《「いまこそ」から》
★ 教育DXによって教育はどうなる
6月15日の午後、予防訴訟をひきつぐ会総会の後に、第18回学習討論集会が開催され、34名が参加した。集会は“教育DXと学校現場”のその2として、「教育DXによって教育はどうなる」をテーマとして、法政大学教授の児美川孝一郎さんの講演を軸に行われた。
講演の演題は「教育DXは子どもと学校をどこに導くのか一政策の背景を知り、対抗軸を探る」以下はその講演内容の概要である。
教育DXと言われているものは、「GIGAスクール構想」というものに現れているが、それは文科省ではなくて経産省の発案によるものであり、教育の政策ではなく、経済の政策である。
教育は、彼らの言う新たな社会の実現のために手段として考えられている。教育を良くしょうということを目的として考えられているのではなく、産業界の要請に沿ったものである。
生徒一人にっき1台のコンピュータ(タブレット)、これはコンピューター産業向けの対策であることは言うまでもないことであるが、AIドリル活用などはソフト面での産業対策であり、要するに教育という残された最後のマーケットを企業活動のために差し出そうというものである。
これでは余りにも露骨すぎる。粉飾するために目指すべき新たな社会の概念が考え出されたのが「Society5.0」なるものであるが、それは情報革命のさらに進んだ段階(AIなど)(第4次の産業革命)で獲得された内容を社会の全領域(医療、福祉、教育)に拡大し、市場化することである。
その目的のために考え出された概念であり、言い出した当人も学問的根拠のないことをみとめている。
「Society5.0」の実現へ向けての手段として教育に課せられているのがSTEAM教育の推進である。そのために経産省主導で出されたのが「未来の教室」とEdtechである。
STEAMとはScience、Technology、Engineering、Art、Mathematicsの頭文字をとったもので、企業が中心となって行われているアメリカの教育改革の考え方で、それが探究型学習の中心テーマに据えられ、それを可能とするために、教育の基礎的な部分はAIドリルなどに任せて、学習者の達成度に応じて「個別最適化」するというものである。
従来の学校教育における基礎的な「普通教育」を「個別最適化」の名のもとに多くをコンピューターに任せるということになる。
しかし、これは、従来型の学校の大転換であり、「学力、学年、教科、時間数、卒業」等の概念はその意味を変えてしまうことになる大問題である。
現在、Edtechを活用した「未来の教室」の「実証事業」が経産省が後押しして全国の学校の約1割で、推進されている。
それでは文科省はどうなのかというと、一口で言えば経産省の「急進派」に対しで文科省の「漸進派」ということになる。
文科省は“STEAM教育の推進”ではなく、少人数学級による「個別最適な学び」と従来型の「協働的な学び」を調和させたものを「令和の日本型教育」と名付けて自分たちの立場だとしている。
しかし、文科省も教育のDX化自体は積極的に推進している。
それは、全国学力テストのコンピューター実施によるデータべ一ス化、デジタル教科書の普及、デジタル庁主導の「教育データ利活用」の推進、などである。さらに、そめ次の事態を実は文科省自体も注視しているというのが現在の状況である。
このような全体的傾向に対しでどのような“対抗軸”を考えたら良いのか。そのためには、教育のDX化が根本的に持っている問題点を検討しておかなければならない。
第1に、子どもたちの学びと成長が保証されるのかという点、
第2に「個別最適な学び」により、教育が自己責任の問題とされ、結果的に教育格差の拡大につながるのではないか、
第3に、教師が相互に分断され、専門家集団の自立性が消失する、
第4に、これが最大の問題のひとつであるが、公教育の市場化、民間の営利企業の好餌となりはしないか(データの利活用などを通して)、
第5に、公教育の市場化を通して、新しい次元の統治システムが編成されるのではないかという危惧、
このようにして「新たな戦前」と一体化してしまうのではないのか。
対抗軸の構築のために確認されるべきなのは、「権利としての教育」「教育の機会均等」の原則のほかに「教育の公共性」の原則ではないのか。
そのためには「共同での豊かな学び」の場の追求に加えて、今こそ「特別活動の意義と価値」を再認識すべきなのではないか、と考えている。大変に密度の濃い話であった。
次に、教育のデジタル化についての学校現揚アンケート結果の報告があり、続いて「教育ダッシュボード」の使用状況、さらに渋谷区で進行中の授業時間の短縮にからめて「個別最適」学習と「探究」学習との関連へと話は及んだ。
最後に児美川さんより「2006年の教育基本法改定のテーマであつた新国家主義と新自由主義の結びつきが新たな段階に入るのが次回の学習指導要領改定である」との指摘があった。
教育基本法1条に教育目的として「人格の完成」とあるが、教育を国策遂行の手段としてはならない、ということがそもそもの趣旨であるはず、教育のDX化とは、教育を国策遂行の手段としていることにほかならないのではないのか。その国策の先にあるのが、もしかしたら《戦争》であるということも杞憂ではないのかもしれない。
(文責・青木)
予防ひきつぐ会通信『いまこそ 32号』(2024年9月26日)
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