《尾形修一の教員免許更新制反対日記から》
● アクティブ・ラーニングは「失敗」する
教育問題について書きたいことがいろいろある。新学習指導要領や「ゆとり教育」をめぐる問題、部活動のあり方に関する議論、そして途中になっている英語教育の問題などなど。少しづつ書いていきたいけど、まず映画「奇跡の教室」に関して書き残しがあるように思うので、その問題から。
「奇跡の教室」は、まさに「アクティブ・ラーニング」の力を描いている。そう思うんだけど、教育関係者以外にはまだこの言葉が普及していないかもしれない。そもそも英語にこういう言葉があるのかどうか知らないけど、最近の教育界の「流行語」だと言える。
最近中教審から公表された次の学習指導要領の審議まとめでは、小中高を通じてアクティブ・ラーニングを充実させることになっている。じゃあ、アクティブ・ラーニングって一体何だろう。文科省の用語集を見てみよう。
「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。真由発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。」
教員だったら、きっと各種の研修などでよく目にしているかもしれない。一般的には初めて見た人が多いと思う。「奇跡の教室」では、この中で挙げられている学習方法がほとんど行われている。だけど、最初からすべてうまく行くわけではない。
文科省に言われるまでもなく、学習指導要領などと関わりなく、今まで多くの教師はこれらの学習方法を何らかの形で取り入れた経験があると思う。でも、なかなかうまく行った場合ばかりではないだろう。
映画の中にもあるが、インターネットでお手軽に資料をたくさん見つけてきて、(それもちょっと「変なもの」ばかり集めたりして)、それをズラッと並べて「調査学習」に仕立て上げるというのは、最もありがちなことである。
まあ世の中で生きていくためには、そういう「調査でっち上げ能力」も必要ではある。でも、公的なコンクールを控えた「奇跡の教室」では、そのままでは認められない。もっと「自分で考える」ことが大切なのである。そして、この授業が生徒を変えていったのは、現実にホロコーストを生き延びた体験者の声に心を揺さぶられたことが大きいと思う。
では、誰でもいいから呼んできて話を聞かせればいいのか。それだけでは(時々聞かれるような)、広島や沖縄に修学旅行で出かけて体験者の話を聞く機会を作っても、生徒が聞かない、それどころか暴言を浴びせたりすることが起こったりする。
「事前学習の重要性」は言うまでもないけど、多分それだけではダメだろう。
映画の授業では生徒が多様な環境のもとにあり、だから「パレスチナの状況もジェノサイトではないのか」といった生徒の反応も出てくる。こういう問いに教師がきちんと向き合う力を持っていることも大きい。
それと同時に、学校の中では「荒れている」生徒の中にこそ、「虐げられたものへの共感能力」があり、それを教師が信じて引き出したということなのだと思う。
大事なのは「授業のあり方」ではない。この映画でも、教師側は学校の方針に反して、この授業を進めている。校長は無駄なことはするなと止めている。こういう「教師の自由」がないと、どんな授業もうまくいかない。「アクティブ・ラーニング」といった授業方法の議論も必要だけど、その前に「アクティブ・ティーチング」が成り立っていないと話にならない。ここで言ってのは、各教員が自分の受け持つ生徒を考えて、自分で教え方を工夫し、伸び伸びと取り組んでいける自由といったものである。
アクティブ・ラーニングでも何でもいいけど、学校は、あるいは生徒は、それだけで存在しているわけではない。とりあえずは上級学校への進学、そして就職に向けて「勉強」しているというのが、大方のところだろう。この映画の生徒たちは、フランスの「バカロレア」(中等教育終了の国家資格)をほとんどが取得できたということだ。
それはバカロレアが「自分で考える」力を見ることに向いたものだからではないか。自分たちの力を信じ、学ぶ喜びを知った生徒たちは伸びて行ったのである。
では、日本の社会は、もっと言うと日本の会社は、「自分で考える」人材を本当に求めているのだろうか。もしそうだったら、何も学校の授業などを変えなくても、自然と「自ら学ぶ」ことを身に付けるのではないか。もちろん、一部のエリート層には「自分で考える力」がますます必要なんだろう。これからの内外の厳しい環境を生き抜いていくためには。
だけど、本当に全国民が自分で考え始めていいのか。教師がそういう生徒を育ててしまっていいのか。その時には、また「学習指導要領の間違い」とされ教師が攻撃されるはずである。そして、実際に就職を控えている生徒・学生は、求められているのは「考える力」なんかではなく、「調査や発表のスキル」だけなんだと見抜いて、形だけの調査レポートを量産していくことになるだろう。
いや、アクティブ・ラーニングは「成功」するというかもしれない。多分、そういう成功体験論文が出世のために数多く書かれるはずである。
教育の効果をきちんと測ることは難しい。一年二年で判ることでは本来ない。50年か100年たたないとはっきりとは言えない問題だろう。だけど、教師(教育官僚や教育学者なども含め)は、とりあえず「成功」したという論文を書き上げて報告しないといけない。他のことを犠牲にして時間を十分にとれば、大体のものごとはうまく行ったように見せることができる。
だから、今後「アクティブ・ラーニングはこのように成功した」という報告論文が山のように書かれる。
だけど、本来は「アクティブ・ラーニング」を行うには、教師が自分の人生を賭けて「自分の考え」を自分の言葉で語る自由と能力がいる。映画の中の例で言えば、宗教や政治に関する深い考え、そして自分の世界観がないとできない。
今の日本では、この授業に関して教育委員会に「ご注進」に及ぶ親がいるのではないか。少なくとも、そう心配してテーマを変えてしまうのではないか。あるいはムダなことに時間を使いたくないと初めからやらない。そういう学校風土をまず変えないと、何がアクティブ・ラーニングだということになる。
中国の文化大革命のときのように、「上に政策あれば下に対策あり」となり、形だけの調査学習、形だけのディベートが横行するに決まっている。
『尾形修一の教員免許更新制反対日記』(2016年8月19日)
http://blog.goo.ne.jp/kurukuru2180/e/e89c9b84ece9485bd00af6e7686ea6a4
● アクティブ・ラーニングは「失敗」する
教育問題について書きたいことがいろいろある。新学習指導要領や「ゆとり教育」をめぐる問題、部活動のあり方に関する議論、そして途中になっている英語教育の問題などなど。少しづつ書いていきたいけど、まず映画「奇跡の教室」に関して書き残しがあるように思うので、その問題から。
「奇跡の教室」は、まさに「アクティブ・ラーニング」の力を描いている。そう思うんだけど、教育関係者以外にはまだこの言葉が普及していないかもしれない。そもそも英語にこういう言葉があるのかどうか知らないけど、最近の教育界の「流行語」だと言える。
最近中教審から公表された次の学習指導要領の審議まとめでは、小中高を通じてアクティブ・ラーニングを充実させることになっている。じゃあ、アクティブ・ラーニングって一体何だろう。文科省の用語集を見てみよう。
「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。真由発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。」
教員だったら、きっと各種の研修などでよく目にしているかもしれない。一般的には初めて見た人が多いと思う。「奇跡の教室」では、この中で挙げられている学習方法がほとんど行われている。だけど、最初からすべてうまく行くわけではない。
文科省に言われるまでもなく、学習指導要領などと関わりなく、今まで多くの教師はこれらの学習方法を何らかの形で取り入れた経験があると思う。でも、なかなかうまく行った場合ばかりではないだろう。
映画の中にもあるが、インターネットでお手軽に資料をたくさん見つけてきて、(それもちょっと「変なもの」ばかり集めたりして)、それをズラッと並べて「調査学習」に仕立て上げるというのは、最もありがちなことである。
まあ世の中で生きていくためには、そういう「調査でっち上げ能力」も必要ではある。でも、公的なコンクールを控えた「奇跡の教室」では、そのままでは認められない。もっと「自分で考える」ことが大切なのである。そして、この授業が生徒を変えていったのは、現実にホロコーストを生き延びた体験者の声に心を揺さぶられたことが大きいと思う。
では、誰でもいいから呼んできて話を聞かせればいいのか。それだけでは(時々聞かれるような)、広島や沖縄に修学旅行で出かけて体験者の話を聞く機会を作っても、生徒が聞かない、それどころか暴言を浴びせたりすることが起こったりする。
「事前学習の重要性」は言うまでもないけど、多分それだけではダメだろう。
映画の授業では生徒が多様な環境のもとにあり、だから「パレスチナの状況もジェノサイトではないのか」といった生徒の反応も出てくる。こういう問いに教師がきちんと向き合う力を持っていることも大きい。
それと同時に、学校の中では「荒れている」生徒の中にこそ、「虐げられたものへの共感能力」があり、それを教師が信じて引き出したということなのだと思う。
大事なのは「授業のあり方」ではない。この映画でも、教師側は学校の方針に反して、この授業を進めている。校長は無駄なことはするなと止めている。こういう「教師の自由」がないと、どんな授業もうまくいかない。「アクティブ・ラーニング」といった授業方法の議論も必要だけど、その前に「アクティブ・ティーチング」が成り立っていないと話にならない。ここで言ってのは、各教員が自分の受け持つ生徒を考えて、自分で教え方を工夫し、伸び伸びと取り組んでいける自由といったものである。
アクティブ・ラーニングでも何でもいいけど、学校は、あるいは生徒は、それだけで存在しているわけではない。とりあえずは上級学校への進学、そして就職に向けて「勉強」しているというのが、大方のところだろう。この映画の生徒たちは、フランスの「バカロレア」(中等教育終了の国家資格)をほとんどが取得できたということだ。
それはバカロレアが「自分で考える」力を見ることに向いたものだからではないか。自分たちの力を信じ、学ぶ喜びを知った生徒たちは伸びて行ったのである。
では、日本の社会は、もっと言うと日本の会社は、「自分で考える」人材を本当に求めているのだろうか。もしそうだったら、何も学校の授業などを変えなくても、自然と「自ら学ぶ」ことを身に付けるのではないか。もちろん、一部のエリート層には「自分で考える力」がますます必要なんだろう。これからの内外の厳しい環境を生き抜いていくためには。
だけど、本当に全国民が自分で考え始めていいのか。教師がそういう生徒を育ててしまっていいのか。その時には、また「学習指導要領の間違い」とされ教師が攻撃されるはずである。そして、実際に就職を控えている生徒・学生は、求められているのは「考える力」なんかではなく、「調査や発表のスキル」だけなんだと見抜いて、形だけの調査レポートを量産していくことになるだろう。
いや、アクティブ・ラーニングは「成功」するというかもしれない。多分、そういう成功体験論文が出世のために数多く書かれるはずである。
教育の効果をきちんと測ることは難しい。一年二年で判ることでは本来ない。50年か100年たたないとはっきりとは言えない問題だろう。だけど、教師(教育官僚や教育学者なども含め)は、とりあえず「成功」したという論文を書き上げて報告しないといけない。他のことを犠牲にして時間を十分にとれば、大体のものごとはうまく行ったように見せることができる。
だから、今後「アクティブ・ラーニングはこのように成功した」という報告論文が山のように書かれる。
だけど、本来は「アクティブ・ラーニング」を行うには、教師が自分の人生を賭けて「自分の考え」を自分の言葉で語る自由と能力がいる。映画の中の例で言えば、宗教や政治に関する深い考え、そして自分の世界観がないとできない。
今の日本では、この授業に関して教育委員会に「ご注進」に及ぶ親がいるのではないか。少なくとも、そう心配してテーマを変えてしまうのではないか。あるいはムダなことに時間を使いたくないと初めからやらない。そういう学校風土をまず変えないと、何がアクティブ・ラーニングだということになる。
中国の文化大革命のときのように、「上に政策あれば下に対策あり」となり、形だけの調査学習、形だけのディベートが横行するに決まっている。
『尾形修一の教員免許更新制反対日記』(2016年8月19日)
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