つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

その先の低音

2015-04-15 20:40:21 | 日記
私の苦手な電気機器の外付けHDD、でも繋がないと買った意味がない。
数日間目を背けていたが、見たいドラマが迫ったので深呼吸して説明書に立ち向かい、線を繋いでみる。

どの機能が私が使えるもので、どの機能が他の専用線や専用機器がないと使えないものなのかが判別できない。
とりあえず、付属品と今テレビに付いている線を、説明書通りに繋いでみる。

ここでテレビが映るはずという段階で、テレビが映らない。
ああもう、こういうことが起きるから嫌だ・・・と辟易としながら再度深呼吸して、2手順ほど前に戻って確認すると、違うところに線を繋いでいた。
そしたら、テレビは映ってくれた。

なんだかたくさんのことができる機械のようだけれど、とりあえず録画の予約までこぎつけた。
2チャンネル同時録画、それは買うときに条件として入れていたので、同じ時間に始まる観たいドラマを2つ予約する。
1つは先週第1話が終わってしまっているけれど。

番組表を見ていると、見たい番組がたくさんある。
借りるほどではない映画や、ちょっとした音楽番組や、アーティストの対談など。
ちなみに私はあまりお笑い番組を観たいというのが今のところあまりない。
これが全部見られるのかと思うと、なんだかとても嬉しくなる。

今日帰ったら確認できるけれど、きちんと録画できているだろうか。

これでできていなかったら、いくつかの意味で悲しいったらない。


きょうだいと苺ミルクを作りましょう




歩いて行く

2015-04-13 16:05:52 | 日記
姪と相撲ごっこ的なことをしていて、私が負けて倒れていたところを、姪に思いっきり踏んづけられた。
私は別に大丈夫だったけれど、手加減なしの子どものそれは、あたりまえに少し痛かったので、「痛い!」と声を上げた。

それを見たいもうとは「ダメって言ったでしょう、おばさんに謝りなさい!」と叱る。
姪はすぐには謝らず、自分が悪いことをしてしまった罪の意識と、お母さんに叱られたこと自体に青ざめて困惑している。

困惑してやり場のない思いを少しでも逃すために自分の服を引っ張っている姪に、「人に痛いことしたらダメでしょう!おばさんもう遊んでくれなくなっちゃうよ!いいの!?」とお母さんに追い打ちをかけられ、「ごめんなさい」と片言に私の方をちらりと見てぼそぼそっと言った。
私はすかさず「いいよ、もうしないでね」と言う。

「よくできたね、そうやって痛いことしちゃっときは謝れるもんね」といもうとのそれで事は終焉するはずだったのだけれど、姪は次の瞬間に爆発的に泣き始める。

“我慢”を覚えてきたんだな、と思う。

お母さんに叱られるということは小さな子どもにとって大きな痛手であるはずで、でも自分が“悪い”ということも認識しているから、いやむしろ、お母さんをこれ以上怒らせるわけにもお母さんに嫌われるわけにもいかないから、そこで癇癪を起こすわけにはいかない。
このくらいの子どもにとって、「お母さん」というのはもうとてもとても絶対的で、「お母さんに叱られた」という事実はものすごく「ヤバイ」ことなのだと思う。
だから、一時の“我慢”を経て、感情、ストレスとも言えるようなものがドバーッと出て爆発的に泣いてしまったのだと思う。
この場合、「人に痛いことをした」という罪の意識はおそらくそこまでないであろう、だって私を傷つけたかったわけでも、悪気があったわけでもないだろうから。
それに、泣かせてもらえる環境であるのは、姪は愛されている。

お母さんを怒らせないために“我慢”する、もしかすると、これが初めの“良い、悪い”の分別や、ルールの上で自由に行うことに対する理解と言えるのかもしれない。
人に痛いことをするのはいけないことだ、と子どもが知る他の方法は、それを自分が同じ力でされることくらいだろう。
しかし、その方法は、同じ力で仕返しをする、ということに繋がる可能性もあるだろう。

8月に“お姉ちゃん”になる姪。
どんどん大きくなるお母さんのお腹に赤ちゃんが入っていることは重々承知しているのだけれど、とてもお喋りな姪はその話を一切しようとしない。
一方で、保育園では「もうすぐ赤ちゃんが生まれるの、女の子なの」と保育士さんに話しているそうだ。
その、単純で複雑な思いに、私は勝手に、過剰に締め付けられる。

