【東京「君が代」裁判1次訴訟 2010年7月20日】
◎ 代理人弁論 弁護士 白井 劒
東京高裁第11民事部の判決が乙号証として都教委から出されました。国旗に向いて立って国歌を歌うことは《一般的におこなわれている儀礼的所作》だから違憲違法でないとこの判決は述ぺています。
《儀礼》であれば憲法上の問題を生じないのでしょうか。そんなことはありません。憲法の人権原則と《儀礼》との関係にっいては重要な判例があります。愛媛玉串料訴訟に関する1997年4月2日最高裁大法廷判決です。
大法廷判決は,《本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定することはできない》と述べつつ,《たとえ相当数の者がそれを望んでいるとしても,そのことゆえに,地方公共団体と特定の宗教との関わり合いが,相当とされる限度を超えないものとして憲法上許されることになるとはいえない》と判示しています。
《儀礼》だから問題がないと言うのは,この大法廷判決の趣旨に反するというべきです。
《儀礼》論の根底には,形式的な秩序の維持に重きをおく考えがあると思います。まず形式が大事だ,《立って歌う》ことを率先垂範して生徒たちに教えよというのです。
しかし,個人が国家的シンボルにどう対応するかは,《国家というものがその個人にとってどういうものであるのか》と表裏一体の関係にあります。《国家とは何か》は,まさにそのひとそのひとの価値観です。ひとそれぞれに異なります。毎朝おはようございますと挨拶するのとは次元が違います。
国家的シンボルに関する教育が形式重視の押しつけでいいわけがありません。まず意味と歴史をきちんと教えたうえで,生徒自身に考えさせる指導に徹するべきなのです。控訴人らはそのことを主張してきました。
アメリカ連邦最高裁が1969年のティンカー事件判決で《学校が全体主義の飛び地であってはならない》と述べたのもまた,生徒自身に考えさせ,自分で判断させることこそが教育だという考えからでした。こう述べています。
《生徒たちは,閉ざされた回路のなかで行政が伝えるために選んだことのみを受け取る受信人と見なされてはならない》
ところが,いま都立学校では,教員が生徒の信条や信仰に配慮して,「国歌を歌うかどうかはあなたがたが自分で決める自由があります」と言えば,不適切な指導だと《指導部長厳重注意》にされてしまいます。
アメリカでは多年にわたって,国家的シンボルに対する特定の行為を強制されない自由を裁判所が保障してきました。公立学校の教職員についても,その自由を裁判所は保障してきました。
国旗に敬礼すること,忠誠の誓いを唱えること,立って国歌を歌うことは《儀礼》だという考えがアメリカ社会に根強くあります。しかし,《儀礼》であっても,国家的シンポルに対する特定の行為を行政が個人に強制することは違憲であると連邦裁判所はいっかんして判断してきました。
最近ではサークル校事件に関する2003年連邦地裁判決が,《国歌を歌う》ことは《国旗に対して敬礼する》ことのなかに含まれると解して,その強制は違憲だと判断しました。
この判決を支持した連邦第3巡回区控訴裁判所は,判決の最後でこう述べています。
《合衆国の大郎分の市民は,忠臓の誓いを喜んで復唱し,国歌を誇りをもって歌うであろうと我々の信念をここで記しておくのは有益かもしれない。しかし,合衆国憲法に具体化されている権利,とりわけ修正第1条に具体化されている権利は,少数派,すなわち自分自身のドラマーに合わせて行進する人々を保護する。連邦憲法によって与えられた保護を必要とするのは,そういう人々であり,そうした保護を確保するのは連邦裁判所裁判官の責務である。我々は連邦地裁の命令を是認する》
この判示は,国家的シンボルに対する特定の行為を行政が個人に強制するとき,司法がなにをしなければならないかを鮮やかに示しています。
第11民事部の判決にはこの視点が抜け落ちているのです。
形式的な秩序が過度に強調され,《儀礼》だからと国家的シンボルを強制することがまかり通れば,教育はどうなってしまうのか。その答えがまさにいまの東京の教育現場にあります。この現実を前に裁判所は何をすぺきなのか。ぜひ裁判所には充分にお考えいただきたいのです。
以上
◎ 代理人弁論 弁護士 白井 劒
東京高裁第11民事部の判決が乙号証として都教委から出されました。国旗に向いて立って国歌を歌うことは《一般的におこなわれている儀礼的所作》だから違憲違法でないとこの判決は述ぺています。
《儀礼》であれば憲法上の問題を生じないのでしょうか。そんなことはありません。憲法の人権原則と《儀礼》との関係にっいては重要な判例があります。愛媛玉串料訴訟に関する1997年4月2日最高裁大法廷判決です。
大法廷判決は,《本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定することはできない》と述べつつ,《たとえ相当数の者がそれを望んでいるとしても,そのことゆえに,地方公共団体と特定の宗教との関わり合いが,相当とされる限度を超えないものとして憲法上許されることになるとはいえない》と判示しています。
《儀礼》だから問題がないと言うのは,この大法廷判決の趣旨に反するというべきです。
《儀礼》論の根底には,形式的な秩序の維持に重きをおく考えがあると思います。まず形式が大事だ,《立って歌う》ことを率先垂範して生徒たちに教えよというのです。
しかし,個人が国家的シンボルにどう対応するかは,《国家というものがその個人にとってどういうものであるのか》と表裏一体の関係にあります。《国家とは何か》は,まさにそのひとそのひとの価値観です。ひとそれぞれに異なります。毎朝おはようございますと挨拶するのとは次元が違います。
国家的シンボルに関する教育が形式重視の押しつけでいいわけがありません。まず意味と歴史をきちんと教えたうえで,生徒自身に考えさせる指導に徹するべきなのです。控訴人らはそのことを主張してきました。
アメリカ連邦最高裁が1969年のティンカー事件判決で《学校が全体主義の飛び地であってはならない》と述べたのもまた,生徒自身に考えさせ,自分で判断させることこそが教育だという考えからでした。こう述べています。
《生徒たちは,閉ざされた回路のなかで行政が伝えるために選んだことのみを受け取る受信人と見なされてはならない》
ところが,いま都立学校では,教員が生徒の信条や信仰に配慮して,「国歌を歌うかどうかはあなたがたが自分で決める自由があります」と言えば,不適切な指導だと《指導部長厳重注意》にされてしまいます。
アメリカでは多年にわたって,国家的シンボルに対する特定の行為を強制されない自由を裁判所が保障してきました。公立学校の教職員についても,その自由を裁判所は保障してきました。
国旗に敬礼すること,忠誠の誓いを唱えること,立って国歌を歌うことは《儀礼》だという考えがアメリカ社会に根強くあります。しかし,《儀礼》であっても,国家的シンポルに対する特定の行為を行政が個人に強制することは違憲であると連邦裁判所はいっかんして判断してきました。
最近ではサークル校事件に関する2003年連邦地裁判決が,《国歌を歌う》ことは《国旗に対して敬礼する》ことのなかに含まれると解して,その強制は違憲だと判断しました。
この判決を支持した連邦第3巡回区控訴裁判所は,判決の最後でこう述べています。
《合衆国の大郎分の市民は,忠臓の誓いを喜んで復唱し,国歌を誇りをもって歌うであろうと我々の信念をここで記しておくのは有益かもしれない。しかし,合衆国憲法に具体化されている権利,とりわけ修正第1条に具体化されている権利は,少数派,すなわち自分自身のドラマーに合わせて行進する人々を保護する。連邦憲法によって与えられた保護を必要とするのは,そういう人々であり,そうした保護を確保するのは連邦裁判所裁判官の責務である。我々は連邦地裁の命令を是認する》
この判示は,国家的シンボルに対する特定の行為を行政が個人に強制するとき,司法がなにをしなければならないかを鮮やかに示しています。
第11民事部の判決にはこの視点が抜け落ちているのです。
形式的な秩序が過度に強調され,《儀礼》だからと国家的シンボルを強制することがまかり通れば,教育はどうなってしまうのか。その答えがまさにいまの東京の教育現場にあります。この現実を前に裁判所は何をすぺきなのか。ぜひ裁判所には充分にお考えいただきたいのです。
以上
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