | 日記
マーシーがよく出没するというバー。
当然ながらマーシーは人間だから出かけもするしお酒も飲むし歌も歌う。
普通に、ごく普通に、鼓動して毎日を営んでいる。

ライブ会場で、手に届きそうなところにマーシーがいたこともある。
間違いなく私の目の前でギターを弾いて、目の前で歌っていた。

しかしながら、それとは違って、商業でないところにいるマーシー。
どちらもただ“いる”ということには何ら変わりはない。
マーシー自体は幻想でもないし、そのことだけはただ事実なのだ。

「ま」ばっかりに見えるマーシーのサインが書かれたレコードがたくさんあった。
レコードでブルーハーツを聴くのは初めてだったけれど、よく言われるCDとレコードの音の違いが私には分からなかった。
どこでどう聴いたって、私の頭は持っていかれてしまうけれど。


展覧会の作品の出品に行く。
結局、また「リンダリンダ」も書いた。

「リンダリンダ」はもうだって、私の最初のロックンロールであって、どうにもこうにも革命的な出来事をもたらしたものだ。
だからと言って、ヒロトやマーシーを崇め続けるわけにもいかず、ロックンロールとはそういうことではなく、くるりの岸田さんの言うように、ロックンロールにはいつだって「さよなら」の概念がそこにある。
これは日常の細かな現象についてではなく、イメージ、概念、の話として。

限りなく変化していく自分と、限りなく変化していく世界。
言うなれば、「リンダリンダ」が私に起こしたことは、「“自我”と“世界”の分離」ということだと思う。
それまでどこか社会や世界というものに乗っ取られていた“自我”が、“世界”を抜きにしてもただ自分として存在していいのだ、というかそもそも存在しているのだ、ということを体感を持って認識した、そんな現象だったのだと思う。

だから何だと言うこともないのだけれど、恐ろしく大きな、ひとつの納得を得て、それでそんなふうにやっていきたいと体が思うようになった。
どこまでも世界を借り物としている以上、そんなふうに、というところが何だか肝が冷えるくらいによく分からないのだけれども。
私に大事なことはきっと“たったひとかけらの勇気”なんだと思うけれども。

「ひこうき雲」「男の子と女の子」と合わせて3点を出品。

いくつかの書いたものから出品作品を先生と一緒に選ぶのだけれど、私がここで書道を始めるきっかけになった先生がいて、私のを選んでくれているわけではなかったのだけれど、先生は不意に寄ってきて「あら、誰の?あぁ竹内さんのか。いいの書くようになったわねぇ」と言った。
先生はすぐ、また他の人の作品選出に戻っていった。
たったそれだけだったけれど、嬉しかった。

その先生は、誰かを特別に懇意にしたりする姿を見ないし、褒めたり批評したりはするけれど結局のところ書以外のことに我関せずなところがある。
そんなところが私は好きだ。

先生の作品は、運筆は力強く、それでいて紙面に現れた線は煙のように繊細だったりする。
同じ筆を使っているとは思えないし、何がどうなっているのか、私には未だよく分からない。

ある程度続けていると、自分の字やイメージから解き放たれることが難しくなる。
決まりきった方法で体よく収めがちになる。

しかしその先生の作品はいつだって進化している、あるいは進化の姿勢が感じられる。
前回の「風神雷神」の四字作品は特に今も脳に焼き付いている。

私は所属団体においてコミュニケーションを取らない方だけれど、とてもこっそり、私は先生のファンなのである。


カバーを付けているにも関わらず、iPhoneを落として画面にヒビが入ってしまった。
どうしてそんなふうに落下するのか、という感じで、カバーのない側面から垂直落下して、カツン、という音がした。
幸い、画面保護のシールのおかげでタッチ部分にはかろうじて及ばない最小限のヒビで済んだけれども。
これなら直さなくても良いだろう。
がしかし、相変わらずエラーが多い私である。



筋肉痛の理由はきっと笑い茸




いつかの意欲と張りぼて

2015-09-13 10:45:55 | 日記
ピーマンをくたっとするまで酒と醤油とみりんとおかかで炒め煮にすると美味しいと、ネットで見たのでピーマン一袋5個でそれを作ったら、2,3日のおかずにしようと思っていたのに一度に全部食べてしまった。

缶詰のミックスビーンズに軽く塩胡椒して、クミンを振ったらおしゃれな豆サラダになった。
これまたフィット感のある味で、2,3日のおかずにしようと思っていたのに全部食べてしまった。

だからまた、夜の煮物をする。

じゃがいもとしめじ、切り干し大根、しらたき、シーチキン、ししとう、唐辛子。

皮を剥いたり、
石づきを切ってほぐしたり、
さっと洗ったり、
下茹でしたり、
缶を開けたり、
ヘタを切り落としたりして、
ざっと炒める。

酒をじゅわっと入れて、
かつお粉とざざっと入れて、
ぐつぐつして灰汁をすくって、
醤油をちゅうっと入れて、
みりんをだだっと入れて、
唐辛子をまるのまま一本入れて、
ひと混ぜ、ふた混ぜしながらぐつぐつして、
じゃがいもに爪楊枝がスッと通って、
火を止める。