だから私は、どれだけ姪が泣いても、「もうすぐお姉ちゃんになるんでしょう、だからもう泣かないよ」という言い方はしない。
いもうともそう言わないのは、きっと双子のいもうととして育てられたことで、「双子なのに、同じなのに、序列が下」という屈辱をいもうとはたくさん味わったからなのだと思う。

下の子が生まれれば、姪はもっともっと“我慢”しなければならないことが増えるだろう。
おばあちゃんとおばさん、つまりけいこと私の膝には入ってくるし抱っこもせがむけれど、お母さんでないと満たせないこともたくさんたくさんある。
たとえば姪はお母さんのひじをすりすりするのが好きなのだけれど、ほとんどまったく同じ感触がする私のひじではだめなのだ。
まあ寝ていると間違えてすりすりしてきたりするけれども。

私はこのような一連のことにとても感じ入ってしまうわけなのだけれど、いもうとは上手くやっているなあといつも感心する。
偉いなあと思う。

子どもの透き通った感情に、私は自分のことばかりを見てしまうし、それを導いてあげることなど全然どうしていいか分からない。


カラフルな音鳴るフリルスイートピー




増えた

2015-04-11 12:59:58 | 日記
長らく欲しかったテレビの録画HDDを買った。
が、私は地図と同じくらい、あのような電気機器が苦手である。

段ボールから出して、ビニールと結束バンドを解いて、説明書を取り出し。
説明書という説明書が嫌いなのでなかなか読む気になれない。

さて、何をどうしていいのやら。
テレビに差し込むようなカードも付属しているけれど、果たしてこれは必要なものなのだろうか。
クロームキャストのように設定3ステップとはいかなそうである。
まあ、別売りのHDMIケーブルがないと見られないことは事前に確認済みで、それがまだ届かないので見られないのだけれど。

このような機器を目の前にすると、もう本当に緊張する。
何が分からないのかも分からない、という恐怖。
私なんかが少しでも触ると、こんなことなら触らなければ良かったというようなことになりそうで。

家電の他にも、音楽スタジオにあるアンプとかエフェクターとかスピーカーとか、エレキギターのつまみでさえも。
もっというと、照明のスイッチがたくさん並んでいるのさえも苦手である。

分かりそうにない数学の問題に立ち会ったときも似たような息苦しさがある。
なんというか、もう分からないので許してくださいと誰だかわからぬ誰かに請い、それを考えるのを免れたいのである。

その一方で、今度はその苦手意識というものがものすごく自分を圧迫する。
「分からなくていいや」とすっきりと手放してしまうことができないから、いつまでもそれらを前にすると緊張や恐怖に苛まれることになっている。
本当は分かりたい、その気持ちはある。

人生を通していつまで経ってもクリアできそうにないというその感覚は、私の思考のある部分から進めなくする大きな障害であるようにも感じている。
とてもとても脆弱な私のその要素。

たぶん、とても単純な原理とその機能を正しく知れば、これはある程度解消するようにも思う。
しかし、そのとても単純な原理は、おそらく一人で理解することができないようにも思う。
いや、ゆっくり着実に理解を積めばできるのかもしれないけれど、すごく欲深い意味で、腑に落ちるように誰かに説明してもらいたいのかもしれない。

とりあえず、古い再生のみのDVDプレーヤーをけいこがもらってくれるというので、梱包する。

エレキギターと書いてしまって、エレキギターがやっぱり欲しいことを思い出す。
弦も一人で張り替えられないくせに。


花冷えに思い出す罪時計台




隆起

2015-04-06 14:03:12 | 日記
私が教える仕事をするのに登録させていただいているサイトがあって、なんとMVPをいただいた。
https://cyta.jp/pr/entry/8945

まあ、受賞の大きな理由に、私が東京にいて都内でレッスンが可能、ペン字や書道のジャンルの先生が少ない、ということはある。
たとえば私が千葉市に住んでいて、千葉市近郊でしか行えませんとなったら、生徒数は激減だろうと思う。
子供向けの書道教室でない限り、こういうのは都心でないと成り立たないビジネスと言える。

ともあれ、このことを私はフェイスブックにアップした。
フェイスブックというのは個人のプレスリリースの場であるような気がする。
私の個人的な見解だが、フェイスブックを頻繁に使っている人たちは、「個人の何か露出物」よりも「個人が“社会的に”頑張っている」という姿が好きな気がする。
だからこのような内容のものには、「いいね!」は他の内容に比べてたくさん付く。

他の方の投稿を見ていると、子どもの成長などの内容にも「いいね!」はたくさん付く。
子どもの単純な愛らしさについて「いいね!」なのだろうけれど、子どもを育てるということは極めて社会的な営みなのだろうなと思う。

これは社会性に対する批判では全然なくて、しかしながら、社会性に乏しいものについて考慮にも入れられずに排除されるのも悲しいなと思ったりする。
社会的云々を抜きにして、私も十分に子どもの存在は愛らしいと思うし、愛されるべき存在であると思うし、愛されて欲しいと願う。
ただ一般的な「社会性」のようなものの外にも、何か意志や意見が存在するということを忘れてはならないと思う。
分からないものは怖いから取り入れない、という一方向的な姿勢を、最初からとってはならないと思う。

それはそうと、下の兄から「いいね!」が付いた。
こんなことは初めてだし、確かに兄は「友達」にはいるわけだけれど、フェイスブックを見ていることさえ知らなかった。
ちなみにおそらく上の兄はフェイスブックをやっていないと思う。

私は下の兄のことを「どうしようもない人」という感じで見ていて、私もそう思われているだろうと思っていた。
4人兄弟のうち、真ん中の2人、つまり下の兄と私は社会性にいささか乏しい。
お互いが持つ憂いのようなものは、少し切なくて、触れづらかったりもする。

「いいね!」は薄っぺらい意味だったとしても「私はあなたのことを見ていますよ」という証である。
このようなことに慣れていない私は、いつまで経ってもフェイスブックに何かをアップするのにそれなりの緊張を要するし、「いいね!」が付けばそれなりに嬉しいわけである。

ブログのように、「誰かが見ている。しかし書き手の主体性がとても強く、レスポンスがなくてもよい媒体」の方が楽である。
しかしながら、レスポンスというのは下心たっぷりに求めてしまうというか、まあないのが通常だとするとあれば嬉しい。
そしてまた、レスポンスがなくても書くのだけれども。

誰かが見ているのは嬉しくて恥ずかしくて、でもたとえ誰も見ていなくてもそれをする。
このことについては奥田民生が彼のいくつかの歌で歌っている。


松任谷由美「春よ、来い」

この曲は小学校の頃、音楽の教科書に載っていた。
リコーダーで吹いていた覚えがある。

小学生の私は詩の意味など思いを馳せようともしていなかったわけなのだけれど、今になってユーミンの詩って本当にすごいなと思う。


青臭いほど好きになる春菊かな





エリクサーという友人

2015-04-04 15:54:42 | 日記
月半ばに提出期限の展覧会の作品を創り始めた。

「自問自答」向井秀徳

いつも使う紙で書いていたらあまりイメージに合わないので、少し高いのだけれど「羅紋宣」という、ハリハリと透けそうに薄い紙を買った。
とても面倒だけれど、ペーパーナイフで大きな紙を丁寧に縦割りにする。

イメージってなんだろう、と思う。
私が書作するとき、音楽から受ける、詞から受ける、そのイメージを、なるべくそのまま起こそうと思ってそうする。
俳句にももちろん、書のイメージがある。
そして写真に撮って画像にするとき、その雰囲気の加工をするわけで、そこにもまたイメージがある。

なんというか、イメージ、しかない、と言っても良いのかもしれない。
いつもあるのは、頭の中のイメージ、ただそれだけなのである。

イメージが具体的であるのなら、上手く表現できるかは、もう本当に技量の問題である。
まあでも、「イメージが具体的」という言葉さえもよく分からないものではあるけれど。

創作物について喋り過ぎるのは、野暮というものだし、何せ言葉にできない何かを乗せようとしているので特段喋ることはないのである。

と、いっぱしのアーティストを自分で嘲笑いながら気取ってみたり、実際にその端くれであるという覚悟を、私はいい加減矜持として持たねばならない。

しかし、この詩は前作の中原中也「憔悴」よりも長いのではなかろうか。
1セット書くだけで2時間以上かかる。
当然、困憊。


「IT'S A POPPIN' TIME」に入っていた「エスケイプ」という曲。
山下達郎もこんな詩を書くのだなと、あと、曲が良過ぎてもう・・・と言った感じ。

一反の「羅紋宣」の商品ではない添え紙のような感じで入っていた薄い紙に書いた。
書道用紙ではない。
これはこれで良い感じの風合いだ。

おそらく墨の色が残らないだろうと、書いた直後に、まだ濡れているうちに撮影した。
翌朝、干からびた感じで何にもなりそうになかったので、そのまま丸めて捨てた。


天国は無いと言い切る花絨毯