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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

高島伸欣の新年メッセージ(続)「オシフィエンチムをアウシュビッツと呼んではいけない」

2015年01月05日 | 平和憲法
 ◆ <補遺2>世界遺産「ポーランド王宮の伊万里焼をめぐる話題」
 皆さま     高嶋伸欣です
 景徳鎮と有田(伊万里)の関連についての補足説明です

 1.オランダ東インド会社によって出島から世界に輸出された有田焼と景徳鎮の関係について説明した研究者の文章にも、次のようにありました。
 2.「輸出物盛行の時代に入って、有田諸窯がオランダから受けた注文は、初期の寛文・延宝ごろの染付や色絵が、多く(ママ)景徳鎮窯の南京染付や赤絵の模造品であったことは、当然の帰結であったといわなければならない。」
 <出典:「初期伊万里染付の起源と展開ーー中国陶磁との関連からーー」矢部良明『世界陶磁全集・8 江戸(三)』小学館1978年>
 3.これだけでは、伊万里焼が世界的にも評価されている実情と逆の話ばかりになってしまいそうです。そこで、焼き物としての美術や技法の専門的な話ではありませんが、国際親善に結びついた話題で、私が授業でも触れてきたエピソードを、この機会に紹介します。また長くなりますがご容赦下さい。
 4.2002年7月、天皇・皇后が中欧4か国(チェコ、ポーランド、ハンガリー、オーストリア)を親善訪問し、各国で歓迎された様子が全国紙などで、日本国内にも伝えられていました。その時の記事の中で、ポーランドへのおみやげの一つとして、有田焼の大きな壺が含まれていて、これにポーランド側がことのほか喜んでいた、ということが伝えられていました。
 記事を書いた記者は、それがなぜそれほどまで喜ばれるものなのか今ひとつ分かっていない様子でした。それが残念に思えました。なぜポーランドの人々が大いに喜んだのでしょうか。
 5.話は、ナチスによるポーランド占領のところから始まります。開戦当初はスターリンのソ連と共謀してポーランドを2分していたナチスはやがてソ連に挑み、ポーランド全域を占領します。ナチスのポーランド占領政策は、ユダヤ人弾圧政策に象徴される民族差別観を土台にしたものでした。
 6.ユダヤ人に対してはドイツ国民の大半を占めるキリスト教徒の反ユダヤ感情を増幅させる形の扇動をしながら、その財産を没収して軍事費に当てながら一部を失業中のキリスト教徒に分け与えたり、ユダヤ人の仕事にキリスト教徒の失業者が就くようにすることで、ナチス政権への支持を高めるようにしていました。そのため、ユダヤ人は「存在していること自体が悪」とされ、絶滅の対象とされても、多くのドイツ国民は見てみぬふりをしたとのことです(戦後に、ドイツではこの点についての厳しい自己批判をしています)。
 7.ユダヤ人の次に劣等民族とされたのがスラブ民族のポーランド人でした。ただ、ポーランドの占領が電撃作戦などであまりに早く進展したために、広大な農地などに入植させるドイツ国民(世界一の優秀人種とされたアーリア人)の数が不足していました。そこでナチスは、ドイツ国内での「産めよ増やせよ」政策でドイツ人の人口が増加して、広大なポーランドの土地や工場などを有効に使えるようになるまでは、ポーランド人を単なる労働力としてのみ生かしておくことにしたのです。
 6.そこで、ポーランドでは高等教育が廃止され「小学校でのポーランド語使用を禁じ、『労働者として必要な程度の』ドイツ語と算数を学ばせればよいとした。ウォッカを飲ませ、ラジオは軽音楽だけを聞かせればよいのだった。ショパンの演奏は禁じられた。」「ショパンを弾いただけで、ミツキェビッチの詩をくちずさんだだけで銃殺された」(小原雅敏・小原いせ子「森と野と抵抗の国」『文化誌 世界の国 18巻 東欧』講談社1975年)。
 7.さらにナチスは、ポーランド人を従順な存在にするために、徹底的にポーランド人から歴史や誇りある存在であるなどとの意識を奪おうとします。それは、より徹底した文化・歴史の抹殺という形で実行されます。
 8.その一つが地名の抹殺でした。ポーランド全土の地名がドイツ地名に書き換えられます。
 その時に押し付けられたドイツ地名の一つが「アウシュビッツ」です。本来のポーランド地名はオシフィエンチムです。
 この時の地名の変更をポーランドでは「地名の虐殺」と受け止め、密かに全国数万の地名が記録されます。もちろん発覚すれば、処刑されたはずでした。
 やがて、ドイツの敗退後、全土で「地名の復権」、ポーランド地名の復活が実行されます。それは同時に民族の誇りの証明でもあるわけです。
