『前夜』10号2007年冬(発売中)から一部を紹介。
市民的不服従と抵抗の思想
三宅晶子
●無批判的服従の義務から市民的不服従の権利へ
ウッドコックは、ユダヤ人大量虐殺の責任者アイヒマンが、裁判(一九六一)では、「命令に従っただけだ」として無罪を主張し続けたことを考察して、「服従」の義務から「不服従」の権利への転換を、次のように述べている。
イスラエルの法廷で裁かれていたのは、何百万人もの無実の人を死に至らしめた一人の人間だけではなかった。また、それはナチス全体の行為だけにとどまるものでもなかった。そこで裁かれていたのは、結局は法律や権威への無反省な服従を礼賛する態度そのものであった。もし義務がもっぱら服従の義務を意味するなら、命令を遂行したにすぎないアイヒマンは無罪である。
しかし、もし彼が有罪であるならば、われわれは次のように考えるべきなのである。すなわち、人間は、自分の道徳観ないし正義感に反するような行為については、たとえそれが国家によって命令されたものであっても、服従を拒否しそれを遂行しないよう道徳的に義務付けられている時点がある、と考えるべきなのである。…ナチスを経験して以来、そのような無批判的義務感はもはや許容されえないものになってしまった。
われわれは無批判的服従の義務の許容をやめ、市民的不服従の権利を認めなければならないのである。
国家や法律や命令への「無批判的服従の義務」から「市民的不服従の権利」へ-これが、ナチスのみならず、大日本帝国における「服従」の悲惨を経た後に獲得されるべき人権の地平であるだろう。
そして、「たとえそれが国家によって命令されたものであっても、服従を拒否しそれを遂行しないよう道徳的に義務付けられている時点がある」とするなら、その時点とは、自己の、あるいは他者の人間の尊厳が侵される場合であろう。
その際、「市民的不服従の権利」は、命令を拒否する義務、即ち「抗命義務」へと強度を増す。
国家によっても社会によっても権威によっても否定したり抹殺したり改変したりすることのできない、人間が生きていること、存在することそのもののもつ侵すことのできない尊厳を認めることから始めなければならない。
●「日の丸・君が代」強制への抵抗
立て、歌え、大きな声で歌え、ピアノ伴奏しろ、指揮をして子どもたちを歌わせろ、ピース・リボンをつけるな、ブラウスの絵で意思を表示するな、「良心の自由」があることを説明するな、卒業式で「自分で判断し、行動できる力を磨いていってください」と言うな、障がいのある子どもを起立させろ、壇上にあげろ、「日の丸」を見ろ、子どもを見るな!
これらの命令で否定されようとしているのは、歌ったり話したりする口であり、演奏したり指揮したりする手であり、服装であり、姿勢であり、見つめる目であり、考え、判断する精神だ。即ち、生きている身体そのものであり、考える意志、感じる良心である。これらが許せないということは、生きている人間の存在そのものが許せない、ということにほかならない。強制しようとする者は、そのうち、ため息も、息づかいも、息をすることそのものも、許せなくなるのではないか。
生きようとする者は、教員も生徒も保護者も、思いもかけないところで罠にかけられ、炙り出され、孤立させられ、排除の圧力にさらされる--このような強制の中で許される集団は、<人間の尊厳>を萎えさせた集団、<生きる>ことを諦めた集団、<生きよう>とする者を諦めさせようとする集団になっていく。
●抵抗の階段
ドイツの歴史教科書には、ナチス期の加害の事実が詳しく書かれていることはよく知られているが、もう一つの大きな特徴は、抵抗について記されていることだ。
昨年刊行された『ゲシヒテ・コンクレート 歴史 具体的に 3』(中二~三年相当の学年で使用)には、抵抗について、四ページにわたって記されている【図1】。
左上には、ヒトラー批判のビラ(その頁右下にビラの原文)を配って死刑になった十七歳の少年の写真と裁判の赤い告知書が大きく掲載され、テクストは、この(読んでいる生徒たちと同年代の)少年の記述から始まる。そして、労働運動や教会、市民グループの抵抗があったこと、さらには十一~十四歳のユダヤ系の子どもたちも、ビラを配ったり壁にスローガンを書いたりして死刑になったことを伝える。右上には、口ーゼン通りの女たちが、ユダヤ人の夫の移送に抗議して成功した例が、記念碑の写真とともに掲載されている。そして、右下に、ヒトラー式挨拶を拒否して解雇された女性秘書の例もあげながら、〈抵抗の階段〉が図示されている。
