《再雇用拒否撤回第2次訴訟第8回口頭弁論(2011/6/20)原告陳述》<2>
◎ “自治”の精神が満ちあふれている学校
(1) 私は1973年10月以来、東京都の公立中学校を3校、さらに退職まで都立高校を4校経験しました。数多くの生徒に接してきました。教育という営みについてもいろいろと考えてきました。
教育は生徒の自己形成の営みを補助するものです。どの発達段階にある子どもにも自分でものごとを判断しようとする欲求があります。教育において大切なものは自発性です。自発的であることによってこそ、その人間の能力は最大限に発揮されるのです。それは生徒も教師も同じです。
教師も生徒も自分で考え、自分で判断する自由が保障されていなければなりません。教師が自分で考えて自分の言葉で話さない限り、生徒は決して納得しません。教師がもし、決められたことを決められた通りにだけ話してそれで終わりだとしたら、生徒はいったい納得するでしょうか?
教師が自分で主体的に考え、判断する自由がなくて、どうして生徒が自分で判断する能力を育てることができるでしょうか?たしかに教員は身分的には教育公務員です。しかし教育は、教育という営みの特性から生じる当然の道理(教育の条理)に従って行われるものであり、外部からの規制や強制によって行われるものではありません。
(2)生徒が自分で判断する力、自分でものごとを決定できる力は、学校全体に「自分たちのことは自分たちで決定する」という“自治”の精神があってこそ十分に養うことができます。
なぜなら“学び”の精神とは「自分で考え、自分で決定する」という“自治”の精神そのものだからです。
かつての都立高校はそういう“自治”の精神に学校全体が満ちあふれていました。困難な状況下の現在でもその伝統は底流では受け継がれていると信じています。
“自治”の精神が大切なことは教職員集団でも同じです。全教職員の十分な意志疎通と、学校全体の目標に対する共通理解があってはじめて教育はその目的を達成することが可能となります。教職員ひとりひとりが学校を支えているという意識は、命令や指示では決して生まれません。
教職員全員が参加し、自由闊達に意見を交換し、納得の行くまで討議を重ね、決まったことには全員が従う、そのような職員会議を中心にした学校運営が多くの都立高校で行われていました。生徒ひとりの指導と処遇をめぐって夜遅くまで職員会議が続けられたことが何度もありました。
学校における“自治”が教育にとって大切であるということは、教育の本質と条理から必然的に導き出されるものです。私は、こうした教育観に基づいて教育実践を積み重ねてきました。
旧教育基本法10条1項には「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきでものである」とあります。教育における“自治”の精神はこの条項にもっとも良く表されています。私たちはこの条項を導きの糸として教育実践を行ってきました。そのことを今も誇りに思っています。
(3)生徒にはいろいろな生徒がいます。それぞれに困難さを抱えている生徒もいました。教員の仕事は決して楽なものではありません。私は、東京都の教育行政がこのような学校現場の状況と我々教員の仕事の特色を良く理解してくれていると思っていました。
しかし、そのような私の認識に疑念が生じ、東京都の教育行政がこれまでと違ったベクトルで進められていと知るようになったのは、1998年からです。
この年には、東京都の公立学校管理運営規則の改定が行われ、職員会議を校長の補助機関としました。教職員の全員参加、自治と共働を原則として行われてきたこれまでの学校運営を変更し、校長の命令一下、上意下達の学校運営を行わせるようにするものです。
その後、矢継ぎ早に、教員人事考課制度、主幹制、人事異動要綱の改定が行われました。そのどれもが、学校や教員の自由で自主的な教育活動を規制することを目的として行われたものです。ここ10年余りの東京都の教育行政は、きわめて残念なことに、学校の中から教育にとってもっとも大切な*自由や自治をひとつひとつ奪い去っていくものでした。
2003年の10・23通達はそのひとつの到達点です。
(4)どのような内容の卒業式・入学式を行うかを決定する権限は学校にあります。各学校の教職員が職員会議などで協議して、生徒の状況や意見に応じて式の内容を考えてきました。
卒業式は「最後の授業」であり、教育の内容です。特別活動の一環として教育課程の一部をなすことは、すでに学習指導要領にある通りであり、教育課程を編成する権限が学校にあることも、学習指導要領の「総則」で定めていることです。
10・23通達及び実施指針は、本来学校が決定する内容に対する教育行政権力による不当な介入であり、不当な支配です。私はこのような通達を絶対に認めることができません。これに従うことは先述した私の教育信条を曲げることになるからです。
(5)2004年3月1日から25日までの間に都立学校の卒業式が行われました。
全都立学校で式の当日に教育庁職員が派遣されました。最低でも1校に2名、多いところでは、9名派遣された例もあります。
