◆ 米国の国会議員・専門家も次々と問題提起。
日米貿易協定をこのまま批准していいのか
◆ 衆院で可決された「日米貿易協定」
2019年11月19日、衆議院で日米貿易協定及び日米デジタル貿易協定が賛成多数で可決されてしまった。今後は参議院の審議となる。
トランプ大統領はこの協定を自身の選挙戦でのアピール材料とするため、2020年1月1日の発効を当初から目指してきた。
日本側には急ぐ必要は一切ないにも関わらず、米国側の要望に沿う形で10月24日に審議入り。スケジュールありきの拙速な審議を行ってきた。
衆議院外務委員会での審議時間はわずか14時間であり、衆議院で約70時間、参議員で約60時間の計130時間かけたTPP協定には程遠い。
審議の内容も十分に深まっていない。政府は合意後から「ウィンウィンの協定」と言うが、その根拠は不明瞭なものが多い。
野党側は主に、
衆議院での可決がほぼ確実となり、これから参議院での審議が始まろうとする中、米国側でもいくつかの動きがある。
通商交渉の専門家は協定合意直後から問題点を指摘しており、また11月に入り米国議員からも協定内容についての厳しい指摘が見られる。本稿では、これらの分析・反応を紹介する。
◆ 通商交渉の専門家はWTO違反を次々指摘
2019年8月25日、フランスのビアリッツにて日米貿易協定・日米デジタル貿易協定が「大筋合意」された直後から、米国ではシンクタンクや通商交渉の専門家等から、この協定はGATT24条が定めるFTAの条件としての「実質的にすべての貿易」をカヴァーしておらず、WTO違反が懸念されるとの指摘がなされてきた。
詳細は拙ブログ記事「日米貿易協定の問題点:米国専門家からも“WTO違反”の指摘」にまとめたが、例えばCato Institute(ケイトー研究所)のサイモン・レスター氏や、Peterson Institute(ペーターソン研究所:PIIE)のジェフリー・スコット氏、ロビイ企業 White&Caseなど著名な研究機関やコンサル企業などがWTO違反の可能性を指摘している。
またブルッキングス研究所が米国で開催したシンポジウムに登壇した早稲田大学の浦田秀次郎教授も、「日米貿易協定はWTOの要件を満たさない」と問題提起をしている。
日本国内でも複数の専門家が同様の指摘をしているが、強調しておくべきは、これら両国の専門家は共通して協定文や各国の発表資料に基づき、「米国は日本車への関税撤廃を現時点では約束していない」と分析していることだ。
これは「米国は関税撤廃を約束した」という日本政府の説明と真っ向から対立する。
筆者は11月上旬、インドで開催された貿易問題に取り組む国際NGOの会合に参加した。この場でもヨーロッパやニュージーランド、インド等の貿易専門家たちがすでにこの問題を認識しており、「日米貿易協定はWTOに抵触する」と評していた。他国の多くの貿易専門家もこの協定はWTO違反ではないかと見ているのだ。
◆ 紛争解決メカニズムのない協定
この他にも、米国のアナリストからの「日米貿易協定には他の貿易協定に必ず含まれている『紛争解決メカニズム』が欠落している」という指摘もある。
これは論点としては非常に重要かつ興味深い。
日米貿易協定では、一方の国が義務を怠ったり、両国で対立が生じた場合の措置として、第6条に「両締約国は、いずれかの締約国の要請の後30日以内に、この協定の運用又は解釈に影響を及ぼす可能性のある問題について、60日以内に相互に満足すべき解決に達するために協議を行う」とあるのみだ。(参照:協定文)
通常の協定に含まれる紛争解決メカニズムが、調停人の選出や人数、調停プロセスの日数や不服申し立てなど、詳細なしくみが規定されることから比べれば、かなり「ラフな」紛争解決方法しか設定されていない。
もちろん、これは日米貿易協定が基本的に物品の関税撤廃に限られることから違反も起こりにくく解決メカニズムも漠然としたものでよいとする分析もある。だが、実はここにはトランプ大統領自身(あるいは米国自身)の「紛争解決メカニズムへの不信」が少なからず反映されているのではないか。
世界貿易機関(WTO)は多くの課題を抱えるが、その中で最も深刻なものの一つは、WTOの「裁判所」とされるパネルが機能停止寸前となっていることだ。
パネルの上級委員会委員7名のうち、すでに4名が欠員状態で、12月には2名の任期が切れるため、たった一人しか残らなくなる。
パネルの欠員補充を一貫して阻止してきたのはトランプ政権率いる米国だ。米国はパネルが出した数々の「米国不利」な裁定に不満を抱き、審理プロセスの改善がされない限り欠員補充に合意しないという態度をとってきた。
これには多くの国が頭を抱えており、「米国の勝手な行動を許し続けるのか」との声もある。
トランプ大統領は確実に制度化された紛争解決メカニズムに強い不信を抱いており、日米貿易協定で問題が起これば個別の協議で何とか主張を通すつもりなのかもしれない。
一方、日米デジタル貿易協定については「関税」の問題ではなく、ルール分野の協定であり、「関税が対象なので紛争解決メカニズムは必要ない」との主張は無理がある。日本の国会でも論議していただきたい点である。
◆ 米国国会議員から出されている協定への疑問点
WTO違反の問題に関しては、衆議院外務委員会の審議でも野党は追及してきた。しかし前述の通り日本政府は一貫して「米国は自動車・部品の関税撤廃を約束している。従って関税撤廃率は日本が84%、米国が92%(貿易額ベース)となり、WTOには違反していない」との答弁を繰り返してきた。
「将来の撤廃云々は置いておいても、現状の段階での撤廃率を出すべき」との与野党議員(与党からは公明党議員)からの要請に対しても、政府は「合意内容と異なる数字を出すと混乱をきたす」と、ごく単純な数字を出すことさえ頑なに拒否している。
この点は参議院の審議でも引き続き主要な問題の一つになるだろう。
日本での審議がこのように深まらない中、11月に入って米国議会の中にもさまざまな動きや意見が出てくるようになった。
直近の動きとしては、米国下院歳入委員会は11月20日に公聴会を開催することを発表した。この公聴会は、日米貿易協定及び日米デジタル貿易協定の内容と、包括的な協定を目指す第2段階の交渉の見通しに焦点を当てる、としている。
公聴会開催に先立ち、民主党下院のビル・パスクラル議員(ニュージャージー州)とダン・キルディー議員(ミシガン州)は、USTR宛の書簡を下院歳入委員会メンバーにも回した上で、11月中にはライトハイザーUSTR代表に送る予定だ。
すでに伝えられているように、今回の2つの協定について、日本は通常の条約扱いで国会審議が必要となるが、米国では日米貿易協定については2015年貿易促進権限法(TPA法)に基づき、議会承認を得ずに協定を発効させるよう手続きをしている(デジタル貿易協定については「行政協定」として扱う予定)。
実はこれこそが、米国が大きなアドバンテージを有していることを物語っている。TPA法では関税撤廃率が5%以内であれば大統領の権限で議会承認を省けることになっており、米国にとって「痛手が少ない」こその議会承認省略なのだ。
しかし、米国議員にとっては他の貿易協定で行ってきた議会審議が省かれ、議員はいわば「蚊帳の外」に置かれた状態で発効のプロセスが進むことになる。これに対して疑問や懸念が生じることは想像に難くない。
書簡の内容は現時点では非公開だが、私が入手した情報によれば、この書簡には日米貿易協定・日米デジタル貿易協定についての様々な疑問がまとめられているという。その主な内容は以下の通りだ。
特に、アドバイザリー報告書が1か月以上も議会に報告されていないという事態は異例で、民主党議員は批判を強めている。
この報告書とは、政府内の複数のアドバイザリー委員会(農業、デジタル貿易、労働、環境など貿易に関連する多くの委員会)が日米貿易協定のメリット・デメリットを評価したものだ。米Politico紙によれば、「少なくともいくつかの報告書は、米国政府が日本との包括的な協定に至らなかったことを批判している」とし、そのことが政府が報告書を開示しない理由ではないかと指摘する。
日本でも政府の議会軽視という指摘がなされているが、米国でも国会議員に必要な情報が提供されていないという事態が起こっているのだ。
11月20日に行われる下院歳入委員会では、これらの点の多くが問題提起されると見られる。米国議員の受け止めや、第二段階の交渉への方向性が米国でどのように議論されるのか、注目すべきだろう。
◆ 誰のためのルールなのか?―デジタル貿易協定の条項削除を求める声
日本ではあまり注目されない「日米デジタル貿易協定」についても、米国で問題提起の声がある。
11月1日、共和党上院のテッド・クルーズ議員(テキサス州)は11月1日、トランプ政権に対し、カナダ・メキシコ・米国の間のUSMCA(新NAFTA)と日米デジタル貿易協定に含まれる、「プラットフォーマー企業を民事責任から守る」条項を削除するよう要請した。
この条項とは、日米デジタル貿易協定の第18条「コンピュータを利用した双方向サービス」である。
日米デジタル貿易協定の主なルールは「デジタル製品への関税賦課の禁止」「国境を越えるデータ(個人情報含む)の自由な移転」「コンピュータ関連設備を自国内に設置する要求の禁止」「政府によるソース・コードやアルゴリズムなどの移転(開示)要求の禁止」、そして「SNS等の双方向コンピュータ・サービスの提供者の損害責任からの免除」などである(参照:協定文)。
一言で言えば、GAFAなどの巨大プラットフォーマー企業にとってより有利な条項がTPPを強化する形で定められた。この分野についての日米の方向性はほぼ一致しており、今回協定を批准したとしても日本の国内法を変更する必要はない。
しかし、この分野は世界中で統一されたルールがなく、米国・中国・EU・インド等新興国・途上国という四極で、データの流通やプライバシー保護、政府による企業への規制など様々な点で対立している。こうした中、日米が極めて企業優先のルールを確立することは、WTOを含めた多角的交渉の中で対立構図が生まれるという懸念が拭えない。
クルーズ議員が削除を求める「プラットフォーマー企業を民事責任から守る」条項とは、簡単に言えば第三者(ユーザー)がネット上に投稿した情報が、虚偽や人権侵害、名誉棄損であった場合も、その情報を媒介したプロバイダやプラットフォーム企業の責任は問わない(免責)とするものだ。
これは、すでに米国にある「通信品位法」230条に沿った条項で、かつて成長段階にあったIT企業やプラットフォーマーに極力自由を与えることで成長を促してきたという側面がある。同時に、過度な規制からユーザーの表現の自由を守るという観点からもこうした規定が重視されてきた経緯もある。
実際、Google(検索サービス)やfacebook(SNS)などのオンライン・プラットフォーム企業は、この免責によって拡大してきたことは事実であり、また外国との貿易協定の中にも同じ条項を入れ込むことを求めてきた。
ところが、この米国通信品位法230条が、近年米国内でも大きな議論となっている。「プラットフォーマー企業は免責にあぐらをかいて、適切なコンテンツのモデレート(投稿監視)を怠っている」という指摘や、暴力や児童買春、人権侵害、嫌がらせなど様々な投稿・コンテンツが急増している中で、「プラットフォーマーへの規制を強めるべきだ」との主張が市民社会や国会議員からあがっているのだ。
IBMを含む業界内部からも法の見直し・改正を求める声が出ている。これらを受け、米国議会でも議論が進行中である。
◆ 保守リベラル双方からあがる見直しの声
今回のクルーズ議員の主張も、こうした米国議会での改正議論を背景にしている。議員の書簡は、「現在、米国議会では上院・下院で、230条の免責付与を修正もしくは削除するかについて、真剣に検討しているところであり、その対象である条項を貿易協定に含めることは誤りである。米国の貿易協定は、確定した米国法と価値観、慣習を反映すべきです。進行中の議論の対象となる条項を含めるべきではない」として、USMCAと日米デジタル貿易協定に含まれる、米国通信品位法230条に沿った条項の削除を求めている。
大変興味深いのは、クルーズ議員は共和党の保守強硬派で、前回の大統領選にも出馬したことでも知られる人物であることだ。
近年、ソーシャルメディア・プラットフォームが保守派議員を監視・検閲しているとして共和党議員からも巨大化するIT企業への警戒が高まっている。民主党の中にも230条の改正を求める声はあり、ナンシー・ペロシ議長も、「通信品位法230条は、大手ハイテク企業への贈り物であるが、彼らがこの特権に見合う責任を果たしているとは思えない」と述べている。
米国議員たちは、プラットフォーマーの免責についての議論の途中で、国内法より優越する貿易協定の中で免責条項が確定してしまえば、国内法を修正する機会と権限を失ってしまうと主張している。下院エネルギー・商業委員会は9月の公聴会にて、USTRライトハイザー代表にこの件について証言を求めたが、ライトハイザー氏はこれを拒否した。他の委員会でもプラットフォーマーの免責については関心が持たれており、議会と政府の間の闘いが静かに広がってきている。
実は日本の国会審議でも、「日本ではようやくプラットフォーマー規制やデジタル・ルールの確立に着手した状態だ。そんな中で日米デジタル貿易協定が発効すると、今後の日本の政策スペースを限定してしまわないか」という質問が出された。これはまさに米国議員たちが提起している点と同じであることを強調しておきたい。
米国の通商交渉の優先順位は、中国との貿易戦争、そしてUSMCAの批准であり、日米貿易協定への関心は議員や市民社会の間でも非常に低い。
その理由には、日本との協定は米国にとってマイナスはほとんどなく、TPPで失った市場アクセスの一部を回復したというものだ。他の協定のように大規模な反対キャンペーンや議員からの反対が生まれる条件がない。
とはいえ、専門家や議員からの批判は、トランプ政権にとってはやっかいな問題だ。このまま何の問題もなく、議会承認なしで協定を発効させられるのか、今後の公聴会や議員の動きを注視したい。
日本では11月20日から参議院の審議が始まると言われている。米国での問題提起を参照しつつ、衆議院で積み残った様々な課題はもちろんのこと、日本の将来の産業や私たちの社会、暮らしのあり方について、そして誰のための貿易なのか――?という点も含めた本質的な課題を議論すべきである。
<取材・文/内田聖子>
内田聖子
うちだしょうこ●NPO法人アジア太平洋資料センター〈PARC〉共同代表
『ハーバー・ビジネス・オンライン』(2019.11.20)
https://hbol.jp/206718?cx_clicks_art_mdl=4_title
日米貿易協定をこのまま批准していいのか
内田聖子 (ハーバー・ビジネス・オンライン)
◆ 衆院で可決された「日米貿易協定」
2019年11月19日、衆議院で日米貿易協定及び日米デジタル貿易協定が賛成多数で可決されてしまった。今後は参議院の審議となる。
トランプ大統領はこの協定を自身の選挙戦でのアピール材料とするため、2020年1月1日の発効を当初から目指してきた。
日本側には急ぐ必要は一切ないにも関わらず、米国側の要望に沿う形で10月24日に審議入り。スケジュールありきの拙速な審議を行ってきた。
衆議院外務委員会での審議時間はわずか14時間であり、衆議院で約70時間、参議員で約60時間の計130時間かけたTPP協定には程遠い。
審議の内容も十分に深まっていない。政府は合意後から「ウィンウィンの協定」と言うが、その根拠は不明瞭なものが多い。
野党側は主に、
①米国が日本車への高関税措置をかけないと確約したというが、その根拠が明確でないことなどの点を追及してきた。しかし政府の答弁は決して誠実とは言えないもので野党も苦戦を強いられている。