この階段を見てわかるのは、階段を、段登るごとに、事態は深刻になるということだ。職を懸ける、自分の命を懸ける、他者の命を奪う。誰も殺人など犯したくはないだろう。しかし、逆に、最初の「同調しない」「順応しない」抵抗をみんながやれば、次の階段に登る必要はない、あるいは、次の階段に足をかけている人を救うこともできる。
(略)抵抗の最初の階段は、今なら命をかけなくてもいい。しかし、ファシズムを止められなくなれば、この階段にも死がやってくる。
●ノルウェーの教師たちの抵抗
ナチスは、ノルウェー占領後、一九四一年初め、ナチス理論の習得と、ナチスの方針に沿う歴史教育を義務付ける布告を出した。しかし、二月、一万四千人もの教員が、父母や教会指導者の支持を得てストライキに入り、布告は一時留保された。
一年後の二月、ナチスの方針に沿って組織された教員団体に入るよう命令が出されたが、一万二千人の教員が、再び父母の支持を得て拒否し、その結果、学校は閉鎖された。
一ヵ月後、千三百人の教員が逮捕され、七百人は秘密国家警察収容所に、五百人は北極圏の労働収容所に送られた。しかし、教員団体に加盟したのは一五〇人だけだった。この間、何万人もの父母が闘争に参加し、署名入りの抗議の手紙を送ったり、投獄された教員の家族を支援したりした。
その結果、教員を強制しようとする企ては一九四二年末までには放棄され、ノルウェーをファシズム国家に変える計画も、ヒトラー自身の命令で放棄された。
『季刊 前夜』2007年冬10号
三宅晶子「市民的不服従と抵抗の思想」から
市民的不服従と抵抗の思想
三宅晶子
●無批判的服従の義務から市民的不服従の権利へ
ウッドコックは、ユダヤ人大量虐殺の責任者アイヒマンが、裁判(一九六一)では、「命令に従っただけだ」として無罪を主張し続けたことを考察して、「服従」の義務から「不服従」の権利への転換を、次のように述べている。
イスラエルの法廷で裁かれていたのは、何百万人もの無実の人を死に至らしめた一人の人間だけではなかった。また、それはナチス全体の行為だけにとどまるものでもなかった。そこで裁かれていたのは、結局は法律や権威への無反省な服従を礼賛する態度そのものであった。もし義務がもっぱら服従の義務を意味するなら、命令を遂行したにすぎないアイヒマンは無罪である。
しかし、もし彼が有罪であるならば、われわれは次のように考えるべきなのである。すなわち、人間は、自分の道徳観ないし正義感に反するような行為については、たとえそれが国家によって命令されたものであっても、服従を拒否しそれを遂行しないよう道徳的に義務付けられている時点がある、と考えるべきなのである。…ナチスを経験して以来、そのような無批判的義務感はもはや許容されえないものになってしまった。
われわれは無批判的服従の義務の許容をやめ、市民的不服従の権利を認めなければならないのである。
国家や法律や命令への「無批判的服従の義務」から「市民的不服従の権利」へ-これが、ナチスのみならず、大日本帝国における「服従」の悲惨を経た後に獲得されるべき人権の地平であるだろう。
そして、「たとえそれが国家によって命令されたものであっても、服従を拒否しそれを遂行しないよう道徳的に義務付けられている時点がある」とするなら、その時点とは、自己の、あるいは他者の人間の尊厳が侵される場合であろう。
その際、「市民的不服従の権利」は、命令を拒否する義務、即ち「抗命義務」へと強度を増す。
国家によっても社会によっても権威によっても否定したり抹殺したり改変したりすることのできない、人間が生きていること、存在することそのもののもつ侵すことのできない尊厳を認めることから始めなければならない。
●「日の丸・君が代」強制への抵抗
立て、歌え、大きな声で歌え、ピアノ伴奏しろ、指揮をして子どもたちを歌わせろ、ピース・リボンをつけるな、ブラウスの絵で意思を表示するな、「良心の自由」があることを説明するな、卒業式で「自分で判断し、行動できる力を磨いていってください」と言うな、障がいのある子どもを起立させろ、壇上にあげろ、「日の丸」を見ろ、子どもを見るな!