2名1組の場合、1名が祝辞を述べ、もう1名は職員席の一番後ろで教頭の隣りに座りました。教頭の隣で、教頭が起立しない教職員を現認しているかどうかを監視するためにそのように配置されたと思われます。
私の勤務していた都立大学附属高校全日制では3月5日に卒業式が行われ、私は「君が代」斉唱時に起立しませんでしたが、副校長が私の横で「お立ちください」と小声で発声し、そして私の不起立を現認していきました。その後、式は滞りなく行われました。
このようなことが全都立高校でひとつの例外もなく行われました。地区(旧学区)の担当指導主事が校長と緊密な連絡をとっていました。式場の教職員名が記入された座席一覧表は例外なく事前に提出を求められました。不起立などが予想される教職員についての情報提供などが逐一要求されました。また、式直後に電話で第一報を入れることや、速やかに事故報告書を人事部職員課に提出することなどが校長に求められていました。ひとつの漏れも校長には許されなかったのです。
校長独自の裁量は、式の計画段階から事後の報告にいたるまでほとんどありませんでした。派遣された指導主事が式当日に不起立教職員の現認行動をとっていたことも、いくつかの学校で校長の作成した事故報告書などからも確認することができます。現認行動は法律で定める指導主事の職務権限外の行動です。
(6)2004年の東京都立大学附属高等学校の卒業式において、「国歌」斉唱時に起立斉唱をしなかったという理由で私は東京都教育委員会から「戒告」処分を受け、在職中に勤勉手当の削減などの経済的な不利益を被っただけでなく、さらに定年退職後も再雇用の途を断たれました。
都立高校ではかつては自由で民主的な学校運営と教育が行われてきました。それがこの10・23通達を境に一変してしまいました。東京都の教育行政は1998年以降教員の管理統制強化が顕著になり、管理統制は教育の内容にまで及び始めました。2003年の10・23通達は、教育行政が教育の内容をどれだけ決定することができるかどうかの試金石として出されたのです。
このまま進めば、東京の教育が戦前の教育のように、国など行政が決めたことをそのまま子どもに伝えるだけになってしまうのではないか。東京で行われればやがてそれは全国に波及するのではないか、という危機感を抱きました。
40秒だけ我慢していれば良いという問題ではありません。「立つ」「立たない」は外面的行為であるから教員の内心とは関係ないと言うことはできません。私たちの「不起立」は教員としての良心をかけた行為なのです。
◎ “自治”の精神が満ちあふれている学校
原告 青木茂雄
(1) 私は1973年10月以来、東京都の公立中学校を3校、さらに退職まで都立高校を4校経験しました。数多くの生徒に接してきました。教育という営みについてもいろいろと考えてきました。
教育は生徒の自己形成の営みを補助するものです。どの発達段階にある子どもにも自分でものごとを判断しようとする欲求があります。教育において大切なものは自発性です。自発的であることによってこそ、その人間の能力は最大限に発揮されるのです。それは生徒も教師も同じです。
教師も生徒も自分で考え、自分で判断する自由が保障されていなければなりません。教師が自分で考えて自分の言葉で話さない限り、生徒は決して納得しません。教師がもし、決められたことを決められた通りにだけ話してそれで終わりだとしたら、生徒はいったい納得するでしょうか?
教師が自分で主体的に考え、判断する自由がなくて、どうして生徒が自分で判断する能力を育てることができるでしょうか?たしかに教員は身分的には教育公務員です。しかし教育は、教育という営みの特性から生じる当然の道理(教育の条理)に従って行われるものであり、外部からの規制や強制によって行われるものではありません。
(2)生徒が自分で判断する力、自分でものごとを決定できる力は、学校全体に「自分たちのことは自分たちで決定する」という“自治”の精神があってこそ十分に養うことができます。
なぜなら“学び”の精神とは「自分で考え、自分で決定する」という“自治”の精神そのものだからです。
かつての都立高校はそういう“自治”の精神に学校全体が満ちあふれていました。困難な状況下の現在でもその伝統は底流では受け継がれていると信じています。
“自治”の精神が大切なことは教職員集団でも同じです。全教職員の十分な意志疎通と、学校全体の目標に対する共通理解があってはじめて教育はその目的を達成することが可能となります。教職員ひとりひとりが学校を支えているという意識は、命令や指示では決して生まれません。
教職員全員が参加し、自由闊達に意見を交換し、納得の行くまで討議を重ね、決まったことには全員が従う、そのような職員会議を中心にした学校運営が多くの都立高校で行われていました。生徒ひとりの指導と処遇をめぐって夜遅くまで職員会議が続けられたことが何度もありました。
学校における“自治”が教育にとって大切であるということは、教育の本質と条理から必然的に導き出されるものです。私は、こうした教育観に基づいて教育実践を積み重ねてきました。