最近、料理をするとき、「きょうの料理ビギナーズ」のハツ江さんの甲高く独特な間を持ったナレーションが私の頭の中で勝手に再生される。
随分と雑に私はそれを再現したりしなかったりする。

私からよく作り出されるこの類の料理は一体何者なのだろう。
ごった煮、なのだけれども、具材は度々入れ替わる。
まあ味付けは基本的にいつもさほど変わらない。
ししとうを入れなければ、「白い煮物」とでも名付けたかったけれど、料理に彩りが必要でそれは栄養バランスにも関わる、という私に植わっている考えでついししとうを入れてしまった。

なぜ私はちゃんと名のある料理を作らないのだろう。
敢えて避けているわけでもなければ、肉じゃがとか春巻きとかココナッツカレーとか、食べたくないわけではないしむしろ食べたい。
工程が面倒だということが第一にあるけれど、おそらくそれらよりもこのようなごった煮を食べたいと思うことが多い。

午前2時の煮物の味見はまだで、きっと食べるときに塩味の調整は必要だろう。
冷めていく過程で、具材がぎゅうっとそれぞれのうま味を抱きかかえる想像をしながら眠った。

よく仕事をして帰ったときに、こういうごった煮があるのは嬉しい。
けいこに作ってもらいたいわけではない。
けいこに作ってもらったごった煮は、そのときに食べたいかどうか分からないし、私はそれを自分の血肉にしたり感想を持ったりする責任を持てない。


街のそこら中でお祭りの太鼓と笛と御神輿をかつぐ声がする。
私にとってお祭りと言えば、海中渡御といって山車が海を渡る非常に派手な地元の祭りを思い出す。
日本酒の一升瓶を回し飲みして、サラシの男たちはアスファルトの上で泥酔して倒れている姿を、私はよく露骨に遠ざけていたように思う。
今思うに、あの祭りで過去に何人も死んでいるのではないだろうか。

幼い頃には、着物を着て足袋を履いて踊りをやったりもした。
祭りが近くなると小学校の体育館で毎晩踊りの練習があった。

お祭り当日、早朝から白塗りの化粧をして、真っ赤な口紅が落ちないよう口をつぐんでいた記憶がある。
雨が降って、衣装が濡れてしまうからと簡易なカッパを着て踊った。
このとき、けいこは飲み物を買ってきてくれたり、比較的献身的だった気がする。

決して楽しい思い出ではないのだけれど、特段嫌だった思い出もこれに関してはない。
特別な日であっただろうに、私は何を思っていたのか、全然思い出せない。
私はそのときの私の思いを知りたいのだけれど、全然思い出せない。


更紙(ざらがみ)に淡墨が落つ秋の雷(らい)




コジラセオタニノゲンエイ

2015-09-09 13:02:39 | 日記
もっぱらハイヒールを履かなくなって随分経つ。
かつては8cm~12cmくらいのハイヒールが当たり前だった。
背が大きい方ではないからハイヒールに乗らないとバランスが保てない、そう思っていたし現実にフォルム的にはそんな風にも思う。

しかしながら、ハイヒールの中でもピンヒールは安定感のある竹馬に乗っているようなものだし、先が尖っているポインテッドトゥのハイヒールなんて自分の体重で自分の爪先を圧縮して潰しにかけていることになる。
上り坂は良いけれど、下り坂は一人傾斜を煽ってしまうし、転びやすいし、挫きやすいし、はまりやすいし、走れない。

当然ながら、無意識にもバランスに常々気が行っているわけで、当然ながら1日出歩くと駅から自宅までの帰途で泣きたい気分になったりするくらい疲れる。

それはそれで辛かったから、最近はヒールが太いチャンキーヒールや、ヒールが高くても底の部分がフラットになっているウェッジソールを選ぶことが多くなっていた。
また、ブーツは、全般的にハイヒールでも足首が固定されて体重が分散されることで全体の安定感が向上するのでブーツ率も高まった。
しかしそれでもハイヒールなら乗って歩いている感じはもちろんある。

時折、ぺたんこの靴を履くと地に足付けて歩く素晴らしさで、「走れちゃうもんね!」となる。
しかし、急にぺたんこの靴を履くと、ハイヒールではさほど使わないのだろう、脛やふくらはぎの筋肉が痛くなったりもする。

ユニクロのレギンスパンツに惚れてからだろうか。
パンツスタイルをすることが増えて、ファッション的にフラットシューズのバランスの取り方に納得がいった。

とてもソールの薄いフラットシューズを履くと、地面の感触が近すぎて、外界がまるで部屋のように感じる。
点字ブロックの丸いやつを踏むと、足ツボを押されているかのような気にもなる。

