パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

60周年をむかえる教員のレッド・パージ~都立高校の場合(3)

2010年07月26日 | 平和憲法
 ▼ 60周年をむかえる教員のレッド・パージ~都立高校の場合(3)

 歴史書は「米よこせ」で立ち上がった労働者・市民を書いていますが、第三高女の先生・生徒にとっては、まさに「校舎よこせ」だったのです。
 翌日の新聞は、女学生の参加も取り上げました。ところがこんな書き方でした。
 朝日は「飢える帝都に食糧メーデー」の見出しで、「…都立四中、都立三高女生等50名ぐらいの一団が教師の指揮棒でメーデー歌を絶叫する姿…」
 毎日は「…都立第三高女生の一団がソプラノで『勉強出来るだけたべさせろ』『人民政府をつくれ』と叫ぶ…」
 読売は「…都立第三の女学生100名も参加していた…みんな都の指令で“メーデー参加許可せず”をけって、先生にお願いしてはせ参じたものだ」
 事実と全く異なる報道です。先生も含めメーデー歌も知らない時代、「人民政府をつくれ」と叫ぶなどと笑い話のような記事です「校舎よこせ」のプラカードもあったはずなのに、何の取材もせずに書いています。当時第三の女学生がこういう場に数多く参加したのは目を見張るものだったはずです(生徒の参加数は不明)。第三の思いをきちんと書いてほしかったと思いますが、こんな歪んだ記事は反動勢力の思う壷になりかねませんでした。
 25万人も集まった食糧メーデーの衝撃で吉田茂は一度組閣を断念しました。ところがGHQが介入してきて、翌日「暴民デモを許さず声明」をだしました。これに助けられて二日後第一次吉田内閣はようやく成立しました。
 しかし第三の要求は通りました。まもなく「大橋の兵舎」(現駒場高校の敷地)に移ることになりました。夏休み中に突貫工事、二学期のはじめに竣工式が行われました。
 なお食糧メーデーに参加した校長は心労から6月末に倒れ、9月から新校長が赴任しています。
 いずれにしても「校舎よこせ」の要求は、「食糧メーデー」に参加という衝撃的な事件をバックに、父兄、東京都さらには、GHQも動かして実現したわけです(兵舎は占領軍の管理下にありました)。
 第三高女の先生たちは、未だ日本国憲法も公布(1946年11月3日)されていないときに、生徒たちの教育を受ける権利を保障させるために立ち上がりました(日本国憲法草案一帝国憲法改正案が帝国議会に提出されたのは6月20日)。しかも職員会議で議論して全員一致で参加を決めています。要求実現のために行動に立ち上がる。これこそ与えられたものではなく、民主主義を実践するものであったわけです。
 このような状況のとき生徒も参加したのは自然の流れだったでしょう。1950年代から今日まで、沖縄で高校生が(ときには中学生も)集会やデモに参加していますが、まさにその先駆的なものといえると思います。そういう意味では、「食糧メーデー」は、単に「米よこせ」だけでなく、校舎はじめ数多くの要求実現のために立ち上がった労働者、市民などの「厚みのある」闘いだったと評価できるのではないでしょうか。
 アメリカが与えようとしていた秩序ある民主主義とは異なる下からの運動が盛り上がってきました。だからこそ、マッカーサーは、集会参加者を「暴民」とののしり、対日理事会(5月29日)でもアメリカ代表は、「少数分子の扇動排撃」と演説したわけです。第三高女の先生も生徒も「暴民」扱いされ、だれかの扇動で動かされているとされ、「排撃」の対象になってくるわけです。
 この点では吉田内閣もその成り立ちから見て、同類でしょう。主権者としての国民が「校舎よこせ」を要求するという「主権の行使」、このような民主主義運動が広がっていく?これこそ戦後民主主義の発展なのですが?これを押さえつける。ここに吉田内閣の役割があったのでしょう。3年後(1949年)には、世界の情勢も大きく変化して、「扇動した少数分子」を本格的に排除することになっていきました。
 ▼ レッド・パージの強行
 都立高校でただ一つ、社会の注目を浴びるような運動をした「あの学校」の「あの先生たち」にねらいをつけ排除する。都立高校でのレッド・パージの核心はここにあったと考えたらどうでしょうか。ロ実づくりの「刷新基準要綱」を強行採決して、高校では*駒場に無理矢理はめ込んだのではないでしょうか。
 横山さんと教え子4人で話したところにもどります。
 担任の先生がパージされたことを知った生徒の代表6、7人は翌朝校長室に乗り込みました。
 「昨日のHRで聞いだ、納得できません。」といいますと、校長は立ち上がってうろたえて、「私は学校をあずかっている。皆さんにいちいち説明できない。時間がない。早く朝礼に行きなさい。私の立場もある。生徒のあなた方が考えることではない」と言い放って、「去られることに納得できません」という叫びを尻目に校長室から先に出ていってしまいました。
 さらにこのときの教え子たちの発言を三つ載せます。
 △私たちの理解していた民主主義が足元から崩れ去ったと思いました。
 △レッド・パージの後、他の先生たちが尻尾をまるめているような、無力感に襲われたような印象、沈鬱な感じの職員室でした。
 △ある先生がこの1年で印象に残ったことを書きなさい、といわれましたのでレッド・パージのことを書いたら、「皆さんも辛かったんでしょう、理不尽なこともあります。大人になったら理解できるようになるでしょう」と言われました。

 また、創立100周年記念誌には卒業生(当時高二)の文章が寄せられていますので、一部引用します。旧制から新制への切り替え時でしだので、彼女たちは1945年4月の入学で、1951年3月卒業していきました。6年間通った学年です。
 「…駒場高校は焼け跡からようやく安住の地を得て3年半、古い兵舎の暗い教室での授業ではあったが、勉強がようやく軌道に乗り始め、生徒たちの気分も落ち着いて来た頃であったから、この事件は当時を知る者にとって、言い知れぬ暗い事件として心に刻まれている……抑圧されていた時代が長く厳しかった分、解放は一気に進み、デモクラシーを語らねば人でないかの如き風潮が世の中に蔓延していたのは事実だ。ホーム・ルームの時間をはじめとして、先生方が各自の信じて止まぬ思想を生徒に熱く語られる機会が多く、……私たちが戸惑いながらも、その新鮮さに惹かれたのは確かだった。(パージのニュースを聞いて)生徒委員会も即時開かれ、生徒会として反対運動をすべきかどうか討議されたが、結局20対21で否決され、有志による嘆願署名などが行われた。この時他の先生方は殆どが事件から一歩退かれ、生徒たちのまじめな質問、深い悩み、迷いに真摯に対して下さった方は殆ど無かったように思う。ただ穏便に事を収めたいだけ『何事も神の思し召し』と言われた先生もあった……」
 THE HIMEMATU 1950年3月13日第12号(駒場高校校友会誌)によりますと、職員異動と題して
 真見三江先生(社会)乾須美先生(国語)奥野君子先生(理科)長谷川靖子先生(理科)の4先生は2月中旬御退職になった。
 つづけて、2名の先生の名が書かれ、2月中旬御着任になった、とコメントなしに掲載しています。
 ▼ おわりに
 1949年の夏には三鷹事件、松川事件などがおき、いずれも共産党員の仕業であるかのようにいわれ、レッド・バージがはじまりました。ある日突然の出来事ではなく、仕組まれたものです。日教組は声明をだしています「……民主主義社会の鉄則を無視して教職員を馘首するような暴挙を強行するならば、……単に特定政党員または思想の持主であるがゆえに、あるいは長年組合活動に従ったのみのゆえをもって具体的な事由を示さず一方的に整理することに対して反対……」(1949年10月6日)
 しかし、各職場で闘いを展開していくことは困難でした。都高教でも「不当解雇」に対する闘いも、被処分者を中心にした闘争も組むことはありませんでした
 なお、都教組関係では、都教育委員会(現在は人事委員会)に審査請求した88人は全員却下、75人が地裁に提訴しましたが、勝訴したのは1名にすぎませんでした
 レッド・へ一ジ30年を迎え、冊子が発行されました。
 教職員レッドパ一ジ三十周年記念刊行会編『三十年の星霜を生きて』の最後に載せられている名簿には、高校では、駒場高校の4名しか掲載されていません。この冊子の題字を書かれたのは乾先生です。コピーしておきます。
 駒場でのレッド・ハージを知り始めたとき、ちょうど創立百周年の記念誌づくりが始まったところでした。係りの先生と共に職員会議議事録、校友会誌、同窓会関係のニュース文集なども見て、「記念誌」に必要と思われる資料(乾、横山先生の文章の多く)を載せることができました。ここにようやく、「食糧メーデー」と「レッド・ハージ」が記録されました。
 最後に、横山さんのパージ後今日まで60年に及ぶ「闘いの人生」をここに書きます。
 横山さんは、2006年に自伝『わたしを押してくれたもの~怒りと愛と連帯と』を出版されました。横浜での出版記念会にかけつけました。高校からは私だけで、29歳で解雇されてからの諸活動と集まってきた皆さんの熱気に圧倒されました。
 60年のうち5年間、新婦人の会神奈川県本部事務局長、16年間同代表委員、12年間神奈川県母親連絡会事務局長などの活動をされました。
 印象的だったのは、反戦平和の運動の先頭に立ってこられたこと(第一回原水爆禁止世界大会から参加)、1977年に米軍ジェット機が横浜で墜落し「母も子も焼かれた」事件のとき先頭に立ち、「平和の母子像」をつくりました。2005年には世界の人と「核兵器をなくそう」ニューヨーク行進!に参加されています。
 2006年9月21日には東京地裁で歴史的な難波判決が出されました。横山さんは何をおいてもと地裁にかけつけ、共に喜びあいました。
 横山さんは「御挨拶」の中で、戦後教育の出発点を見事にまとめて書いていますが、「日の丸・君が代の強制」などはもう絶対に許せない。一歩も引けないものと受けとめました。わたしたちはレッドパ一ジを想起し、その教訓をしっかりと踏まえて、この闘いの勝利を誓いました。
 (完)

 『私にとっての戦後ーそして都高教運動』(都高教退職者会 2010/5/15発行)より

コメント    この記事についてブログを書く
« 東京「君が代」裁判1次訴訟... | トップ | 30日「都教委糾弾」ビラま... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

平和憲法」カテゴリの最新記事