旧教育基本法10条1項には「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきでものである」とあります。教育における“自治”の精神はこの条項にもっとも良く表されています。私たちはこの条項を導きの糸として教育実践を行ってきました。そのことを今も誇りに思っています。
(3)生徒にはいろいろな生徒がいます。それぞれに困難さを抱えている生徒もいました。教員の仕事は決して楽なものではありません。私は、東京都の教育行政がこのような学校現場の状況と我々教員の仕事の特色を良く理解してくれていると思っていました。
しかし、そのような私の認識に疑念が生じ、東京都の教育行政がこれまでと違ったベクトルで進められていと知るようになったのは、1998年からです。
この年には、東京都の公立学校管理運営規則の改定が行われ、職員会議を校長の補助機関としました。教職員の全員参加、自治と共働を原則として行われてきたこれまでの学校運営を変更し、校長の命令一下、上意下達の学校運営を行わせるようにするものです。
その後、矢継ぎ早に、教員人事考課制度、主幹制、人事異動要綱の改定が行われました。そのどれもが、学校や教員の自由で自主的な教育活動を規制することを目的として行われたものです。ここ10年余りの東京都の教育行政は、きわめて残念なことに、学校の中から教育にとってもっとも大切な*自由や自治をひとつひとつ奪い去っていくものでした。
2003年の10・23通達はそのひとつの到達点です。
(4)どのような内容の卒業式・入学式を行うかを決定する権限は学校にあります。各学校の教職員が職員会議などで協議して、生徒の状況や意見に応じて式の内容を考えてきました。
卒業式は「最後の授業」であり、教育の内容です。特別活動の一環として教育課程の一部をなすことは、すでに学習指導要領にある通りであり、教育課程を編成する権限が学校にあることも、学習指導要領の「総則」で定めていることです。
10・23通達及び実施指針は、本来学校が決定する内容に対する教育行政権力による不当な介入であり、不当な支配です。私はこのような通達を絶対に認めることができません。これに従うことは先述した私の教育信条を曲げることになるからです。
(5)2004年3月1日から25日までの間に都立学校の卒業式が行われました。
全都立学校で式の当日に教育庁職員が派遣されました。最低でも1校に2名、多いところでは、9名派遣された例もあります。
2名1組の場合、1名が祝辞を述べ、もう1名は職員席の一番後ろで教頭の隣りに座りました。教頭の隣で、教頭が起立しない教職員を現認しているかどうかを監視するためにそのように配置されたと思われます。
私の勤務していた都立大学附属高校全日制では3月5日に卒業式が行われ、私は「君が代」斉唱時に起立しませんでしたが、副校長が私の横で「お立ちください」と小声で発声し、そして私の不起立を現認していきました。その後、式は滞りなく行われました。
このようなことが全都立高校でひとつの例外もなく行われました。地区(旧学区)の担当指導主事が校長と緊密な連絡をとっていました。式場の教職員名が記入された座席一覧表は例外なく事前に提出を求められました。不起立などが予想される教職員についての情報提供などが逐一要求されました。また、式直後に電話で第一報を入れることや、速やかに事故報告書を人事部職員課に提出することなどが校長に求められていました。ひとつの漏れも校長には許されなかったのです。
校長独自の裁量は、式の計画段階から事後の報告にいたるまでほとんどありませんでした。派遣された指導主事が式当日に不起立教職員の現認行動をとっていたことも、いくつかの学校で校長の作成した事故報告書などからも確認することができます。現認行動は法律で定める指導主事の職務権限外の行動です。
(6)2004年の東京都立大学附属高等学校の卒業式において、「国歌」斉唱時に起立斉唱をしなかったという理由で私は東京都教育委員会から「戒告」処分を受け、在職中に勤勉手当の削減などの経済的な不利益を被っただけでなく、さらに定年退職後も再雇用の途を断たれました。
都立高校ではかつては自由で民主的な学校運営と教育が行われてきました。それがこの10・23通達を境に一変してしまいました。東京都の教育行政は1998年以降教員の管理統制強化が顕著になり、管理統制は教育の内容にまで及び始めました。2003年の10・23通達は、教育行政が教育の内容をどれだけ決定することができるかどうかの試金石として出されたのです。
このまま進めば、東京の教育が戦前の教育のように、国など行政が決めたことをそのまま子どもに伝えるだけになってしまうのではないか。東京で行われればやがてそれは全国に波及するのではないか、という危機感を抱きました。
40秒だけ我慢していれば良いという問題ではありません。「立つ」「立たない」は外面的行為であるから教員の内心とは関係ないと言うことはできません。私たちの「不起立」は教員としての良心をかけた行為なのです。
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