これらの命令で否定されようとしているのは、歌ったり話したりする口であり、演奏したり指揮したりする手であり、服装であり、姿勢であり、見つめる目であり、考え、判断する精神だ。即ち、生きている身体そのものであり、考える意志、感じる良心である。これらが許せないということは、生きている人間の存在そのものが許せない、ということにほかならない。強制しようとする者は、そのうち、ため息も、息づかいも、息をすることそのものも、許せなくなるのではないか。
生きようとする者は、教員も生徒も保護者も、思いもかけないところで罠にかけられ、炙り出され、孤立させられ、排除の圧力にさらされる--このような強制の中で許される集団は、<人間の尊厳>を萎えさせた集団、<生きる>ことを諦めた集団、<生きよう>とする者を諦めさせようとする集団になっていく。
●抵抗の階段
ドイツの歴史教科書には、ナチス期の加害の事実が詳しく書かれていることはよく知られているが、もう一つの大きな特徴は、抵抗について記されていることだ。
昨年刊行された『ゲシヒテ・コンクレート 歴史 具体的に 3』(中二~三年相当の学年で使用)には、抵抗について、四ページにわたって記されている【図1】。
左上には、ヒトラー批判のビラ(その頁右下にビラの原文)を配って死刑になった十七歳の少年の写真と裁判の赤い告知書が大きく掲載され、テクストは、この(読んでいる生徒たちと同年代の)少年の記述から始まる。そして、労働運動や教会、市民グループの抵抗があったこと、さらには十一~十四歳のユダヤ系の子どもたちも、ビラを配ったり壁にスローガンを書いたりして死刑になったことを伝える。右上には、口ーゼン通りの女たちが、ユダヤ人の夫の移送に抗議して成功した例が、記念碑の写真とともに掲載されている。そして、右下に、ヒトラー式挨拶を拒否して解雇された女性秘書の例もあげながら、〈抵抗の階段〉が図示されている。
この階段を見てわかるのは、階段を、段登るごとに、事態は深刻になるということだ。職を懸ける、自分の命を懸ける、他者の命を奪う。誰も殺人など犯したくはないだろう。しかし、逆に、最初の「同調しない」「順応しない」抵抗をみんながやれば、次の階段に登る必要はない、あるいは、次の階段に足をかけている人を救うこともできる。
(略)抵抗の最初の階段は、今なら命をかけなくてもいい。しかし、ファシズムを止められなくなれば、この階段にも死がやってくる。
●ノルウェーの教師たちの抵抗
ナチスは、ノルウェー占領後、一九四一年初め、ナチス理論の習得と、ナチスの方針に沿う歴史教育を義務付ける布告を出した。しかし、二月、一万四千人もの教員が、父母や教会指導者の支持を得てストライキに入り、布告は一時留保された。
一年後の二月、ナチスの方針に沿って組織された教員団体に入るよう命令が出されたが、一万二千人の教員が、再び父母の支持を得て拒否し、その結果、学校は閉鎖された。
一ヵ月後、千三百人の教員が逮捕され、七百人は秘密国家警察収容所に、五百人は北極圏の労働収容所に送られた。しかし、教員団体に加盟したのは一五〇人だけだった。この間、何万人もの父母が闘争に参加し、署名入りの抗議の手紙を送ったり、投獄された教員の家族を支援したりした。
その結果、教員を強制しようとする企ては一九四二年末までには放棄され、ノルウェーをファシズム国家に変える計画も、ヒトラー自身の命令で放棄された。
『季刊 前夜』2007年冬10号
三宅晶子「市民的不服従と抵抗の思想」から
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます