《時代を読む》 (東京新聞)
◆ 安倍教育政策を問い直す
教育は選挙の争点になりにくい。
安倍政権は「教育再生」を「経済再生」と並んで優先課題の一つと位置づけてきた。だが一般に「アベノミクス」について論じられるほど教育政策は注目されない。
今回は、安倍政権の教育政策の問題点を見ていきたい。
憂慮されるのは、新自由主義的な教育改革により、教育現場の共同性や子どもの学習権が脅かされることである。
新自由主義の教育改革は、大まかには次のようなプロセスをたどる。
まず、規制が緩和され、学校に競争原理が導入される。
次いで、競争の結果を示す単一基準(全国学力テストなど)がトップダウンで設定され、公教育が序列化される。
この結果に基づいて「できの良いものにより多く」予算の効率的な配分が行われる。
そうした分断を隠蔽する上で「われわれ国民」という国家主義が活用される。
並行して現場には、外部評価と情報公開が求められていく。
安倍政権は、この新自由主義教育改革を着実に進めてきた。
まず、二〇〇六~〇七年の第一次安倍政権で実施された教育基本法改正は、改革をスムーズに進める前提を整えた。
よく言及されるような「愛国心」の強調など右翼的色彩だけが問題なのではない。
具体的には「教育の目標」として、従来の個を尊重する人間教育に並列して、国家重視の公民教育を掲げた。
また「教育の条件整備」に限られていた教育行政権力の限定性を取り払い、教育内容にまで踏み込む下地を用意した。
さらに、内閣が策定した教育計画を自治体を通じて現場に実現する上意下達のルートを確立させた。
一二年からの安倍第二次内閣以降では、これに基づき「教育再生実行本部」を中心に新自由主義改革を再始動させた。
民主党政権下で実現していた公立高校授業料無償化は、法改正により普遍的給付から選別的給付に変更された。
抽出方式になっていた全国学力テストは、みんなが受ける方式に戻された。
「グローバル人材育成」など新たな課題に対応しつつ、大学の「経営」化と公教育費削減が進められ、さらに道徳の教科化や教科書検定基準の見直しなど、教育内容への国家主義的介入がなされていった。
結果、何が起こったか。一般会計予算に占める教育予算は、〇〇年代後半以降減少傾向にあり、教育支出は経済協力開発機構(OECD)諸国と比較しても顕著に低い。
教師は非正規化や過重労働にあえぎ、親と共同で教育を担う専門職から教育サービスの提供者に地位を落とした。
他の先進諸国がおおむね教育予算割合と教師の賃金を向上させてきたのとは真逆である。
子どもの貧困は拡大し、高等教育の私費負担は世界最悪レベルに高く「学習権の保障は親の財布次第」になっている。
それでも、国際学力テストの結果を見れば、日本の子どもたちの学力は高い。対コストで考えればまさに「効率的」な教育ではある。
だが、教育とは誰のための、何のためのものか?
個人の尊厳が重視され、信頼と共同のなかで創っていく教育を求めるならば、もう一度問う必要があるだろう。
自民党は、衆院選に向け、消費税の使途を変更して教育無償化・負担軽減化へ財源を充てることをアピールしている。
だが、上記のような教育改革の方向性を改めることなく提唱される表面的な格差是正策に、説得力はない。
『東京新聞』(2017年10月8日【時代を読む】)
◆ 安倍教育政策を問い直す
貴戸理恵(関西学院大学准教授)
教育は選挙の争点になりにくい。
安倍政権は「教育再生」を「経済再生」と並んで優先課題の一つと位置づけてきた。だが一般に「アベノミクス」について論じられるほど教育政策は注目されない。
今回は、安倍政権の教育政策の問題点を見ていきたい。
憂慮されるのは、新自由主義的な教育改革により、教育現場の共同性や子どもの学習権が脅かされることである。
新自由主義の教育改革は、大まかには次のようなプロセスをたどる。
まず、規制が緩和され、学校に競争原理が導入される。
次いで、競争の結果を示す単一基準(全国学力テストなど)がトップダウンで設定され、公教育が序列化される。
この結果に基づいて「できの良いものにより多く」予算の効率的な配分が行われる。
そうした分断を隠蔽する上で「われわれ国民」という国家主義が活用される。
並行して現場には、外部評価と情報公開が求められていく。
安倍政権は、この新自由主義教育改革を着実に進めてきた。
まず、二〇〇六~〇七年の第一次安倍政権で実施された教育基本法改正は、改革をスムーズに進める前提を整えた。
よく言及されるような「愛国心」の強調など右翼的色彩だけが問題なのではない。
具体的には「教育の目標」として、従来の個を尊重する人間教育に並列して、国家重視の公民教育を掲げた。
また「教育の条件整備」に限られていた教育行政権力の限定性を取り払い、教育内容にまで踏み込む下地を用意した。
さらに、内閣が策定した教育計画を自治体を通じて現場に実現する上意下達のルートを確立させた。
一二年からの安倍第二次内閣以降では、これに基づき「教育再生実行本部」を中心に新自由主義改革を再始動させた。
民主党政権下で実現していた公立高校授業料無償化は、法改正により普遍的給付から選別的給付に変更された。
抽出方式になっていた全国学力テストは、みんなが受ける方式に戻された。
「グローバル人材育成」など新たな課題に対応しつつ、大学の「経営」化と公教育費削減が進められ、さらに道徳の教科化や教科書検定基準の見直しなど、教育内容への国家主義的介入がなされていった。
結果、何が起こったか。一般会計予算に占める教育予算は、〇〇年代後半以降減少傾向にあり、教育支出は経済協力開発機構(OECD)諸国と比較しても顕著に低い。
教師は非正規化や過重労働にあえぎ、親と共同で教育を担う専門職から教育サービスの提供者に地位を落とした。
他の先進諸国がおおむね教育予算割合と教師の賃金を向上させてきたのとは真逆である。
子どもの貧困は拡大し、高等教育の私費負担は世界最悪レベルに高く「学習権の保障は親の財布次第」になっている。
それでも、国際学力テストの結果を見れば、日本の子どもたちの学力は高い。対コストで考えればまさに「効率的」な教育ではある。
だが、教育とは誰のための、何のためのものか?
個人の尊厳が重視され、信頼と共同のなかで創っていく教育を求めるならば、もう一度問う必要があるだろう。
自民党は、衆院選に向け、消費税の使途を変更して教育無償化・負担軽減化へ財源を充てることをアピールしている。
だが、上記のような教育改革の方向性を改めることなく提唱される表面的な格差是正策に、説得力はない。
『東京新聞』(2017年10月8日【時代を読む】)
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