②米国が日本車にかける自動車関税の撤廃が具体的に約束されていないこと
③それに伴い日米貿易協定はWTO違反であること(詳しくは拙稿「多国間貿易体制を脅かす日米貿易協定―WTO違反をしてでも米国の要望に応えるのか」|HBOLを参照)https://hbol.jp/203480
④農産物のセーフガード問題、⑤今後の交渉への懸念(第二段階の交渉では他の分野も対象にされる可能性)
衆議院での可決がほぼ確実となり、これから参議院での審議が始まろうとする中、米国側でもいくつかの動きがある。
通商交渉の専門家は協定合意直後から問題点を指摘しており、また11月に入り米国議員からも協定内容についての厳しい指摘が見られる。本稿では、これらの分析・反応を紹介する。
◆ 通商交渉の専門家はWTO違反を次々指摘
2019年8月25日、フランスのビアリッツにて日米貿易協定・日米デジタル貿易協定が「大筋合意」された直後から、米国ではシンクタンクや通商交渉の専門家等から、この協定はGATT24条が定めるFTAの条件としての「実質的にすべての貿易」をカヴァーしておらず、WTO違反が懸念されるとの指摘がなされてきた。
詳細は拙ブログ記事「日米貿易協定の問題点:米国専門家からも“WTO違反”の指摘」にまとめたが、例えばCato Institute(ケイトー研究所)のサイモン・レスター氏や、Peterson Institute(ペーターソン研究所:PIIE)のジェフリー・スコット氏、ロビイ企業 White&Caseなど著名な研究機関やコンサル企業などがWTO違反の可能性を指摘している。
またブルッキングス研究所が米国で開催したシンポジウムに登壇した早稲田大学の浦田秀次郎教授も、「日米貿易協定はWTOの要件を満たさない」と問題提起をしている。
日本国内でも複数の専門家が同様の指摘をしているが、強調しておくべきは、これら両国の専門家は共通して協定文や各国の発表資料に基づき、「米国は日本車への関税撤廃を現時点では約束していない」と分析していることだ。
これは「米国は関税撤廃を約束した」という日本政府の説明と真っ向から対立する。
筆者は11月上旬、インドで開催された貿易問題に取り組む国際NGOの会合に参加した。この場でもヨーロッパやニュージーランド、インド等の貿易専門家たちがすでにこの問題を認識しており、「日米貿易協定はWTOに抵触する」と評していた。他国の多くの貿易専門家もこの協定はWTO違反ではないかと見ているのだ。
◆ 紛争解決メカニズムのない協定
この他にも、米国のアナリストからの「日米貿易協定には他の貿易協定に必ず含まれている『紛争解決メカニズム』が欠落している」という指摘もある。
これは論点としては非常に重要かつ興味深い。
日米貿易協定では、一方の国が義務を怠ったり、両国で対立が生じた場合の措置として、第6条に「両締約国は、いずれかの締約国の要請の後30日以内に、この協定の運用又は解釈に影響を及ぼす可能性のある問題について、60日以内に相互に満足すべき解決に達するために協議を行う」とあるのみだ。(参照:協定文)
通常の協定に含まれる紛争解決メカニズムが、調停人の選出や人数、調停プロセスの日数や不服申し立てなど、詳細なしくみが規定されることから比べれば、かなり「ラフな」紛争解決方法しか設定されていない。
もちろん、これは日米貿易協定が基本的に物品の関税撤廃に限られることから違反も起こりにくく解決メカニズムも漠然としたものでよいとする分析もある。だが、実はここにはトランプ大統領自身(あるいは米国自身)の「紛争解決メカニズムへの不信」が少なからず反映されているのではないか。
世界貿易機関(WTO)は多くの課題を抱えるが、その中で最も深刻なものの一つは、WTOの「裁判所」とされるパネルが機能停止寸前となっていることだ。
パネルの上級委員会委員7名のうち、すでに4名が欠員状態で、12月には2名の任期が切れるため、たった一人しか残らなくなる。