タイツを履いてごく軽いスカートを纏うとき、「スカートをはき忘れたかも」と家を出て数分でハッとすることが時々あるのだけれど、そのときの感覚に少し似ている。
外に出ては行けない格好をしているのではないか、そんな感覚に襲われるのだ。

そんな感じにもだいぶ慣れてきて、私は普段街の人を観察することがさっぱりないのだけれど、スニーカーやローファーのハイヒールでない率や、その着こなしをちらちらと観察するようになった。
可愛らしいバレエシューズタイプのフラットシューズだけではなく、マニッシュな雰囲気のローファーやスリッポンやスニーカーも良いではないか。
そして、街を見渡した私の感覚では、そんなにハイヒールを履いている女性は多くなかった。

そんなこんなで、持っていたバッグを2つ売った。

こんなに雨ばかりで嫌になってしまう。


さよならが尽きた時から法師蝉




撃つ

2015-09-07 13:54:33 | 日記
どうも体が動かなくて、剥げ剥げになったマニキュアを塗りかえる気にもならないし、洗濯した枕カバーを付けることさえも放ってある。
それでも部屋が大きく荒れているのは嫌で、体が不意に少しだけ動き出した瞬間を感知して、シンクに山盛りになっていた食器類を洗って、部屋干しの洗濯物をハンガーから外してたたむ。

こんなときにお腹いっぱい食べたり、お酒を飲むとさらに動けなくなる。
その上に煙草を吸うと、重力にずんずんと引っ張られて自分が重石になったような気分になる。

借りている『銀と金』と、スマートフォンで『ザ・シェフ』『ねじの人々』を読む。
やはり『カイジ』の方が面白いけれど、「オレはただオレなんだ、それだけ。名前は森田鉄雄。背景はない・・・!」とか言われると私は、わーい、となる。

漫画を読むことは、長い時間ををかけて板に付いてきた。
絵が細かすぎることと、設定に現実味がなくて読み止し、もうかなり長期間寝かせてある『ジョジョの奇妙な冒険第7部』もそろそろ読むことができるだろうか。

漫画は、小説よりも字数が少ない分だけ断然に頁を速く捲っていける。
しかし、自分が読んで積み上がった漫画の塔を見て、「こんなにたくさん本を読んだ」と堂々と言う人はいないだろう。
言ったとしたら「(笑)」が伴ってしまう。

しかしながらそこには、小説に比べて膨大な作業量があるだろうし、映画に比べて恐ろしく孤独も付きまとっているだろうと思う。
漫画はそれこそ紙と筆記具があれば描けるわけだけれど、読み手の消費スピードと書き手の創作スピードには大変な乖離が生じてはしまわないのだろうか。
一コマの絵にこだわろうと思えばどれだけだってこだわれるだろうし、後から物語を少しいじりたいとなった場合にはそれはもう大変なのではなかろうか。

まあでも発行冊数が小説に比べて多大になるから、売れれば金銭的に潤い、その分アシスタントなどを雇うことでカバーもできるだろうが、そんなことで解決可能なのだろうか。

創作の労力だけが敬意の在り処であるわけではないけれど、漫画初心者の私としては毎度そのことを思ってしまう。
無論、他の表現物が労力を要さない、と言っているわけでは全くない。
単純に、漫画家ってすごいな、と思っているだけである。

漫画は、表現物として、読み手側の想像の余地が非常に狭く支配力がある。
よく、「漫画ばかり読んでてはいけません!」とお母さんが子供に言う一つの台詞があると思うが、それはおそらく漫画について一般的に社会が与えている位置づけや、この支配力ゆえの影響力を鮮明にでなくてもなんとなくそのお母さんたちが分かっているからなのではないかと思う。

私は小説などを読むとき、物語に入り込むことが非常に苦手なのだけれど、その理由は言葉の端々や情景描写を単独で拾って、思考を派生させてしまうことにある。
だから漫画くらいに絵と言葉でイメージを支配してくれた方が、単純に物語を楽しめる。

私は文章を書くことが好きだし言葉が好きだけれど、ただそれだけではなく、全体感としての“それ”が好きなわけだ。
音楽だってそうだ。
インストゥルメンタルの曲であろうと、歌詞のある曲であろうと、そこにあるのは表現者の、匂い立ってくる何か、なわけだ。
と、最初私は「歌詞しか分からない」と豪語していたものだけれども。
では「歌詞の意が分かっているのか」と問われれば、今思うによくもそんなことを豪語していたなと思う。

書は言葉を扱ってしまうから、記号としての支配力が強いわけだけれど、しかしだったら活字を拡大印刷したっていいわけで。
字一字ではない、“そんな感じ”ということしかきっとやることはないのだろうと思う。


初めて、ミントの花が咲いた。
先っぽに、白くて小さなつんつんした花。


さよならのこぼれた訳は流れ星