 9.地名は固有名詞の一つです。「固有名詞にはもう一つ、人名があるよね」と、この話の途中で問いかけると、大学生は勿論高校生も「ああ!」と気付きます。「歴史学習ででてきた『創氏改名』の地名版だ!」というわけです。
 日本の植民地と占領地支配の論理の基盤にあったのは、国学に由来する選民意識によるアジア諸民族に対する差別観でしたが、それを一層理論化したのが「皇国地政学」による侵略正当化の論理です。
 10.その「皇国地政学」はナチスが侵略の正当化に用いた「ドイツ地政(地理政治)学」を日本版に書き換えたものです。内容は一言でいえば、ダーウィンの進化論を生物である人間の社会にも適用して、最も優秀であるはずのアーリア人のドイツ民族(現人神の天皇を戴く比類なき優秀民族の日本人)が、繁栄できないでいるの不当な事態であるので、繁栄に必要な領土・資源等を入手するために周辺に勢力を拡大することは、自然界の進化の論理にかなった正しい行為なのだ、ということです。
 この論理を、後発帝国主義国のドイツなどの地理学者たちが組み立てて「地理政治学」の根幹としたのに、ナチスが飛びつき、日本の軍部も留学生をドイツに派遣して導入し、地理学者の多くもそれに同調したのでした。
 11.戦後、学界では歴史学で「皇国史観」についての自己批判がかなり進められましたが、地理学や地理教育では「皇国地政学」についての議論がほとんどされず、戦争責任の総括がされていません。敗戦直後、GHQの指示で「国民科」の3科目「国史」「修身」「地理」の授業が停止させられた中に「地理」が含まれていたのはこのためです。けれどもそのことを多くの人が気づいていないのをいいことに、地理学と地理教育の関係者は、今日まで知らぬふりをしているわけです。
 12.そうしたことの結果として、日本の平和教育と歴史教育では、ナチス批判をアンネの悲劇やユダヤ人虐殺の事実を強調し、悲惨さを際立たせることで戦争否定の感情を生徒たちに抱かせることはあっても、戦争の構造にまで切り込むことがほとんどされて来ていません。特に、侵略正当化の理論がどのように構築され、それがどのように日本中に浸透していったのかについて系統的に認識する機会はほとんど用意されていません。その結果、日本がナチスと同様の行為を近隣諸国や国内でしていた事実と結びつけて認識させることもほとんどできていません。
 13.そのような日本の戦後社会の曖昧さを西欧の人々は見抜いていました。アムステルダムのアンネ一家の隠れ家だった施設を見学した東京の教師グループが近所のアンネ関連書籍の店員から「あなた方はアンネたちを死に追いやった側の一員だった、と自覚しているのか?」と問いただされるという”事件”が起きたのは1980年ごろのことです。
 14.さらに1991年には、広島県の”良心的な”市民団体がアウシュビッツ強制収容所跡(歴史博物館)の見学に行くのに合わせ、地元の市長を表敬訪問して広島の自治体首長のメッセイージを届けたいと申しいれたところ、「来るな!」と断られた”事件”も起きています。
 なぜポーランド側が怒ったのでしょう。
 15.広島の市民団体は「アウシュビッツ市の市長に面会したい」と要望したのです。ポーランドの人々の心の傷口に塩をこすりつけたのも同然なのですが、そのことを広島では、ポーランドからの拒否反応が伝わるまで指摘した人がいなかったようです。私が、そうした要望をしていることわ知ったのは『中国新聞』の1991年5月10日の記事によってでした。すぐに、担当の記者に連絡して記事にある通りだと確認できましたので、「多分、あちらからは来ないで欲しいと、言われると思う」と伝えました。その後、「その通りになりました」と聞きました。
 16.アウシュビッツ歴史博物館は、次第に日本人の見学者が増え、現在では日本人のガイドも一人いることが知れれています。そうした日本人の見学者に対して、日本語ガイドは開口一番に「皆さんここはアウシュビッツではありません。オシフィエンチムです。間違えないで下さい」ときつく念押しをするのが定番になっているとのことです。
 それだけ、類似のトラブルが繰り返されているからだと思えます。最近見学された方の場合はいかがだったでしょうか。
 17.ともあれ、皮相的な同情などで終始する平和教育や歴史教育では認識が深められないということだけでなく、新たな軋轢を生みだしかねないということです。
 18.それでも、最近では地図帳に「オシフィエンチム(アウシュビッツ)」の表記がようやく定着してきました。歴史教科書でも「アウシュビッツ(ポーランド名はオシフィエンチム)」などと書かれるようになりました。
 *ただし世界遺産としての名称は「アウシュビッツ強制収容所(跡)」です。

 19.ということで、話が少し横道に逸れましたので、本題の方に戻るようにします。話題は、天皇・皇后がお土産にした伊万里焼の大きな壺がとても喜ばれたということでした。それは、かつてワルシャワの王宮殿の広い階段の踊り場部分に飾られていたのとほぼ同じものを、日本側がポーランドからの資料に基づいて用意したものでした。
 20.王宮殿は隣接の旧市街部分と共に、ナチスが敗北して撤退する際に、焦土作戦で徹底的に破壊して瓦礫の山にされていたのです。それを、ポーランドの人々は、上記の歴史抹殺行為の一部と受け止め、戦後の苦しい生活の中で、休日ごとに手弁当で集まり、瓦礫を拾い集めて古文書や写生画などを元に、昔通りに再建したのです。
 当然、最初の建造物ではありませんが、昔通りに再現されていることと復旧させた国民の熱意が評価されて、ユネスコによる世界遺産への登録が認められています(世界遺産の解説を参照してください)。
 21.そうした国民の熱意で再現された王宮には、世界各国の美術品・工芸品が多数飾られていました。その大半は略奪や破壊で失われました。そこでポーランドに国賓などとして招かれた時には、招かれた側が事前に「王宮にかって飾られていたものの中でこちらの国の工芸品などはありませんでしたか?」と照会し、回答で判明した工芸品となるべく同じものを用意して届けることが慣習のようになっているのだと、ある機会に私は知りました。
 22. そして、その通りのことを2002年のポーランド訪問で天皇・皇后が実行したのだと、前出の新聞記事で知ることができたわけです。
 このプレゼントとのことが、同国内でどれくらい報道され、話題になったかは不明です。でも、オシフィエンチム市を「アウシュビッツ市」と思い込んでいる日本人の行動による不快の念が、幾分かでも薄らいだのではないかという気がします。
 23.江戸時代の伊万里焼きが、現代の国際社会でこうした親善関係の進化に貢献しているという、一つのエピソードです。
 24.今回も説明が長くなりましたが、いかがでしたでしょうか。
 1980年代の高校生は一つのテーマに則して4週間ぐらい続く話になって、途中でテーマとは外見上あまり関連がなさそうな部分があっても、黙って聞いたり考えたりしてくれていました。最後に、それらの話の内容が複雑、立体的にからんでまとまった落としどころにたどりつくのだと、分かってくれていたからでした。「そうだったのかー」「ふうーん」というのが、まとめに至った時の授業ノートの感想にあって、私も「分かってくれたらしい」と安心したものです。
 25.それが、1990年代になると、生徒たちの我慢の限度は2週間ぐらいに縮んできました。「先生、今やってることはテーマに関係があるの?」という質問が、頻発しました。これは高校生だけでなく、大人社会にも当てはまりそうな気がします。
 じっくりと、戦後70年の歴史的な意味について見詰めなおすことを、主権者の側のわたしたちもやらなければ、国際的には「安倍首相も日本国民も大差なく、五十歩百歩だよ」と言われそうな気がします。
 26.それにしても、現天皇・皇后が国内外の相互理解や護憲のために配慮をあれこれしたり、無意識の内にはたしていることに、改めて気づかされています。それだけ安倍政権のめざす道への危惧が広がっているということなるのだと思いますが。
 27.天皇・皇后などの言動をどう受け止めるのかについても、議論が必要ではないでしょうか。皆さんの意見を伺えれば幸いです。
 私の考えもなるべく早くまとめるようにいたします。

  *今回も長文になりました。文責は高嶋です。 転載・拡散は自由です
   何かお役にたてば幸いです。

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