パネルの欠員補充を一貫して阻止してきたのはトランプ政権率いる米国だ。米国はパネルが出した数々の「米国不利」な裁定に不満を抱き、審理プロセスの改善がされない限り欠員補充に合意しないという態度をとってきた。
これには多くの国が頭を抱えており、「米国の勝手な行動を許し続けるのか」との声もある。
トランプ大統領は確実に制度化された紛争解決メカニズムに強い不信を抱いており、日米貿易協定で問題が起これば個別の協議で何とか主張を通すつもりなのかもしれない。
一方、日米デジタル貿易協定については「関税」の問題ではなく、ルール分野の協定であり、「関税が対象なので紛争解決メカニズムは必要ない」との主張は無理がある。日本の国会でも論議していただきたい点である。
◆ 米国国会議員から出されている協定への疑問点
WTO違反の問題に関しては、衆議院外務委員会の審議でも野党は追及してきた。しかし前述の通り日本政府は一貫して「米国は自動車・部品の関税撤廃を約束している。従って関税撤廃率は日本が84%、米国が92%(貿易額ベース)となり、WTOには違反していない」との答弁を繰り返してきた。
「将来の撤廃云々は置いておいても、現状の段階での撤廃率を出すべき」との与野党議員(与党からは公明党議員)からの要請に対しても、政府は「合意内容と異なる数字を出すと混乱をきたす」と、ごく単純な数字を出すことさえ頑なに拒否している。
この点は参議院の審議でも引き続き主要な問題の一つになるだろう。
日本での審議がこのように深まらない中、11月に入って米国議会の中にもさまざまな動きや意見が出てくるようになった。
直近の動きとしては、米国下院歳入委員会は11月20日に公聴会を開催することを発表した。この公聴会は、日米貿易協定及び日米デジタル貿易協定の内容と、包括的な協定を目指す第2段階の交渉の見通しに焦点を当てる、としている。
公聴会開催に先立ち、民主党下院のビル・パスクラル議員(ニュージャージー州)とダン・キルディー議員(ミシガン州)は、USTR宛の書簡を下院歳入委員会メンバーにも回した上で、11月中にはライトハイザーUSTR代表に送る予定だ。
すでに伝えられているように、今回の2つの協定について、日本は通常の条約扱いで国会審議が必要となるが、米国では日米貿易協定については2015年貿易促進権限法(TPA法)に基づき、議会承認を得ずに協定を発効させるよう手続きをしている(デジタル貿易協定については「行政協定」として扱う予定)。
実はこれこそが、米国が大きなアドバンテージを有していることを物語っている。TPA法では関税撤廃率が5%以内であれば大統領の権限で議会承認を省けることになっており、米国にとって「痛手が少ない」こその議会承認省略なのだ。
しかし、米国議員にとっては他の貿易協定で行ってきた議会審議が省かれ、議員はいわば「蚊帳の外」に置かれた状態で発効のプロセスが進むことになる。これに対して疑問や懸念が生じることは想像に難くない。
書簡の内容は現時点では非公開だが、私が入手した情報によれば、この書簡には日米貿易協定・日米デジタル貿易協定についての様々な疑問がまとめられているという。その主な内容は以下の通りだ。
○ 日米貿易協定がTPA法の下で議会承認なく批准する手続きと政府の法的権限について詳細な説明を求める。これはTPA法の主要な原則に合致しているのか?先述のWTOとの整合性の問題はもちろん、議員たちは交渉を行ってきた政府(USTR)の情報開示や議会との協働のあり方について疑問を呈している。
○ 米国政府は、TPA法で定める協定についてのアドバイザリー報告書(諮問報告書)をまだ議会に提出していない。これらは大統領が議会に協定締結の意思を通知した9月16日から30日後の10月16日までに提出しなければならないものである。
○ USTRは2つの協定の交渉中に、他の協定と比較して国会議員や議会常任委員会に対してどのような情報提供をしてきたのか?
○ 日米貿易協定はWTOの義務に抵触しているのではないか? もしこれを「中間協定」として位置づけるのであれば、政府はWTOに中間協定の条件としての「包括的な協定に向けての計画とスケジュール」を提出したのか?
○ 政府は、日米貿易協定が発効して4か月後に第二段階の交渉を開始するというが、この手続きに入るための政府の権限について説明を求める。
特に、アドバイザリー報告書が1か月以上も議会に報告されていないという事態は異例で、民主党議員は批判を強めている。
この報告書とは、政府内の複数のアドバイザリー委員会(農業、デジタル貿易、労働、環境など貿易に関連する多くの委員会)が日米貿易協定のメリット・デメリットを評価したものだ。米Politico紙によれば、「少なくともいくつかの報告書は、米国政府が日本との包括的な協定に至らなかったことを批判している」とし、そのことが政府が報告書を開示しない理由ではないかと指摘する。
日本でも政府の議会軽視という指摘がなされているが、米国でも国会議員に必要な情報が提供されていないという事態が起こっているのだ。
11月20日に行われる下院歳入委員会では、これらの点の多くが問題提起されると見られる。米国議員の受け止めや、第二段階の交渉への方向性が米国でどのように議論されるのか、注目すべきだろう。
◆ 誰のためのルールなのか?―デジタル貿易協定の条項削除を求める声
日本ではあまり注目されない「日米デジタル貿易協定」についても、米国で問題提起の声がある。
11月1日、共和党上院のテッド・クルーズ議員(テキサス州)は11月1日、トランプ政権に対し、カナダ・メキシコ・米国の間のUSMCA(新NAFTA)と日米デジタル貿易協定に含まれる、「プラットフォーマー企業を民事責任から守る」条項を削除するよう要請した。
この条項とは、日米デジタル貿易協定の第18条「コンピュータを利用した双方向サービス」である。
日米デジタル貿易協定の主なルールは「デジタル製品への関税賦課の禁止」「国境を越えるデータ(個人情報含む)の自由な移転」「コンピュータ関連設備を自国内に設置する要求の禁止」「政府によるソース・コードやアルゴリズムなどの移転(開示)要求の禁止」、そして「SNS等の双方向コンピュータ・サービスの提供者の損害責任からの免除」などである(参照:協定文)。
一言で言えば、GAFAなどの巨大プラットフォーマー企業にとってより有利な条項がTPPを強化する形で定められた。この分野についての日米の方向性はほぼ一致しており、今回協定を批准したとしても日本の国内法を変更する必要はない。
しかし、この分野は世界中で統一されたルールがなく、米国・中国・EU・インド等新興国・途上国という四極で、データの流通やプライバシー保護、政府による企業への規制など様々な点で対立している。こうした中、日米が極めて企業優先のルールを確立することは、WTOを含めた多角的交渉の中で対立構図が生まれるという懸念が拭えない。
クルーズ議員が削除を求める「プラットフォーマー企業を民事責任から守る」条項とは、簡単に言えば第三者(ユーザー)がネット上に投稿した情報が、虚偽や人権侵害、名誉棄損であった場合も、その情報を媒介したプロバイダやプラットフォーム企業の責任は問わない(免責)とするものだ。
これは、すでに米国にある「通信品位法」230条に沿った条項で、かつて成長段階にあったIT企業やプラットフォーマーに極力自由を与えることで成長を促してきたという側面がある。同時に、過度な規制からユーザーの表現の自由を守るという観点からもこうした規定が重視されてきた経緯もある。
実際、Google(検索サービス)やfacebook(SNS)などのオンライン・プラットフォーム企業は、この免責によって拡大してきたことは事実であり、また外国との貿易協定の中にも同じ条項を入れ込むことを求めてきた。
ところが、この米国通信品位法230条が、近年米国内でも大きな議論となっている。「プラットフォーマー企業は免責にあぐらをかいて、適切なコンテンツのモデレート(投稿監視)を怠っている」という指摘や、暴力や児童買春、人権侵害、嫌がらせなど様々な投稿・コンテンツが急増している中で、「プラットフォーマーへの規制を強めるべきだ」との主張が市民社会や国会議員からあがっているのだ。
IBMを含む業界内部からも法の見直し・改正を求める声が出ている。これらを受け、米国議会でも議論が進行中である。
◆ 保守リベラル双方からあがる見直しの声
今回のクルーズ議員の主張も、こうした米国議会での改正議論を背景にしている。議員の書簡は、「現在、米国議会では上院・下院で、230条の免責付与を修正もしくは削除するかについて、真剣に検討しているところであり、その対象である条項を貿易協定に含めることは誤りである。米国の貿易協定は、確定した米国法と価値観、慣習を反映すべきです。進行中の議論の対象となる条項を含めるべきではない」として、USMCAと日米デジタル貿易協定に含まれる、米国通信品位法230条に沿った条項の削除を求めている。
大変興味深いのは、クルーズ議員は共和党の保守強硬派で、前回の大統領選にも出馬したことでも知られる人物であることだ。
近年、ソーシャルメディア・プラットフォームが保守派議員を監視・検閲しているとして共和党議員からも巨大化するIT企業への警戒が高まっている。民主党の中にも230条の改正を求める声はあり、ナンシー・ペロシ議長も、「通信品位法230条は、大手ハイテク企業への贈り物であるが、彼らがこの特権に見合う責任を果たしているとは思えない」と述べている。
米国議員たちは、プラットフォーマーの免責についての議論の途中で、国内法より優越する貿易協定の中で免責条項が確定してしまえば、国内法を修正する機会と権限を失ってしまうと主張している。下院エネルギー・商業委員会は9月の公聴会にて、USTRライトハイザー代表にこの件について証言を求めたが、ライトハイザー氏はこれを拒否した。他の委員会でもプラットフォーマーの免責については関心が持たれており、議会と政府の間の闘いが静かに広がってきている。
実は日本の国会審議でも、「日本ではようやくプラットフォーマー規制やデジタル・ルールの確立に着手した状態だ。そんな中で日米デジタル貿易協定が発効すると、今後の日本の政策スペースを限定してしまわないか」という質問が出された。これはまさに米国議員たちが提起している点と同じであることを強調しておきたい。
米国の通商交渉の優先順位は、中国との貿易戦争、そしてUSMCAの批准であり、日米貿易協定への関心は議員や市民社会の間でも非常に低い。
その理由には、日本との協定は米国にとってマイナスはほとんどなく、TPPで失った市場アクセスの一部を回復したというものだ。他の協定のように大規模な反対キャンペーンや議員からの反対が生まれる条件がない。
とはいえ、専門家や議員からの批判は、トランプ政権にとってはやっかいな問題だ。このまま何の問題もなく、議会承認なしで協定を発効させられるのか、今後の公聴会や議員の動きを注視したい。
日本では11月20日から参議院の審議が始まると言われている。米国での問題提起を参照しつつ、衆議院で積み残った様々な課題はもちろんのこと、日本の将来の産業や私たちの社会、暮らしのあり方について、そして誰のための貿易なのか――?という点も含めた本質的な課題を議論すべきである。
<取材・文/内田聖子>
内田聖子
うちだしょうこ●NPO法人アジア太平洋資料センター〈PARC〉共同代表
『ハーバー・ビジネス・オンライン』(2019.11.20)
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